Archive for category ステレオサウンド

Date: 6月 11th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その9)

その2)で、facebookでのコメントを読んで、
続きを書くだけでなくタイトルも少し変更したことに触れた。

変更したことによって、(その8)までで書いてきたことは本題ではなくなっている。
(その10)から書くことが、ここでのテーマの本題になっていく。

(その2)の最後に、
ここでの編集者には、元ステレオサウンドの編集者だった私も含まれる、としているように、
編集者の悪意に関係してくる実例を挙げていく。

これまでも別項で、細部をぼかしながら書いてきたことも、
ここでは、
メーカー名、型番、ステレオサウンドの号数、記事のタイトルなども、
少しはっきりさせていく予定である。

私が担当した記事だけでなく、
私が「編集者の悪意」もしくは「編集者の悪意のようなもの」を感じた記事についても触れていくことで、
編集者の悪意は、どこを向いてのものなのか、
そのあたりも考えていきたい。

(その10)を書くのは、少し先の予定。

Date: 6月 8th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その8)

ステレオサウンド 211号を手にし119ページの写真を見た人がどう感じどう思おうと、
私は、119ページの写真は載せるべきではない、と考える。

小野寺弘滋氏本人が、あの写真を諒とした上での掲載であっても、
119ページの写真は、みっともない写真である。

これは小野寺弘滋氏がどうのこうのということではなく、
一枚の写真としてみっともなく、恥ずかしい。

こういう写真を載せてしまう。
なぜ載ってしまったのか。

結局は、編集者全員のステレオサウンド愛が欠けているからだ、
と私は思っている。

ステレオサウンド愛が欠けていることを、
私は「悪意のようなもの」につながっていく、と考える。

Date: 6月 8th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その7)

その1)は、
筆者チェックをやっていないものと思って書いた。

facebookでのコメントを読んで、やっている可能性もある、と思い直し、
続きを書くようにした。

(その5)、(その6)で、善意としたのは、
筆者チェックを行っていないこと、
編集部が小野寺弘滋氏の行儀の悪さを直してほしい、と思っていることを前提としている。

指摘を受けて、チェックのことを考慮すれば、
今回の写真の件は、筆者チェックをしている、していない、
さらに編集部が小野寺弘滋氏の行儀の悪さに気がついている、気がついていない、
気がついているのであれば、直してほしいと思っている、思っていない、
それぞれのケースについて考えてみようかと思ったけれど、
そんなことを長々書いたところで、ステレオサウンドの読者にとっては、
どうでもいいことではないのか、とも思う。

読み手側は、チェックしているしていない、とか、直してほしいと思っている(いない)とか、
そんなことは関係なく、ステレオサウンド 211号を手にして、119ページの写真を見ている。

コメントの方も、雑誌づくりにかかわってこられた人だ。
だからこそのコメントであった。

けれど、ステレオサウンドの読み手のどれだけが雑誌づくり、
本づくりに関っている(きた)人だろうか。

ほとんどの読み手が、雑誌づくりとは関係のない仕事をしている(いた)。
そういう人たちは、119ページの写真を見て、どう感じるだろうか。

行儀が悪い、
ふてぶてしい態度、
そんな印象を持つのではないのか。

そうだとすれば、小野寺弘滋氏を晒し者にしたといえる。

Date: 6月 8th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その6)

(その5)に書いたことは、私の勝手な想像でしかない。
もし、そういう意図であの写真を掲載したのであれば、
私は、そのことは編集部の善意と捉える。
消極的ではある、と感じても、善意といえよう。

もっとも、119ページの写真を見ても、本人がなんとも感じないのであれば意味ないのだが。

それでも(その1)の最後に書いているように、
あえて、119ページ掲載の写真を選んでいるのであれば、
編集者の悪意のように感じられる。

私が、この項の続きを書くきっかけとなったfacebookのコメントには、
筆者がゲラをチェックしているのではないか、とあった。

私がいたころは、そういうことはやっていなかった。
まったくやっていなかったわけではないが、基本的にはやっていなかった、といえる。

私が辞めて三十年経つわけだから、
変化もあって当然だし、いまはやっている可能性だってある。

それでも211号の特集の筆者は一人ではない。
筆者一人の記事であれば、筆者によるチェックもやるのかもしれないが、
複数の場合は、やっていない可能性が高い、と私は思っているが、
それは私がそう思っているだけで、いまのステレオサウンド編集部はやっているかもしれない。

