「音楽性」とは(Western Electric 757Aを聴いて)
別項で書いていくけれど、
昨夜のaudio wednesdayで聴いた(鳴らした)ウェスターン・エレクトリックの757Aの音、
ここで書いてきている、いろんなテーマについてあらためて考えさせてくれる。
それほどの深い感銘を与えてくれた。
別項で書いていくけれど、
昨夜のaudio wednesdayで聴いた(鳴らした)ウェスターン・エレクトリックの757Aの音、
ここで書いてきている、いろんなテーマについてあらためて考えさせてくれる。
それほどの深い感銘を与えてくれた。
レコード芸術の、1980年代後半の名曲名盤で、
ディーリアスの管弦楽曲集のところで、黒田先生が書かれていたことをおもいだす。
黒田先生は、ビーチャム、バルビローリ、マリナーの演奏(録音)に点を入れられていた。
手元に、もうその本はないので正確な引用ではないが、
ビーチャム、バルビローリ、マリナーの順に録音はよくなるが、
演奏の味わいは、録音がよくなっていくことと比例しない──、と。
1980年代はディーリアスの録音は少なかった。
そのなかで、ビーチャム、バルビローリ、マリナーは、
それぞれの時代の代表的な演奏といえたけれど、
黒田先生のいわれたことは、たしかにそうだ、と感じるところがある。
演奏の味わいとは、そのことについて、短いコメントのなかでは説明されていないが、
演奏の味わい、これだけで黒田先生がいわんとされたことは伝わってくる。
ここで、演奏の味わいは、音楽性と置き換えられるのか。
ナチュラルな音、自然な音といった表現を使う人がいる。
言っている本人は、客観的な意味でのナチュラルな音なのだろうが、
それが多くの人にとって、ほんとうの意味でナチュラルな音であるのは、
どのくらいの割合なのだろうか。
低いのか高いのか。
よくわからない、というのが、私の実感だ。
誰かが、ナチュラルな音ですね、と言う。
その誰かが、たとえばオーディオ業界の名の知れた人だったりすると、
それを受けとめた人の多くは、
なるほど、こういう音がナチュラルな音なのか、と思うようになってしまうかもしれない。
まったく名の知れていない人が、ソーシャルメディアで、
この音こそナチュラルな音と力説したとしても、
君はそういう音をナチュラルと思うのか──、
そんな受けとめ方をされるほうが多いのかもしれない。
オーディオ評論家が、オーディオ雑誌で、スピーカーの存在が消える、と書いたとする。
これをどう受けとめるか。
スピーカーの存在が消えるわけだから、
そのスピーカーから鳴ってくる音こそ、ナチュラルな音というふうに受けとめるのか。
アリス・アデールが来日した。
東京での二公演、名古屋での一公演だった。
今回の来日の招聘元の方のブログを読んでわかったことは、
アリス・アデールは本国フランスでもめったに公演を行わない人ということ。
録音が活動の中心ということだ。
コンサートをドロップアウトしているわけではないが、
確かにアリス・アデールの公演情報は目にしたことがなかった。
十数年前のバッハの「フーガの技法」はライヴ録音だったのだが、
これは珍しいことだったわけだ。
そして帰国後、録音の予定がある、とのこと。
何なのかは明らかになっていないが、
もしかするとバッハではないか、と期待している。
初日のアンコールでのゴールドベルグ変奏曲が、いまも耳に残っているからだ。
(その15)に関連することで思い出すのは、スタートレックの映画である。
2009年からのリブートのスタートレックではなく、
1979年の「スタートレック」から続く映画のことだ。
四作目の「スタートレックIV 故郷への長い道」の監督は、
スポック役のレナード・ニモイだった。
五作目の「スタートレックV 新たなる未知へ」の監督は、
カーク役のウィリアム・シャトナーだった。
「スタートレックIV 故郷への長い道」はいい映画だった。
最後のシーンに、スタートレックのファンならば、うるっとくるものがあったはずだ。
「スタートレックV 新たなる未知へ」、だから期待していた。
がっかりしたことだけ憶えている。
当時は、四作目と五作目の違いについて、あれこれ考えることは特にしなかったが、
