ミュジコフィリア
10月のaudio wednesdayのテーマ、
「現代音楽をBOSE 901で聴く」は、12月に延期なのだが、
現代音楽について考えるうえでも、
現代音楽について関心はあるけれども……、
という人は、12月まだに「ミュジコフィリア」を読んでもらいたい。
「ミュジコフィリア」は、さそうあきら氏の作品。
二年前に映画が公開されている。
Kindle Unlimitedで全巻読める。
10月のaudio wednesdayのテーマ、
「現代音楽をBOSE 901で聴く」は、12月に延期なのだが、
現代音楽について考えるうえでも、
現代音楽について関心はあるけれども……、
という人は、12月まだに「ミュジコフィリア」を読んでもらいたい。
「ミュジコフィリア」は、さそうあきら氏の作品。
二年前に映画が公開されている。
Kindle Unlimitedで全巻読める。
未完のままの「ルードウィヒ・B」の主人公はベートーヴェンなのだから、
「ルードウィヒ・B」の最終回はベートーヴェンの死が描かれたはずなのは、
「ルードウィヒ・B」を読んできた者ならば、誰でも想像できることだ。
手塚治虫が生きていて「ルードウィヒ・B」が描かれ続けられていたら──、
そんなことを想像すると、ベートーヴェンの死後以降も、描かれたようにおもってしまう。
ベートーヴェンの死後、その音楽がどう聴かれ、どう演奏されていくのか。
そこが描かれたはずだし、そこを読みたかった。
(その4)で、マンガ「リバーエンド・カフェ」について書いた。
1月3日の時点では、全九巻中四巻までがKindle Unlimitedが読むことができていた。
昨晩、ふと見たら九巻までKindle Unlimitedで読めるようになっている。
いつからそうなったのかはわからない。
昨日からなのか、もう少し前からだったのか。
「リバーエンド・カフェ」は2010年3月11日から始まる物語だ。
だからなのかもしれない。
「リバーエンド・カフェ」の、あのシーンで思い出したことは、まだある。
井上先生が書かれていたことだ。
ステレオサウンド別冊「JBLのすべて」に、
各筆者による「私とJBL」が載っている。
井上先生は、こんなことを書かれている。
*
奇しくもJBLのC34を聴いたのは、飛行館スタジオに近い当時のコロムビア・大蔵スタジオのモニタールームである。作曲家の古賀先生を拝見したのも記憶に新しいが、そのときの録音は、もっとも嫌いな歌謡曲、それも島倉千代子であった。しかしマイクを通しJBLから聴かれた音は、得も言われぬ見事なもので、嫌いな歌手の声が天の声にも増して素晴らしかったことに驚嘆したのである。
*
こんなことを思い出すのは、マンガの読み方として邪道なのかもしれない。
それでも、やはり思い出してしまうし、
思い出すからこそ、気づくことがあるものだ。
「オーディオのロマン(ふとおもったこと)」は、2018年4月に書いている。
そこに、こんなことを書いている。
JBLで音楽を聴いている人は、ロマンティストなんだ、と。
もちろんJBLで聴いている人すべてがそうだとはいわないし、
現在のJBLのラインナップのすべてを、ここに含める気もさらさらないが、
私がJBLときいてイメージするスピーカーシステムで聴いている人は、
やはりロマンティストだ。
このことを思い出していた。
こんなことを書くと、4343もそうなのか、という声があるはずだ。
マンガ「リバーエンド・カフェ」に登場するのは、実質的にJBLの4343である。
スタジオモニターとしての4343、
つまり検聴用である4343。
その音に、なぜロマンがあるのか、もしくは感じるのか。
録音という仕事用につくられたスピーカーシステムだろ、
その音にロマンがあるはずがない。
そういわれれば、そうである。
私も、そう思わないわけではない。
それでも、JBLで音楽を聴いている人は、ロマンティストであるというし、
そういうスピーカーだからこそ、