私がいた時代はDTPの時代ではなかった。
いまは印刷されるデータは、すべてコンピューターで処理されているから、
筆者チェックも、昔と今では、そこにかかる手間はまるで違う。
それにインターネットもあるのだから。

チェックをやっている、と仮定しよう。
そうだとすれば、小野寺弘滋氏本人も、119ページの写真を見ているわけである。

本人がチェックして、編集部に何も言ってこなければ、
そのまま119ページの写真を掲載していいのだろうか。

あえて大股開きの写真を選んで、筆者チェックもしてもらった上で掲載というのは、
悪意のような、ではなく、悪意とみる。

小野寺弘滋氏がチェックの段階で何もいってこなかったら、
念押しすればいいじゃないか、と思うからだ。

こんな大股開きの、行儀の悪い写真でいいのですか、
そんなメールを送ってみればいいことではないか。

行儀の悪さをほんとうに直してほしい、とおもっているのであれば、
この段階でできることである。
あの写真を、最終的な誌面に載せる必要はない。

Date: 6月 8th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その5)

私が、今回ステレオサウンド 211号の119ページの写真の件を書いているのは、
小野寺弘滋氏の周りの人たちは、小野寺弘滋氏の行儀について、何も気づいていなかった、
感じていなかったのか、ということだ。

小野寺弘滋氏は、1989年にステレオサウンド入社、
2010年に退社してオーディオ評論家として活動されている。

オーディオ業界に入って三十年。
周りにいる人たちとのつきあいも、それだけ長い。

その長さのなかで、誰一人、気づいていない、ということがあるのだろうか。
直接、本人に「行儀が悪いですよ」とは言いにくいものだ。

それに誰かが言ってくれるだろう──、そんなふうに思っていたのかもしれない。

119ページの写真を、編集者が掲載したのは、
意図的だった可能性があるようにも思えてくる。

誰もいわない、誰もいえない。
それにステレオサウンドの筆者のポジションとしての、小野寺弘滋氏は上である。

昨年、ある人に、こんなことを訊かれた。
「ステレオサウンドに書いている人のトップは柳沢功力氏で、その次が傅信幸氏で……」、
その人なりの順位を聞かされた。

それに対して私は、違う、といった。
特集をみれば明らかだが、
私の印象では、柳沢功力氏と小野寺弘滋氏はほぼ同じといっていい。
その次に傅信幸氏、三浦孝仁氏、和田博巳氏という順である。

そして、ここまでがStereo Sound Grand Prixの選考委員であり、
ここではっきりとした線引きが行われている、と読める。

小野寺弘滋氏のステレオサウンドにおけるポジションは高い。
今後さらに高くなる。
そういう人に、いまさら「行儀が悪いですよ」とは、以前以上に言い難いのではないか。

ならば小野寺弘滋氏自身が気づくようにするしかない。
ステレオサウンド 211号の119ページの写真を見れば、
小野寺弘滋氏も気づくはず、という期待を込めて。

Date: 6月 8th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その4)

ステレオサウンド 211号の119ページの写真、
小野寺弘滋氏が大股開きで、椅子に浅く腰掛けての写真。

これだって、誰かに迷惑をかけているわけではない。
電車で、こんな座り方をされては周りの人の迷惑になるが、
119ページの写真では一人掛けの椅子だし、
両隣の椅子との間隔も十分開いているから、迷惑になってたりはしない。

けれど、インターナショナルオーディオショウでのポケットに手を突っ込んだままの印象が、
119ページの写真としっかりと結びついてくる。

それに別の方(続きを書くきっかけとなったコメントの人とは別の人)は、
あるところで小野寺弘滋氏が、119ページのような座り方をされているのを見られている。

こういう人なんだなぁ、と思ってしまう。
行儀のよくない人と思ってしまう。

とはいえ、小野寺弘滋氏の書くもの、話すことと結びつけようとは思っていない。
書くもの、話すことが面白ければ、普段から行儀がよくなくても、少なくとも私は気にしない。
周りに迷惑をかけていないのであれば。

