野上眞宏 写真展「METROSCAPE New York City 2001-2005」
9月3日まで、渋谷のギャラリー・ルデコで、
野上眞宏さんの写真展「METROSCAPE New York City 2001-2005」が開催されている。
8×10で撮られた2001年から2005年のニューヨークの風景。
エレベーターで四階にあがり、最初に飛び込んでくる写真がとにかく圧倒的だった。
以前、野上さんからきいた話を思い出していた。
9月3日まで、渋谷のギャラリー・ルデコで、
野上眞宏さんの写真展「METROSCAPE New York City 2001-2005」が開催されている。
8×10で撮られた2001年から2005年のニューヨークの風景。
エレベーターで四階にあがり、最初に飛び込んでくる写真がとにかく圧倒的だった。
以前、野上さんからきいた話を思い出していた。
別項「ROOTS: MY LIFE, MY SONG」で、
ジェシー・ノーマンを、好きになれない歌手だと書いている。
嫌いなわけではなかったけれど、
その実力はもちろんすごいと感じていたけれども、
それでものめり込んで聴くことはなかった。
ベッティナ・ランスという写真家がいる。
彼女の名前を知ったのは、1989年ごろだった。
CREAという女性誌に載っている写真を偶然みかけての衝撃だった。
確か、そのページには「挑発」とつけられていたと記憶している。
モノクロの女性の写真が並ぶ。
担当編集者が「挑発」とつけたくなるのもわかる。
そんな感じの写真ばかりだった。
昨晩、なぜだかベッティナ・ランスのことを思い出した。
いま、どんな活動をしているのだろうか、そのくらいの好奇心で検索してみたら、
彼女のインスタグラムを知った。
昔見た写真もそこにあるのかな、と思いながら、iPhoneの画面をスクロールしていく。
するとジェシー・ノーマンの写真があった。
iPhoneの画面だから、それほど大きく表示されていたわけではない。
それでも、すぐさまジェシー・ノーマンだ、とわかるほどに、
ジェシー・ノーマンの雰囲気を捉えている。
それでもソファーに腰かけているジェシー・ノーマンは靴を脱いでくつろいでいる。
こういう表情もする人だったのか、と思ってしまった。
それだけでなく、この写真と早い時期にであっていれば、
ジェシー・ノーマンの音楽を、もう少し積極的に聴いていたであろう、とも思った。
オーディオでの選択は、いわば昂進といえるところがある。
そればかりではないこともわかっていても、そういいたくなる。
オーディオ機器の選択にしても、そうだ。
そうやって構築されたシステムは、自身のなにかを映し出している。
昂進と無縁で、オーディオをやってきた人はいないように思っている。
ニコラ・ド・スタール(Nicolas de Staël)の名前を知ったのは、二十数年前だった。
あるマンガのなかに、この名前が出てきた。
興味をもった。
けれどまだインターネットがいまのように普及していなかったし、
私もインターネットをやっていなかったから、名前を記憶するだけにとどまった。
その数年後、ニコラ・ド・スタールの名前を目にすることになる。
川崎先生の「プラトンのオルゴール」である。
この時も「ニコラ・ド・スタールか」と思いながらも、そこでとまっていた。
この時もまだインターネットに接続していなかったのも理由の一つだ。
次にニコラ・ド・スタールの名前を目にしたのは、
川崎先生のブログだった。
この時は、ブログを読んでいるわけだから、インターネットに接続しているわけで、
ニコラ・ド・スタールの名を検索した。
ここまで、ほぼ二十年経っていた。
なさけない話なのだが、ニコラ・ド・スタールの絵に、
つよい何かを感じたとはいえなかった。
ニコラ・ド・スタールの名を知るきっかけとなったマンガでは、
ニコラ・ド・スタールを絶賛していた。
マンガの登場人物のセリフを借りて、作者が語っているわけで、
そこにはニコラ・ド・スタールが、作者にとってどういう存在なのか教えていた。
偶然にも、ニコラ・ド・スタールの絵を、昨晩インターネットで目にした。
以前検索して見た絵であるにもかかわらず、印象がずいぶん、というか、
そうとうに違って見えた。
ここでのテーマである「うつ・し、うつ・す」について考えていると、
音質と描写力の違いについて考えていることに気づく。
別項「富士山は見飽きないのか」で考えていることの一つと同じである。
小学生、高校生のころ、つまり10代のころは、
優れた写真の方が、優れた絵画よりも、
実際の風景に近い、と思い込んでいた。
それがいつしか変化していっていた。
世の中に、写真さながらの絵を描く人が登場し始めたことも関係している。
絵画のテクニックは、写実性ということでは、
おそろしく進歩しているのではないのか。