「リバーエンド・カフェ」のあのシーンには、4343がよく似合う。
「リバーエンド・カフェ」というマンガがある。
全九巻中四巻までが、いまのところKindle Unlimitedで読める。
昨晩遅くに気づいて読んでいた。
大震災あとの宮城県石巻が舞台であり、
ひどいいじめにあっている女子高生が主人公で、
彼女が偶然見つけた一風変った喫茶店を中心に物語は進んでいく。
この喫茶店、ジャズ喫茶とは謳っていないけれど、描かれ方はジャズ喫茶である。
主人公の女子高生は、ここでベッシー・スミスの歌と出逢う。
喫茶店に置かれているスピーカーはJBLの4344Mであり、
ただし「リバーエンド・カフェ」を読んだ方はすぐに気づかれるだろうが、
作品で描かれているのは4344Mではなく、4343である。
アンプはマッキントッシュのプリメインアンプだ。
ベッシー・スミスがどういう歌い手か知らない読み手であっても、
なんとなくどういう歌い手なのかは、その描写が伝えてくれる。
同時に、こういうシーンでのスピーカーは、やはりアメリカのホーン型だな、と納得する。
いまどきのハイエンドスピーカーがそこに描かれていたら、どうだろうか。
日本の598のスピーカーだったら、どうだろうか。
イギリスのBBCモニター系列だったら──、タンノイだったら──、
あれこれイメージしてみるといい。
結局、最後にはJBLかアルテックかになるはずだ。
(その11)を書いて三ヵ月ほど経ったころ、あるマンガを読んだ。
読切のマンガだった。
終り数ページになったところで、突然に、頭の中に音楽が響いてきた。
薬師丸ひろ子の歌(どの歌なのかは書かない)が、鳴ってきた。
時間にすれば、ほんの数秒であっても、
その、ほんの数秒のあいだに、薬師丸ひろ子の歌のサビの部分はしっかりと聴いた──、
そう思わせる鳴り方だった。
こういう経験は、ながく音楽を聴いてきた人ならばある、と思う。
ふとした瞬間に、音楽が頭の中に鳴り響く。
ごく短い時間なのに、一曲聴いたと思える鳴り方をする。
薬師丸ひろ子の歌が、そうやってきこえてきたときも、そうだった。
同時に、感情が昂ぶって涙がこぼれそうになった。
そのマンガから、音楽がきこえてきた──、
そうなのか、違うのか、いまのところなんともいえない。
ただ、薬師丸ひろ子の歌が頭のなかで鳴り響いたのは確かなことで、
そのことによって、読んでいたマンガのクライマックスが、
ぐっと胸に響いてきたのも事実である。
このマンガの作者が、描いているときに音楽を思い浮べていたのかどうかは、わからない。
その作者に問いたい、とも思わない。
読んでいて、薬師丸ひろ子の歌が頭のなかで鳴り響いた、ということだけが、
私にとっては大切なことであり、
他の人にとって、どうでもいいことであろうが、同意も得られなくとも、
そんなこととは関係ないところで、私は音楽を聴いていくだけだし、
読んでいくだけだ。
「美味しんぼ」というマンガがあった。
マンガにあまり関心のない人でも、かなりヒットしたマンガだけに、
どこかで目にしてたり、読んだことはなくても、
「美味しんぼ」というマンガがあったということは知っていよう。
「美味しんぼ」にも、ジャズ喫茶が登場する回がある。
「SALT PEANUTS」という回がそうだ。
地下にあるジャズ喫茶で、スピーカーはJBLの4350。
Aではなく、ウーファーのコーン紙が白い4350である。
注目したいのは、ジャズ喫茶の描写ではなく、
セリフに「レコード演奏」が出てくることだ。
「美味しんぼ」は1983年から連載がスタート。
「SALT PEANUTS」の回は1986年ぐらいだ。
菅野先生が「レコード演奏家論」をステレオサウンドに発表されるよりも、
かなり前である。
レコード演奏という表現は、「美味しんぼ」が最初ではない。
菅野先生も瀬川先生も、レコード演奏、レコードを演奏する、という表現を、
1970年代から使われていた。
とはいえ、オーディオ雑誌ではないところで、「レコード演奏」が登場したのは、