そういうところまで、いまのステレオサウンドの書き手に求めてはいないし、
小野寺弘滋氏でも、電車で、こんな座り方はしないはずだろうから。

もちろん、受けとめ方は人それぞれだから、
私と違い、興醒めと思われた方もいる(facebookのコメントにあった)。

切り離して読む人、切り離せずに読む人、どちらもいるわけだ。
だからこそ、編集者は気をつけるべきだ、と私は思う。

Date: 6月 7th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その3)

小野寺弘滋氏が、ステレオサウンドの編集者であり、編集長であったことは知られている。
小野寺弘滋氏は、私が退社したころに入社してきた人であり、
私は小野寺弘滋氏とは面識がない。

どんな人なのかは、ほとんど知らない、といっていい。
オーディオ関係者(元をふくめて)から、こんな人だよ、という話は聞いている。
その程度であり、それだって鵜呑みにしているわけではない。

私にとって、小野寺弘滋氏の印象のほとんどは、
インターナショナルオーディオショウで、ブースで話をされている時のものである。

過去二回だけ、たまたま入ったブースで、
小野寺弘滋氏がマイクをもって話をされていたことがある。

その時の印象は、ある意味、強烈だった。
マイクを持っていない手を、ズボンのポケットに突っ込んだまま話されていたからだ。

インターナショナルオーディオショウの各ブースで、
いろんな人の話を聞いてきたが、ポケットに手を突っ込んだままという人は、
小野寺弘滋氏が初めてだったし、他にはいない。

もちろんすべてのブース、すべての人の話を聞いているわけでないから、
他にもポケットに手を突っ込んだままという人はいたかもしれない。

それでも私は、そういう人を見ていない。
小野寺弘滋氏一人だけである。

その二年後だったか、また小野寺弘滋氏が話されている時だった。
その時も、ポケットに手を突っ込んだままだった。

一回目はたまたまだったのかもしれないと思ったが、
二回目もそうだということは、そういう人なのだ、と認識した。

ポケットに手を突っ込んだまま話したところで、誰かに迷惑をかけるわけではない。
それでもいいじゃないか、といわれれば、そうかもしれない。
ただ、ポケットに手を突っ込んだまま話をしている姿は、
けっこう強烈な印象を与える。

Date: 6月 7th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その2)

昨晩公開した「ステレオサウンド 211号(編集者の悪意とは)」は、
続きを書くつもりはなかった。

けれどfacebookでのコメントを読んでいて、続きを書くことに変更したし、
タイトルも少し変えた。

「ステレオサウンド 211号(編集者の悪意とは)」から「編集者の悪意とは」にした。
ステレオサウンド 211号を取っただけである。

「ステレオサウンド 211号(ステレオサウンド編集者の悪意とは)」にするつもりは、
最初からなかった。

けれど「ステレオサウンド 211号(編集者の悪意とは)」とすると、
ステレオサウンド編集者の悪意、と受けとられることも考えられる。

なので「編集者の悪意とは」へと変更した。
ステレオサウンド 211号について、これからも書いていくから、
結局、ステレオサウンド編集者の悪意について書くのではないか、と思われそうだが、
そう受けとられても仕方ないようなことも書くことになろうが、
あくまでも「編集者の悪意」がテーマである。

ここでの編集者には、元ステレオサウンドの編集者だった私も含まれる。

Date: 6月 6th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その1)

悪意をまったく持たない人がいるとは、私には思えない。
編集者もまた人間であるから、編集という行為に、
まったく悪意が現れないと言い切れるだろうか。

雑誌に掲載される写真。
たった一枚しか撮らないということはまずない。
特に試聴風景や、試聴者の集合写真など、人物を撮る場合には、何カットか必ず撮る。

おそらく、いまのステレオサウンドもそうはずだ。
複数枚のカットから、誌面に載せるカットを選ぶ。
編集者が選ぶ。いまもそのはずだ。

ステレオサウンド 211号の119ページの写真を見て、
この写真を選んだ編集者の悪意のようなものを、私は感じた。

このカット、1カットしか撮影していない、ということはないはずだ。
なのに、この一枚を選んで載せるのか──。

小野寺弘滋氏の座り方と脚の開きぐあい。
こんな一枚を選ぶ必要性は、どこにあるのか。

柳沢功力、和田博巳、三浦孝仁、三氏の座り方、脚の開きぐあいと見較べなくとも、
この写真はひどい、と多くの人が感じるはずだ。

この写真を選んだ編集者は、何も感じずに、このカットを選んだのか。
そうだとしたら、その編集者は、写真の選択だけでなく、
他のことでも、その程度の選択をしているのかもしれないし、
あえて、このカットを選んだとしたら──、
それは編集者の悪意のようにしか感じられない。

