Archive for category 音楽性

Date: 1月 28th, 2017
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その11)

ドキュメンタリーは、いわば記録である。
そう考えると、テレビは記録を写し出すに適しているのかもしれない。

映画でもテレビでも、ドラマがある。
映画でのドラマとテレビでのドラマの違いは、
記録を写し出すに適しているテレビでのドラマであり、
一方の映画は、記録ではなく記憶を映し出す、と考えれば、
同じドラマであっても、テレビでのドラマと映画でのドラマの違いが、
浮び上ってくるような気がする。

記録と記憶。
写し出すと映し出す。

そんなことを考えているところに、ステレオサウンド 130号を開いていた。
このころのステレオサウンドには、勝見洋一氏の連載があった。

「硝子の視た音」の八回目の最後に、こうある。
     *
 そしてフェリーニ氏は最後に言った。
「記憶のような物語、記憶のような光景、記憶のような音しか映画は必要としていないんだよ。本当だぜ、信じろよ」
     *
フェデリコ・フェリーニの、この言葉が映画の本質を見事言い表しているとすれば、
記録のような物語、記録のような光景、記録のような音を、映画は必要としていない、となる。

Date: 1月 26th, 2017
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その10)

テレビと映画の違いは、
映画は銀幕とも呼ばれるスクリーンに映写機によって映し出されるところにある。
つまり映画は、スクリーンに投影された反射像である。

サイズがどちらも100インチであったとしても、
液晶ディスプレイとスクリーンとでは、この点が決定的に違う。

昔、テレビはいまのように液晶ディスプレイではなかった。
ブラウン管だった。
だからテレビというモノ自体が、ひとつの箱だった。

テレビが登場したばかりのころ、
テレビの箱の中に人がいて、演じていると思っていた、というシーンが、
そのころを描いた映画やテレビドラマでもある。

ほんとうにそんなことがあったのだろうか、と思う。
すでに映画はあったのだから、そんなことを思う人がいるのか、と、
その時代を知らない私などは、そんなふうに捉えるわけだが、
でも、このことは映画とテレビの違いを、端的に表している。

つまりテレビは、家庭に入りこんできた。
つまり日常に入りこんできた。

日常の空間の中にテレビの空間(世界)がある。

映画館に行き、入場料を払って、暗い空間で観る映画と、
スイッチを入れてチャンネルを合せるだけで、居間で見れるテレビの世界とでは、
日常の生活(世界)との連続性を感じさせる点においての違いがある。

もしテレビが存在しなかったら、
ドキュメンタリーという手法はかなり違ったものになっていたかもしれない。

Date: 1月 24th, 2017
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その9)

液晶ディスプレイの大きなサイズが困難だった時代には、
複数の液晶ディスプレイを複数配置して、ひとつの大画面にしていた。

いまでは70インチ、80インチの液晶ディスプレイが製品化されているし、
100インチ超のサイズでも製造は可能になっている。

以前は100インチといえば、スクリーンに頼るしかなかったのが、
いまでは液晶ディスプレイでカバーできるサイズとなってしまった。

100インチのスクリーンと100インチの液晶ディスプレイ。
家庭で映画を観るのに適しているのは、どちらだろうか。

昔、東京には多くの名画座があった。
けっこう大きなスクリーンの名画座もあれば、かなり小さなスクリーンのところもあった。
もう記憶があやふやだが、こんなに小さいの? と思った映画館もあって、
それこそ100インチくらいのサイズだったろうか。

仮に100インチ程度の表示だったとしたら、
液晶ディスプレイの100インチの方が、部屋を暗くしないでも見られるし、
暗くしても見られるのだから、便利で手軽ということになる。

100インチのサイズで家庭で映画を観るのに、
価格を無視した場合、どちらを選ぶのか、液晶ディスプレイかスクリーンか。

この選択は、オーディオに通ずる。

Date: 7月 1st, 2016
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その19)