おそらく「美味しんぼ」が最初ではないだろうか。
二ヵ月ほど前、ある繁華街にいた。
私の前を、あるカップルが歩いていた。
20代なかばごろのように見えた二人だった。
男のほうが、あるビルを指さして、
「ここ、けっこう有名なジャズ喫茶なんだ」と相手の女性に話しかけた。
「じゃ、話せないんだ」と女性。
それでジャズ喫茶に関する会話は終っていた。
男性は、そのジャズ喫茶に彼女と二人、入ってみたかったのかもしれない。
そんな感じにみえた。
けれど、女性の一言で、あっさり却下された。
ジャズ喫茶では黙って、音楽(ジャズ)を聴いていなければならない、
そういう認識が一般的なのだろうか。
そうだから「じゃ、話せないんだ」で、ジャズ喫茶に関する会話は終ったわけだ。
この若い二人のジャズ喫茶への認識は、どこからの影響なのだろうか。
何によってつくられたものなのだろうか。
そういうジャズ喫茶があるのは事実だが、
そうではないジャズ喫茶も、東京にはある。
すべてのマンガがそうだとはいわないが、
マンガのなかには、バックグラウンドに音楽が流れているように感じる作品がある。
いまの時代、マンガの数はとにかく多い。
マンガ雑誌だけでなくウェブでも公開の場が広がったことにより、
いったいどれだけのマンガがあるのかは、もうわからない。
なので音楽を感じさせる、
音楽が通底しているとなんとなく感じられるマンガが、
全体のどの程度の割合なのかも私にはわからない。
それでも描き手が意識しているのかどうかすらも私にはわからないが、
音楽が流れていると感じるマンガが昔からあるのだけは確かにいえる。
ただ、そのマンガにしても、すべての人がそう感じるかといえば、これもまたなんともいえない。
コマとコマとをつないでいくのが、音のない音楽のようにも感じる。
そういえば、萩尾望都が、こう語っている。
*
漫画は、読み進めている内は思考するところは働いていなくて、じゃあ何が動いているんだっていったら、音楽を聴くような情動系がずーっと働いている感じがします。
(「萩尾望都 少女マンガ界の偉大なる母」より)
*
世の中には、マンガを頭から否定する人がいる。
音楽好きを自称している人であってもだ。
それはそれでいい。
おそらく、そういう人は、マンガから音楽、
それがなにかの音楽なのかは、ほとんどの場合、わからないけれど、
確かに感じるものが流れていることをまったく感じとれないのであろう。
念のため書いておくが、
だからといってマンガから音楽を感じとれるかどうかが、
音楽の聴き手としてどうかということではない。
ヘッドフォン祭で、ある出展社の方から、
5月に大英博物館で赤塚不二夫の展示が開催される、ということを聞いた。
検索してみると、大英博物館で5月23日から8月26日にかけて、
The Citi exhibition Mangaが開催される。
日本のマンガの展覧会であり、赤塚不二夫だけではなく、
約50名のマンガ家、
約70タイトルによる総計約240点の原画および複製原画、
描き下ろし作品などが6つのゾーンに分けて展示される、とのこと。
詳細はコミックナタリーの記事をお読みいただきたい。
知人に、絶対にマンガを読まない男がいる。
音楽は、どんなジャンルでもボクは聴きます、といっている。
クラシックも聴けば、ジャズも聴くし、ロック・ポップスも聴く、というわけだ。
でも知人は演歌もそうだが、絶対に聴かないジャンルの音楽がある。
別にそれはそれでいい。
私だって聴かない音楽、関心のない音楽はけっこうある。
でも、知人は、どんなジャンルでも聴く、と普段から言っている。
そんなこと言わなければいいのに……、と思うけれど、
如何にも彼は「私は理解ある人物です」といいたげである。
そういう男だから、知人はマンガを読まない。
低俗だ、と頭からバカにしているところがある。
いくつかのマンガを薦めた(本を貸した)ことがあるが、手にとろうともしなかった。
その男は権威が好きである。
