Archive for category 「うつ・」

Date: 10月 30th, 2019
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(映画とテレビ)

テレビが登場したばかりのころを描いたドラマでは、
テレビの箱の中に小さな人がいて、演じていると思っていた、というシーンがあったりする。

笑い話なのだが、
実際にあったことなのだろうか、とも思うことがある。

すでに映画はあったのだから、そんなことを思う人がいるのか、と、
その時代を知らない私などは、そんなふうに思ってしまう。

このことは二年以上前にも書いている。
その時は考えもしなかったことなのだが、
映画はスクリーンに映される。

つまり、当時の人たちは、
映画を連続した写真がスクリーンに映し出されるものとして捉えていたのではないか、
そんなことを考えているし、
そんなふうに考えていると、映画にとって重要というか、
映画っぽさをつくり出している要素の一つとして、コマ数があるようにも思えてくる。

無声映画のころは、16fpsだった。
トーキーになってしばらくして24fpsになっている。
いまも24fpsのままである。

Date: 9月 26th, 2019
Cate: 「うつ・」

偏在と遍在(その2)

録音されたプログラムソースを再生するのをオーディオ機器とすれば、
四十年前のウォークマンの登場以前、さらにはオーディオブーム以前、
日本の各家庭にどれだけオーディオ機器(当時はステレオの方が一般的だった)があったのか。

それは遍在とはいえなかった。
テレビにしてもそうだった時代がある。

テレビが各家庭に一台、
ほぼ必ずあるといえるようになったのは、私が幼かったころより少し前ぐらいか。
それがいつのころからか、各家庭に一台から各個人に一台、という時代になった。

ステレオの普及はテレビよりも遅かった。
各家庭に一台、といえるような時代が来る前に、
ウォークマンが登場したのではないだろうか。

東京や大阪などの大都市ではどうだったか知らないが、
ウォークマンが登場したころ、
私がまだ高校生だったころ、ステレオがない家庭は別に珍しくなかったし、
ある家庭の方が少なかった。

大都市ではそこそこステレオが普及していたのであれば、偏在といえよう。
ウォークマンは、まだそういう段階だった時代に登場した。

いまは、というと、一人一台、スマートフォンを持っている。
一台という人が多いのだろうが、電車に乗っていると、
複数台のスマートフォンをいじっている人を見かけることは、そんなに珍しいことではない。

いまでは、そのスマートフォンが、広義ではオーディオ機器となる。
その1)で、スマートフォンで撮った写真を、
すぐさま公開できるようになった、ということは、
偏在から遍在への、大きな変化だ、とした。

カメラとしてのスマートフォンは、確かにそうだ。
それではオーディオ機器としてのスマートフォンの場合は、どうだろうか。

Date: 9月 26th, 2019
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(BLUE:Tokyo 1968-1972・その4)

今日、といっても、すでに日付が変っているが、
野上さんの写真展、「DISCOVER AMERICA; Summer Of 1965」に行ってきた。
今週末(28日)まで、新井薬師駅近くのスタジオ35分でやっている。

野上さんの写真を見て、そうだ、と思い出したように、続きを書いている。
その3)はほぼ一年前。
また間が飽き過ぎたなぁ、と思いながら、また書き始める。

(その3)の最後に、
野上さんの写真とは対照的に、
ある人の写真に、つよい作為を、
いいかえればナルシシズムを感じた、と書いている。

その時感じたナルシシズムは、被写体となった人たちも、不思議と強く感じられた。
それらの写真に写っている人たちは、プロのモデルではないし、
芸能人や有名人というわけではない。

写真を撮影した人の友人、知人といった人たちである。
もちろん、それらの人たちのことを私はまったく知らない。

それでも、普段、この人たちはナルシシズムを感じさせるような人たちなのか、と思った。
撮影者(写真家と書くべきかと思うが……)がナルシシストであるならば、
結果としての写真からは、撮影者のナルシシズムだけでなく、
被写体もナルシシストとして、ナルシシズムを表に出してしまうのか。

そんなことを思ってしまうほどに、
それらの写真は見ていて、こういって失礼なのはわかっているが、
気持悪さを感じてしまった。

写真がヘタだとか、そういうことではない。
ナルシシズムの相乗効果が、私には堪えられなかった。

Date: 10月 9th, 2018
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(BLUE:Tokyo 1968-1972・その3)

