Archive for category ステレオサウンド

Date: 1月 19th, 2023
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その26)

ステレオサウンド 69号でのJr.さんのExclusive 2401twin、
というよりも、Exclusive 2401twinに搭載されているTADのユニット群へのおもいは、
深く強かったわけで、だからこそ、Jr.さんはExclusive 2401twinをとびきりよく鳴らしたい──、
そういう気持があった、と思っている。

その意味で、89号でのKHさんのマッキントッシュのXRT18へのおもいもそうである。

二人とも、そこに悪意はなかった。
けれど、Jr.さんはExclusive 2401twinを、
KHさんはXRT18を、よく鳴らしたいという気持は、
他のスピーカーよりもよく鳴らしたい、であったはずだ。

それは善意ではない。
こういう試聴におけるオーディオ雑誌の編集者の善意とは、
すべての機器をきちんと鳴らす、ということであって、
ある特定の機種をよく鳴らす、ということではない。

善意の履き違えが、69号と89号での結果を生んだ、と私はいまも思っているし、
この二つの例も、編集者の悪意につながっていくことだともおもっている。

Date: 1月 17th, 2023
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その25)

ここで一つの例として挙げているステレオサウンド 87号での、
マッキントッシュのXRT18のヴォイシングの失敗。

これによく似た例が、もう一つあった。
69号の特集「超大型スピーカーの魅力的世界」であったことだ。

この特集は、タンノイのウェストミンスター、
エレクトロボイスのパトリシアンII、JBLの4355、UREIのModel 813B、
ダイヤトーンのDS5000、パイオニアのExclusive 2401twinを集めての、
試聴と組合せの記事だ。

XRT18と同じようなことはExclusive 2401twinの時に起った。
このときの編集者で、Jr.さん(Nさん)はTADのユニットにベタ惚れだった。
それまでJBLの高能率型ユニットにぞっこんだった人が、TADのユニット、
そして設計者の木下正三氏に急速に惹かれていった。

Exclusive 2401twinの番になったとき、
Jr.さんの心境は、89号のKHさんの心境に近かったのかもしれない。

なのに鳴ってきた音は奇妙な音だった。
1983年のころだから、こまかいことがすこしあやしくなってきているが、
最初にExclusive 2401twinに接続したパワーアンプは、
ソニー・エスプリのTA-N902だったと記憶している。

TA-N902は130W+130Wのステレオパワーアンプだが、モノーラル接続で400Wになる。
この時、なぜかTA-N902の背面のスイッチがMONOポジションになっていた。

たしかスピーカーケーブルの接続はJr.さんだった。
彼が意図的に、こんな接続をするわけがない。
それでもなぜかそうなっていた。
その音が第一声だった。

間違った接続で鳴らしたわけだから、奇妙な音になって当然。
すぐさまどこか間違っているはず、ということで接続をチェックして、試聴が再開した。

89号のXRT18とは違い、その後の試聴は問題なく進んだ。
けれどJr.さんの落ち込みようは、いまもはっきり憶えている。

Date: 12月 23rd, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(続・感じていること・その3)

《過去を大きな物語として語れる》と
過去を物語として語れると決して同じではない。

大きな物語なのか、物語なのか。
「大きな」がつくかどうかの違いは、小さな違いではない。

Date: 12月 23rd, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(続・感じていること・その2)

その1)で、
《過去を大きな物語として語れる》編集者だけでなく、
《過去を大きな物語として語れる》オーディオ評論家も消滅した。
私は、そう感じている。

そう書いた。
このことは、編集者、オーディオ評論家側だけの問題ではない。

《過去を大きな物語》とした語られたものを、読み手側は求めていない、
そういう読み手が増えたことも関係してのことだ。

Date: 12月 21st, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(続・感じていること・その1)

《過去を大きな物語として語れる編集者は消滅しました》
七年前、川崎先生が語られていたことばだ。

ステレオサウンドの「オーディオの殿堂」を眺めていると、
川崎先生の、このことばが浮んでくる。

《過去を大きな物語として語れる》編集者だけでなく、
《過去を大きな物語として語れる》オーディオ評論家も消滅した。
私は、そう感じている。

Date: 9月 4th, 2022
Cate: ステレオサウンド

3.11とステレオサウンド(その4)

その2)で触れている「ステレオサウンドは、なぜ変らないんですか」という問い。
これを発した人にとって、そのころすでにステレオサウンドはつまらなく感じていて、
それゆえの「ステレオサウンドは、なぜ変らないんですか」だった。

