素材考(ガラス振動板・その2)
1月発売のステレオ 2月号の第二特集は、「DIYスピーカーで冬ごもり」。
マークオーディオから発売になるガラス振動板のフルレンジユニットが取り上げられている。
このフルレンジユニットがうまくいってくれれば、
ガラス振動板のウーファーも出てくる可能性もある。
フルレンジユニットだけでなく、ウーファーでどんな音が聴けるのか。
現実としては、ウーファーよりもトゥイーターの採用が先だろうけど。
1月発売のステレオ 2月号の第二特集は、「DIYスピーカーで冬ごもり」。
マークオーディオから発売になるガラス振動板のフルレンジユニットが取り上げられている。
このフルレンジユニットがうまくいってくれれば、
ガラス振動板のウーファーも出てくる可能性もある。
フルレンジユニットだけでなく、ウーファーでどんな音が聴けるのか。
現実としては、ウーファーよりもトゥイーターの採用が先だろうけど。
これまでにガラスを振動板に採用したモノは、少数ながらもあった。
ガラス製のエンクロージュアもあった。
ガラスと言っても、さまざまな種類があって、
改良もされていることは、誰でも容易に想像できる。
特にスマートフォンの普及は、ガラスという素材をかなり進歩させていることだろうし、
その種類も増やしていることだろう。
なので、またガラスの振動板を採用したスピーカーが登場するかも、と期待していたから、
昨晩、検索してみたら、見つかった。
Dinorex UTGという素材である。
詳しいことはリンク先を読んでほしい。
なかなか面白そうな素材だ。
おそらくなのだが、
来年登場予定のマークオーディオのフルレンジユニットは、
ガラスの振動板とのことだから、
このDinorex UTGを採用しているのだろう。
その音を聴ける日は、早くやってきそうだ。
数年前に友人宅に遊びに行った時、テレビで日本のドラマを見ていた。
そこに出てくる男優の一人の口元が、つねに口角が上っているのが、気になった。
辛そうな表情を演じている時でも、口角が上っている。
どんな表情の時でも、そうなのだ。
だからなのか、その男優の演技・表情に違和感を覚えた。
いつのころからか口角を上げよう、みたいなことがいわれ始めた。
ヘの字に曲げてぶすっとしているよりは、いい印象を与えるだろうが、
その男優のように、ずーっと口角が上りっ放しでは、もうおかしい、というか、
笑う場面でもないに、つい笑いたくなってくる。
ドラマのスタッフは、誰も何もいわなかったのか。
そういえば、つい先日も口角を上げっ放しの人がいた。
人前で話すこともある仕事をしている人だ。
もう、ずーっと口角が上っている。
話していない時も話している時もそうである。
もう不自然な表情である。
少なくとも私はそう感じていた。
その人は、見た目を重視しているのだろうか。
そういえば「人は見た目が9割」という書籍が売れている、ともきいている。
その人は、鏡の前で口角を上げながら話すことを練習しているのか。
そんなことを思いながら、その人の話を聞いていた。
(その25)で、アルカイックスマイルのことを書いた。
アルカイックスマイルとは、辞書には、
《古典の微笑。ギリシャの初期の彫刻に特有の表情。唇の両端がやや上向きになり、微笑みを浮かべたようにみえる》
とある。
唇の両端が上向きになるのだから、口角を上げた表情ではあるが、
上に挙げた二人の男性の表情は、アルカイックスマイルではない。
Naivete in grownups is often charming. But when coupled with vanity, it is indistinguishable from stupidity.
