Archive for category ステレオサウンド特集

Date: 5月 24th, 2022
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その24)

普段と不断とも書く。
普段着は不断着でもあるわけだ。

ここでの普段と不断は、同じ意味で使われても、
普段着と不断着とでは、そこから受ける印象は同じとはいえないほど違う。

「いい音を身近に」は、
ステレオサウンド 174号(2010年春)の特集のタイトルであることは、
その1)に書いているし、このタイトルで書くことになった経緯も書いている。

ステレオサウンドは、このテーマで特集はそれっきりである。
あまり読者受けしなかったのだろうが、
「いい音を身近に」は考えていけば、なかなかに興味深いテーマである。

ただ単に大袈裟にならない組合せをつくって終り、というやり方もできるけれど、
ぐっと掘り下げてほしかった、とも思っている。

「いい音を身近に」は、普段着の音なのか。
そうだとしよう、それは普段着の音なのか、不断着の音なのか。

Date: 1月 27th, 2017
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その23)

「仕事は?」ときかれたときに、
「オーディオマニア」と答えることがある。

相手が男性だと、怪訝な顔をされることが多い。
女性だと興味をもつ人が時々いる。

そして訊ねられることがある。
「いい音って?」

これに答えるのは、難しい。
オーディオに関心のない人が相手であるからで、
オーディオマニア相手に、いい音について語るようにはいかない。

そんなときに使ったのが、(その21)で引用した瀬川先生が書かれていることである。
それをそのまま伝えたわけではなく、
疲れて帰宅して、一分でも早く寝たいんだけども、
十数分でもいいから、この音を聴いてから寝よう──、
そう思える音はいい音だ、と答えたことが何度かある。

でも、これだけでいい音について答えたことにはならない。

「いい音」とは、便利な言葉である。
なぜ便利かといえば、曖昧さを多分に含んでいるからだ。

確かに親しいオーディオ仲間との会話で、「いい音だよ」で伝わる場合はある。
でも、それは限られた条件において、であって、
オーディオ雑誌やブログのように不特定多数の人を相手に書いているところでの「いい音」は、
何も伝えてはいない、ともいえる。

だから2016年12月から、「いい音、よい音」というタイトルで書き始めている。

Date: 1月 26th, 2017
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(音楽室のオーディオ・その1)

「いい音を身近に」というタイトルで書き始めたのは、
ある知人が、同じテーマで書いて公開しましょう、といってきたことがきっかけだ。

知人はステレオサウンドの特集のタイトルである「いい音を身近に」を選んだ。
2010年春のことだ。

知人は適当な組合せ例を書いて、それで終り。
いまではそれも見られなくなっている。
いつもの知人のやることだ。

私は、またか、と思うだけで、
「いい音を身近に」というタイトルは、考えて書いてみて面白い、と思っている。

私が子供のころ、テレビは一家に一台だった。
高級品だったからだ。

それが一人一台に変っていった。

音楽を聴く装置も、同じだった、というか、
テレビよりも普及率は低かった。

それがウォークマンの登場により、テレビ同様、一人一台といえるくらいになっている。

でも私が子供だったころ、ステレオと呼ばれていたモノは、
一般家庭には、それほど普及していなかった。

その頃の身近なステレオ(オーディオではなく、ステレオのほうが合っている)は、
中学校の音楽室に備えつけてあった装置である。

私が通っていた小学校には、音楽室はなかった(と記憶している)。
中学校にはあった。
そこには、ビクターのステレオがあった。

スピーカーはバックロードホーンのFB5だった。
プリメインアンプとプレーヤーもビクターの製品だった。
FB5は壁に取りつけられていた。床からけっこうな高さまで持ち上げられていた。

普及クラスのステレオではあっても、
単品コンポーネントとして販売されていたモノの組合せであった。

学校にきちんと鳴らすことができる人がいれば、
そこそこの音を鳴らしてくれただろう、とは思う。

けれど、実際にはそうではなかった。
音楽の授業で、レコードを聴くくらいで、
中学生活の三年間で何度聴いたかといえば、数回くらいである。

Date: 1月 25th, 2017
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その22)

