春くらり(その4)
明日(5月8日)は、「春くらり」の第三巻の発売日。
「春くらり」の登場人物に、ナルシシストはいないように感じている。
「春くらり」には、ゲスが登場しない、とも書いた。
全てのゲスな人がそうなのかはなんとも言えないが、ナルシシズムを拗らせた人のような気がしている。
別項で触れている活動家ならぬ活動屋は、拗らせたナルシシズムが根っこにあるのではないのか。
そんなことを考えさせてくれた「春くらり」の最終巻が、明日書店に並ぶ。
明日(5月8日)は、「春くらり」の第三巻の発売日。
「春くらり」の登場人物に、ナルシシストはいないように感じている。
「春くらり」には、ゲスが登場しない、とも書いた。
全てのゲスな人がそうなのかはなんとも言えないが、ナルシシズムを拗らせた人のような気がしている。
別項で触れている活動家ならぬ活動屋は、拗らせたナルシシズムが根っこにあるのではないのか。
そんなことを考えさせてくれた「春くらり」の最終巻が、明日書店に並ぶ。
「春くらり」が、今日公開された23話で終ってしまった。
(その2)で、
「春くらり」もそうなるのかもしれない。十年後か二十年後くらいにふと思い出して、また読む。
その時、どうおもいながら読むのだろうか、
と、書いた。
5月8日発売の第三巻で完結する。もちろん買う。
暗記するほどくり返し読んでいるのに、それでも買うのは十年後か二十年後くらいに、ふと思い出して読むためでもある。
いまはマガポケというスマートフォン用のアプリで読めるが、十年後、二十年後はどうなっているのかは、誰にも予測できないはずだ。
十年後、二十年後、スマートフォン(これすらどうなっているのかもわからない)で読める保証はない。
たわいないマンガなんて、十年後、二十年後、読めなくなっていても、どうでもいいことだろう、それよりもっと別の本を紙の本で持っておくべきでは──が正論だろう。
でも、いわゆる名作は、どんなフォーマットになっているかは何ともいえないが、何らかのフォーマットで読まれているだろう。
だから、そういう名作よりも私は「春くらり」を、十年後であっても二十年後であっても確実に読めるフォーマットとして、
紙の単行本を買う。
ステレオサウンド 49号で黒田先生は《「サンチェスの子供たち」を愛す》で、こう書かれていた。
*
なにかというとそのレコードをきく。今日はたのしいことがあったからといってはきき、なんとなくむしゃくしゃするからといってはきき、久しぶりに友人がたずねてきてくれたからといってはきき、つまりしじゅう、のべつまくなしにきくレコードがある。そういうレコードは棚にしまったりしないで、いつでもすぐかけられるように、そばにたてかけておく。そうなるともう、そのレコードにおさめられている音楽を、音楽としてきいているのかどうか、さだかでない。
もしかすると、ききてとして、多少気持のわるいいい方になるが、そのレコードできける音楽に恋をしてしまっているのかもしれない。さしずめコイワズライ、熱病のような状態だ。若い恋人たちが、さしたる用事があるわけでもないのに、愛する人に会おうとするのに、似ている。きいていれば、それだけで仕合せになれる。
*
黒田先生にとって1978年後半の、
そういうレコードがチャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」だった。
私にとって2026年の、そういうマンガが「春くらり」になる。
のべつまくなしに読んでいる、といえるほど読んでいる。
その「春くらり」が、3月2日公開の23話で最終回となる。
登場人物が少しずつ増えてきていたから、まだまだ続くものと思っていたけれど、そんな予感もあった。
一巻と二巻は発売日に買っている。iPhoneで読めるのだから買うこともないと考える人もいるだろうが、
長く連載が続いてほしいと思っているので、買っている。