権威が好きなのは、それはそれでいい。
その男は、今回の大英博物館でのThe Citi exhibition Mangaのニュースを知ったら、
どんな反応をするだろうか。
ころっと手のひらを返して、マンガは素晴らしい、とか言ったりするようになるのか。
私は、ずっと以前、その男のそういう態度を、手のひら音頭ですね、と茶化したことがある。
手のひら音頭男である。
そういうところは、その男の本性のようだから、生涯変らないだろう。
手のひら音頭男とのつきあい、九年前に終った。
手のひら音頭男は、The Citi exhibition Manga開催を知っても、
ふーん、というぐらいの反応しかしないはずだ。
それでいい、とおもうようになった。
The Citi exhibition Mangaによって、手のひら音頭男がマンガに関心をもつようになるほうが、
私には気持悪く感じるからだ。
よしてくれ、といいたくなるに決っている。
大英博物館でThe Citi exhibition Mangaが開催されるからといって、
マンガが権威付けされるとは思っていない。
手のひら音頭男だけでなく、
今回のことでマンガが権威付けされると受けとる人はいるだろう。
オーディオだって、いまだに毎年暮には各オーディオ雑誌の特集は「賞」である。
手のひら音頭男は、私に以前、
オーディオ雑誌を創刊しましょう、といってきた。
手のひら音頭男は、創刊したばかりの号で、賞をやりましょう、と力説した。
創刊したばかりのオーディオ雑誌が賞をやって、どうする?
何の意味がある? と私は反対した。
創刊の話は流れた。
創刊できたとしても、手のひら音頭男とは一緒に仕事はできなくなっていたことだろう。
マンガは、そんな権威から無縁であってほしい。
30年前の2月9日。
手塚治虫が亡くなった日。
私には、1989年1月7日よりも、昭和が終ったと感じた日であった。
そう感じた人は少なくないようである。
30年経つ。
あと三ヵ月たらずで平成も終る。
手塚治虫は自身のマンガについて、こう語っている。
*
僕のマンガというのは教科書なんですよ。教科書というのは、読んでワクワクするほど面白いもんじゃないし、面白すぎても困るわけ。若い連中がそれに肉付けして、素晴らしい作品を作ってくれることが望ましい。
*
小学生のころ、手塚治虫のマンガと出逢った。
ブラック・ジャックとも出逢った。
手塚治虫はすごい、と小学生ながら思っていた。
それでも、当時のマンガのいくつかが、手塚治虫のマンガよりも面白く感じられた。
そのことが癪だった。
手塚治虫のマンガより、それらのマンガのほうが人気があるのが癪だったわけではない。
私自身が、手塚治虫のマンガよりも、それらのマンガを面白く感じたことが癪だった。
スマートフォンが普及して、スマートフォンでマンガを読めるようになった。
手塚治虫のマンガも読める時代である。
少年チャンピオンに連載されていたブラック・ジャックは毎週買って読んでいた。
単行本も買って読んでいた。
四十年ほど経って、いまもブラック・ジャックを読んでいる。
ここにきて、手塚治虫のマンガが教科書という意味がわかる。
同時に、ブラック・ジャックというマンガのすごさがわかる。
手塚治虫のすごさがわかる。
手塚治虫の「人間昆虫記」の浮塵化の章(1)の冒頭。
黒人ミュージシャンの演奏シーンで始まる。
それを独り聴いている蟻川というアナーキスト。
「人間昆虫記」を読んだのは高校生だったか。
この時は気づかなかったが、このシーンは、ジャズ喫茶を描いている。
レコードやスピーカーが描かれているわけではないが、
確かにジャズ喫茶である。1970年ごろのジャズ喫茶なのだろう。
気づいたのはハタチすぎて、もう一度「人間昆虫記」を読んだときだった。
先週末、Aさんのお宅に集まっての飲み会だった。
15時半ごろから私は参加して、その後場所をうつして、23時ごろまで、
オーディオ好きの人たちと飲んでいた。
