Archive for category 「ルードウィヒ・B」

Date: 2月 16th, 2026
Cate: 「ルードウィヒ・B」

春くらり(その2)

ステレオサウンド 49号で黒田先生は《「サンチェスの子供たち」を愛す》で、こう書かれていた。
     *
 なにかというとそのレコードをきく。今日はたのしいことがあったからといってはきき、なんとなくむしゃくしゃするからといってはきき、久しぶりに友人がたずねてきてくれたからといってはきき、つまりしじゅう、のべつまくなしにきくレコードがある。そういうレコードは棚にしまったりしないで、いつでもすぐかけられるように、そばにたてかけておく。そうなるともう、そのレコードにおさめられている音楽を、音楽としてきいているのかどうか、さだかでない。
 もしかすると、ききてとして、多少気持のわるいいい方になるが、そのレコードできける音楽に恋をしてしまっているのかもしれない。さしずめコイワズライ、熱病のような状態だ。若い恋人たちが、さしたる用事があるわけでもないのに、愛する人に会おうとするのに、似ている。きいていれば、それだけで仕合せになれる。
     *
黒田先生にとって1978年後半の、
そういうレコードがチャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」だった。

私にとって2026年の、そういうマンガが「春くらり」になる。
のべつまくなしに読んでいる、といえるほど読んでいる。

その「春くらり」が、3月2日公開の23話で最終回となる。
登場人物が少しずつ増えてきていたから、まだまだ続くものと思っていたけれど、そんな予感もあった。

一巻と二巻は発売日に買っている。iPhoneで読めるのだから買うこともないと考える人もいるだろうが、
長く連載が続いてほしいと思っているので、買っている。

「春くらり」を読んでいる人がどのくらいいるのかはわからない。そう多くはないのだろう。今回の最終回の発表は、打切りに近いのかも……と思う。

読み始めた時から、意外と連載は短いかも、という予感があった。根拠があったわけではないが、長いこと読んでいれば、なんとなくそう感じることがあるし、予感が当ることもある。

当ってほしくないときに当る。

黒田先生にとって「サンチェスの子供たち」は、あの頃頻繁に聴くレコードではあっても愛聴盤ではなかったはずだ。

「春くらり」の早い連終了は残念だし悲しいけれど、「春くらり」は愛読書といえるだろか。

《若い恋人たちが、さしたる用事があるわけでもないのに、愛する人に会おうとするのに、似ている。きいていれば、それだけで仕合せになれる。》
と黒田先先生は書かれている。
「春くらり」は、そういう位置にいる。

私も「サンチェスの子供たち」は手に入れてからしばらくは頻繁に聴いていた。なのにパタッと聴かなくなった。
「春くらり」も、そうなるのかもしれない。たぶんなると思う。

でも二十年以上経って、「サンチェスの子供たち」をまた聴くようになった。以前のような聴き方(頻繁さ)ではないが、ふと聴きたくなる時がある。

「春くらり」もそうなるのかもしれない。十年後か二十年後くらいにふと思い出して、また読む。
その時、どうおもいながら読むのだろうか。

Date: 2月 8th, 2026
Cate: 「ルードウィヒ・B」

春くらり(その1)

明日(2月9日)は、マンガ「春くらり」二巻の発売日

去年から始まった「春くらり」。最初は興味を持てず、読んでいなかった。スマートフォンでマンガをよんていると、第一話を読むようにおせっかいをしてくる。

とりあえず読んでみるかー、ぐらいだった。読んで、しばらく無視していてよかった、と思った。
続きが何話分まとめて読めたからだ。

12月9日に一巻が出た。買って帰って、読み返した。
スマートフォンでも読み返している、単行本でも読み返している。

「春くらり」には、いまのところ、ゲスな人物は登場してこない。これから先もそうだろう。

2月4日のaudio Wednesdayでは、オーディオ業界にいるある人のことが話題になった。関わりにならないのが賢明、皆の一致した意見となった。

そんな人は「春くらり」には出てこないから、安心して読める──、その程度の理由で、ここで取り上げているわけではない。

なにげない日常が、きらきらしている。ぎらつくほどきらきらしているわけではない。
キラキラとカタカナで書くのではなく、平仮名のきらきらだ。

「春くらり」を読んでいると、こういう世界観を感じさせる音を鳴らせるだろうか、とも思ってしまう。

Date: 2月 8th, 2026
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(1989年2月9日・その2)

