Archive for category 素朴

Date: 10月 9th, 2016
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その25)

アルカイック(archaïque)、
古拙な。古風な。アーケイック。[美術発展の初期の段階、特に紀元前七世紀から紀元前五世紀頃の妓社美術についていう。生硬・峻厳・素朴・生命力のたくましさなどをその様式的特色とする]
と大辞林にある。

子項目としてアルカイックスマイルがある。
古典の微笑。ギリシャの初期の彫刻に特有の表情。唇の両端がやや上向きになり、微笑みを浮かべたようにみえる。
と説明されている。

シングルボイスコイルのフルレンジスピーカーを聴いても、
私の耳は日本製のユニットよりも、海外製のユニット、
特にフィリップスのユニットの音に惹かれてしまう理由についてあれこれ考えていて、
長々と言葉を費やして説明するよりも、
何かぴったりくる言葉がないだろうかと考えていた。

私が20代までに聴いたフルレンジは、素朴といえる音をもっていた。
その中でも、フィリップスのユニットは、アルカイックな音といえる要素がある。

マルチウェイのスピーカーシステムではなく、フルレンジユニットである。
しかも同軸型ではなくシングルボイスコイルのフルレンジユニットである。

フレームも磁気回路も物量を投入したつくりではない。
コーン紙も特殊な素材を使っているわけではない。
真似をしようと思えばすぐにも真似できそうなつくりであっても、
出てくる音は誰にも真似ることのできないアルカイックな表情が、
フィリップスの当時のユニットにはあった。

Date: 5月 6th, 2014
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その24)

フィリップスのフルレンジユニット以外にも、いくつかのフルレンジユニットの音は、
いまもういちど聴きたい、と思うことがある。
それらのほぼすべては海外製のフルレンジユニットである。

日本にも優秀なフルレンジユニットがあったことは知っているし、
そのいくつかは音も聴いている。

フルレンジユニットだからどんなに優秀であっても、
より優秀なマルチウェイのスピーカーシステムの音と比較すれば、
そしてオーディオマニア的な細かな音の聴き方をすれば、あそこもここもと、いろんなことを指摘できる。

その意味では、マルチウェイのスピーカーシステムの出来のいいモノとそうでないモノとの音の差と比較すれば、
フルレンジユニットの出来のいいモノとそうでないモノとの音の差は小さい。

そういうフルレンジユニットの中で、海外製(それもヨーロッパ製)のモノと日本のモノ、
どちらも優秀なフルレンジユニット同士を鳴らしても、私の耳は海外製のフルレンジユニットに惹かれるのは、
それは素朴な音だから、だけでは語ったことにはならない。

日本製の優秀なフルレンジユニットの音もまた素朴な良さをきちんと持っているからだ。
そのことはわかっている。
わかっていても、私の聴き方では、
海外製のフルレンジユニットが、素朴な音ということで最初にイメージしてしまう。

ここでもその理由は、別項で書いている「薫り立つ」ということに関係してくる。

Date: 8月 24th, 2013
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(正直な音)

この項のつづきを書こうとして、いま考えていることに、
素朴な音と近い音として、正直な音、というのがあって、
この正直な音を、これまで意識してこなかったけれど、ずっと求めてきた・探してきたような気がしている。

オーディオは、ある意味で虚であるからこそ。

Date: 5月 24th, 2013
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その23)

フィリップスのスピーカーの輸入元は、1970年代はオルトフォンの輸入元でもあったオーディオニックスである。
そのオーディオニックスが1971年ごろにオーディオ雑誌に伍していた広告に、
「ヨーロッパ・サウンドの歴史を築きあげてきた」というキャッチコピーとともに、
フィリップスのスピーカーが、イタリアのスカラ座、パリの王室劇場、ニューヨークのアメリカンホール、
日本の日生劇場で使われている、とも書かれていた。

フィリップスの、どのスピーカーシステムが使われていたのか、詳細までは書いてなかった。
広告からは、それぞれのホールでモニター用として使われていたとあるから、
オーディオニックスが当時輸入していたコンシューマー用のシステムではなく、
プロ用のスピーカーシステムが別に存在していたのかもしれない。