アンドレ・シャルランの言葉は、
中野英男氏の著書「音楽 オーディオ 人々」に「日本人の作るレコード」という章にある。
     *
シャルランから筆が逸れたが、彼と最も強烈な出会いを経験した人として若林駿介さんを挙げないわけにはいかない。十数年前だったと思うが、若林さんが岩城宏之——N響のコンビで〝第五・未完成〟のレコードを作られたことがあった。戦後初めての試みで、日本のオーケストラの到達したひとつの水準を見事に録音した素晴しいレコードであった。若くて美しい奥様と渡欧の計画を練っておられた氏は、シャルラン訪問をそのスケジュールに加え、私の紹介状を携えてパリのシャンゼリゼ劇場のうしろにあるシャルランのスタジオを訪れたのである。両氏の話題は当然のことながら録音、特に若林さんのお持ちになったレコードに集中した。シャルランは、東の国から来た若いミキサーがひどく気に入ったらしく、半日がかりでこのレコードのミキシング技術の批評と指導を試みたという。当時シャルラン六十歳、若林さんはまだ三十四、五歳だったと思う。SP時代より数えて、制作レコードでディスク大賞に輝くもの一〇〇を超える西欧の老巨匠と東洋の新鋭エンジニアのパリでの語らいは、正に一幅の画を思わせる風景であったと想像される。
 事件はその後に起こった。語らいを終えて礼を言う若林さんに、シャルランは「それはそうと、あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と尋ねたのである。録音の技術上の問題は別として、シャルランはあのレコードの存在価値を全く認めていなかったのである。若林さんが受けた衝撃は大きかった。それを伝え聞いた私の衝撃もまた大きかった。
     *
別項「正しいもの(その4)」でも引用している。
若林駿介氏の録音について、あれこれ書こうとしているのではない。

60歳のアンドレ・シャルランは、30代なかばの若林氏のことを気に入っていた、とある。
少なくともシャルランは若林氏の録音技術を認めた上での、
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」
であることに、読んでいて衝撃を受けた。

私の受けた衝撃は、若林駿介、中野英男、両氏がうけられた衝撃からすれば、
ずっと小さいものかもしれない。

私は、シャルランがたずねたことに若林氏がどう答えられたを知りたい。
けれど、そのところは中野氏は書かれていない。
若林氏は沈黙されたのか、
それとも何か納得のいく説明をされたのか。

いまとなってわからないことだ。
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は、
だからこそわれわれへの問いかけのように受けとめている。

「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は、
いま書いている「どちらなのか」にも深く関係してくる。

Date: 2月 27th, 2016
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その8)

映画は映画館で観ることを前提としている。
映画館のスクリーンは、テレビのサイズよりも大きい。
それもかなり大きい。
いまでこそテレビの大型化は当り前になっているが、
昔のテレビはいまよりもずっと小さなサイズで、映画館のスクリーンはずっと大きかった。

映画館は暗かった。暗い中での大きなスクリーン。
これだけでも茶の間で見るテレビと映画は違う。

さらに音が違う。
昔のテレビのスピーカーは小口径のフルレンジが一発だけだった。

このスピーカー(音)の違いは、テレビとスクリーンのサイズの違い以上の違いともいえる。

これらの違いが生み出すものを、観客は映画と認識するのだろうか。
これだったら映画にする必要を感じない、とか、テレビで充分の作品だ、といったことが言われる。

どの作品とはいわないが、映画館で観ていて、これだったらテレビでもいいかも……、と思うし、
映画館で見損ねた作品をテレビでみて、やはり映画館で観たかった、と思うことは、誰しも経験していることのはず。

いったいどういうところで、そう判断しているのか。
大作だから、ということは関係ない。
スケールの大きさもそうではない。
そうでない作品であっても、映画だ、と感じる作品は多い。
大作であっても、テレビで充分、というものも少なくないから。

結局、精度だと思う。
精度の高いものを、映画だ、と感じるし、
精度の低い、十分でないものはテレビ的と感じるのではないか。

そのことにスクリーンの大きさ、映画館という暗い場所、
テレビとは圧倒的に違う音が密接に関係している、と考えている。

Date: 1月 31st, 2015
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(人間性と音楽性)