「春くらり」を読んでいる人がどのくらいいるのかはわからない。そう多くはないのだろう。今回の最終回の発表は、打切りに近いのかも……と思う。
読み始めた時から、意外と連載は短いかも、という予感があった。根拠があったわけではないが、長いこと読んでいれば、なんとなくそう感じることがあるし、予感が当ることもある。
当ってほしくないときに当る。
黒田先生にとって「サンチェスの子供たち」は、あの頃頻繁に聴くレコードではあっても愛聴盤ではなかったはずだ。
「春くらり」の早い連終了は残念だし悲しいけれど、「春くらり」は愛読書といえるだろか。
《若い恋人たちが、さしたる用事があるわけでもないのに、愛する人に会おうとするのに、似ている。きいていれば、それだけで仕合せになれる。》
と黒田先先生は書かれている。
「春くらり」は、そういう位置にいる。
私も「サンチェスの子供たち」は手に入れてからしばらくは頻繁に聴いていた。なのにパタッと聴かなくなった。
「春くらり」も、そうなるのかもしれない。たぶんなると思う。
でも二十年以上経って、「サンチェスの子供たち」をまた聴くようになった。以前のような聴き方(頻繁さ)ではないが、ふと聴きたくなる時がある。
「春くらり」もそうなるのかもしれない。十年後か二十年後くらいにふと思い出して、また読む。
その時、どうおもいながら読むのだろうか。
明日(2月9日)は、マンガ「春くらり」二巻の発売日。
去年から始まった「春くらり」。最初は興味を持てず、読んでいなかった。スマートフォンでマンガを読んでいると、第一話を読むようにおせっかいをしてくる。
とりあえず読んでみるかー、ぐらいだった。読んで、しばらく無視していてよかった、と思った。
続きが何話分まとめて読めたからだ。
12月9日に一巻が出た。買って帰って、読み返した。
スマートフォンでも読み返している、単行本でも読み返している。
「春くらり」には、いまのところ、ゲスな人物は登場してこない。これから先もそうだろう。
2月4日のaudio Wednesdayでは、オーディオ業界にいるある人のことが話題になった。関わりにならないのが賢明、皆の一致した意見となった。
そんな人は「春くらり」には出てこないから、安心して読める──、その程度の理由で、ここで取り上げているわけではない。
なにげない日常が、きらきらしている。ぎらつくほどきらきらしているわけではない。
キラキラとカタカナで書くのではなく、平仮名のきらきらだ。
「春くらり」を読んでいると、こういう世界観を感じさせる音を鳴らせるだろうか、とも思ってしまう。
マンガから音は出てこない。
マンガの神様と言われた手塚治虫のマンガであっても、その作品が載った誌面から音が出てくることはない。
明日(2月9日)は、手塚治虫の命日。三十七年、四十年近い月日が流れ、マンガにおける音楽の描写は進歩してきていると感じている。
全てのマンガにおいてではないが、いくつかのマンガのシーンで、そう感じることが、ここ五年ほどの間に何度かあった。
そういうシーンでは、絵だけだったりすることが割とある。登場人物のセリフがない。
絵があるから、音が鳴っているような感覚になるのだろう。
オーディオ評論は、それが載っている誌面から音が聴こえてくるわけではない。
マンガには絵がある、オーディオ評論には言葉しかない。
だから無理なことと、最初から諦めていていいのだろうか。
10月のaudio wednesdayのテーマ、
「現代音楽をBOSE 901で聴く」は、12月に延期なのだが、
現代音楽について考えるうえでも、
現代音楽について関心はあるけれども……、
という人は、12月までに「ミュジコフィリア」を読んでもらいたい。
「ミュジコフィリア」は、さそうあきら氏の作品。
二年前に映画が公開されている。
Kindle Unlimitedで全巻読める。
未完のままの「ルードウィヒ・B」の主人公はベートーヴェンなのだから、
「ルードウィヒ・B」の最終回はベートーヴェンの死が描かれたはずなのは、