マンガから音は出てこない。
マンガの神様と言われた手塚治虫のマンガであっても、その作品が載った誌面から音が出てくることはない。

明日(2月9日)は、手塚治虫の命日。三十七年、四十年近い月日が流れ、マンガにおける音楽の描写は進歩してきていると感じている。

全てのマンガにおいてではないが、いくつかのマンガのシーンで、そう感じることが、ここ五年ほどの間に何度かあった。

そういうシーンでは、絵だけだったりすることが割とある。登場人物のセリフがない。

絵があるから、音が鳴っているような感覚になるのだろう。

オーディオ評論は、それが載っている誌面から音が聴こえてくるわけではない。
マンガには絵がある、オーディオ評論には言葉しかない。

だから無理なことと、最初から諦めていていいのだろうか。

Date: 6月 9th, 2025
Cate: 「ルードウィヒ・B」

絵師ムネチカ

6月12日に、さそうあきら氏の「絵師ムネチカ」が発売される。
第一巻と二巻、同時発売だ。

「絵師ムネチカ」は、webアクションで連載中で、私はそれを読んでいる。とはいえ毎回欠かさずというわけではないので、
今回の単行本の発売は待ち遠しく感じている。

「絵師ムネチカ」を読んでいて、さそうあきら氏の作品の主人公は、
どこかパルジファル的だ、と確信するようになった。

以前から何となく感じていたことだったが、「絵師ムネチカ」でも、そう感じた。

8月6日のaudio wednesdayでは、さそうあきら氏にDJをお願いしている。

Date: 10月 11th, 2024
Cate: 「ルードウィヒ・B」

ミュジコフィリア

10月のaudio wednesdayのテーマ、
「現代音楽をBOSE 901で聴く」は、12月に延期なのだが、
現代音楽について考えるうえでも、
現代音楽について関心はあるけれども……、
という人は、12月までに「ミュジコフィリア」を読んでもらいたい。

「ミュジコフィリア」は、さそうあきら氏の作品。
二年前に映画が公開されている。

Kindle Unlimitedで全巻読める。

Date: 1月 28th, 2023
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(その13)

未完のままの「ルードウィヒ・B」の主人公はベートーヴェンなのだから、
「ルードウィヒ・B」の最終回はベートーヴェンの死が描かれたはずなのは、
「ルードウィヒ・B」を読んできた者ならば、誰でも想像できることだ。

手塚治虫が生きていて「ルードウィヒ・B」が描かれ続けられていたら──、
そんなことを想像すると、ベートーヴェンの死後以降も、描かれたようにおもってしまう。

ベートーヴェンの死後、その音楽がどう聴かれ、どう演奏されていくのか。
そこが描かれたはずだし、そこを読みたかった。

Date: 3月 12th, 2022
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(ジャズ喫茶の描写・その7)

その4)で、マンガ「リバーエンド・カフェ」について書いた。
1月3日の時点では、全九巻中四巻までがKindle Unlimitedが読むことができていた。

昨晩、ふと見たら九巻までKindle Unlimitedで読めるようになっている。
いつからそうなったのかはわからない。
昨日からなのか、もう少し前からだったのか。

「リバーエンド・カフェ」は2010年3月11日から始まる物語だ。
だからなのかもしれない。

Date: 1月 16th, 2022
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(ジャズ喫茶の描写・その6)