瀬川先生はパイオニアのExclusive M4のあとに、
SAEのMark2500に、パワーアンプを交換されている。

Mark2500は、ウォームアップに時間のかかるアンプでもあった。
電源をいれておくだけではだめで、信号をいれて鳴らしはじめて三時間ほどすると、
本領発揮といえる音を聴かせる。

Exclusive M4は、そのへんはどうだったのだろうか。
Exclusive M4を聴いたことはある。
オーディオ店で、瀬川先生が来られた時で、
アンプの電源はすでに入れられていて、そういうことを確かめることはできなかった。

Exclusive M4はステレオサウンドの試聴室で聴くことはなかった。
すでにExclusive M4aになっていた。

Exclusive M4aは、回路的にはM4と同じで、
他社製アンプがDCアンプ化される中で、ACアンプのままだった。
改良点は、使用部品の変更だけのはすだ。

Exclusive M4aがウォームアップに時間のかかるアンプという印象はない。
特別に早いという印象もないが、遅くもなかったはずだ。

Exclusive M4も同じのはずだ。
そういうExclusive M4だったから、
《どんなに多忙な日でも、家にいるかぎりほんの十数分でもこの音を聴くことが、毎日楽しくてしかたない》
と書かれたのかもしれない。

レコード芸術1976年1月号の時点で、SAEのMark2500になっていたら……。
どうだったろうか。

あまり時間がとれない。
それでも音を聴きたい。
そうまでして聴きたい音だから、いい音でなくては困る。

なのに鳴らしはじめて三時間経たなければ……、というアンプでは、どうだろうか。
ほんの十数分のために、三時間ほど鳴らしておかなければならないのだとしたら、
《どんなに多忙な日でも、家にいるかぎりほんの十数分でもこの音を聴くことが、毎日楽しくてしかたない》、
この部分はなかったかもしれない。

Date: 1月 20th, 2016
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その21)

黒田先生の文章に関連することで思い出すことがもうひとつある。
レコード芸術1976年1月号に載っている瀬川先生の文章だ。
     *
 わたしの♯4341は、まだその片鱗をみせたにすぎないが、その状態で、もうすでに只物でないと明らかに思わせる。それがわたしの求めていた音であることを別としても、この音には怖るべき底力を内に秘めた凄みがある。どんなに多忙な日でも、家にいるかぎりほんの十数分でもこの音を聴くことが、毎日楽しくてしかたない。
     *
多忙であれば、疲れてもいる。
その疲労の度合は、黒田先生が「「ミンミン蝉のなき声が……」を書かれたころと、
瀬川先生の《どんなに多忙な日》とでは、同じではないのかもしれない。

それでもあえて考えてみたいのは、
瀬川先生は「この音を聴くことが、毎日楽しくてしかたない」と書かれているところである。

このころの瀬川先生のシステムは、ステレオサウンド 38号でのシステムと同じである。
アナログプレーヤーはEMTの930st、コントロールアンプはマークレビンソンのLNP2、
パワーアンプはSAEのMark2500は登場したばかりで、まだ導入されていない。
パイオニアExclusuve M4で鳴らされていた。

いまとなっては瀬川先生に直接訊ねることはできない。
自分で考えるしかない。

なぜ、「この音で音楽を聴くことが」とされなかったのだろうか。
あえて「この音を聴くことが」とされたような気がする。

「この音」を聴くためには、レコードをかけることになる。
レコードには音楽がおさめられている。
レコードをかけるということは音楽を聴くことと同義である。

そういう前提なのだから、「この音を聴くことが」は、「この音で音楽を聴くことが」と同じである。
とはいうものの、「この音を聴くことが」と「この音で音楽を聴くことが」は、
微妙なところで完全に同じ意味を持っているとはいいがたいところがある。

