Date: 10月 9th, 2018
Cate: 「うつ・」
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うつ・し、うつ・す(BLUE:Tokyo 1968-1972・その3)

別項「楷書か草書か」で臨書のことを少し書いた。
臨書もまた「うつす」行為である。

書の勉強をしているわけではない。
ただ少しばかり、いまごろになって書の世界に興味を持ち始めたところである。

そしてオーディオの世界との共通するところをつよく感じてもいる。

書の世界には「卒意の書」ということばがある。
書の世界での「卒意」と茶の世界の「卒意」は意味が違うようなのだが、
書の世界の「卒意」の対語は作為である。

辞書には、心のままであること、
特に書では、人に見せるなどの意図を持たず、心のままに、とある。

オーディオマニアならば、いい音を出したい、鳴らしたい、とおもう。
オーディオメーカーの人ならば、
いいアンプを、いいスピーカーシステムを、とおもっていることだろう。

いいアンプとは、いい音のするアンプということであり、
いいスピーカーシステムとは、いい音のするスピーカーシステムということのはずだ。

メーカーによるアンプにしろスピーカーにしろ、
それらは市場で売られていき、メーカーに利益をもたらすモノであるから、
そこでは、いい音であることのアピールもまた必要なのはわかる。

けれど「どうだ、いい音だろう」といわんばかりの音がないわけではない。
あからさまに「どうだ、いい音だろう」といっている音もあれば、
控えめではあっても、自信たっぷりの、暗にそういっている音もあるような気がする。

それに、それらのオーディオ機器は、音づくりということを謳っていたりする。
この音づくりこそ、作為の音へと向うのではないのか。
卒意の音とは反対の方向(違う方向)に行くのではないのか。

その2)で書いている写真、
偶然にも野上さんの「BLUE:Tokyo 1968-1972」と同時期に見ている。

対照的である。
誰の写真なのかは明かさないが、野上さんの写真とは対照的だったから、
その写真だけを見る以上に、つよい作為を、
いいかえればナルシシズムを感じた。

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