大人の純朴さ(素朴さ)は、魅力的な場合があるが、
虚栄心(うぬぼれ)がついてくれば愚かさと区別がつかなくなる。
エリック・ホッファーのことばだ。
ドキッとさせられる。
オーディオは時として虚栄心(うぬぼれ)と結びつきやすい。
「素朴な音、素朴な組合せ」というテーマで書いているだけに、考えさせられる。
アルカイック(archaïque)、
古拙な。古風な。アーケイック。[美術発展の初期の段階、特に紀元前七世紀から紀元前五世紀頃の妓社美術についていう。生硬・峻厳・素朴・生命力のたくましさなどをその様式的特色とする]
と大辞林にある。
子項目としてアルカイックスマイルがある。
古典の微笑。ギリシャの初期の彫刻に特有の表情。唇の両端がやや上向きになり、微笑みを浮かべたようにみえる。
と説明されている。
シングルボイスコイルのフルレンジスピーカーを聴いても、
私の耳は日本製のユニットよりも、海外製のユニット、
特にフィリップスのユニットの音に惹かれてしまう理由についてあれこれ考えていて、
長々と言葉を費やして説明するよりも、
何かぴったりくる言葉がないだろうかと考えていた。
私が20代までに聴いたフルレンジは、素朴といえる音をもっていた。
その中でも、フィリップスのユニットは、アルカイックな音といえる要素がある。
マルチウェイのスピーカーシステムではなく、フルレンジユニットである。
しかも同軸型ではなくシングルボイスコイルのフルレンジユニットである。
フレームも磁気回路も物量を投入したつくりではない。
コーン紙も特殊な素材を使っているわけではない。
真似をしようと思えばすぐにも真似できそうなつくりであっても、
出てくる音は誰にも真似ることのできないアルカイックな表情が、
フィリップスの当時のユニットにはあった。
フィリップスのフルレンジユニット以外にも、いくつかのフルレンジユニットの音は、
いまもういちど聴きたい、と思うことがある。
それらのほぼすべては海外製のフルレンジユニットである。
日本にも優秀なフルレンジユニットがあったことは知っているし、
そのいくつかは音も聴いている。
フルレンジユニットだからどんなに優秀であっても、
より優秀なマルチウェイのスピーカーシステムの音と比較すれば、
そしてオーディオマニア的な細かな音の聴き方をすれば、あそこもここもと、いろんなことを指摘できる。
その意味では、マルチウェイのスピーカーシステムの出来のいいモノとそうでないモノとの音の差と比較すれば、
フルレンジユニットの出来のいいモノとそうでないモノとの音の差は小さい。
そういうフルレンジユニットの中で、海外製(それもヨーロッパ製)のモノと日本のモノ、
どちらも優秀なフルレンジユニット同士を鳴らしても、私の耳は海外製のフルレンジユニットに惹かれるのは、
それは素朴な音だから、だけでは語ったことにはならない。
日本製の優秀なフルレンジユニットの音もまた素朴な良さをきちんと持っているからだ。
そのことはわかっている。
わかっていても、私の聴き方では、
海外製のフルレンジユニットが、素朴な音ということで最初にイメージしてしまう。
ここでもその理由は、別項で書いている「薫り立つ」ということに関係してくる。
この項のつづきを書こうとして、いま考えていることに、
素朴な音と近い音として、正直な音、というのがあって、
この正直な音を、これまで意識してこなかったけれど、ずっと求めてきた・探してきたような気がしている。
オーディオは、ある意味で虚であるからこそ。
フィリップスのスピーカーの輸入元は、1970年代はオルトフォンの輸入元でもあったオーディオニックスである。
そのオーディオニックスが1971年ごろにオーディオ雑誌に伍していた広告に、
「ヨーロッパ・サウンドの歴史を築きあげてきた」というキャッチコピーとともに、
フィリップスのスピーカーが、イタリアのスカラ座、パリの王室劇場、ニューヨークのアメリカンホール、
日本の日生劇場で使われている、とも書かれていた。
フィリップスの、どのスピーカーシステムが使われていたのか、詳細までは書いてなかった。
広告からは、それぞれのホールでモニター用として使われていたとあるから、
オーディオニックスが当時輸入していたコンシューマー用のシステムではなく、
