Date: 6月 6th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド
Tags:

編集者の悪意とは(その1)

悪意をまったく持たない人がいるとは、私には思えない。
編集者もまた人間であるから、編集という行為に、
まったく悪意が現れないと言い切れるだろうか。

雑誌に掲載される写真。
たった一枚しか撮らないということはまずない。
特に試聴風景や、試聴者の集合写真など、人物を撮る場合には、何カットか必ず撮る。

おそらく、いまのステレオサウンドもそうはずだ。
複数枚のカットから、誌面に載せるカットを選ぶ。
編集者が選ぶ。いまもそのはずだ。

ステレオサウンド 211号の119ページの写真を見て、
この写真を選んだ編集者の悪意のようなものを、私は感じた。

このカット、1カットしか撮影していない、ということはないはずだ。
なのに、この一枚を選んで載せるのか──。

小野寺弘滋氏の座り方と脚の開きぐあい。
こんな一枚を選ぶ必要性は、どこにあるのか。

柳沢功力、和田博巳、三浦孝仁、三氏の座り方、脚の開きぐあいと見較べなくとも、
この写真はひどい、と多くの人が感じるはずだ。

この写真を選んだ編集者は、何も感じずに、このカットを選んだのか。
そうだとしたら、その編集者は、写真の選択だけでなく、
他のことでも、その程度の選択をしているのかもしれないし、
あえて、このカットを選んだとしたら──、
それは編集者の悪意のようにしか感じられない。

Leave a Reply

 Name

 Mail

 Home

[Name and Mail is required. Mail won't be published.]