人間性を辞書でひけば、
人間を人間たらしめる本性。人間らしさ、とある。

音楽性は載ってなかった。
けれど人間性の意味でいえば、
音楽を音楽たらしめる本性。音楽らしさ、ということになる。

音楽といっても、これまでに多くの(無数の)音楽が生み出されている。
あまりにも、音楽という言葉がカバーしている範囲は広い。

だからもう少し限定して、たとえばベートーヴェンの音楽、
もっと狭めればベートーヴェンの作曲した曲ひとつ、
ピアノソナタ第32番ということに限れば、
音楽性とは、
ベートーヴェンのピアノソナタ第32番をベートーヴェンのピアノソナタ第32番たらしめる本性、
ベートーヴェンのピアノソナタ第32番らしさ、ということになる。

音楽を聴くことは、聴いている音楽への共感でもある。
なにがしかの共感があるから、聴き手は、その音楽を素晴らしいと思ったり、感動したりする。

だが純粋な共感はあるのか、とも考える。
100%な共感ともいおうか、そういう共感はあるのか。

そんな純粋な共感をもって音楽を聴いている人もいるかもしれない。
けれど私はそうではない。
だから純粋な共感はあるのか、と考えるわけだ。

私はわたしなりの共感で音楽を聴くしかない。
ということは、そのわたしなりの共感というのは、私の人間性と深く関わっているといえるわけで、
そうなると、私がベートーヴェンのピアノソナタ第32番に感じている音楽性とは、
つまりは私の人間性と切り離すことはできない、ということになる。

純粋な共感をもって音楽を聴いている人であれば、そうはならないだろう。
だが、そんな人がどれだけいるのだろうか。
私のまわりに、そういう人はいるだろうか。

いないとすれば、私のまわりにいる人たちがいうところの音楽性とは、
この言葉を発した人の人間性と深く関わっているのではないか。

にも関わらず、音楽性ということばを、ひとつの共通認識として使いがちである。

Date: 1月 25th, 2015
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その15)

エキゾティシズムには、鼻孔をくすぐられる。
ときに、ころっとその魅力にまいってしまう。

何が、その人の鼻孔をくすぐるのかは、その人にしかわからないことであり、
だから私がエキゾティシズムと感じる何かを、別の人は、
歳が違っていたり生れた国が違っていたりして、特別なものを感じないことだってある。
その逆もある。

それでも共通していえるのは、その人にとって鼻孔をくすぐるものであるということだ。

こう書いておきながら、相反するようなことを書こうとしている。
この項の(その13)の最後に、
「じつはエキゾティシズムへの憧れではないのか。」と書いた。

私にとってどうしても認めることのできない、
いわば「欠陥」スピーカーとでも呼びたくなるスピーカーを、優れたスピーカーと高く評価する人がいる。

私が「欠陥」と感じるのは、
グレン・グールドが弾くヤマハのピアノをグランドピアノではなくアップライトの、
それもバカでかいアップライトピアノのように聴かせ、
ミサ・クリオージャを冒瀆するような歌い方で聴かせるからである。

よく「百歩譲って……」という言い方をするが、
百歩どころかその十倍、もっと譲っても、そんなふうに鳴らしてしまうスピーカーを、
まともなスピーカーシステムとは思えない。

ひとつはっきりといえるのは、あきらかにほかのまっとうなスピーカーとは異質の音を聴かせることだ。
この異質の音を、ある一部の人たちは、新しい音と勘違いしているのではないのか。
それをエキゾティシズムと勘違いしているのではないか。

鼻孔をくすぐるものがエキゾティシズムとすれば、
エキゾティシズムは本能的なものであろう。

だが、異質な音は、鼻孔をくすぐっているのだろうか。
くすぐっているのは、別のところではないのか。

Date: 7月 11th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その7)

スパイダーマンの映画については、あれこれ書いていきたいことはあるけれど、
オーディオとの関係性はほとんどないので、ここはがまんするとして、
「アメイジング・スパイダーマン2」を3D+ドルビーアトモスで観た人ならば、
「アメイジング・スパイダーマン2」は映画だな、と誰もが思うはずだ。