別項「楷書か草書か」で臨書のことを少し書いた。
臨書もまた「うつす」行為である。

書の勉強をしているわけではない。
ただ少しばかり、いまごろになって書の世界に興味を持ち始めたところである。

そしてオーディオの世界との共通するところをつよく感じてもいる。

書の世界には「卒意の書」ということばがある。
書の世界での「卒意」と茶の世界の「卒意」は意味が違うようなのだが、
書の世界の「卒意」の対語は作為である。

辞書には、心のままであること、
特に書では、人に見せるなどの意図を持たず、心のままに、とある。

オーディオマニアならば、いい音を出したい、鳴らしたい、とおもう。
オーディオメーカーの人ならば、
いいアンプを、いいスピーカーシステムを、とおもっていることだろう。

いいアンプとは、いい音のするアンプということであり、
いいスピーカーシステムとは、いい音のするスピーカーシステムということのはずだ。

メーカーによるアンプにしろスピーカーにしろ、
それらは市場で売られていき、メーカーに利益をもたらすモノであるから、
そこでは、いい音であることのアピールもまた必要なのはわかる。

けれど「どうだ、いい音だろう」といわんばかりの音がないわけではない。
あからさまに「どうだ、いい音だろう」といっている音もあれば、
控えめではあっても、自信たっぷりの、暗にそういっている音もあるような気がする。

それに、それらのオーディオ機器は、音づくりということを謳っていたりする。
この音づくりこそ、作為の音へと向うのではないのか。
卒意の音とは反対の方向(違う方向)に行くのではないのか。

その2)で書いている写真、
偶然にも野上さんの「BLUE:Tokyo 1968-1972」と同時期に見ている。

対照的である。
誰の写真なのかは明かさないが、野上さんの写真とは対照的だったから、
その写真だけを見る以上に、つよい作為を、
いいかえればナルシシズムを感じた。

Date: 7月 24th, 2018
Cate: 「うつ・」

偏在と遍在(その1)

偏在と遍在。
どちらも(へんざい)だが、意味は違う。

偏在は偏って存在すること、
遍在は広く行き渡って存在すること、である。

偏と遍、字が表わすとおりだ。
こんなことを書いているのは、
世の中、どちらをみてもスマートフォンを触っている。
私も電車で移動するときは、たいてい触っている。

さすがにトイレの中とか入浴中、それに食事中も触らないけれど、
それでも触っている時間は長い方かもしれない。

スマートフォンといえば、何を連想するかは人によって多少違うだろうが、
カメラ機能は上位に来るはずだ。

携帯電話にカメラがついたころからすれば、
その画質の向上は驚異的といえるだろう。

しかも撮った写真を、そのスマートフォンでレタッチして、
さらにはインターネット(SNS、ブログなどで)で、すぐさま公開まで可能になった。

プロの写真家でも、日常のスナップショットはスマートフォンを使うことが多いようだ。
その理由が、撮ってすぐに公開できるから、らしい。

写真、カメラの歴史をふりかえれば、画質の向上以上に、
撮った瞬間に全世界に公開できる、ということは、
偏在から遍在への、大きな変化といえる。

Date: 6月 3rd, 2018
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(BLUE:Tokyo 1968-1972・その2)

ナルシシズムがかけらもないという人は、ほんとうにいるのだろうか──、
と思っているくらいだから、
「あの人はナルシシストだから」というようなことはいいたくない。

それでも、どうにも我慢できないことはやはりあって、
敬遠してしまう人は、やっぱりいる。

写真撮影を仕事としている人は、ゴマンといる。
人物写真をメインに撮る人も多い。

写真撮影を仕事としているということは、写真を撮ることに関してはプロフェッショナルなわけだ。
写真撮影の技術──、
プロはこうやって撮るんだ、と知ったのは、
ステレオサウンドで、そういう場に立ち合うことになってからだ。
知らなかったとはいえ、こんなにも気を使うのかと驚いた。