一応名目は試聴会だったようだが、音を聴いている時間よりも話しているほうが長い。
いろんな話が出たわけだが、Aさんが、
「最初に見た女性の裸は?」とみんなにきいてきた。
彼は子供のころドイツに住んでいたので、
ドイツ人の友だちが持ってきたスキンマグに載っていた写真だった、とのこと。
いわれてみると、私の場合は……、と思い巡らしていたところ、
Kさんが「永井豪のマンガだった」といわれた。
そうだ、そうだ、と思い出した。
私は、手塚治虫のマンガだった。
永井豪のマンガは、私も読んでいた。
デビルマンや魔王ダンテなどを、小学生のころは読んでいた。
そこにも女性の裸は登場する。
手塚治虫のマンガにも登場する。
そのころの少年マンガに登場する女性の裸は、
いまの緻密な描写のマンガのように、こまかなところまで描かれていたわけではない。
たいてい乳首は省略されていた。
そんなふうに描かれていた当時の女性の裸と、
海外のスキンマグに載っている女性の裸の写真とでは、
小学生のころに受ける印象は、そうとうに違うことは想像できても、
実際にはどのくらい、どんなふうに違ってくるのか──。
そのあたりについて考えていくのはおもしろそうだが、
私の場合、こういうところでも手塚治虫の影響を受けていたのかと、
改めて感じていた。
手塚治虫による「雨のコンダクター」、
つまり手塚治虫によって描かれたバーンスタインは、音楽を演る男のかっこよさをがあった。
バーンスタインは指揮者であり、作曲家でもあり、またピアニストでもある。
音楽家として才能に恵まれ、自信に満ちていたかのように思われた……。
河出書房新社の「フルトヴェングラー 最大最高の指揮者」に、
作曲家・伊東乾氏による「作曲家フルトヴェングラー」についての文章がある。
バーンスタインの話から始まる。
*
生前のレナード・バーンスタイン(1918-1990)と初めて会ったときの事だ。たまたま学生として参加していた彼の音楽祭で、当時僕がスタッフをしていた武満徹監修の雑誌の企画で「作曲家としてのバーンスタイン」に話を聴くことになった。
ところが、話が始まって20分位だったか、マエストロ・レニーは突然、何か感極まったような表情になってしまった。
思いつめたような声で、半ば涙すら浮かべながら
「コープランドには第三交響曲がある。アイヴズには第四交響曲がある。でも自分には何もない」
と訴え始めたのだ。大変に驚いた。
反射的に彼の『ウエストサイド・ストーリー』(『シンフォニック・ダンス』)の名を挙げてみたのだが
「ああ、あんなものは……」
と更に意気消沈してしまった。確かに「シンフォニック・ダンス」はよく知られた作品だが、実はオーケストレーションも他の人間が担当しており、ミュージカル映画の付帯音楽に過ぎないのは否めない。
「誰も僕を、作曲家としてなんか認めていない……」
「いいえ、あなたが一九八五年、原爆40年平和祈念コンサートで演奏された第三交響曲『カディッシュ』は素晴らしかっただから今、僕たちはここに来て、作曲家としてのあなたにお話を伺っているのです。
自分の信じる通りを誠実に話して、どうにか気持ちを立て直して貰った。
*
意外だった、驚きだった。
「自分には何もない」、
「ああ、あんなものは……」、
「誰も僕を、作曲家としてなんか認めていない……」、
こんなことがバーンスタインから語られていたとは知らなかった。
そういえばグルダが、
バーンスタインはジャズがまったくわかっていない、批判していたのは知っていたけれど、
それでも大きな驚きだ。
とはいえ、指揮者バーンスタインが残したものの聴き方が、このことを知って変るかといえば、
まったく変らないであろう。
ただ「雨のコンダクター」の読み方は、多少変るかもしれない。
バーンスタインに、こんなコンプレックスがあったことを手塚治虫が知っていたのかどうかはわからない。
手塚治虫が、そういうものを感じとっていたのかどうかもわからない。
それでも知った後と知る前とでは何かが変っていくはずだ。