私が小学校にあがる前までごろはうちにあるテレビはモノクロだった。
ブラウン管のサイズも小さかった。
それがカラーになり、サイズも大きくなっていった。
それでも私が実家にいたころは21インチだった。

その数年後に三菱電機から37インチのテレビが登場した。
そのころはステレオサウンドで働いていたし、となりのHiVi編集部に、
この37インチが運ばれてきた日のことは、憶えている。

大きいことは予想していたけど、その奥行きは予想以上だった。
こんなにも大きいのか、37インチでこれだけの奥行きを必要とするのであれば、
もっと大きなブラウン管だと、どれだけ奥に長くなるのか。

技術は進歩していくから、同じインチでも奥行きは短くなっていくであろうが、
それでもブラウン管を使っているかぎり、テレビの大画面には無理がある、と思っていたし、
そのころは、いまのようにここまで家庭のテレビが大型化するとはまったく予想していなかった。

家庭のテレビはどこまで大きくなっていくのか。
大きくなっていくことで、昔以上に考えさせられるのは、映画とテレビの、
それぞれの作品の違いとはいったいなんなのか、である。

どちらも映像作品であるわけだが、何が映画としての作品であり、テレビとしての作品を、
われわれにそう認識させているのだろうか。

Date: 6月 8th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その6)

技術は進歩していくものだから、将来はどうなのかはっきりしたことはいえないが、
少なくともあと数年やそこらでドルビーアトモスと同等のものがホームシアターで実現できるようになると思えない。

となれば、私は映画館を足を運ぶ。
すべての映画がドルビーアトモス対応で制作されればいいとは思っていない。
ドルビーアトモスをそれほど必要としない映画もあれば、
ドルビーアトモスがあればこそ活きてくる映画もある。

5月にコレド室町にあるTOHOシネマズで観た「アメイジング・スパイダーマン2」は、格好の映画である。

「アメイジング・スパイダーマン2」がドルビーアトモスでなければ、
3D上映館でなくてもいいかな、とも少しは思っていた。
けれどドルビーアトモスの映画館で観れるのであれば、そこで観たい。

最初「スパイダーマン」三部作はサム・ライミ監督、
「アメイジング・スパイダーマン」シリーズはマーク・ウェブ監督。

どちらが優れているか、というより、サム・ライミの描くスパイダーマンは、
平面のスクリーン、つまり従来の上映で最大限に活きるスパイダーマンの撮影だったことを、
「アメイジング・スパイダーマン2」を3D+ドルビーアトモスで観て、思った。

2Dで完結しているといえるスパイダーマンの表現だからこそ、
サム・ライミは3Dでの撮影を拒否した、という噂は、ほんとうかもしれない、と思えてくる。

マーク・ウェブは、だから同じ土俵には立っていない。

Date: 6月 7th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その5)

いまでこそ上映中の映画館はかなり暗い。
ずっと以前も暗かった。
けれど1980年代にはいってから、消防法の規制により上映中でもそれほど暗くなくなっていった。

座席の脚部には小さなライトが取り付けられ、上映中でも光っていてた。
ぼんやりと暗い中での上映という時代があった。
そのころは、いまのように音の良さを謳う映画館は、ほぼ皆無だった。
むしろひどい音のところも少なくなかった。

東京にはそれこそウェスターン・エレクトリックのシステムの映画館があったのは知っていた。
そういう映画館は、私が上京してときには完全に消え去っていた。

映画館のシステムは、少なくとも声(セリフ)の通りがいい、はずなのに、
1980年代の東京の映画館で、そういう印象を覚えたことはなかった。

日本語の映画を観るのは、時として億劫だった。
洋画ならば字幕があるから、セリフの明瞭が悪くてもまだなんとかなるが、
日本語の場合は字幕はないのだから、はっきりと聞き取れないのは、映画館の体をなしているとは言い難かった。