Date: 3月 24th, 2019
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド 210号(その2)

別項「オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(Air Force ZEROのこと・その3)」で、
菅野先生が、オーディオのデザインについての連載を、
「ひどい記事だったね」といわれたことを書いている。

気づいてほしいのは、ひどい記事と思われながらも、
その連載をきちんと読まれていたことである。

私も、その連載は毎回読んでいた。
読んでいたから、菅野先生とふたりして「ひどい記事だったね」となったわけだ。

ひどい記事だと思っても、一度は目を通す。
そのことを思い出したから、今日、ステレオサウンド 210号を手にとっていた。

336〜337ページの、LINNの新製品、
Selekt DSMの記事でページをめくる手が止った。

違和感といったら大袈裟すぎだけど、
あれっ? と思うところがあってだ。

記事にはSelekt DSMの写真がある。
Selekt DSMのディスプレイには、
Shostakovich;
Symphony No.5 in…
96kHz/24bit FLAC
と表示されている。

これ自体におかしいところがあるわけではない。
ショスタコーヴィチの交響曲第五番を、
Selekt DSMを試聴した人は聴いたのだな、と写真を見て思う。

けれど試聴記にはショスタコーヴィチのことはまったくない。
試聴記になくても聴いたんだろうな、と思い、
新製品紹介の最後にある試聴ディスク一覧(399ページ)をみると、
確かに、ショスタコーヴィチ:交響曲第五番とある。

けれどショスタコーヴィチを試聴用に聴いているのは三浦孝仁氏である。
Selekt DSMを試聴しているのは山本浩司氏である。

試聴ディスク一覧は、試聴に使われたディスク(ファイル)のすべてではないことは、
必ず「他」と記されていることからもわかる。

そうであっても、試聴記に一切出てこないディスク(ファイル)を表示させるのか。
Selekt DSMのひとつ前のページでは、dCSのBartók DACを三浦孝仁氏が紹介している。

そこの試聴記にはショスタコーヴィチと出てくる。

Date: 3月 9th, 2019
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド 210号(その1)

別項「MQAのこと、ステレオサウンドのこと」で、
第一特集は小野寺弘滋/傅 信幸/三浦孝仁/柳沢功力/和田博巳と五十音順なのに、
第二特集は山之内正/土方久明/逆木 一と五十音順ではないことを指摘した。

210号を手にして、既視感もあった。
どこかで見た記憶がある、と。

なので書店に行き、音元出版のNet Audio Vol.33をパラパラめくった。
山之内正、土方久明、逆木 一の三氏は、私のなかでは音元出版の筆者というイメージがあるからだ。
特に山之内正氏は、音元出版の編集者だったことも強く関係している。

Net Audio Vol.33には、ライターズセレクションという記事がある。
山之内 正、土方久明、逆木 一、鈴木 裕、岩井 喬、角田郁雄の六氏が登場されている。
この名前順にである。

そう、最初の三人の登場順とステレオサウンド 210号の第二特集の登場順は一致している。

Date: 1月 24th, 2019
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その4)

黒田先生が、「レコード・トライアングル」のあとがきに書かれている。
     *
 最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本ばかりが多くて——と、さる出版社に勤める友人が、あるとき、なにかのはずみにぼそっといった。もうかなり前のことである。その言葉が頭にこびりついていた。
 その頃はまだぼくの書いたものをまとめて出してくれる出版社があろうとは思ってもいなかった。なるほど、そういうこともいえなくはないななどと、その友人の言葉を他人ごとのようにきいた。
 三浦淳史さんが強く推薦してくださったために、この本が東京創元社から出してもらえることになった。むろん、うれしかった。
     *
音楽評論家、オーディオ評論家にしても、
評論家とつく書き手で、書き下しがある人はどのくらいいるのだろうか。