絵画の、そのへんの変遷について詳しいわけではないが、
SNSで、ときおり話題になる人の絵画のテクニックは、素直にすごい、と思う。
だから絵画よりも写真の方が……の意識が変ってきたわけではない。
むしろ風景の見方、というよりも見え方の変化が、私自身に生じてきたからである。
20代の終りごろ、ふと空を見て、絵画のようだ、と感じた。
その日以来、そう感じることが徐々に増えてきた。
こうなってくると、もう写真の方が……、とはおもえないようにもなってくる。
いまはiPhoneでも、写真の素人の私でも失敗することなく、
人に見せても恥ずかしくないレベルの写真は撮れるようになっている。
カメラの画素数の向上、それだけでなくソフトウェア的な処理の進歩などによって、
画質ははっきりと良くなっている。
良くなっているだけに感じるのは、描写力について、である。
iPhoneのカメラだと、
素人の私と、ほんとうにプロフェッショナルな写真家との腕の差は縮まるのか──、
そんなことはないように思う。
失敗することのあった以前のカメラとは、いまは違う。
それでも埋まらない何かとは、描写力なのか、と思うようになった。
そして写真よりも、名画といわれる絵画のほうが、
より実際の風景に近いと感じるのも、この描写力ということのはずだ。
テレビが登場したばかりのころを描いたドラマでは、
テレビの箱の中に小さな人がいて、演じていると思っていた、というシーンがあったりする。
笑い話なのだが、
実際にあったことなのだろうか、とも思うことがある。
すでに映画はあったのだから、そんなことを思う人がいるのか、と、
その時代を知らない私などは、そんなふうに思ってしまう。
このことは二年以上前にも書いている。
その時は考えもしなかったことなのだが、
映画はスクリーンに映される。
つまり、当時の人たちは、
映画を連続した写真がスクリーンに映し出されるものとして捉えていたのではないか、
そんなことを考えているし、
そんなふうに考えていると、映画にとって重要というか、
映画っぽさをつくり出している要素の一つとして、コマ数があるようにも思えてくる。
無声映画のころは、16fpsだった。
トーキーになってしばらくして24fpsになっている。
いまも24fpsのままである。
録音されたプログラムソースを再生するのをオーディオ機器とすれば、
四十年前のウォークマンの登場以前、さらにはオーディオブーム以前、
日本の各家庭にどれだけオーディオ機器(当時はステレオの方が一般的だった)があったのか。
それは遍在とはいえなかった。
テレビにしてもそうだった時代がある。
テレビが各家庭に一台、
ほぼ必ずあるといえるようになったのは、私が幼かったころより少し前ぐらいか。
それがいつのころからか、各家庭に一台から各個人に一台、という時代になった。
ステレオの普及はテレビよりも遅かった。
各家庭に一台、といえるような時代が来る前に、
ウォークマンが登場したのではないだろうか。
東京や大阪などの大都市ではどうだったか知らないが、
ウォークマンが登場したころ、
私がまだ高校生だったころ、ステレオがない家庭は別に珍しくなかったし、
ある家庭の方が少なかった。
大都市ではそこそこステレオが普及していたのであれば、偏在といえよう。
ウォークマンは、まだそういう段階だった時代に登場した。
いまは、というと、一人一台、スマートフォンを持っている。
一台という人が多いのだろうが、電車に乗っていると、
複数台のスマートフォンをいじっている人を見かけることは、そんなに珍しいことではない。
いまでは、そのスマートフォンが、広義ではオーディオ機器となる。
(その1)で、スマートフォンで撮った写真を、
すぐさま公開できるようになった、ということは、
偏在から遍在への、大きな変化だ、とした。
カメラとしてのスマートフォンは、確かにそうだ。
それではオーディオ機器としてのスマートフォンの場合は、どうだろうか。
今日、といっても、すでに日付が変っているが、
野上さんの写真展、「DISCOVER AMERICA; Summer Of 1965」に行ってきた。
今週末(28日)まで、新井薬師駅近くのスタジオ35分でやっている。
野上さんの写真を見て、そうだ、と思い出したように、続きを書いている。
(その3)はほぼ一年前。
また間が飽き過ぎたなぁ、と思いながら、また書き始める。
(その3)の最後に、
野上さんの写真とは対照的に、
ある人の写真に、つよい作為を、
いいかえればナルシシズムを感じた、と書いている。
その時感じたナルシシズムは、被写体となった人たちも、不思議と強く感じられた。
それらの写真に写っている人たちは、プロのモデルではないし、
芸能人や有名人というわけではない。
写真を撮影した人の友人、知人といった人たちである。