プロの写真撮影の技術を、初めて垣間見たわけだ。
そういった写真撮影の技術をしっかりと身につけている人は、プロではある。

写真撮影のプロフェッショナルではある。
でも、その人たちのすべてが、プロフェッショナルの写真家なのか、というと、
そうとは思ってこなかった。

撮影技術はあるのに……、と感じる写真がある。
これまで、そう感じてしまう正体がはっきりと掴めていなかった。

ここにきて、やっと私なりに、その正体の断片が掴めた、と感じている。
BLUE:Tokyo 1968-1972」と、ある写真とが同時期に重なったからである。

「BLUE:Tokyo 1968-1972」に収められている写真(ポートレイト)、
別の人による、ある写真(ポートレイト)、
後者から、とても強いナルシシズムを感じてしまった。

Date: 6月 3rd, 2018
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(BLUE:Tokyo 1968-1972・その1)

「BLUE:Tokyo 1968-1972」。
先日(5月30日)が最終日だった「野上眞宏 写真展」ではなく、
今回の「BLUE:Tokyo 1968-1972」は、野上さんの写真集のことである。
6月1日、OSIRISから発売になった。

リンク先には、鋤田正義、細野晴臣、松本隆、三氏の推薦文がある。
松本隆氏の推薦文の冒頭に、《ぼくらはみんな星だった》とある。

私は、この「星」に反応してしまった。
1999年末、仕事を辞めて2000年5月の終りまで、
ほぼひきこもりに近い状態でaudio sharingを作っていた。

公開したのは2000年8月。
その一ヵ月前に中島みゆきの「地上の星」(CDシングル)が出て、
11月に「地上の星」が収録されているアルバム「短篇集」が出た。

それまで「地上の星」は聴いたことがなかった。
テレビをもっていれば、「地上の星」、「ヘッドライト・テールライト」が、
NHKの「プロジェクトX」で使われていた、そこで耳にしていただろうが、それはなかった。

「短篇集」で初めて聴いた。
それから何度くり返し聴いただろうか。
聴くたびに「星」、それも「地上の星」の意味するところをおもった。

受け止め方は、人それぞれだろう。
「地上の星」があれば、空に輝く星もある。

audio sharingでの作業は、私にとっての「地上の星」を照らすことだったんだなぁ、
と中島みゆきの「地上の星」を聴くたびに思っていた。
それは「うつ・す」作業でもあったなぁ、といまは思う。

そんなことは、読む人にとってはどうでもいいこであって、
野上さんの写真集「BLUE:Tokyo 1968-1972」を見て思ったのは、
プロの写真家の「うつ・す」ことについて、である。

写真家としてプロフェッショナルであるか、そうでないかの違いを、
はっきりと感じさせることのひとつに気づいた。

Date: 4月 26th, 2018
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その12)

デザイナーの亀倉雄策氏が、そういえば、同じことをいわれている。
     *
私はなぜ撮影に立ち合わないか。理由は簡単だ。立ち合うとその場の苦心が理解され過ぎて、選択の冷酷な目が失われるからである。この冷徹な透視力があってこそ、最後の一撃ができるのである。
     *
その11)での写真家のマイク野上(野上眞宏)さんと同じことである。

亀倉雄策氏の場合、撮影する者と選択する者の二人がいるから、
撮影に立ち合わないことで、選択が可能になる。

野上さんの場合は、撮影するのも選択するのも同じ人、野上さんである。
だから、そこには五年の月日が必要になる。

野上さんは「冷酷な目」という表現は使われなかったが、
撮影時に関するもろもろのことを切り離しての、冷静な目での選択──、
それは、どちらも写真(視覚の世界)のことではあって、
音(聴覚の世界)においては、どうなのか、と考えさせられている。

Date: 2月 5th, 2018
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その11)

写す、といえば、まず浮ぶのは写真だ。
カメラを構えシャッターを切ることで、写す。

そうやって写したものを現像して印画紙に映す。
それは移すでもある。

この移す段階で、選ぶことが加わる。
シャッターを切って写した数多くのカットから、選ぶ。

「選ぶ」を五年待つ──、
今年(まだ一ヵ月くらいしか経っていないが)聞いた言葉で、
もっとも印象に残る、と言い切れるほどに、考えさせられる。

写真家のマイク野上(野上眞宏)さんから直接きいた、
この《「選ぶ」を五年待つ》は、できる場合とできない場合とがある。

定期刊行物の雑誌では、そんな悠長なことはいってられない。
月刊誌、週刊誌ではそれこそ撮影した現場で、使用するカットを選ぶこともある。

そこでの「選ぶ」には、感情が多分に含まれている。
撮影時のもろもろの感情を忘れ去るのに、時間がかかる。

Date: 6月 3rd, 2017
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その10)