「リバーエンド・カフェ」の、あのシーンで思い出したことは、まだある。
井上先生が書かれていたことだ。

ステレオサウンド別冊「JBLのすべて」に、
各筆者による「私とJBL」が載っている。

井上先生は、こんなことを書かれている。
     *
 奇しくもJBLのC34を聴いたのは、飛行館スタジオに近い当時のコロムビア・大蔵スタジオのモニタールームである。作曲家の古賀先生を拝見したのも記憶に新しいが、そのときの録音は、もっとも嫌いな歌謡曲、それも島倉千代子であった。しかしマイクを通しJBLから聴かれた音は、得も言われぬ見事なもので、嫌いな歌手の声が天の声にも増して素晴らしかったことに驚嘆したのである。
     *
こんなことを思い出すのは、マンガの読み方として邪道なのかもしれない。
それでも、やはり思い出してしまうし、
思い出すからこそ、気づくことがあるものだ。

Date: 1月 16th, 2022
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(ジャズ喫茶の描写・その5)

オーディオのロマン(ふとおもったこと)」は、2018年4月に書いている。

そこに、こんなことを書いている。

JBLで音楽を聴いている人は、ロマンティストなんだ、と。
もちろんJBLで聴いている人すべてがそうだとはいわないし、
現在のJBLのラインナップのすべてを、ここに含める気もさらさらないが、
私がJBLときいてイメージするスピーカーシステムで聴いている人は、
やはりロマンティストだ。

このことを思い出していた。
こんなことを書くと、4343もそうなのか、という声があるはずだ。

マンガ「リバーエンド・カフェ」に登場するのは、実質的にJBLの4343である。
スタジオモニターとしての4343、
つまり検聴用である4343。

その音に、なぜロマンがあるのか、もしくは感じるのか。

録音という仕事用につくられたスピーカーシステムだろ、
その音にロマンがあるはずがない。

そういわれれば、そうである。
私も、そう思わないわけではない。

それでも、JBLで音楽を聴いている人は、ロマンティストであるというし、
そういうスピーカーだからこそ、
「リバーエンド・カフェ」のあのシーンには、4343がよく似合う。

Date: 1月 3rd, 2022
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(ジャズ喫茶の描写・その4)

リバーエンド・カフェ」というマンガがある。
全九巻中四巻までが、いまのところKindle Unlimitedで読める。

昨晩遅くに気づいて読んでいた。
大震災あとの宮城県石巻が舞台であり、
ひどいいじめにあっている女子高生が主人公で、
彼女が偶然見つけた一風変った喫茶店を中心に物語は進んでいく。

この喫茶店、ジャズ喫茶とは謳っていないけれど、描かれ方はジャズ喫茶である。
主人公の女子高生は、ここでベッシー・スミスの歌と出逢う。

喫茶店に置かれているスピーカーはJBLの4344Mであり、
ただし「リバーエンド・カフェ」を読んだ方はすぐに気づかれるだろうが、
作品で描かれているのは4344Mではなく、4343である。
アンプはマッキントッシュのプリメインアンプだ。

ベッシー・スミスがどういう歌い手か知らない読み手であっても、
なんとなくどういう歌い手なのかは、その描写が伝えてくれる。

同時に、こういうシーンでのスピーカーは、やはりアメリカのホーン型だな、と納得する。
いまどきのハイエンドスピーカーがそこに描かれていたら、どうだろうか。

日本の598のスピーカーだったら、どうだろうか。
イギリスのBBCモニター系列だったら──、タンノイだったら──、
あれこれイメージしてみるといい。

結局、最後にはJBLかアルテックかになるはずだ。

Date: 7月 22nd, 2021
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(その12)