何がどう使われていたのかよりも私が興味を惹かれたのは、
「ヨーロッパ・サウンドの歴史を築きあげてきた」というキャッチコピーだった。

オーディオニックスの広告のとおり、
フィリップスのスピーカーが「ヨーロッパ・サウンドを築きあげてきた」のかどうかはなんともいえない。
けれど、素朴の「素」という漢字には、
より糸にする前のもとの繊維、つまり蚕から引き出した絹の原糸、というところからきており、
人の手によって何かを後から加えたり結合させたりする前の素(もと)となるもの、という意味がある。

「ヨーロッパ・サウンドを築きあげてきた」──、
オーディオニックスがこのキャッチコピーとともに紹介していたのは、
フィリップスのフルレンジユニットだけを搭載したシステムだった。

この広告に携わった人が、どこまで深く考えていたのかはわからないし、
広告だから、こんなふうに書いていることもわかっていながらも、
たしかにそうだな、と納得していた。

Date: 5月 16th, 2013
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その22)

素朴とは、粗末で飾り気のないことをいう。
私がここでつかっている素朴には、粗末という意味は込めていない。
飾り気のない、ありのままというニュアンスで使っているわけであり、
飾り気のない、ありのままの意味では、化粧をしない顔、つまり素顔が、
やはり「素」がつく言葉である。

フィリップスのフルレンジユニットの音は、個性的だと書いた。
確かにいま思い出してみても個性的とはいえる。
けれど、その音が化粧の濃い、いわばややけばけばしいところを感じさせる音だったかというと、
けっしてそういうふうには感じていなかった。

化粧の濃い音だったわけではない。
むしろ化粧をほとんどしていない顔のような音だったのかもしれない。
あの音を、いま聴いたら、そう判断するような気がしてならない。

つまり日本人の顔しか見ていない目で見た時の、
非常に彫りの深い欧米人の顔を見た時のような、
いわば化粧をしていなくともメリハリのきいた顔とでもいおうか、
そういうところを感じさせる音が、フィリップスのフルレンジユニットの特徴だったような気がする。

そうだとしたら、フィリップスの、あの個性の強い音も実は素朴な音のひとつだったような気がするし、
対照的な日本人の顔的な素朴な音のフルレンジユニットは、やはりダイヤトーンのP610ということになる。

Date: 5月 2nd, 2012
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その22)

オーディオは音楽を聴くものであるから、
聴く音楽(再生するディスク)によって、その表情をがらりと変えてくれないと困る。

音楽はひとときたりとも同じ音、同じ表情をしていない。
つねに変化していく。同じフレーズをくり返していてもまったく同じということはない。

録音では、同じフレーズのくり返しに最初のフレーズの演奏をそのまま使うこともできる。
そうすれば物理的にはまったく同じフレーズであり、そのくり返しになるといえるわけだが、
音楽としては、そのくり返しのフレーズの前後に出てくる別のフレーズによって、
まったく同じくり返しであっても、聴き手にとっては、音楽的にはまったく同じくり返しにはならない。

だから千変万化していく音を、オーディオに求めるし、音の判断の重要なポイントでもある。
いわゆる音色的魅力の濃厚な、特にスピーカーシステムにおいては、
その音色の濃さが音楽の表情の変化への対応を鈍らせてしまうことになる。

スピーカーシステムには、どんなスピーカーシステムであろうと固有の音色がある。
その固有の音色は、オーディオを介して音楽を聴く上では、
必ずしも不要なものであったり、悪であったりするわけではない。
録音から再生までを広く眺めたときには、その固有の音色はうまく作用することがあるからだ。
このことについて述べていくと長くなってしまうから、ここではこれ以上書かないが、
そうであっても濃すぎる音色は、過剰であり、その音色が支配的になってしまうことが多い。

そうなってしまうと、音(音色)を聴いているのか、音楽を聴いているのか、その境が曖昧になる。

聴き手として音楽を聴くこと(再生すること)を最優先すれば、濃すぎる音色は邪魔になる。
とはいうものの、音色の魅力は、オーディオマニアにとっては格別のものがある。
良質の好きな音色がたっぷりと出てくれれば、音楽の聴き手としての強い気持が揺らいでしまうところが、
すくなくとも私にはある。

私にとって以前のBBCモニター系列のスピーカーシステムの音がそうだし、
フィリップスのフルレンジユニットの音がまさにそういう存在である。

Date: 5月 2nd, 2012
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その21)