ステレオサウンドは変っていっている。
おそらく私に「ステレオサウンドは、なぜ変らないんですか」と訊ねた人も、
そう感じている。

そうであっても、その人は「ステレオサウンドは、なぜ変らないんですか」と訊く。
くり返すが、それはステレオサウンドがつまらくなっていて、
そのことが変らないからである。

ステレオサウンドがつまらない──、
そういう人もいるし、そうでない人もいる。
面白い、という人ももちろんいる。

223号の「オーディオの殿堂」を、オーディオの歴史の勉強にもなる、
そんなふうに高く評価している人が、ソーシャルメディアにいた。

そうなのかぁ……、としかいえないのだが、
受けとり方は人によって大きく違うのだから、
「ステレオサウンドは、なぜ変らないんですか」が、
ステレオサウンドはつまらなくなったまま、という捉え方も、
その人個人のものでしかないわけだ。

それでも、その人は私に、そう訊ねてきたのは、
その人は私もそう感じていると思ったからなのだろう。

私は、どう感じているのか。
ここ十年のステレオサウンドを眺めて思っているのは、
つまらない、とか、変らないなぁ、とか、そういったことではなく、
ダサくなった、である。

Date: 8月 22nd, 2022
Cate: ステレオサウンド

奇妙な光景(その2)

そんなふうに立読みされなくなりつつあるオーディオ雑誌だけを、
なぜビニールで巻いているのか。

そんな手間を紀伊國屋書店がするようにしたとは思えない。
私の勘ぐりでしかないのはわかっているが、
ステレオサウンド、音楽之友社側からの要望なのではないのか。

HiViは別項で書いているように、
6月発売の号で月刊誌としては終りで、9月発売の号からは季刊誌になる。
隔月刊誌ではなく、いきなり月刊から季刊である。

それだけ売れていないのだろう。
売れていないのだから、紀伊國屋書店という大型書店で、
ビニールを巻いてもらい、立読みを防ぐ。
それで売行きを少しでも増えそうということなのか。

何ひとつ確かめているわけではない。
くり返すが、私の勘ぐりでしかない。

売行きが落ちていても、内容に自信があれば、こういう選択はしない。
むしろ書店で手にとってもらい、ぱらぱらと立読みしてもらうことで、
買ってもらえることだって生じるからだ。

事実はわからない。
でも、自信を失った雑誌の悪あがきのようにもうつる。

それともいま書店に並んでいる三誌には、附録でもついていて、
万引き防止のためのビニール巻きなのか。

Date: 8月 22nd, 2022
Cate: ステレオサウンド

奇妙な光景(その1)

今日の午後、ひさしぶりに新宿の紀伊國屋書店に行った。
以前はよく行っていたけれど、コロナ禍のせいで、
ここ三年弱は足が遠のいていた。

今年はまだ二回目のはず。
八階までエレベーターで行き、それから階段で下の階に移動しながら、
あれこれ見てまわっていた。

雑誌コーナーは一階。
以前とはレイアウトが変更になっている。
音楽関係、オーディオ関係の雑誌のコーナーはどこかなと探していたら、
ステレオサウンドの223号の表紙が目に留った。

けれど、ちょっと変な感じがする。
近づいてみたら、ステレオサウンドには透明のビニールが巻かれてあった。
隣りにあったステレオもそうだった。
さらに隣りのHiViもそうだった。

紀伊國屋書店が雑誌を立読みさせないように、こうしたのであれば、
他の雑誌も同じようにビニールで巻かれているはずなのに、
少なくとも今日、私が見た範囲では上記の三冊だけだった。

奇妙な光景だった。
ステレオサウンドもHiViもKindle Unlimitedで読める。
発売日に読めるわけではないが、少し待てば読めるわけで、
Kindle Unlimitedユーザーは立読みしようとは思っていないだろう。

ステレオはKindle Unlimitedでは読めない。
けれど、ここ十年以上、書店でオーディオ関係の雑誌を立読みしている人は、
あまりいない、というか、ほとんどみかけない。

私の行動範囲では、年に二人か三人ほどである。

Date: 8月 21st, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(その7)