Date: 1月 1st, 2016
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その20)

黒田先生が「ミンミン蝉のなき声が……」で書かれているのは、音楽のことである。
でも、これは音に置き換えて考えることもできる。

たとえば「音楽に対して正座する、正座したいと思う」とある。
これは音に対しても、同じことがいえる。
スピーカーから鳴ってくる音に対して正座する、正座したいと思う。

けれど黒田先生が書かれているように、
正座したくともできない状態というのが、人にはある。

そうであっても、音楽を聴きたいとおもう。
けれど、正座することを暗に聴き手に要求する音では、
やはり音楽を聴くのがおっくうになることもある。

そんなとき、黒田先生がミンミン蝉のなき声に三日耳をすましたあとに聴かれたレコード、
モーツァルトのヴァイオリンソナタK.296のような音があったらなぁ……、と思う。

黒田先生は書かれている。
     *
 音楽をきいて疲れをいやす──といういい方がある。そういうこともあるかもしれないなと思いながら、ふりかえって考えてみて、音楽をきいて疲れをいやした経験がないことに気づく。音楽をきくことがいつでも、むしろ疲れることだとはいわない。しかし、音楽が、ついにこれまで、ロッキングチェア、ないしは緑陰のハンモックであったためしはない。
     *
そういう聴き方をしてこられた黒田先生だからこその「ミンミン蝉のなき声が……」である。

音楽に何を求めるのかは人によって違う。
同じひとりの人間であっても、その時々によって変ってこよう。

黒田先生のように「音楽をきいて疲れをいやした経験がない」聴き手もいれば、
「音楽をきいて疲れをいやす」聴き手もいる。

この場合の「音楽」が違うこともあれば、どちらも「音楽」も同じであることもあるはずだ。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その19)

「あきらかに、頭の半分では、音楽をききたがっていて、もう一方の半分では、音楽をきくことを億劫がっていた。」
黒田先生は、「そういう経験がこれまでなかった」だけに、びっくりされている。

この時の黒田先生は「疲れをとるためにさまざまなことをしてみた。にもかかわらず、
あいかわらず後頭部がなんとなく重く、身体もだるかった。
疲れはちょっとやそっとのことではぬけそうになかった」ほどに疲労されていた。

音楽を家庭で聴くという行為は、レコードを選ばなければならない、ということで能動的な行為である。
この時の黒田先生は、レコードを選ぶのが億劫だった、と書かれている。

レコードなんて、すぐに選べるではないか。
そう思ってしまえる人と黒田先生とは、レコードの選び方に違いがあるのではないか。

「ミンミン蝉のなき声が……」が載ったステレオサウンドは52号。
1979年9月に出ている。黒田先生は1938年1月1日生れだから、この時41歳。
30代の黒田先生であったら、レコードを選ぶのを億劫がられることもなかったかもしれない。
     *
 ききたいレコードに対しては、どうしても身がまえる。身がまえる──という言葉が正しいかどうかはともかくとして、音楽に対して正座する。正座したいと思う。しかし、場合によっては、関節のあたりがいたくて、正座できないこともある。本当は、正座がしたくともできない状態でも、きいてしまって、結果として正座してしまうのがいいのだろう。これまでは、そうやって、きいてきた。ただ、今回は、それができなかった。
 そのために、ふいをつかれて、よろめいて、身体のコンディションがきくというおこないに与える影響の大きさに気づいた。そうしてそのことは、必然的に、音楽をきくことの微妙さ、むずかしさ、きわどさにかかわる。そうか、疲れれば、ミンミン蝉のなき声しかきけないこともあるのかと、わかりきっていることを、あらためて思った。
     *
若ければ、「身体のコンディションがきくというおこないに与える影響の大きさ」に気づくこともないだろう。
けれど人は誰もが歳をとる。
歳をとることで「身体のコンディションがきくというおこないに与える影響の大きさ」に気づく。

