「音楽性」とは(オーディオショウにて・その3)
(その1)で書いている録音、
そういえばTIDALで聴けるかも──、と思って検索してみたら、あった。
2018年のインターナショナルオーディオショウでの、
とあるブースで聴いた楽章だけを聴いてみた。
やっぱりとでもいおうか、
2018年に聴いた印象とはまるで違う演奏のように聴こえる。
2018年にきいた印象は、スタティックとしかいいようがなかった。
今回TIDALで聴いて確認できたのは、
演奏直後の熱狂的な拍手が示しているように、
少なくとも熱い演奏であった。
その演奏を高く評価するかどうかは別として、
熱を帯びた演奏であり、2018年のあの日、私が抱いた違和感は間違ってなかった。
たまたま、それがライヴ録音で、最終楽章を最後まで鳴らしていたから、
聴衆の拍手の音が聴けて、そこでの音(音楽)に疑問をもったわけなのだが、
もしこれがスタジオ録音であったりしたら、どうだっただろうか。
こういう冷めた演奏もあるんだな、ぐらいに捉えていたかもしれない。
(その1)ではあえて書かなかったけれど、
このブースの音は、鳴らしていた(録音を選択していた)人が調整した、とのこと。
つまり、その人がいいと思っている録音(演奏)を、
いいと感じられる音(その人が求めている音)で鳴らしたのだろう。
だとすれば、その人は、この演奏をそういう音で聴いていて、
いいと感じたことになる。
その人の耳に、あの時の音で、あの演奏がどう響いているのかは、
他人の私にはまったくわからない。
その人の耳には、あの冷めた音で、熱狂的な演奏と聴こえているのかもしれない。
それとも私と同じように冷めた演奏と思って聴いていたのだろうか。
人の心の中はのぞけない。
その人がどんな音楽の聴き方をするのかもわからない。
なので考えても無駄なことなのだろうが、
それでも、ここでもうひとつ考えたいのは、
ナチュラルな音、自然な音という表現が使われる音について、である。