オーディオテクニカ独自のVM型。
この方式を開発したのは、普通に考えれば、
当時のオーディオテクニカの技術者ということになる。

私だって、オーディオに関心をもち、ステレオサウンドで働くようになるまでは、
そう思っていた。

けれど井上先生という人を知るにつれて、
もしかするとオーディオテクニカのVM型のアイディアは井上先生なのではないのか。
そんなふうに思うようになってきた。

だからといって、何らかの確証、
それがちっぽけなものであっても確証へとつながっていくことを知っているわけではない。

井上先生に訊ねたところで、うまくごまかされたであろう。
そのことを話題にしたこともない。

それでもオーディオテクニカの創業者、松下秀雄氏と井上先生のつきあい、
そのことから私が勝手に妄想しているだけにすぎないのは自覚している。

それでも私はVM型のアイディアは井上先生と確信している。

Date: 8月 21st, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(感じていること)

三年前、別項「評論(ちいさな結論)」で、
いい悪いではなく、
好き嫌いさえ超えての
大切にしたい気持があってこその評論のはずだ、
と書いている。

ステレオサウンドの「オーディオの殿堂」を眺めて、
大切にしたい気持があってこその評論、とはまったく思えない。

Date: 7月 27th, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(その6)

「オーディオの殿堂」で、
オーディオテクニカの製品は、AT-ART1000のみがノミネートされている。
殿堂入りはしていない。

AT-ART1000の殿堂入りしていないことについては、何も書かない。
意欲的な製品だとは捉えているが、音を聴いていないので。
それよりも、なぜオーディオテクニカのVM型カートリッジが殿堂入りしていないのか、
ノミネートすらされていない。

VM型カートリッジは、オーディオテクニカの特許である。
オーディオテクニカの最初の製品は、MM型カートリッジのAT1、その上級機のAT3、
どちらも1962年に登場している。

その後、オーディオテクニカはトーンアーム、MC型カートリッジなどを出してきて、
1967年にVM型のAT35Xを誕生させている。

MM型に関しては、よく知られるようにエラックとシュアーが特許を取得していた。
世界各国で、両社は特許を取れたにもかかわらず、
日本では無理だったのには理由がある。

瀬川先生から、どうしてだったのかを聞いている。
ちょっとここでは書けないことがあっての、日本での特許不成立である。
このときばかりは、日本のオーディオメーカーが一致団結した、といわれていた。

なので日本では各社がMM型カートリッジを製造販売できたが、
それはあくまでも日本国内に限られる。
MM型カートリッジを海外に輸出しようとすれば、特許料を支払うことになる。

オーディオテクニカは、海外に打って出るためにもVM型を開発した、と聞いている。
VM型ならば、この方式自身が特許を取れたわけだから、
MM型の特許に関係なく海外でも販売ができる。

Date: 7月 25th, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(その5)

SMEのSeries Vも、殿堂入りしている。
当然の結果だと思っている。

1985年に登場したSeries Vは、トーンアームとして飛び抜けて高価だった。
その後、Series Vよりも高価なトーンアームがいくつも登場している。
Series Vも値上げしているが、それでもいちばん高価なトーンアームではなくなっている。

それでも私は、Series Vが最高の音を聴かせてくれるトーンアームだと、いまでも思っている。
もっともSeries Vよりも高価なトーンアームのすべてを聴いているわけではないが、
部分的にはSeries Vを上廻る良さを持っている製品もあるだろうが、
トータルとしてのパフォーマンスはいまでもSeries Vが一番のはずだ。

そのSeries Vは、黛 健司氏が担当されている。
     *
 この製品にいちばん興奮したのは長島達夫先生で、1985年発行の74号に記事を執筆されたが、取材に際して、日本に1本しか入荷していなかったシリーズVをバラバラに分解してしまい、編集担当のわたしを慌てさせた。
     *
Series Vの試聴には私も立ち会っている。
長島先生の昂奮ぶりは、いまもはっきりとおもい出せるのだが、
この時からおもっていることがひとつある。

Series Vの前に、SMEからは管球式フォノイコライザーアンプSPA1HLが登場していた。
SPA1HLは、最初オルトフォン・ブランドでのプリプロモデルがあった。

SMEのSPA1HLは長島先生といっしょに聴いた。
SPA1HLについて長島先生の詳しいこと詳しいこと。

思わず「長島先生が設計されたのですか」と口にしそうになるくらいだった。
そうなんだということはすぐにわかった。
パーツ選びの大変さも聞いている。

それに長島先生自身、SMEのアンプは、マランツのModel 7への恩返し、といわれていた。
そういうことがあったから、Series Vも長島先生の設計なのかもしれない──、
ずっとそうおもっている。

完全な設計ではないにしても、
そうとうに長島先生のアイディアが取り入れられている──、
これはもう確信といってもいいくらいに、そうおもっている。

そうでなければ、最初に日本に入ってきた一本なのに、
あそこまで詳しいわけがない。
それに手馴れた感じで分解されてもいた。

SPA1HLのときと同じだと感じていた。

Date: 7月 24th, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(その4)