このテーマで書いていて、四作目は確かに映画だった。
五作目は映画だっただろうか。
テレビドラマの枠にとらわれてしまっていたのではないだろうか。
それゆえ映画館のスクリーンで観ていて、つらいと感じたものだった。
映画「シン・仮面ライダー」が、春に公開になった。
公開されてすぐに観に行った。
そしてPrime Videoでも公開終了後、数ヵ月で公開になった。
映画館の大きなスクリーンで観て、微妙な印象を持った。
それでもPrime Videoで公開されてすぐに見た。
ホームシアターを趣味としていないから、iPadの小さな画面で見た。
私がいちばん微妙に感じたのは、クライマックスといえるシーンだ。
仮面ライダー0号との対決シーンなのだが、
ここが映画館で観ていると、なんとももたついてお遊戯のようにも感じてしまった。
iPadだと、そうは感じなかった。
意外にいいかも、そんなふうにも感じたりした。
もし三回目、大スクリーンで観たとしたら、最初の印象のように、
なんだよー、となるであろう。
「シン・仮面ライダー」は映画なのだろうか。
そんなふうにも考えている。
「シン・仮面ライダー」の監督、
庵野秀明氏による「キューティハニー」の実写映画も映画館で観ている。
そのことを思い出したのは、やはり同じように、映画なのだろうか、と思ってしまったからだ。
一週間後の7月29日に、「ジュラシック・ワールド/新たなる支配者」が公開になる。
1993年公開の「ジュラシック・パーク」を観た時の驚きは、いまも憶えている。
その後、1997年に「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」、
2001年に「ジュラシック・パークIII」、
2015年に「ジュラシック・ワールド」、
2018年に「ジュラシック・ワールド/炎の王国」と続いた。
「ジュラシック・パークIII」を映画館で観た時に、
もう続編を映画館で観ることはないだろうなぁ、と思ったにもかかわらず、
ジュラシック・ワールドとタイトルが変ってからも、映画館で観ている。
「ジュラシック・ワールド/新たなる支配者」も映画館で観るつもりだが、
一作目の「ジュラシック・パーク」で感じた驚きは、もうないだろう。
「ジュラシック・パーク」と「ジュラシック・ワールド/新たなる支配者」。
三十年ほどの開きがあるわけだから、その分CGの技術は進歩している。
けれど、どちらが映画としてのリアリティがあったか、高かったのか、といえば、
まだ観ていない「ジュラシック・ワールド/新たなる支配者」だが、
たぶん「ジュラシック・パーク」を超えることはできないだろう。
CGで描かれる恐竜のリアルさは、
「ジュラシック・ワールド/新たなる支配者」が上のはずだ。
そうでなければおかしい。
けれど、「ジュラシック・パーク」で恐竜が近付いてくることを、
グラスの中の水に波紋ができることで表現したシーンを思い出してほしい。
こういうところにスピルバーグ監督の非凡さがある。
ここに「ジュラシック・パーク」のリアリティがある。
昨晩の別項「情景(その11)」で、
いま公開されている映画「キングダム2 遥かなる大地へ」のことを書いた。
前作「キングダム」でも、今回の二作目でも、
私が気になっているのは、役者の歯の白さ。
あの時代に、あの身分の者が、歯の輝くような白さはないはず、
そう思うから、役者の歯が見えるとそれだけで、
もう映画の世界から離れていってしまう感じがする。
昨晩、このことについて書いたあとで、
そう感じるのは「キングダム」が映画だからなのだろう、と考えていた。
もし「キングダム」がテレビドラマだったら、役者の歯の白さをどう感じただろうか。
比較しようにも、「キングダム」のテレビドラマ版はないのだから無理だし、
想像するしかないのだが、映画ほどには役者の歯の白さは気にならなかったようにも思う。
ここにテレビドラマと映画の決定的な違いがあるのではないのか。
テレビドラマの予算を増やして大作とすれば、それが映画になるというものではないはず。
テレビドラマと映画、どちらが格上とかそういうことではなく、
映画には映画独自の制作の怖さがあって、