「ルードウィヒ・B」を読んできた者ならば、誰でも想像できることだ。
手塚治虫が生きていて「ルードウィヒ・B」が描かれ続けられていたら──、
そんなことを想像すると、ベートーヴェンの死後以降も、描かれたようにおもってしまう。
ベートーヴェンの死後、その音楽がどう聴かれ、どう演奏されていくのか。
そこが描かれたはずだし、そこを読みたかった。
(その4)で、マンガ「リバーエンド・カフェ」について書いた。
1月3日の時点では、全九巻中四巻までがKindle Unlimitedが読むことができていた。
昨晩、ふと見たら九巻までKindle Unlimitedで読めるようになっている。
いつからそうなったのかはわからない。
昨日からなのか、もう少し前からだったのか。
「リバーエンド・カフェ」は2010年3月11日から始まる物語だ。
だからなのかもしれない。
「リバーエンド・カフェ」の、あのシーンで思い出したことは、まだある。
井上先生が書かれていたことだ。
ステレオサウンド別冊「JBLのすべて」に、
各筆者による「私とJBL」が載っている。
井上先生は、こんなことを書かれている。
*
奇しくもJBLのC34を聴いたのは、飛行館スタジオに近い当時のコロムビア・大蔵スタジオのモニタールームである。作曲家の古賀先生を拝見したのも記憶に新しいが、そのときの録音は、もっとも嫌いな歌謡曲、それも島倉千代子であった。しかしマイクを通しJBLから聴かれた音は、得も言われぬ見事なもので、嫌いな歌手の声が天の声にも増して素晴らしかったことに驚嘆したのである。
*
こんなことを思い出すのは、マンガの読み方として邪道なのかもしれない。
それでも、やはり思い出してしまうし、
思い出すからこそ、気づくことがあるものだ。
「オーディオのロマン(ふとおもったこと)」は、2018年4月に書いている。
そこに、こんなことを書いている。
JBLで音楽を聴いている人は、ロマンティストなんだ、と。
もちろんJBLで聴いている人すべてがそうだとはいわないし、
現在のJBLのラインナップのすべてを、ここに含める気もさらさらないが、
私がJBLときいてイメージするスピーカーシステムで聴いている人は、
やはりロマンティストだ。
このことを思い出していた。
こんなことを書くと、4343もそうなのか、という声があるはずだ。
マンガ「リバーエンド・カフェ」に登場するのは、実質的にJBLの4343である。
スタジオモニターとしての4343、
つまり検聴用である4343。
その音に、なぜロマンがあるのか、もしくは感じるのか。
録音という仕事用につくられたスピーカーシステムだろ、
その音にロマンがあるはずがない。
そういわれれば、そうである。
私も、そう思わないわけではない。
それでも、JBLで音楽を聴いている人は、ロマンティストであるというし、
そういうスピーカーだからこそ、
「リバーエンド・カフェ」のあのシーンには、4343がよく似合う。
「リバーエンド・カフェ」というマンガがある。
全九巻中四巻までが、いまのところKindle Unlimitedで読める。
昨晩遅くに気づいて読んでいた。
大震災あとの宮城県石巻が舞台であり、
ひどいいじめにあっている女子高生が主人公で、
彼女が偶然見つけた一風変った喫茶店を中心に物語は進んでいく。
この喫茶店、ジャズ喫茶とは謳っていないけれど、描かれ方はジャズ喫茶である。
主人公の女子高生は、ここでベッシー・スミスの歌と出逢う。
喫茶店に置かれているスピーカーはJBLの4344Mであり、
ただし「リバーエンド・カフェ」を読んだ方はすぐに気づかれるだろうが、
作品で描かれているのは4344Mではなく、4343である。
アンプはマッキントッシュのプリメインアンプだ。
ベッシー・スミスがどういう歌い手か知らない読み手であっても、
なんとなくどういう歌い手なのかは、その描写が伝えてくれる。
同時に、こういうシーンでのスピーカーは、やはりアメリカのホーン型だな、と納得する。