ステレオサウンド 223号「オーディオの殿堂」で、
黛 健司氏がLNP2Lのところで、こんなことを書かれている。
     *
 数年前、ひょんなことから、井上卓也先生がLNP2をお持ちだったことを知った(井上先生のことだから、ひと声聴いただけで「コレクション」になっていたのかもしれない。マランツ・モデル7がお好きで何台も所有されていたが、LNP2も手に入れられていたとは意外だった。
     *
井上先生はLNP2も数台お持ちだった。
LNP2だけでなくJC2も所有されていた。
記憶違いでなければ、LNP2はマークレビンソン製モジュールだけでなく、
バウエン製モジュールのLNP2も、である。

試聴のあいまで雑談で、ぽろっと話されることがけっこうあった。

井上先生はジェンセンのG610Bに関しても、
別項「ワイドレンジ考(その38)」で書いているとおりである。

その他にも、いくつか知っているけれど、
とにかく、意外なモノも持っておられた。

井上先生が所有されていたオーディオ機器の全貌を知っている人は、おそらくいないだろう。
私が知っているのも、全体の何割かなのかすらわからない。

けれど、この項を書いていると、
223号で殿堂入りしているモノよりも、
井上先生が所有されていたオーディオ機器のほうが、
私にとっては「殿堂入り」にふさわしいモノのように感じられる。

Date: 7月 12th, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(型番の表記)

別項「サイズ考(その6)」でも書いていることなのだが、
LS3/5Aの型番表記がいいかげんである。

最近の復刻モデルはLS3/5aと、型番末尾が小文字になっているモデルもある。
だからそれらのモデルはLS3/5aという表記でいいのだが、
ロジャースのLS3/5Aは、大文字である。

ロジャースのLS3/5Aだけではなく、同時期に各社から出たLS3/5Aも、
大文字表記である。
リアバッフルの銘板を見ればわかることだ。

十四年前に書いたことをまた持ち出しているのは、
ステレオサウンド 223号の特集「オーディオの殿堂」を読んでいたら、
ロジャースのLS3/5A(136ページ)が、LS3/5aとなっていたからだ。

LS3/5Aは三浦孝仁氏が担当されている。
三浦孝仁氏の本文は、ちゃんとLS3/5Aとなっている。
なのに編集部は、LS3/5aとしてしまっている。

どうしてこんなことがやらかしてしまうのだろうか。
いまのステレオサウンド編集部には、
LS3/5Aに思い入れをもつ人はいないのだろう、おそらく……。

Date: 7月 1st, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(その3)

一昨日のスピーカー、昨日のアンプ、
今日のプレーヤー関係の殿堂入りの機種の発表を見て、
改めて、この「オーディオの殿堂」という企画の無理な面を感じざるをえなかった。

「オーディオの殿堂」は、
いわば50号の旧製品のステート・オブ・ジ・アート賞の焼き直しともいえる。

50号は1979年夏に出ている。
いまから四十年以上前である。

この企画に登場しているオーディオ機器は、まさしく「オーディオの殿堂」といえた。
オーディオの歴史を一端を窺い知れる面もあった。
勉強にもなった、といえる。

過去には、こんなスピーカーやアンプがあったのか。
もちろん知っている機種もあったけれど、初めて知る機種も少なくなかった。

ジェンセンのG610Bは、50号で初めて、その存在を知ることができた。
50号の特集は、何度も読み返した。

似た企画、同じような企画である「オーディオの殿堂」には感じられなかったことが、
いくつもあった。

50号をひっぱり出してくるまでもない。
それほどわくわくしながら読んだ50号なのだから、しっかりと憶えている。

ならば、今回も旧製品のステート・オブ・ジ・アート賞をやればよかったのか──、
そうとは思わない。

旧製品のステート・オブ・ジ・アートは、1979年ごろだったから可能だった企画である。
それに50号の一年ほど前まで、「クラフツマンシップの粋」という連載が続いていた。
この連載があったからこその旧製品のステート・オブ・ジ・アートでもあった。

今回の「オーディオの殿堂」には、それもない。
たとえあったとしても、これまで市場に登場してきたモデル数をふり返れば、
いかに難しい企画というか、無理な企画というのが誰の目にも明らかだったはずだ。
結果、中半端な印象を拭えないし、偏ってもいる。

なぜ、いまになっての「オーディオの殿堂」なのか。