そこに気づかずないがしろにしてしまうと、「キングダム」のようなことになってしまう──。
これはあくまでも素人の勝手な想像でしかないのだが、そんなことを考えていた。
同時に、いまはそういった映画制作の怖さを、作り手側が忘れてしまっているのかもしれない。
作り手側だけでなく、観客側も気づいていない人が増えてきているのかもしれない。
映画におけるリアリティ。
それがどういうことで成り立ち、どういうことでいとも簡単にこわれてしまうのか。
ナチュラルな音、自然な音という表現は、
たいていの場合、褒め言葉である。
あなたの音は実に自然な音ですね──、
そう誰かにいわれて気分を害する人はいないはずだ。
けれど、私は昔ほど、このナチュラルな音、自然な音という表現を、
ストレートに受け止めることができなくなっている。
ナチュラルな音、自然な音は、客観的な評価のように思われる。
そう思っている人は多いように思う。
けれど、ここ十年くらい感じているのは、
オーディオにおいてナチュラルな音、自然な音はきわめて主観的である場合が、
かなり多い、ということだ。
もちろんすべての場合において主観的とまではいわないが、
それでもかなりの場合、主観的なナチュラルな音、主観的な自然な音だったりする。
ナチュラルな音ですね、自然な音ですね、という人は、
そんなふうには思っていないだろう。
客観的な意味でのナチュラルな音、自然な音と言葉にしているはずだ。
(その1)で書いている録音、
そういえばTIDALで聴けるかも──、と思って検索してみたら、あった。
2018年のインターナショナルオーディオショウでの、
とあるブースで聴いた楽章だけを聴いてみた。
やっぱりとでもいおうか、
2018年に聴いた印象とはまるで違う演奏のように聴こえる。
2018年にきいた印象は、スタティックとしかいいようがなかった。
今回TIDALで聴いて確認できたのは、
演奏直後の熱狂的な拍手が示しているように、
少なくとも熱い演奏であった。
その演奏を高く評価するかどうかは別として、
熱を帯びた演奏であり、2018年のあの日、私が抱いた違和感は間違ってなかった。
たまたま、それがライヴ録音で、最終楽章を最後まで鳴らしていたから、
聴衆の拍手の音が聴けて、そこでの音(音楽)に疑問をもったわけなのだが、
もしこれがスタジオ録音であったりしたら、どうだっただろうか。
こういう冷めた演奏もあるんだな、ぐらいに捉えていたかもしれない。
(その1)ではあえて書かなかったけれど、
このブースの音は、鳴らしていた(録音を選択していた)人が調整した、とのこと。
つまり、その人がいいと思っている録音(演奏)を、
いいと感じられる音(その人が求めている音)で鳴らしたのだろう。
だとすれば、その人は、この演奏をそういう音で聴いていて、
いいと感じたことになる。
その人の耳に、あの時の音で、あの演奏がどう響いているのかは、
他人の私にはまったくわからない。
その人の耳には、あの冷めた音で、熱狂的な演奏と聴こえているのかもしれない。
それとも私と同じように冷めた演奏と思って聴いていたのだろうか。
人の心の中はのぞけない。
その人がどんな音楽の聴き方をするのかもわからない。
なので考えても無駄なことなのだろうが、
それでも、ここでもうひとつ考えたいのは、
ナチュラルな音、自然な音という表現が使われる音について、である。
映画「鬼滅の刃」が、とてもヒットしている。
先日、仕事関係の知人が観に行っている。
彼いわく、「大ヒットの映画は映画館で観るべきではないかも」といっていた。
大ヒットしているといえる「鬼滅の刃」だけに、普段映画館に来ない人たちも大勢来る。
その人たちのなかには、ほんのわずかだがマナーがなっていない人がいるから、が理由だった。
かなりひどかった、そうだ。
「鬼滅の刃」の予告編は、「テネット」の上映の前に流されていた。
マンガとアニメを、とにかくバカにする人たちがいるけれど、
映画館での「鬼滅の刃」の予告編をみていたら、
観に行こう、と思わせるほどに、丁寧に制作された映画と感じられた。
これは映画館で観たい。
観に行くつもりでいたけれど、知人のいうのをきいて、
確かにそうかもな……、と思ってしまった。