その音を聴いて、コロッと参ってしまったフィリップスのフルレンジユニットはAD7063/M8である。
17.8cm口径のダブルコーンの、このフルレンジをおさめた知人による自作スピーカーから出てきた音は、
冷静に判断すれば非常に個性的な音であり、この音がダメな人にとっては癖の強い音ともなろう。

フィリップスのユニットは、素直な音、癖の少ない音を出そうとしてつくられたスピーカーユニットではないことは、
誰の耳にはっきりとわかるくらいに、その音は人工的な、といいたいところがあり、
この音が好きな者にとってはなんとも心地よく、巧みな音の美しさ、とも思えてくる。

プレス製のフレームに、ダブルコーン仕様、価格も1979年当時で6500円。
物量を投入したつくりではないし、高性能を追求したユニットではない。
周波数特性のグラフをみても、音を聴いても、ワイドレンジを狙ったものではない。

すべてがほどほどに、バランス良くうまくまとめられたユニットであるから、
このAD7063/M8で高忠実度再生を目指そうとは思わないし、
たとえばこのユニットから始めて、トゥイーターを追加してその次にはウーファー……、
といった瀬川先生が発表されている発展的4ウェイ自作スピーカーに使いたいとは思わない。

このフルレンジユニットは、もうこれ一本だけで使おう、というところで心が落ち着く。

なぜ、そういう気持になるのかといえば、フィリップスのフルレンジユニットの音には、
このユニット、この音ならではの説得力があるからではないだろうか。

Date: 4月 22nd, 2012
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その20)

それだけにカルショウの録音への意気込みは、すごいものだったと想像できる。
そして意気込みが強すぎてしまうと、
「意を尽くす」よりも「意を凝らす」ことのほうが前面に出てきてしまうのかも知れない。

誰しもがいい音で音楽を聴きたいと思うから、いい音を出したい、と思うわけだが、
いい音を出してやろう、と意気込んだときに、その音は素朴から遠ざかってしまうのではないだろうか。

いい音を出したいという気持は大事なことであっても、過剰な意気込みになってしまえば、
なにか違うものを生み出してしまう、そんな気もする。

それは時には音を表現する上での冗長性へ、とつながり関係していくのではないだろうか。

音だけの再生の世界において冗長性を否定はしない。
けれど、素朴な音とは、冗長性を有しない音、さらには冗長性を必要としない音だと思ってきている。

ここまで書いてきて、ふと頭に浮かんできたスピーカーユニットがある。
フィリップスの20年以上前のフルレンジユニット、AD7063/M8だ。

AD7063/M8は7インチ(17.8cm)口径のダブルコーンのユニットで、
フレーム形状は八角形で、5インチ(12.7cm)口径のAD5061/M8も同じフレーム形状である。
フィッリプスにはこのふたつのフルレンジの他に、
9インチ口径のAD9710/M8と12インチ口径のAD12100/M8があり、このふたつのフレーム形状は円。

このフレームの形状の違いは、ユニットの特性の違いを表していて、
八角形フレームのAD7063/M8とAD5061/M8は推奨エンクロージュア容積は、25リットル以下と7リットル以下、
円フレームのAD9710/M8とAD12100/M8は、30リットル以上と50リットル以上、とカタログには記載されている。

八角形フレームのユニットはf0がやや高めで、インピーダンスカーヴのf0の山が低い。
円フレームのユニットはf0も低めで、インピーダンスのf0の山も高い。
そういう違いが、推奨エンクロージュア容積の「以下」と「以上」の違いになっているわけだ。

私が耳にしたことのあるのは八角形のユニットだけで、円ユニットのほうは聴いたことがない。
だから、私が書いていくフィッリプスのフルレンジのことは、八角形フレームのユニットの方だ。

Date: 9月 24th, 2011
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その19)

「フィガロの結婚」
プロデューサーは、Peter Andry, Victor Olof
バランスエンジニアは、James Brown, Cyrill Windebank

「ラインの黄金」
プロデューサーは、John Culshaw, Erik Smith
バランスエンジニアは、Gordon Parry, James Brown

「ワルキューレ」
プロデューサーは、John Culshaw
パランスエンジニアは、James Lock, Gordon Parry, James Brown

ドイツ・グラモフォンのサイトで得られる情報では上記のようになっている。
「ジークフリート」、「神々の黄昏」ではJohn Culshawの名のみがあるだけ。

カルショウが率いる録音スタッフが、意を尽くした、と書いた。
その意を尽くした録音と対照的と書いたエーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」の録音スタッフも、
また意を尽くして「フィガロの結婚」を残した、と思っている。