いまどきのハイエンドスピーカーがそこに描かれていたら、どうだろうか。
日本の598のスピーカーだったら、どうだろうか。
イギリスのBBCモニター系列だったら──、タンノイだったら──、
あれこれイメージしてみるといい。
結局、最後にはJBLかアルテックかになるはずだ。
(その11)を書いて三ヵ月ほど経ったころ、あるマンガを読んだ。
読切のマンガだった。
終り数ページになったところで、突然に、頭の中に音楽が響いてきた。
薬師丸ひろ子の歌(どの歌なのかは書かない)が、鳴ってきた。
時間にすれば、ほんの数秒であっても、
その、ほんの数秒のあいだに、薬師丸ひろ子の歌のサビの部分はしっかりと聴いた──、
そう思わせる鳴り方だった。
こういう経験は、ながく音楽を聴いてきた人ならばある、と思う。
ふとした瞬間に、音楽が頭の中に鳴り響く。
ごく短い時間なのに、一曲聴いたと思える鳴り方をする。
薬師丸ひろ子の歌が、そうやってきこえてきたときも、そうだった。
同時に、感情が昂ぶって涙がこぼれそうになった。
そのマンガから、音楽がきこえてきた──、
そうなのか、違うのか、いまのところなんともいえない。
ただ、薬師丸ひろ子の歌が頭のなかで鳴り響いたのは確かなことで、
そのことによって、読んでいたマンガのクライマックスが、
ぐっと胸に響いてきたのも事実である。
このマンガの作者が、描いているときに音楽を思い浮べていたのかどうかは、わからない。
その作者に問いたい、とも思わない。
読んでいて、薬師丸ひろ子の歌が頭のなかで鳴り響いた、ということだけが、
私にとっては大切なことであり、
他の人にとって、どうでもいいことであろうが、同意も得られなくとも、
そんなこととは関係ないところで、私は音楽を聴いていくだけだし、
読んでいくだけだ。
「美味しんぼ」というマンガがあった。
マンガにあまり関心のない人でも、かなりヒットしたマンガだけに、
どこかで目にしてたり、読んだことはなくても、
「美味しんぼ」というマンガがあったということは知っていよう。
「美味しんぼ」にも、ジャズ喫茶が登場する回がある。
「SALT PEANUTS」という回がそうだ。
地下にあるジャズ喫茶で、スピーカーはJBLの4350。
Aではなく、ウーファーのコーン紙が白い4350である。
注目したいのは、ジャズ喫茶の描写ではなく、
セリフに「レコード演奏」が出てくることだ。
「美味しんぼ」は1983年から連載がスタート。
「SALT PEANUTS」の回は1986年ぐらいだ。
菅野先生が「レコード演奏家論」をステレオサウンドに発表されるよりも、
かなり前である。
レコード演奏という表現は、「美味しんぼ」が最初ではない。
菅野先生も瀬川先生も、レコード演奏、レコードを演奏する、という表現を、
1970年代から使われていた。
とはいえ、オーディオ雑誌ではないところで、「レコード演奏」が登場したのは、
おそらく「美味しんぼ」が最初ではないだろうか。
二ヵ月ほど前、ある繁華街にいた。
私の前を、あるカップルが歩いていた。
20代なかばごろのように見えた二人だった。
男のほうが、あるビルを指さして、
「ここ、けっこう有名なジャズ喫茶なんだ」と相手の女性に話しかけた。
「じゃ、話せないんだ」と女性。
それでジャズ喫茶に関する会話は終っていた。
男性は、そのジャズ喫茶に彼女と二人、入ってみたかったのかもしれない。
そんな感じにみえた。
けれど、女性の一言で、あっさり却下された。
ジャズ喫茶では黙って、音楽(ジャズ)を聴いていなければならない、
そういう認識が一般的なのだろうか。
そうだから「じゃ、話せないんだ」で、ジャズ喫茶に関する会話は終ったわけだ。
この若い二人のジャズ喫茶への認識は、どこからの影響なのだろうか。
何によってつくられたものなのだろうか。
そういうジャズ喫茶があるのは事実だが、
そうではないジャズ喫茶も、東京にはある。