プロ用のスピーカーシステムが別に存在していたのかもしれない。
何がどう使われていたのかよりも私が興味を惹かれたのは、
「ヨーロッパ・サウンドの歴史を築きあげてきた」というキャッチコピーだった。
オーディオニックスの広告のとおり、
フィリップスのスピーカーが「ヨーロッパ・サウンドを築きあげてきた」のかどうかはなんともいえない。
けれど、素朴の「素」という漢字には、
より糸にする前のもとの繊維、つまり蚕から引き出した絹の原糸、というところからきており、
人の手によって何かを後から加えたり結合させたりする前の素(もと)となるもの、という意味がある。
「ヨーロッパ・サウンドを築きあげてきた」──、
オーディオニックスがこのキャッチコピーとともに紹介していたのは、
フィリップスのフルレンジユニットだけを搭載したシステムだった。
この広告に携わった人が、どこまで深く考えていたのかはわからないし、
広告だから、こんなふうに書いていることもわかっていながらも、
たしかにそうだな、と納得していた。
素朴とは、粗末で飾り気のないことをいう。
私がここでつかっている素朴には、粗末という意味は込めていない。
飾り気のない、ありのままというニュアンスで使っているわけであり、
飾り気のない、ありのままの意味では、化粧をしない顔、つまり素顔が、
やはり「素」がつく言葉である。
フィリップスのフルレンジユニットの音は、個性的だと書いた。
確かにいま思い出してみても個性的とはいえる。
けれど、その音が化粧の濃い、いわばややけばけばしいところを感じさせる音だったかというと、
けっしてそういうふうには感じていなかった。
化粧の濃い音だったわけではない。
むしろ化粧をほとんどしていない顔のような音だったのかもしれない。
あの音を、いま聴いたら、そう判断するような気がしてならない。
つまり日本人の顔しか見ていない目で見た時の、
非常に彫りの深い欧米人の顔を見た時のような、
いわば化粧をしていなくともメリハリのきいた顔とでもいおうか、
そういうところを感じさせる音が、フィリップスのフルレンジユニットの特徴だったような気がする。
そうだとしたら、フィリップスの、あの個性の強い音も実は素朴な音のひとつだったような気がするし、
対照的な日本人の顔的な素朴な音のフルレンジユニットは、やはりダイヤトーンのP610ということになる。
オーディオは音楽を聴くものであるから、
聴く音楽(再生するディスク)によって、その表情をがらりと変えてくれないと困る。
音楽はひとときたりとも同じ音、同じ表情をしていない。
つねに変化していく。同じフレーズをくり返していてもまったく同じということはない。
録音では、同じフレーズのくり返しに最初のフレーズの演奏をそのまま使うこともできる。
そうすれば物理的にはまったく同じフレーズであり、そのくり返しになるといえるわけだが、
音楽としては、そのくり返しのフレーズの前後に出てくる別のフレーズによって、
まったく同じくり返しであっても、聴き手にとっては、音楽的にはまったく同じくり返しにはならない。
だから千変万化していく音を、オーディオに求めるし、音の判断の重要なポイントでもある。
いわゆる音色的魅力の濃厚な、特にスピーカーシステムにおいては、
その音色の濃さが音楽の表情の変化への対応を鈍らせてしまうことになる。
スピーカーシステムには、どんなスピーカーシステムであろうと固有の音色がある。
その固有の音色は、オーディオを介して音楽を聴く上では、
必ずしも不要なものであったり、悪であったりするわけではない。
録音から再生までを広く眺めたときには、その固有の音色はうまく作用することがあるからだ。
このことについて述べていくと長くなってしまうから、ここではこれ以上書かないが、
そうであっても濃すぎる音色は、過剰であり、その音色が支配的になってしまうことが多い。
そうなってしまうと、音(音色)を聴いているのか、音楽を聴いているのか、その境が曖昧になる。
聴き手として音楽を聴くこと(再生すること)を最優先すれば、濃すぎる音色は邪魔になる。
とはいうものの、音色の魅力は、オーディオマニアにとっては格別のものがある。