なのに対照的と私が受けとめるのは、その「意を尽くした」が双方の録音スタッフでは同じではないこと。
そしてカルショウのほうには、
「意を尽くした」ところとともに「意を凝らした」といいたくなるところも感じられなくもない。

カルショウがデッカに残した録音には、
意を尽くしたところと、凝らしたところが綯交ぜになっている。
これはカルショウの美意識が生み出したものように感じられてならない。
そしてそうなってしまうのは、カルショウが、
ほかのプロデューサーよりも録音の可能性を信じ賭けていたからなのかもしれない。

Date: 9月 23rd, 2011
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その18)

カルショウが「自分がドラマの中にいるという感じ」を強めるためにデッカでやってきたことの数々は、
つまりソニック・ステージを実現するための創意工夫は、つねにその時代の録音技術で可能な、
ときにはその時代時代の録音技術の限界を打ち破ろうとしてきた、といえるかもしれない。

それは、その時代での最高の技術であろうとしていたのかもしれない。
ただ、そのことがときが経つことによって、古さと変質していくこともある。
録音技術もつねに進歩している。器材の進歩、録音テクニックの進歩によって、
最新録音だったものは、いずれ最新録音ではなくなってしまう。

レコーディングの可能性を信じていたカルショウにとって、
録音という行為は、熟成された技術だけを使って冒険を拒否した行為ではなかったはず。
だからカルショウの録音は、そのすべてが、とはいわないけれど、
やはり後から登場したより進んだ、
優れた技術・器材を駆使した録音に追い越されてしまう宿命的な面も併せ持っている。

ここは、同じデッカでもエーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」と対照的なところでもある。
カルショウの録音では、あるひとつの録音の中でも、いま聴くと古さにつながってしまうところがあるのは、
否定できなかったりする。
同じ意味で、テラークの「1812年」の大砲の音も、いま聴くとどう感じるのだろうか、と思ってしまう。

それでもテラークの「1812年」とカルショウが残した録音の数々の違いは、
カルショウの録音は、それはカルショウとしての意を尽くしたものであることが、
いまも聴き続けられている理由のであるはずだし、
一方で、カラヤンが「オテロ」を再録音する理由にもなっている、と考えたくなる。

意を尽くすことは、カルショウの美意識ゆえであり、
そのカルショウの美意識と、そして、もうひとりの強烈な美意識の持主であるカラヤン、
このふたりの美意識が衝突しないはずがない。

Date: 8月 2nd, 2011
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(タイムレスということば)

素朴な音、素朴な組合せについて書いていて、
ふと素朴な音、素朴な組合せ、これらを英語で表現するとしたら、どうなるのか。

素朴を和英辞典でひくと、simplicity, nativeとなる。
でも、私がここで書いていきたいと感じている「素朴な音」と、
このふたつの英単語が表しきっているといえない何か(もどかしさ)を感じる。
もっとぴったりくる言葉があるはず、と、この項を書きはじめたころから思っていた。

先日、やっと、その言葉にあえた。
タイムレスだ。

素朴な音はタイムレス・サウンドと、
素朴な組合せはタイムレス・オーディオと、呼ぶことで、書きたいことが明確になってきた。

Date: 4月 27th, 2011
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その17)

カラヤンが、もしデッカの「オテロ」を不満に思っているとしたら、
その理由は、やはりカルショウのしかけた録音にある、と思う。

ほんものの大砲の音を使ったことに代表されるように、
デッカの「オテロ」には、カルショウがしかけた録音のおもしろさがある。
これは、ショルティとの「ラインの黄金」からはじまったカルショウの録音テクニックの開発が、
さらに花開いた、という印象で、本来、「録音」というものは演奏者を裏から支える技術であるはずなのに、
カルショウの手にかかった「オテロ」では、
ショルティの「ニーベルングの指環」がときに「カルショウの指環」が言われるのと同じようなところがある。
当時のショルティよりも、「オテロ」のカラヤンは前面に出てきている、とはいうものの、
ときにカルショウの録音のしかけ──ソニック・ステージといいかえてもいいだろう──が、
カラヤンの演奏よりも印象が強くなるところがある。

