舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その7)
なぜ人はそうまでして本を「読む」のか。
私たちは印刷された本が書店に行けば買える時代に住んでいる。
絶版になった本でも図書館に行けば読むことができる。
図書館の規模によっては置いてない本でも、
より規模の大きな図書館、日本では最終的には国会図書館に行けば、たいていの本を読むことはできる。
それに一冊まるごとのコピーは無理でも、部分コピーは可能である。
さらには著作権の切れた作品に関しては、青空文庫に代表されるサイトで公開されているので、
作者の死後50年を経過した作品ならば、相当数読むことができる。
だが印刷技術が生れる前、
印刷が生れてからでもここまで普及するまでの時代に生きてきた人は、
本は貴重品であった、ときいている。
だからそういう本を借りてこれたら、書き写す。
一文字一文字を書き写す、という行為は、やってみるとわかる。
じつにしんどい。
私も一度、小林秀雄の「モオツァルト」を書き写したことがある。
原稿用紙を買ってきて、一文字一文字書き写していった。
これは、瀬川先生がそうされていたから、それを真似たわけだ。
自分で考えて文章を書くのとは違う。
書きあぐねることはないけれど、それだけにしんどい、と感じていた。
キーボードを使って文字を入力するよりも、ずっとしんどかった。
腕がだるくなってきて、途中でやめようかな、と思いもした。
「モオツァルト」は短い。
短い文章であっても、書き写すという作業をやってみると、
本を「読む」という行為が、ずっと以前はどういうもの・ことであったのか、
完全ではないものの想像がつく。