良質の好きな音色がたっぷりと出てくれれば、音楽の聴き手としての強い気持が揺らいでしまうところが、
すくなくとも私にはある。
私にとって以前のBBCモニター系列のスピーカーシステムの音がそうだし、
フィリップスのフルレンジユニットの音がまさにそういう存在である。
その音を聴いて、コロッと参ってしまったフィリップスのフルレンジユニットはAD7063/M8である。
17.8cm口径のダブルコーンの、このフルレンジをおさめた知人による自作スピーカーから出てきた音は、
冷静に判断すれば非常に個性的な音であり、この音がダメな人にとっては癖の強い音ともなろう。
フィリップスのユニットは、素直な音、癖の少ない音を出そうとしてつくられたスピーカーユニットではないことは、
誰の耳にはっきりとわかるくらいに、その音は人工的な、といいたいところがあり、
この音が好きな者にとってはなんとも心地よく、巧みな音の美しさ、とも思えてくる。
プレス製のフレームに、ダブルコーン仕様、価格も1979年当時で6500円。
物量を投入したつくりではないし、高性能を追求したユニットではない。
周波数特性のグラフをみても、音を聴いても、ワイドレンジを狙ったものではない。
すべてがほどほどに、バランス良くうまくまとめられたユニットであるから、
このAD7063/M8で高忠実度再生を目指そうとは思わないし、
たとえばこのユニットから始めて、トゥイーターを追加してその次にはウーファー……、
といった瀬川先生が発表されている発展的4ウェイ自作スピーカーに使いたいとは思わない。
このフルレンジユニットは、もうこれ一本だけで使おう、というところで心が落ち着く。
なぜ、そういう気持になるのかといえば、フィリップスのフルレンジユニットの音には、
このユニット、この音ならではの説得力があるからではないだろうか。
それだけにカルショウの録音への意気込みは、すごいものだったと想像できる。
そして意気込みが強すぎてしまうと、
「意を尽くす」よりも「意を凝らす」ことのほうが前面に出てきてしまうのかも知れない。
誰しもがいい音で音楽を聴きたいと思うから、いい音を出したい、と思うわけだが、
いい音を出してやろう、と意気込んだときに、その音は素朴から遠ざかってしまうのではないだろうか。
いい音を出したいという気持は大事なことであっても、過剰な意気込みになってしまえば、
なにか違うものを生み出してしまう、そんな気もする。
それは時には音を表現する上での冗長性へ、とつながり関係していくのではないだろうか。
音だけの再生の世界において冗長性を否定はしない。
けれど、素朴な音とは、冗長性を有しない音、さらには冗長性を必要としない音だと思ってきている。
ここまで書いてきて、ふと頭に浮かんできたスピーカーユニットがある。
フィリップスの20年以上前のフルレンジユニット、AD7063/M8だ。
AD7063/M8は7インチ(17.8cm)口径のダブルコーンのユニットで、
フレーム形状は八角形で、5インチ(12.7cm)口径のAD5061/M8も同じフレーム形状である。
フィッリプスにはこのふたつのフルレンジの他に、
9インチ口径のAD9710/M8と12インチ口径のAD12100/M8があり、このふたつのフレーム形状は円。
このフレームの形状の違いは、ユニットの特性の違いを表していて、
八角形フレームのAD7063/M8とAD5061/M8は推奨エンクロージュア容積は、25リットル以下と7リットル以下、
円フレームのAD9710/M8とAD12100/M8は、30リットル以上と50リットル以上、とカタログには記載されている。
八角形フレームのユニットはf0がやや高めで、インピーダンスカーヴのf0の山が低い。
円フレームのユニットはf0も低めで、インピーダンスのf0の山も高い。
そういう違いが、推奨エンクロージュア容積の「以下」と「以上」の違いになっているわけだ。
私が耳にしたことのあるのは八角形のユニットだけで、円ユニットのほうは聴いたことがない。
だから、私が書いていくフィッリプスのフルレンジのことは、八角形フレームのユニットの方だ。
「フィガロの結婚」
プロデューサーは、Peter Andry, Victor Olof