何かをどこかに移すには、
たとえば空の容器を使う。

空(うつ)であるから、水を運べる(移せる)わけで、
水を掬うことができる。

掬うは救うと無関係ではないと思っていることは、
以前「続々・ちいさな結論」で書いている。

救うにも掬うにも、くう(空)がある。

巣くうもすくう、だ。
とはいっても、巣くうは、掬うと救うとは関係していないようでいて、
どこかしら関係しているような気もする。

心のどこかに巣くうものがある。
それを掬う。

オーディオマニアにとっては、それは音であり音楽であろう。
巣くうものが掬われることで、救われることがあるように思ってしまうのは、
オーディオマニアの性(さが)なのか。

Date: 8月 18th, 2016
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その9)

骨壺。
いうまでもなく、火葬にした遺骨をまとめておく壺のことである。

骨壺を分けると骨と壺。

骨(コツ)には、物事をする場合のかんどころ。呼吸。要領。
それから芸道の奥義。また、それを会得する才能。
そういった意味もある。

壺(ツボ)には、灸をすえ、また鍼を打って効果のある人体の定まった個所。経穴。
物事の大事な点。急所。肝要な所。
見込むところ。
三味線や琴の勘所。
そういった意味もある。

これらの意味で使うときは、コツ、ツボと書くことが多いが、骨、壺である。
なぜ灸をすえ鍼をうつ個所がツボなのか、
物事の大事な点がツボなのか

ツボ(壺)は容器である。容器として空(カラ)でなければならない。
体のツボは、ならば空なのか。
物事の大事な点も、三味線、琴の勘所も空なのだろうか。

空だからこそ、そこに音が響く(共鳴する)のか。
骨壺もそうなのだろうか。

Date: 7月 29th, 2016
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その8)

《大切な想い出を音で記憶できる幸せがオーディオ愛好家にはある》

ステレオサウンド 61号の編集後記に、そうある。
原田勲氏の編集後記からの引用だ。
そう61号の編集後記である。

原田勲氏と瀬川先生は同じ年のはずだ。
私はまだ18だった。
《大切な想い出を音で記憶できる幸せがオーディオ愛好家にはある》
といえるだけの経験はないまま、読んでいた。

40をすぎたころから、
《大切な想い出を音で記憶できる幸せがオーディオ愛好家にはある》に首肯けるようになった。

大切な想い出を音で記憶できる、ということは、
音に何かを反映するということなのか。
映しているのから、時間の中を移すことができるのか。

それとも内包しているのか。
内(うち)の古形は[うつ]で、[空(うつ)]の意なのだから、
音は空(うつ)だから、大切な想い出(憶い出)を時間を経ても移せるのか。

Date: 5月 4th, 2016
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その7)

内(うち)の古形は[うつ]で、[空(うつ)]の意である。
──物の本にはそうある。

研ぐために必要な水をどう持ってくるのか。
なにか器がなければ、水を必要とする場所まで持ってこれない。

器は空でなければ、水を運ぶ道具として機能しない。
空(うつ)であるから、水を運べる(移せる)。

Date: 12月 27th, 2015
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その6)

その人がおかれている環境や諸事情を境遇という。
境涯ともいう。

境涯の「涯」は生涯にもついている。
涯という漢字は、切り立った崖のことである。それも水辺の崖である。

ここに水がある。
研ぐために必要な水がある。

Date: 12月 17th, 2015
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その5)

水もまた鏡の役目を果たす。
澄んだ水であれば、波立たない静かな水は、鏡のようである。-

水は映す。
水は、時として物や人を移しもする。
大量の水が流れれば、その流れは何かを移す。
水は移ろいゆく。

そして洗い流す。
なにもかも洗い流すことがある。
汚れも流れとともにもっていく。

洗練──、洗煉とも洗錬とも書く。
「れん」の漢字は違っても、「せん」は洗のみである。

洗練は、磨きに磨きぬかれていなければならない。
磨かれたモノもまた、何かを映すようになる。

そのために研いでいく(磨いていく)。
研ぐには水が必要である。