いまはそういう映画館はもうないだろう。
音もそのころよりは良くなっている。
椅子も良くなっている。

それでもすべての映画館が同じクォリティで上映しているわけではなく、
広さも新しさもばらばらである。
いいところもあればそうでないところもまだまだある。

いいところもそうでないところも入場料は同じであり、
周りに見知らぬ人が大勢イルなかで観るのが苦手な人もいるだろうから、
映画館で観るよりも、入念に調整したホームシアターの方がクォリティもよく、気兼ねなく観れるから、
映画館に行く価値・必要性を感じなくなった──、
それがわからないわけではないが、それでも最新の映画館はさすがに映画館と思わせる。

いま現在、3D+ドルビーアトモスによる上映がそうである。

Date: 6月 7th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その4)

1980年代にはいってから、AVという言葉が出て来はじめた。
いうまでもなくAudio Visualの頭文字を並べた略語で、このころにはレーザーディスク、VHDなどが登場し、
音楽は本来音だけで楽しむものではない、ということを謳うメーカーや、
その尻馬に乗った評論家も出て来た。

ヴィジュアルつきのプログラムソースを楽しむことを否定したり、
それを楽しんでいる人たちを否定したいのではなく、
安易に音楽には視覚的要素が不可欠、映像無しの音だけの音楽は片輪、
的なことを言う人(メーカー)に対していいたいだけのことである。

AVはいつしかホームシアターと呼ばれるようになった。
Home Theater、家庭内劇場となるのか。
AVという言葉が登場したころから、ずっと進歩している。
当時は100インチのスクリーンを家庭に持ち込む人はそうそういなかったけれど、
いまではそう珍しくもないようである。

ホームシアター関連の雑誌も書店にはいくつも並んでいる。
オーディオは女性の理解を得にくいが、ホームシアターはそうでもない、という話も聞く。

私が知っている人で、ホームシアターに熱心にとりくんでいる人はいないから、
現在のホームシアターのレベルがどの程度なのかははっりきとは把握していない。
それでも、かなりのレベルらしいことは聞いているし、
そういうレベルで楽しんでいる人たちの中には、映画館を小馬鹿にしている人もいることも知っている。

その気持はわからないわけではない。

Date: 6月 6th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その3)

そんな私でも、3Dで観てみようと思った。
昨年11月に、インターネットでドルビーアトモスというものがあることを知った。
最新のドルビーであり、日本でもドルビーアトモスの映画館が船橋にできた、とあった。

ドルビーアトモスについての解説を読んでいるうちに、行ってみたいと思っていた。
しかもドルビーアトモス用につくられた映画はまだそれほど多くないようで、
ドルビーアトモスの映画館では、「パシフィックリム」と「イントゥ・ダークネス」を上映していた。

船橋は、いま住んでいるところからはけっこう距離があるけれど、
スタートレックの映画はすべて映画館で観てきた者としては、
ドルビーアトモスでの「イントゥ・ダークネス」はぜひとも観ておきたかった。

これが私にとって初の3D映画となった。

小学校のころに観た飛び出す映画とは相当に違うものだとわかっていても、
実際に目にする現代の3D映画には驚いた。
しかもドルビーアトモスとの相乗効果なのだろう、
映画を観ているという感覚よりも、体感しているという感覚のほうが強い。

3D+ドルビーアトモス。
実は体験するまでは、2Dでドルビーアトモスの方がいいんじゃないか、というところも少しはあった。
けれど、このふたつの技術は切り離せないようにも思えるほど魅力的であり、
映画はやはり映画館で観るものだ、と一部の人たちに強くいいたくもなった。

Date: 6月 6th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その2)

小学校低学年だったころだから、昭和40年代前半から半ばにかけてのことだが、
当時は子供向けに東映まんが祭り的な映画をやっていた。
子供に人気のテレビ番組を映画化したものなどを数本上映するスタイルだったと記憶している。

一時期、飛び出す映画ということで、
片方に赤の、もう片方に青のセロハンをはりつけた紙製のメガネをかけて観る、
そんな安易な3D映画をいくつか体験している。

少しも飛び出しては見えなかった。

そんな3Dと、いま最新の映画館で上映される3Dとは時間にして30年ほどの違いがあり、
技術的にも大きな違いがあることはわかっていても、
安易な3Dを体験してきた者は、映画は2Dでいいじゃないか、と思いもする。