もちろん、それらの人たちのことを私はまったく知らない。
それでも、普段、この人たちはナルシシズムを感じさせるような人たちなのか、と思った。
撮影者(写真家と書くべきかと思うが……)がナルシシストであるならば、
結果としての写真からは、撮影者のナルシシズムだけでなく、
被写体もナルシシストとして、ナルシシズムを表に出してしまうのか。
そんなことを思ってしまうほどに、
それらの写真は見ていて、こういって失礼なのはわかっているが、
気持悪さを感じてしまった。
写真がヘタだとか、そういうことではない。
ナルシシズムの相乗効果が、私には堪えられなかった。
別項「楷書か草書か」で臨書のことを少し書いた。
臨書もまた「うつす」行為である。
書の勉強をしているわけではない。
ただ少しばかり、いまごろになって書の世界に興味を持ち始めたところである。
そしてオーディオの世界との共通するところをつよく感じてもいる。
書の世界には「卒意の書」ということばがある。
書の世界での「卒意」と茶の世界の「卒意」は意味が違うようなのだが、
書の世界の「卒意」の対語は作為である。
辞書には、心のままであること、
特に書では、人に見せるなどの意図を持たず、心のままに、とある。
オーディオマニアならば、いい音を出したい、鳴らしたい、とおもう。
オーディオメーカーの人ならば、
いいアンプを、いいスピーカーシステムを、とおもっていることだろう。
いいアンプとは、いい音のするアンプということであり、
いいスピーカーシステムとは、いい音のするスピーカーシステムということのはずだ。
メーカーによるアンプにしろスピーカーにしろ、
それらは市場で売られていき、メーカーに利益をもたらすモノであるから、
そこでは、いい音であることのアピールもまた必要なのはわかる。
けれど「どうだ、いい音だろう」といわんばかりの音がないわけではない。
あからさまに「どうだ、いい音だろう」といっている音もあれば、
控えめではあっても、自信たっぷりの、暗にそういっている音もあるような気がする。
それに、それらのオーディオ機器は、音づくりということを謳っていたりする。
この音づくりこそ、作為の音へと向うのではないのか。
卒意の音とは反対の方向(違う方向)に行くのではないのか。
(その2)で書いている写真、
偶然にも野上さんの「BLUE:Tokyo 1968-1972」と同時期に見ている。
対照的である。
誰の写真なのかは明かさないが、野上さんの写真とは対照的だったから、
その写真だけを見る以上に、つよい作為を、
いいかえればナルシシズムを感じた。
偏在と遍在。
どちらも(へんざい)だが、意味は違う。
偏在は偏って存在すること、
遍在は広く行き渡って存在すること、である。
偏と遍、字が表わすとおりだ。
こんなことを書いているのは、
世の中、どちらをみてもスマートフォンを触っている。
私も電車で移動するときは、たいてい触っている。
さすがにトイレの中とか入浴中、それに食事中も触らないけれど、
それでも触っている時間は長い方かもしれない。
スマートフォンといえば、何を連想するかは人によって多少違うだろうが、
カメラ機能は上位に来るはずだ。
携帯電話にカメラがついたころからすれば、
その画質の向上は驚異的といえるだろう。
しかも撮った写真を、そのスマートフォンでレタッチして、
さらにはインターネット(SNS、ブログなどで)で、すぐさま公開まで可能になった。
プロの写真家でも、日常のスナップショットはスマートフォンを使うことが多いようだ。
その理由が、撮ってすぐに公開できるから、らしい。
写真、カメラの歴史をふりかえれば、画質の向上以上に、
撮った瞬間に全世界に公開できる、ということは、
偏在から遍在への、大きな変化といえる。
ナルシシズムがかけらもないという人は、ほんとうにいるのだろうか──、
と思っているくらいだから、
「あの人はナルシシストだから」というようなことはいいたくない。
それでも、どうにも我慢できないことはやはりあって、
敬遠してしまう人は、やっぱりいる。
写真撮影を仕事としている人は、ゴマンといる。
人物写真をメインに撮る人も多い。
写真撮影を仕事としているということは、写真を撮ることに関してはプロフェッショナルなわけだ。
写真撮影の技術──、
プロはこうやって撮るんだ、と知ったのは、
ステレオサウンドで、そういう場に立ち合うことになってからだ。
知らなかったとはいえ、こんなにも気を使うのかと驚いた。
プロの写真撮影の技術を、初めて垣間見たわけだ。
そういった写真撮影の技術をしっかりと身につけている人は、プロではある。
写真撮影のプロフェッショナルではある。
でも、その人たちのすべてが、プロフェッショナルの写真家なのか、というと、
そうとは思ってこなかった。
撮影技術はあるのに……、と感じる写真がある。