ここのところが、カラヤンのもっとも不満に感じていたところではないのだろうか。

視覚情報のない録音において、それがステレオになったときにカルショウは、
モノーラル録音ではなし得なかった大きな可能性を見出している。

カルショウは自署「ニーベルングの指環──録音プロデューサーの手記」(黒田恭一氏訳)で、
このことをはっきりと書いている。
できれば全文引用したいところだが、この章だけでもかなりの長さなので、ごく一部だけ。
     *
そういう次第で、ステレオは、使われるべき手段のひとつなのである。結局は、あなたがステレオをどう考えるかである。そのもっともすばらしい例として、二十年前には考えることもできなかったような方法で、家庭生活にオペラを持ち込むことが、ステレオは出来るのである。いくつかの理由により、オペラハウスでのような効果はえられない。家庭でレコードを聴いている人は、集合体の一員ではないのである。その人が認めようが認めまいが、個室におけるその人の反応は、公の中での反応と同じものではないのだ。私は、あるひとつの環境が他の環境より良いと主張しているのではなく、ただたんにそのふたつが違っていて、だからまた、人びとの反応も違うといっているのである。良い条件のもとでの演奏の好ましいステレオ・レコードの音は、家庭においても、聴き手の心をとらえるであろうし、劇場で聴いている時よりもはるかにそのオペラの登場人物たちに、心理的に近づいているかもしれない。自分がそのドラマの中にいるという感じは、目に見えるものがないためにかえって、強められるのである。聴き手は、言葉と音楽とを聴くことができ、主人公たちが立っている場所を聴きわけることができ、彼らが動く時には、彼らの動きに従うことができるのである。だが、その登場人物たちが、どのような格好をしているかとか、どんな舞台装置の中を歩きまわっているかといったことについては、その聴き手なりに、頭の中で想像図を描かねばならない。そうなると、その聴き手は、他人の演出したものを鑑賞するかわりに、無意識に自分自身のものをつくり出すことになるのである。(アンドリュー・ポーターは、「ラインの黄金」を批評して、「グラモフォン」誌に、次のように書いている。「このレコードを聴くのと、舞台に目をむけずにオペラハウスに身をおいているのとは、違う。これは、ある神秘的な方法で、演じている人たちの中ではなく、作品の中に、より親密に私をとらえるのである」。)
     *
ここで見落してはならないのは、
「自分がドラマの中にいるという感じは、目に見えるものがないためにかえって、強められるのである」。
これこそが、ソニック・ステージの根幹、カルショウの録音の基盤になっている、といっていいはずだ。

Date: 4月 26th, 2011
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その16)

カラヤンは、1973年に「オテロ」を再録音している。
再録音に積極的だったカラヤンにしても、12年での再録音は早い。
しかも交響曲ではなく、演奏者の数も多く予算もそれだけ多くを必要とするオペラの再録音で、
12年というのは、最短記録かもしれない。

ほかのオペラでは、EMIに録音したモーツァルトの「フィガロの結婚」と「魔笛」はどちらも1950年。
「フィガロの結婚」はデッカで、「魔笛」はドイツ・グラモフォンで、
前者は28年、後者は30年後の再録音である。
いうまでもないことだが、EMI録音はモノーラルである。
なのに30年ものあいだ、再録音してこなかったのにくらべ、
「オテロ」は旧録音もステレオであるのに、再録音までは12年である。

1961年の「オテロ」は、デッカでの録音で、オーケストラはウィーン・フィル、
1973年の「オテロ」は、EMI録音で、オーケストラはベルリン・フィル。

デッカの「オテロ」に使われた録音器材は、すべて真空管だったはず。
EMIの「オテロ」に使われたのは、すべてか、ほとんどの器材はトランジスターに移り変っていたはず。

これは黒田先生が指摘されていることだが、カラヤンがこんなに早く「オテロ」を録り直したのは、
デッカの「オテロ」の出来に満足していなかったためではなかろうか。

カラヤンが満足していなかったと仮定して、何に満足できなかったのは、勝手に推測していくしかない。
まず考えられるのは、歌手がある。
デッカの「オテロ」では、オテロをマリオ・デル・モナコ、イヤーゴをアルド・プロッティが歌っている。
ドイツ・グラモフォン盤では、オテロはジョン・ヴィッカース、イヤーゴはピーター・グロソップになっている。