「頭の半分では、音楽をききたがっていて、もう一方の半分では、音楽をきくことを億劫がっていた」ことを、
私も体験している。

Date: 6月 12th, 2011
Cate: audio wednesday, ステレオサウンド特集

第5回公開対談のお知らせ(ステレオサウンド 179号)

ステレオサウンド 179号を手にして、「薄い」とまず感じた。
この「薄い」という印象は内容とは無関係な第一印象で、一時期のステレオサウンドの、
やや異常な、といいたくなる厚さからすると「薄い」と感じただけのことで、
本の厚さと本の読み応えは必ずしも相関関係にあるわけではない。

私がステレオサウンド 179号をどう読んで、どんな感想をもったかについては、
今月22日(水曜日)に、四谷三丁目の喫茶茶会記で行うイルンゴ・オーディオの楠本さんとの公開対談で述べるが、
今号で、個人的に面白さを感じたのは、第2特集の「最新ハイクラスアンプ試聴テスト」だ。

この記事は100万〜200万円クラスのパワーアンプ10機種を、黛健司、三浦孝仁の両氏、
30万〜200万円クラスのプリメインアンプ13機種を、小野寺弘滋、傅信幸の両氏がそれぞれ試聴記を書かれている。

パワーアンプでは黛氏の文章と三浦氏の文章、プリメインアンプでは小野寺氏の文章と傅氏の文章、
それぞれに実に対照的で、そこにはオーディオに対する姿勢、文章で音を伝えることに対する姿勢が、
はっきりとした違いで現れている。

これが仮に黛氏と傅氏、小野寺氏と三浦氏、という組合せだったら、
今回私が感じた対照的な面白さは生じなかったはず。

Date: 5月 9th, 2011
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その18)

ステレオサウンド 52号に「ミンミン蝉のなき声が……」という、
黒田先生の文章が載っている。
43号から題名が「さらに聴きとるものとの対話」と変った連載の10回目のものだ。

「この夏、ミンミン蝉のなくのをおききになりました?──と、おたずねすることから、今回ははじめることにしよう。」

いつもの書出しとは、すこしニュアンスの異る、こんな書出しで、「ミンミン蝉のなき声が……」ははじまっている。
(全文は、今月29日に公開予定の「聴こえるものの彼方へ」の増強版・電子本でお読みいただきたい。)

51号の「さようなら、愛の家よ……」で、それまで住まわれていた部屋をとりこわすことを書かれている。
「ミンミン蝉のなき声が……」は、そのつづきでもある。

とりこわし、建替えのあいだに一時的に仮住まいに引越しされている。
かなりの量のレコードや本すべて仮住まいとなるところへは置ききれないため、
建替えの間あずかってくれる方たちのところへ荷物はこびを、5回もされたうえに、
仮住まいへの最後の引越し、その数日後の、札幌での仕事。

札幌からもどられて、
「一刻もはやく、のんびりと、いい音楽をききたかった。そのために、たいして手間がかかるわけではなかった。レコードを選んで、ターンテーブルの上におけば、それでいいはずだった。しなければならないのは、それだけだった。でも,それができなかった。レコードをえらぶのが億劫だった。
 いや、億劫だったのは、レコードをえらぶことではなく、もしかすると音楽をきくことだったのかもしれなかった」
ことに気づかれ、「愕然とした」と書かれている。

仮住まいの引越し先で、最初にされたのは、オーディオ機器の接続で、
ただその日はためしにレコードをかけられている。
次の日には、仕事で聴かなければならないレコードの音楽に、没入できた、と書かれている。

オーディオ機器は「再生装置」としか書かれていない。
このとき以前の部屋で鳴らされていたスピーカーシステムのJBLの4343、
パワーアンプのスレッショルドの4000、
コントロールアンプのソニーのTA-E88を運び込まれたのか、
それとも仮住まいとなれば、スペース的には限りがあって、
本やレコードを知人の方たちのところにあずかってもらっている状況だから、
もっと小型のスピーカーシステムやアンプだったのかもしれない。