そのマナーがひどかった人は、自分の部屋でみるのと同じ感覚だったのか。
話題になっている映画だから、映画館に行ったわけだけど、
映画のスクリーンは、家庭のテレビが大きくなっただけ、という感覚だったのだろうか。
それから、もうひとつ、今日知ったのだが、ファスト映画というのがYouTubeにある。
ファストはfastであり、ファストフードのそれである。
少し前から、Netflixに、再生速度を1.5倍にする機能がついた。
こんな機能、誰が使うんだろうか……、と私は思うのだが、
要望が多かったから、こんな機能を搭載したのだろう。
試しに、以前みた映画を、少しだけ1.5倍にした。
ストーリーを追うだけなら、1.5倍再生でみたほうが、時間の節約になる。
けれど、映画も音楽も、時間軸があってこその表現であって、
その時間を、受け手側が勝手に1.5倍にしてみることは、その映画を鑑賞したといえない。
ファスト映画は、1.5倍どころではなく、
第三者が10分程度に編集し解説をつけた動画のことである。
一時間半から二時間半ほどの映画一本を、10分程度に編集した動画をみる行為は、
1.5倍再生が、ずっとましに思えてくるほどである。
(その5)へのfacebookでのコメントがあった。
audio wednesdayの常連Hさんからだった。
哲学者セオドア・グレイシックの「音楽の哲学入門」には、
鳥の鳴き声は音楽か? に対して、
グレイシックは、文化の背景を持たない鳥の鳴き声は音楽ではない、
と答えている、と書いてあった。
「音楽の哲学入門」は読んでいないが、
文化の背景を持たない鳥の鳴き声が音楽ではないとすれば、
放尿の音も、とうぜんそうなる。
ではヨッフムのレクィエムの冒頭の鐘の音は、
教会の鐘であるし、演奏の始まりをつげているのだから、
文化の背景をもっている──、そういえることになる。
グレイシックが間違っている、とはいわないが、
私がここで書いているのは、放尿の音にしても、鐘の音にしても、
録音された音である、ということが前提である。
しかも録音された放尿の音にしても、鐘の音にしても、
オーディオというシステムを介して鳴らすわけである。
窓の外から聞こえてくる鳥の鳴き声は、
グレイシックのいうように音楽ではないとしても、
一度録音され、再生された鳥の鳴き声は、文化の背景を持たないから、といえるのか、である。
録音というプロセスとシステム、再生というプロセスとシステムに、
文化の背景がまったくないと捉える、いや違う、というのか。
それによって音楽とはいえない、音楽といえるというふうになっていくのか。
極端なことをいえば、
(その1)で書いている放尿の音と、
ヨッフムのレクィエムでの始まりをつげる鐘とは、
いったいどれだけ違う、というのだろうか。
音楽とは関係のない音ということでは、同じではないのか。
こんなバカなことも考えている。
放尿の音と鐘の音の、どこが同じなのか。
そういわれそうだが、ヨッフムのレクィエムでは鐘の音だったが、
これが、教会ではなくコンサートホールで行われた演奏であるならば、
始まりをつげるのは鐘ではなく、ブザーの音であろう。
ヨッフムのレクィエムで、冒頭に、ブザーの音が入っていたら──、
どう感じるだろうか。
ブザーの音と放尿の音とでは、どれだけ違うのか。
こんな屁理屈みたいなことを考えてしまう。
屁理屈は、どんなに言葉を連ねたところで、しょせんは屁理屈でしかない。
それはわかっていても、音楽性という、ひじょうに曖昧なことについて考えるには、
こんな屁理屈、捻くれたものの見方も必要になってくるのかもしれない──、
と屁理屈の屋上屋を重ねる的なことを試みる。
放尿の音を録音した本人は、
数年後には忘れてしまっている。
聴きに来い、としつこく誘われた五味先生は、
そのことをしっかりと憶えているのに──、である。
だから、ここを読まれている人のなかには、
そんなことどうでもいいよ、という人の方が多いだろうなぁ、と思いつつも、
そんなどうでもいいことこそ音楽性という曖昧なことばを理解するうえで、
意外にも重要になってくるのではないか、とすら思っている。
鐘の音といえば、ベルリオーズの幻想交響曲の第五楽章で鳴る。