(その11)を書いて三ヵ月ほど経ったころ、あるマンガを読んだ。
読切のマンガだった。

終り数ページになったところで、突然に、頭の中に音楽が響いてきた。
薬師丸ひろ子の歌(どの歌なのかは書かない)が、鳴ってきた。

時間にすれば、ほんの数秒であっても、
その、ほんの数秒のあいだに、薬師丸ひろ子の歌のサビの部分はしっかりと聴いた──、
そう思わせる鳴り方だった。

こういう経験は、ながく音楽を聴いてきた人ならばある、と思う。
ふとした瞬間に、音楽が頭の中に鳴り響く。
ごく短い時間なのに、一曲聴いたと思える鳴り方をする。

薬師丸ひろ子の歌が、そうやってきこえてきたときも、そうだった。
同時に、感情が昂ぶって涙がこぼれそうになった。

そのマンガから、音楽がきこえてきた──、
そうなのか、違うのか、いまのところなんともいえない。

ただ、薬師丸ひろ子の歌が頭のなかで鳴り響いたのは確かなことで、
そのことによって、読んでいたマンガのクライマックスが、
ぐっと胸に響いてきたのも事実である。

このマンガの作者が、描いているときに音楽を思い浮べていたのかどうかは、わからない。
その作者に問いたい、とも思わない。

読んでいて、薬師丸ひろ子の歌が頭のなかで鳴り響いた、ということだけが、
私にとっては大切なことであり、
他の人にとって、どうでもいいことであろうが、同意も得られなくとも、
そんなこととは関係ないところで、私は音楽を聴いていくだけだし、
読んでいくだけだ。

Date: 4月 8th, 2021
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(ジャズ喫茶の描写・その3)

「美味しんぼ」というマンガがあった。

マンガにあまり関心のない人でも、かなりヒットしたマンガだけに、
どこかで目にしてたり、読んだことはなくても、
「美味しんぼ」というマンガがあったということは知っていよう。

「美味しんぼ」にも、ジャズ喫茶が登場する回がある。
「SALT PEANUTS」という回がそうだ。

地下にあるジャズ喫茶で、スピーカーはJBLの4350。
Aではなく、ウーファーのコーン紙が白い4350である。

注目したいのは、ジャズ喫茶の描写ではなく、
セリフに「レコード演奏」が出てくることだ。

「美味しんぼ」は1983年から連載がスタート。
「SALT PEANUTS」の回は1986年ぐらいだ。

菅野先生が「レコード演奏家論」をステレオサウンドに発表されるよりも、
かなり前である。

レコード演奏という表現は、「美味しんぼ」が最初ではない。
菅野先生も瀬川先生も、レコード演奏、レコードを演奏する、という表現を、
1970年代から使われていた。

とはいえ、オーディオ雑誌ではないところで、「レコード演奏」が登場したのは、
おそらく「美味しんぼ」が最初ではないだろうか。

Date: 3月 23rd, 2021
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(ジャズ喫茶の描写・その2)

二ヵ月ほど前、ある繁華街にいた。
私の前を、あるカップルが歩いていた。

20代なかばごろのように見えた二人だった。
男のほうが、あるビルを指さして、
「ここ、けっこう有名なジャズ喫茶なんだ」と相手の女性に話しかけた。

「じゃ、話せないんだ」と女性。
それでジャズ喫茶に関する会話は終っていた。

男性は、そのジャズ喫茶に彼女と二人、入ってみたかったのかもしれない。
そんな感じにみえた。

けれど、女性の一言で、あっさり却下された。

ジャズ喫茶では黙って、音楽(ジャズ)を聴いていなければならない、
そういう認識が一般的なのだろうか。

そうだから「じゃ、話せないんだ」で、ジャズ喫茶に関する会話は終ったわけだ。

この若い二人のジャズ喫茶への認識は、どこからの影響なのだろうか。
何によってつくられたものなのだろうか。

そういうジャズ喫茶があるのは事実だが、
そうではないジャズ喫茶も、東京にはある。

Date: 3月 23rd, 2021
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(その11)

すべてのマンガがそうだとはいわないが、
マンガのなかには、バックグラウンドに音楽が流れているように感じる作品がある。

いまの時代、マンガの数はとにかく多い。
マンガ雑誌だけでなくウェブでも公開の場が広がったことにより、
いったいどれだけのマンガがあるのかは、もうわからない。

なので音楽を感じさせる、
音楽が通底しているとなんとなく感じられるマンガが、
全体のどの程度の割合なのかも私にはわからない。

それでも描き手が意識しているのかどうかすらも私にはわからないが、
音楽が流れていると感じるマンガが昔からあるのだけは確かにいえる。

ただ、そのマンガにしても、すべての人がそう感じるかといえば、これもまたなんともいえない。

コマとコマとをつないでいくのが、音のない音楽のようにも感じる。

そういえば、萩尾望都が、こう語っている。
     *
漫画は、読み進めている内は思考するところは働いていなくて、じゃあ何が動いているんだっていったら、音楽を聴くような情動系がずーっと働いている感じがします。
(「萩尾望都 少女マンガ界の偉大なる母」より)
     *
世の中には、マンガを頭から否定する人がいる。
音楽好きを自称している人であってもだ。