バランスエンジニアは、James Brown, Cyrill Windebank
「ラインの黄金」
プロデューサーは、John Culshaw, Erik Smith
バランスエンジニアは、Gordon Parry, James Brown
「ワルキューレ」
プロデューサーは、John Culshaw
パランスエンジニアは、James Lock, Gordon Parry, James Brown
ドイツ・グラモフォンのサイトで得られる情報では上記のようになっている。
「ジークフリート」、「神々の黄昏」ではJohn Culshawの名のみがあるだけ。
カルショウが率いる録音スタッフが、意を尽くした、と書いた。
その意を尽くした録音と対照的と書いたエーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」の録音スタッフも、
また意を尽くして「フィガロの結婚」を残した、と思っている。
なのに対照的と私が受けとめるのは、その「意を尽くした」が双方の録音スタッフでは同じではないこと。
そしてカルショウのほうには、
「意を尽くした」ところとともに「意を凝らした」といいたくなるところも感じられなくもない。
カルショウがデッカに残した録音には、
意を尽くしたところと、凝らしたところが綯交ぜになっている。
これはカルショウの美意識が生み出したものように感じられてならない。
そしてそうなってしまうのは、カルショウが、
ほかのプロデューサーよりも録音の可能性を信じ賭けていたからなのかもしれない。
カルショウが「自分がドラマの中にいるという感じ」を強めるためにデッカでやってきたことの数々は、
つまりソニック・ステージを実現するための創意工夫は、つねにその時代の録音技術で可能な、
ときにはその時代時代の録音技術の限界を打ち破ろうとしてきた、といえるかもしれない。
それは、その時代での最高の技術であろうとしていたのかもしれない。
ただ、そのことがときが経つことによって、古さと変質していくこともある。
録音技術もつねに進歩している。器材の進歩、録音テクニックの進歩によって、
最新録音だったものは、いずれ最新録音ではなくなってしまう。
レコーディングの可能性を信じていたカルショウにとって、
録音という行為は、熟成された技術だけを使って冒険を拒否した行為ではなかったはず。
だからカルショウの録音は、そのすべてが、とはいわないけれど、
やはり後から登場したより進んだ、
優れた技術・器材を駆使した録音に追い越されてしまう宿命的な面も併せ持っている。
ここは、同じデッカでもエーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」と対照的なところでもある。
カルショウの録音では、あるひとつの録音の中でも、いま聴くと古さにつながってしまうところがあるのは、
否定できなかったりする。
同じ意味で、テラークの「1812年」の大砲の音も、いま聴くとどう感じるのだろうか、と思ってしまう。
それでもテラークの「1812年」とカルショウが残した録音の数々の違いは、
カルショウの録音は、それはカルショウとしての意を尽くしたものであることが、
いまも聴き続けられている理由のであるはずだし、
一方で、カラヤンが「オテロ」を再録音する理由にもなっている、と考えたくなる。
意を尽くすことは、カルショウの美意識ゆえであり、
そのカルショウの美意識と、そして、もうひとりの強烈な美意識の持主であるカラヤン、
このふたりの美意識が衝突しないはずがない。
素朴な音、素朴な組合せについて書いていて、
ふと素朴な音、素朴な組合せ、これらを英語で表現するとしたら、どうなるのか。
素朴を和英辞典でひくと、simplicity, nativeとなる。
でも、私がここで書いていきたいと感じている「素朴な音」と、
このふたつの英単語が表しきっているといえない何か(もどかしさ)を感じる。
もっとぴったりくる言葉があるはず、と、この項を書きはじめたころから思っていた。
先日、やっと、その言葉にあえた。
タイムレスだ。
素朴な音はタイムレス・サウンドと、
素朴な組合せはタイムレス・オーディオと、呼ぶことで、書きたいことが明確になってきた。