それに3Dといっても、いわゆるホログラフィによる3Dではないわけだから、
そこに映し出される映像そのものが3D(立体)であるわけがない。

ほんとうに3Dならばスクリーンを中央から見たときと、
どちらか端っこに行って見た時とでは見えるものが違ってこなければならない。

いまスクリーンに映し出されているシーンを横からみれば、そこの壁に隠れているところも見えるのに……、
と思って頭を動かしたところで、もちろん見えないわけだ。

そんなことを理由に、3D上映の映画はこれまで避けていた。

Date: 6月 5th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その1)

昨年12月に、船橋のららぽーとに、ドルビーアトモスの上映館が出来、そこで映画を観てきたことを書いた

今年春に日本橋室町にもドルビーアトモスの上映館が出来た。
5月に「アメイジング・スパイダーマン2」をそこで観てきた。

スパイダーマンの映画は、サム・ライミ監督により2002年に公開、
2004年に続編「スパイダーマン2」、2007年に「スパイダーマン3」が公開された。

いずれも好調だったため、「スパイダーマン4」もサム・ライミによって制作される、という噂があった。
期待していたが、立ち消えになってしまった。
サム・ライミの降板理由については、
あくまでも学生時代のピーター・パーカー(主人公)を描くため、というものだった。

でも一方で製作会社のソニーが、サム・ライミに3Dによる撮影を要求し、
それを拒否したため、らしいと噂もあった。

それを裏付けるかのように2012年に公開された「アメイジング・スパイダーマン」は3Dで撮影されていた。

スパイダーマン・シリーズは映画館で観てきている。
「スパイダーマン2」はいい映画である。それたけにサム・ライミの降板にはがっかりしたし、
3Dで観る必要性もあまり感じなくて、「アメイジング・スパイダーマン」は2D上映館で観た。

「アメイジング・スパイダーマン2」も、
昨年12月、ドルビーアトモス上映館でスタートレック・シリーズの「イントゥ・ダークネス」を観ていなければ、
2D上映館で観ていたことだろう。

Date: 3月 7th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その14)

その13)の最後で書いた「エキゾティシズムへの憧れ」とは、
これまで書いてきたエキゾティシズムとはまったく異るエキゾティシズムではないのか、と思うようになっている。

(その13)を書いたのが二年前なので、少しくり返すが、
1970年代、私がオーディオに関心をもち始めたころ、
オーディオ雑誌では国による音の違い、風土による音の違いが存在することを語っていた。

アメリカにはアメリカならではの音があり、ヨーロッパにはヨーロッパの音があり、
さらに同じアメリカでも西海岸と東海岸では、ひとつのアメリカンサウンドとして語られながらも、
はっきりとした性格の違いがはっきりとあり、
同じことはヨーロッパのスピーカーでも、イギリス、ドイツ、フランスでは違っている。

だからステレオサウンドは創刊15周年記念として、
60号ではアメリカ、61号ではヨーロッパ、62号では日本の、それぞれのスピーカーの特集を行っている。

この企画を、もしいま行うとしたら、ずいぶんと違う切り口が必要になる。
ステレオサウンド 60号の時代からの変化があるからだ。

このエキゾティシズムとは別に、時代の違いによるエキゾティシズムもある、といえるだろう。
原体験として聴いたことのない時代の音を若い人が求める理由のひとつには、
時代のエキゾティシズムが関係しているように感じられる。

このふたつのエキゾティシズムは、変な言い方になるが、まっとうなエキゾティシズムであるといえよう。
けれど、私がこの項でいいたいのは、もうひとつのエキゾティシズムがあり、
このエキゾティシズムはやっかいな性質のものであり、
このエキゾティシズムをもつスピーカーシステムの音を「新しい」と感じ高く評価する人もいれば、
私のように「欠陥」スピーカーとして受けとめる者もいるわけだ。

このエキゾティシズムは、私の耳には音楽を変質させてしまうエキゾティシズムであり、
認めることのできないエキゾティシズムである。