それはそれでいい。
おそらく、そういう人は、マンガから音楽、
それがなにかの音楽なのかは、ほとんどの場合、わからないけれど、
確かに感じるものが流れていることをまったく感じとれないのであろう。

念のため書いておくが、
だからといってマンガから音楽を感じとれるかどうかが、
音楽の聴き手としてどうかということではない。

Date: 5月 2nd, 2019
Cate: 「ルードウィヒ・B」

The Citi exhibition Manga

ヘッドフォン祭で、ある出展社の方から、
5月に大英博物館で赤塚不二夫の展示が開催される、ということを聞いた。

検索してみると、大英博物館で5月23日から8月26日にかけて、
The Citi exhibition Mangaが開催される。

日本のマンガの展覧会であり、赤塚不二夫だけではなく、
約50名のマンガ家、
約70タイトルによる総計約240点の原画および複製原画、
描き下ろし作品などが6つのゾーンに分けて展示される、とのこと。

詳細はコミックナタリーの記事をお読みいただきたい。

知人に、絶対にマンガを読まない男がいる。
音楽は、どんなジャンルでもボクは聴きます、といっている。
クラシックも聴けば、ジャズも聴くし、ロック・ポップスも聴く、というわけだ。
でも知人は演歌もそうだが、絶対に聴かないジャンルの音楽がある。

別にそれはそれでいい。
私だって聴かない音楽、関心のない音楽はけっこうある。

でも、知人は、どんなジャンルでも聴く、と普段から言っている。
そんなこと言わなければいいのに……、と思うけれど、
如何にも彼は「私は理解ある人物です」といいたげである。

そういう男だから、知人はマンガを読まない。
低俗だ、と頭からバカにしているところがある。
いくつかのマンガを薦めた(本を貸した)ことがあるが、手にとろうともしなかった。

その男は権威が好きである。
権威が好きなのは、それはそれでいい。

その男は、今回の大英博物館でのThe Citi exhibition Mangaのニュースを知ったら、
どんな反応をするだろうか。

ころっと手のひらを返して、マンガは素晴らしい、とか言ったりするようになるのか。
私は、ずっと以前、その男のそういう態度を、手のひら音頭ですね、と茶化したことがある。

手のひら音頭男である。
そういうところは、その男の本性のようだから、生涯変らないだろう。
手のひら音頭男とのつきあい、九年前に終った。

手のひら音頭男は、The Citi exhibition Manga開催を知っても、
ふーん、というぐらいの反応しかしないはずだ。

それでいい、とおもうようになった。
The Citi exhibition Mangaによって、手のひら音頭男がマンガに関心をもつようになるほうが、
私には気持悪く感じるからだ。
よしてくれ、といいたくなるに決っている。

大英博物館でThe Citi exhibition Mangaが開催されるからといって、
マンガが権威付けされるとは思っていない。

手のひら音頭男だけでなく、
今回のことでマンガが権威付けされると受けとる人はいるだろう。

オーディオだって、いまだに毎年暮には各オーディオ雑誌の特集は「賞」である。
手のひら音頭男は、私に以前、
オーディオ雑誌を創刊しましょう、といってきた。

手のひら音頭男は、創刊したばかりの号で、賞をやりましょう、と力説した。
創刊したばかりのオーディオ雑誌が賞をやって、どうする?
何の意味がある? と私は反対した。

創刊の話は流れた。
創刊できたとしても、手のひら音頭男とは一緒に仕事はできなくなっていたことだろう。

マンガは、そんな権威から無縁であってほしい。