多くの音楽評論家、オーディオ評論家が、
《最近はあちこちに書きちらしたもの》をまとめて一冊の本として出す。

でも、それすらいまや難しいのではないのか。
特にオーディオ評論家と名乗って現在仕事をしている人たちは、どうだろうか。

《あちこちに書きちらしたもの》が、試聴記や新製品紹介、ベストバイのコメントが主で、
あとはブランド訪問ぐらいだとしたら、
いくら文量は足りていても、一冊の本としてまとめられるだろうか。

そんな本を買う奇特な人はどのくらいいるだろうか。

本を出すことが、評論家ほんらいの仕事ではないことぐらいわかっている。
それでもオーディオ雑誌にあれこれ書いてきても、
一冊の本としてまとめられる内容のものを書いてこなかった、と、
書き手自身がふり返って気づくことこそ残酷なことではないだろうか。

一冊の本としてまとめられなくてもそれでいい、という人もいよう。
オーディオ評論家の仕事なんて、そんなものさ、と割り切れる人ならば、それでいい。

その人が亡くなったら、あっという間に忘れ去られていく。
死んだあとの評価なんて、どうでもいい──、といえば、確かにそうだ。

生きているうちにしっかり稼いでいければそれでいい。
評論家は、ほんとうにそういう考えでいいのだろうか。

書いたものが掲載誌でしか残らない。
オーディオ評論(決してそう呼べないけれども便宜的にそう言う)は、
その程度のことと認識しているのか。

Date: 1月 24th, 2019
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドと幕の内弁当の関係(その1)

『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害)』の(その7)、(その8)で、
ステレオサウンドの幕の内弁当化(これは他の項でも書いている)と、
マス目弁当への進化について書いた。

進化としているが、ほんとうの意味での進化とは、もちろんまったく考えていない。
商業誌として売行きを重視しての進化という意味で使っている。

幕の内弁当化の理由が、特集の内容によって売行きが左右されることをなくすためのものであること、
これもすでに何度か書いている通りである。

けれど、理由はほんとうにこれだけだろうか、とずっと思っていた。

さきほどGoogleで、定食について検索していた。
検索結果で、おもしろいページがあった。
楠木建の偏愛「それだけ定食」――スパゲティ「バジリコだけ定食」を愛する理由』である。

これを読んで、そうか、と納得した。
ステレオサウンドの幕の内弁当化への、もうひとつの理由はここにある、
そう確信できたからだ。
     *
「美味しいものを少しずつ」の不思議
 あくまでも個人的な好き嫌いの話として聞いていただきたい。

 ド中年ともなると「いろいろな美味しいものを少しずつ食べるのがイイですな……」とか言う人が多くなる。ま、わかるような気がしないでもないのだが、本当のところはよくわからない。

 温泉宿に泊まってちょっとずついろいろな料理が出てくるのをゆっくりと食べる。上等上質な料理店でフルコースを食べる。こういうのはたまに経験する分には確かによろしいが、あくまでも非日常。そういう経験の総体というか文脈が楽しかったり嬉しかったりするわけで、僕の場合、「美味しいものを少しずつ」は食そのものに対する欲求にはなり得ない。

 美味しいものであればそれだけを大量に食べたい。ほとんど小学生のようではあるが、これが僕の日常生活の食に対する基本姿勢である。

 食通の人ほど「美味しいものを少しずつ」路線に走る。これが僕には不思議である。本当に美味しくてスキな食べ物であれば、それだけでお腹一杯になるまで、スキなだけ、心ゆくまで、気が済むまで食べたい、と思うのがむしろ普通というか人情なのではないか。

 例外は吉田健一。この人の本を読んでいると、美味しいパンとバターがあれば、他のものには目もくれず、それだけをお腹一杯になるまで食べる、というようなことが書いてあって嬉しくなる。これだけでイイ人であるような気がする。
     *
冒頭を引用した。
楠木建氏のプロフィールには、1964年生れとある。
私より一つ若い方だ。

私も食べることに関しては、まったく楠木建氏と同じである。
《本当に美味しくてスキな食べ物であれば、それだけでお腹一杯になるまで、スキなだけ、心ゆくまで、気が済むまで食べたい》

私もそうである。
そんな私には「いろいろな美味しいものを少しずつ食べるのがイイですな……」と言う人の気持の、
本当のところは理解できてない。
ここも楠木建氏といっしょだ。