デッカの「オテロ」とほぼ同時期に出たセラフィン指揮でも、ヴィッカースはオテロを歌っている。

デル・モナコとヴィッカースは、声の明るさにおいて正反対なところがある。
デル・モナコの明るいテノール似対して、ヴィッカースの暗い声のテノール。
プロッティとグロソップも、やはり違う。プロッティは暗い声のバリトンで、グロソップは明るい声のバリトン。

ヴェルディは、オテロは暗い声のテノール、イヤーゴは暗い声のバリトン、という指示をしている、ときく。
つまりデッカの「オテロ」では、歌手の扱いに対して失敗といえるところがあったようにもいえる。

だからといって、このことだけが理由で、再録音までの期間が12年と短かったわけではないと思う。

Date: 4月 24th, 2011
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その15)

テラークは、1978年にチャイコフスキーの「1812年」を出している。
前年ダイレクトカッティングのレーベルとして誕生したテラークにとって、
「1812年」ははじめてのデジタル録音であり、実際に大砲の音を録音し、しかもハイレベルでカッティングした。
テラークがダイレクトカッティング専門にこだわっていたら、おそらく本物の大砲を使うことはなかっただろう。
一発勝負のダイレクトカッティングにおいて、大砲の音はカッティングレベルの調整が非常に困難なはずだし、
なによりオーケストラはホールで演奏しているわけだから、まさか大砲をホールに持ち込むわけにはいかない。
大砲は、どこか野外の広い場所でなければならない。
同時録音は無理なわけだから、デジタル録音に移行するにあたって、
じつにぴったりの曲をテラークを選択したといえる。

事実、この録音(レコード)で、少なくともオーディオマニアのあいだではテラークの名は一躍知れ渡る。
しかも大砲の音の部分は、オルトフォンによるとオーバーカッティングだったそうで、
問題なくトレースできるカートリッジはごく少数だった。
カートリッジのトラッキング・アビリティのチェックには、これ以上のレコードはない、ともいえる。

このころから、トラッカビリティという言葉も広まっていったが、
これはシュアーの造語で、トラッキング・アビリティを短縮したものだ。

大砲を使った録音は、じつはテラークの「1812年」が最初ではない。
私の知る限りでは、デッカが1961年に録音したカラヤン指揮のヴェルディの「オテロ」がある。

通常は、大太鼓かティンパニーを使うところを、この「オテロ」のプロデューサーだったカルショウは、
実際の大砲の音を使っている。

Date: 4月 23rd, 2011
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その14)

ワンポイント録音といえば、デッカから出ているエーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」も、たしかそうだ。

1955年のステレオ録音である、この「フィガロの結婚」は、その3年後の録音、
カルショウによるショルティの「ラインの黄金」と比較すれば、
「フィガロの結婚」に感じられる素朴な良さは、「ラインの黄金」では、ほとんど感じられない、といっていい。

この3年間に、デッカは──というよりもカルショウというべきだろうが──、
ソニック・ステージという考え方をうち出している。

当時、驚きをもって評価された、このソニック・ステージは、
きわどいところも内包しており、音だけの世界であるレコード、それもオペラには、ときに効果的でもあるし、
ここまでやる必要があるのだろうか、と感じさせるところもある。
このところが、カルショウが携わった録音を、いまの時代、くり返し聴くと、
部分的にも全体的にも、古い録音と思わせるところと関係している。
もちろん録音として非常に興味深いものではあるし、
聴くことの面白さとはなにかについて考えさせられるものではある。

「フィガロの結婚」のほうはというと、こちらはQUADのESLのように、まわりがよくなっていくことによって、
真価が徐々に発揮されてきて、つねに新鮮なスピーカーシステムとして評価されてきたことと似ているところがあり、
再生側のクォリティの向上によって、新鮮さを失わない、ではなくて、いま聴く方が、むしろ新鮮といえるだろう。

「フィガロの結婚」と「ラインの黄金」、
2011年のいまからみれば、どちらもデッカの同じ時代の録音とみなされるにもかかわらず、
このふたつの録音の違いこそ、素朴な音とはいったいどういうものなのかについて考えていくうえで、
恰好の材料だと思う。