これまで、そう感じてしまう正体がはっきりと掴めていなかった。
ここにきて、やっと私なりに、その正体の断片が掴めた、と感じている。
「BLUE:Tokyo 1968-1972」と、ある写真とが同時期に重なったからである。
「BLUE:Tokyo 1968-1972」に収められている写真(ポートレイト)、
別の人による、ある写真(ポートレイト)、
後者から、とても強いナルシシズムを感じてしまった。
「BLUE:Tokyo 1968-1972」。
先日(5月30日)が最終日だった「野上眞宏 写真展」ではなく、
今回の「BLUE:Tokyo 1968-1972」は、野上さんの写真集のことである。
6月1日、OSIRISから発売になった。
リンク先には、鋤田正義、細野晴臣、松本隆、三氏の推薦文がある。
松本隆氏の推薦文の冒頭に、《ぼくらはみんな星だった》とある。
私は、この「星」に反応してしまった。
1999年末、仕事を辞めて2000年5月の終りまで、
ほぼひきこもりに近い状態でaudio sharingを作っていた。
公開したのは2000年8月。
その一ヵ月前に中島みゆきの「地上の星」(CDシングル)が出て、
11月に「地上の星」が収録されているアルバム「短篇集」が出た。
それまで「地上の星」は聴いたことがなかった。
テレビをもっていれば、「地上の星」、「ヘッドライト・テールライト」が、
NHKの「プロジェクトX」で使われていた、そこで耳にしていただろうが、それはなかった。
「短篇集」で初めて聴いた。
それから何度くり返し聴いただろうか。
聴くたびに「星」、それも「地上の星」の意味するところをおもった。
受け止め方は、人それぞれだろう。
「地上の星」があれば、空に輝く星もある。
audio sharingでの作業は、私にとっての「地上の星」を照らすことだったんだなぁ、
と中島みゆきの「地上の星」を聴くたびに思っていた。
それは「うつ・す」作業でもあったなぁ、といまは思う。
そんなことは、読む人にとってはどうでもいいこであって、
野上さんの写真集「BLUE:Tokyo 1968-1972」を見て思ったのは、
プロの写真家の「うつ・す」ことについて、である。
写真家としてプロフェッショナルであるか、そうでないかの違いを、
はっきりと感じさせることのひとつに気づいた。
デザイナーの亀倉雄策氏が、そういえば、同じことをいわれている。
*
私はなぜ撮影に立ち合わないか。理由は簡単だ。立ち合うとその場の苦心が理解され過ぎて、選択の冷酷な目が失われるからである。この冷徹な透視力があってこそ、最後の一撃ができるのである。
*
(その11)での写真家のマイク野上(野上眞宏)さんと同じことである。
亀倉雄策氏の場合、撮影する者と選択する者の二人がいるから、
撮影に立ち合わないことで、選択が可能になる。
野上さんの場合は、撮影するのも選択するのも同じ人、野上さんである。
だから、そこには五年の月日が必要になる。
野上さんは「冷酷な目」という表現は使われなかったが、
撮影時に関するもろもろのことを切り離しての、冷静な目での選択──、
それは、どちらも写真(視覚の世界)のことではあって、
音(聴覚の世界)においては、どうなのか、と考えさせられている。
写す、といえば、まず浮ぶのは写真だ。
カメラを構えシャッターを切ることで、写す。
そうやって写したものを現像して印画紙に映す。
それは移すでもある。
この移す段階で、選ぶことが加わる。
シャッターを切って写した数多くのカットから、選ぶ。
「選ぶ」を五年待つ──、
今年(まだ一ヵ月くらいしか経っていないが)聞いた言葉で、
もっとも印象に残る、と言い切れるほどに、考えさせられる。
写真家のマイク野上(野上眞宏)さんから直接きいた、
この《「選ぶ」を五年待つ》は、できる場合とできない場合とがある。
定期刊行物の雑誌では、そんな悠長なことはいってられない。
月刊誌、週刊誌ではそれこそ撮影した現場で、使用するカットを選ぶこともある。
そこでの「選ぶ」には、感情が多分に含まれている。
撮影時のもろもろの感情を忘れ去るのに、時間がかかる。
何かをどこかに移すには、
たとえば空の容器を使う。
空(うつ)であるから、水を運べる(移せる)わけで、
水を掬うことができる。
掬うは救うと無関係ではないと思っていることは、
以前「続々・ちいさな結論」で書いている。
救うにも掬うにも、くう(空)がある。
巣くうもすくう、だ。
とはいっても、巣くうは、掬うと救うとは関係していないようでいて、
どこかしら関係しているような気もする。
心のどこかに巣くうものがある。
それを掬う。
オーディオマニアにとっては、それは音であり音楽であろう。
巣くうものが掬われることで、救われることがあるように思ってしまうのは、
オーディオマニアの性(さが)なのか。