中年以降になると、食に関して、そうなる人の方が多いのか。
だとすると、ステレオサウンドの幕の内弁当、マス目弁当への道は、
そういう読者層を相手にしているのであれば、正しい選択ということになるのか。

Date: 1月 16th, 2019
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その3)

私が考えている月刊ステレオサウンドは、文字だけのステレオサウンドだ。
図や写真などが一切なく、文章だけのステレオサウンドである。

なので判型もステレオサウンドのB5ではなく、その半分でいい。
片手でも持てて、じっくりと読む。

こんなことを考えたのは、連載がキーワードだった。
マンガ雑誌では、それぞれのマンガ家が連載を目指している。
連載を勝ち取ったとしても、人気がなければ打ち切りになる。
それまでの実績は関係なしに打ち切られる。

打ち切りになったら、次の連載を勝ち取られなければならない。
どんな雑誌でもページ数という物理的制約がある以上、
何かが打ち切りになれば、別のマンガ家の作品が連載となりページは埋まっていく。

マンガ雑誌とオーディオ雑誌が違うのはわかっている。
そのうえで、オーディオ評論家も、オーディオ雑誌に連載をもつべきではないか、と思う。

そうするには季刊誌ステレオサウンドではページが足りなさすぎる。
それに三ヵ月に一度の連載なんて、ぬるい。
週刊誌とはいわないが、月刊誌での連載である。

ならば月刊ステレオサウンドだ。

端折っているところもあるが、こんなふうに考えての、月刊ステレオサウンドである。

オーディオ評論家に担当編集者が必ず一人つく。
連載のテーマを決め、タイトルを決める。

編集者は一人で、二人か三人のオーディオ評論家を担当することになるだろうが、
取材や試聴は、連載のために原則としてしない。

それからなんらかの評価システムを設ける。
だらだらと連載を続けさせないためにである。

月刊ステレオサウンドの編集長は、
季刊誌ステレオサウンドの編集長とは別にする。別の人がやったほうがいい。

編集者・編集部を分けることは必要ないはずだ。
文章だけの月刊誌だから、最初にフォーマットをきちんと作り上げておけば、
原稿があがってきてからの作業は、さほど手間ではないはず。

Date: 1月 14th, 2019
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その2)

月刊のオーディオ雑誌といえば、
音楽之友社のステレオがある。
技術系のオーディオ雑誌としては、誠文堂新光社の無線と実験がある。
書店売りはしなくなったが、ラジオ技術もある。

月刊ステレオサウンドと書いてしまうと、
ステレオのようなイメージを思い浮べる人もいるかもしれない。
私がイメージしている月刊ステレオサウンドは、
季刊誌ステレオサウンドの弟分的な存在とか、
劣化版としての月刊誌ということでは、まったくない。

株式会社ステレオサウンドは、以前サウンドボーイという月刊誌を出していた。
このサウンドボーイも、私が考えている月刊ステレオサウンドとはまったく違う。

私がマンガを積極的に読むことは、これまでにも書いている。
マンガ雑誌は、メインとして週刊誌である。
少年ジャンプとか、少年マガジン、少年サンデー、少年チャンピオンなどがある。

これらには週刊誌のほかに、月刊誌も存在する。
月刊マガジン、月刊ジャンプなどがそうだ。

だからといって、
これらマンガ雑誌のような意味での月刊ステレオサウンドでもない。

私がいいたいのは、
マンガ雑誌におけるマンガ家と編集者との関係の深さというか強さ的なことを考えてのことだ。

マンガ雑誌では、マンガ家一人に担当編集者が必ずつく。
マンガ家と編集者との関係については、
インターネットにはいくつかの記事がある。
興味のある人は検索して読んでみてほしいし、
以前、別項で紹介した「バクマン。」というマンガも、
そのあたりのことが興味深く描かれている。

私は前々から、マンガ雑誌のような編集者のありかたが、
オーディオ雑誌ではやれないのか、と思っていた。

季刊誌ステレオサウンドのように、特集記事があって、
新製品紹介の記事があって、その他にいくつかの記事があるという状況では、
まず無理といえる。

ならばどうすればそういうことができるのか、といえば、
その答が月刊ステレオサウンドである。