とはいえ、実際のコンサートで鐘を鳴らすこともあるようだが、
チューブラーベルで代用されることも多い。
録音では、古いものだとチューブラーベルが大半だが、
1980年代ごろからか、実際の鐘を使った録音が増えてきているようだ。
広島の平和の鐘を使ったのが、アバドの幻想交響曲である。
デジタルで信号処理をして、ピッチを変えている。
幻想交響曲をそれほど聴いているわけではないが、
アバドの演奏での鐘の音は、聴き手のこちらが日本人だからということではなしに、
いいと思う。
アバドがなぜ広島の平和の鐘にこだわったのか、その理由までは知らない。
それでも、アバドの演奏での、広島の平和の鐘の響きは、美しいと感じる。
幻想交響曲での鐘の音と、ヨッフムのレクィエムにおける鐘の音は別ものである。
幻想交響曲では、スコアにそれが書かれている。
レクィエムには、そんなことは書かれていない。
ヨッフムのレクィエムでは、あくまでも始まりをつげる鐘でしかない。
にも関らず、その鐘の音に身の凍るような思いがするのは、どうしてなのか。
アバドの幻想交響曲はデジタル録音で、当時優秀録音ということで話題にもなったし、
ステレオサウンドの試聴でも、けっこうな回数、使われている。
ヨッフムのレクィエムは1955年のライヴ録音で、しかもモノーラルである。
優秀録音というわけでもない。
それでも、冒頭の鐘の音が、うまく鳴ってくれる(響いてくれる)と、
もうそれだけでぞくぞくする、そして身の凍るような思いがする。
幻想交響曲の鐘の音には、音楽性がある、といえよう。
ヨッフムのレクィエムでの鐘の音には、音楽性はない、といえよう。
なのに、私が聴きたい(うまく鳴らしたい、響かせたい)のは、
ヨッフムのレクィエムでの鐘の音である。
考えれば考えるほど、おかしな話ではないか。
瀬川先生が「夢の中のレクイエム」で書かれている。
*
最後にどうしても「レクイエム」について書かないわけにはゆかないが、誰に何と言われても私は、カラヤンのあの、悪魔的に妖しい官能美に魅せられ放しでいることを告白せずにはいられない。この演奏にはそして、ぞっとするような深淵が隠されている。ただし私はふつう、ラクリモサまでしか、つまり第一面の終りまでしか聴かないのだが。
そのせいだろうか、もう何年も前たった一度だが、夢の中でとびきり美しいレクイエムを聴いたことがある。どこかの教会の聖堂の下で、柱の陰からミサに列席していた。「キリエ」からそれは異常な美しさに満ちていて、そのうちに私は、こんな美しい演奏ってあるだろうか、こんなに浄化された音楽があっていいのだろうかという気持になり、泪がとめどなく流れ始めたが、やがてラクリモサの終りで目がさめて、恥ずかしい話だが枕がぐっしょり濡れていた。現実の演奏で、あんなに美しい音はついに聴けないが、しかし夢の中でミサに参列したのは、おそらく、ウィーンの聖シュテファン教会でのミサの実況を収めたヨッフム盤の影響ではないかと、いまにして思う。一九五五年十二月二日の録音だからステレオではないが、モーツァルトを追悼してのミサであるだけにそれは厳粛をきわめ、冒頭の鐘の音からすでに身の凍るような思いのするすごいレコードだ。カラヤンとは別の意味で大切にしているレコードである(独アルヒーフARC3048/49)。
*
私はCDで聴いている。
瀬川先生が書かれているように《冒頭の鐘の音からすでに身の凍るような思いのする》モーツァルトだ。
この鐘の音は、始まりをつげる音である。
モーツァルトのレクィエムに、鐘の音が含まれているわけではない。
その意味では、音楽とは無関係といおうとおもえば、いえなくもない。
それでも、初めてヨッフムのレクィエムを聴いたとき、
この鐘の音に、身の凍るような思いがした。
瀬川先生の文章の読みすぎだ──、といわれようが、
確かにそういう思いがした。
めったに聴く演奏ではないが、聴く度に、同じ思いがする。
以前に、鐘の音が含まれていない、
純粋に演奏だけを収録したCDが廉価盤で出ていた。
モーツァルトのレクィエムを、音楽だけで聴きたければ、廉価盤のほうだろう。
けれど、どちらかを残すとなれば、迷うことなく鐘の音が入っている盤である。
この鐘の音は、いったい何なのか。