このときのことをこうも書かれている。
「あきらかに、頭の半分では、音楽をききたがっていて、もう一方の半分では、音楽をきくことを億劫がっていた。そういう経験がこれまでなかった。それで自分でもびっくりした。」

3日後に、やっとモーツァルトのヴァイオリン・ソナタをきかれている。
シェリングとヘブラーによるK.296だ。
「ミンミン蝉のなき声が……」は、1979年の夏の経験から、
「音楽をきくことの微妙さ、むずかしさ、きわどさ」について書かれている。

「四股を踏まないでもきける音楽と思えた」モーツァルトのヴァイオリン・ソナタK.296を、
黒田先生は、そのときの「自分のコンディションを思いはかりつつ、これならいいだろう」と、
無意識のうちにえらばれて、ターンテーブルの上におかれた。

Date: 5月 4th, 2011
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その17)

黒田先生の文章の中で、見落してほしくないのは、次の一節だ。
     *
シンガーズ・アンリミテッドの声は、パット・ウィリアムス編曲・指揮によるビッグ・バンドのひびきと、よくとけあっていた。「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」は、アップ・テンポで、軽快に演奏されていた。しかし、そのレコードできける音楽がどのようなものかは、すでに、普段つかっている、より大型の装置できいていたので、しっていた。にもかかわらず、これがとても不思議だったのだが、JBL4343できいたときには、あのようにきこえたものが、ここではこうきこえるといったような、つまり両者を比較してどうのこうのいうような気持になれなかった。だからといって、あれはあれ、これはこれとわりきっていたわけでもなかった。どうやらぼくは、あきらかに別の体験をしていると、最初から思いこんでいたようだった。
     *
「両者を比較してどうのこうのいうような気持になれなかった」とある。
ここが、「いい音を身近に」の「身近」であるということが、
どういうことなのかをはっきりとさせていってくれる、と私は感じた。

オーディオマニアの性として、どうしてもなにかと比較してしまう。
たとえばアンプを交換したら、やはり前のアンプとの音の差が気になるし、
いま使っているアンプ・メーカーから改良モデルが出たら、やっぱり気になる。
友人宅、知人宅で、愛聴盤を聴かせたりすると、
表には出さなくとも、頭の中でつい自分のところで鳴っている音と比較しているし、
帰宅後に、やはり自分の装置で、もういちど、その愛聴盤を聴いてみたりする経験はおありだろう。

製品とは関係のないところでも、システムを調整していくことは、いままで鳴っていた音との比較で、
ひとつひとつステップをあがっていくことでもある。

さらには自分の裡で思い描いている音(鳴り響いている音)と、現実に鳴っている音との比較があり、
どんなにオーディオ機器間の比較ということから解放された人ですら、これからは逃れられないはず。

なのに、黒田先生は、テクニクスのコンサイス・コンポを、ビクターの小型スピーカーと、
B&OのBeogram4000との組合せを、キャスターのついた白い台の上にのせた一式に対しては、
比較ということから──それは一時的なことだったか永続的なことだったのかわからないが──、
とにもかくにも忘れることができた、ということだ。

それは解放という言葉であらわされるものだったのか、無縁という言葉であらわされるものだったのかは、
考えていく必要はあるものの、
少なくとも「比較してどうのこうのいうような気持」がなかったことはたしかだし、大事なことだ。

Date: 9月 12th, 2010
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その16)

このころ(1978年)は、小型のシステムはサブシステムと考えられることが多かった。

黒田先生も書かれているように、4343にSU-C01とSE-C01のペアをつないで、
いつものリスニングポジションから動かずに聴くのであれば、
この小型のコントロールアンプとパワーアンプのペアは、サブシステムのままにとどまるだろう。

大型の4343というスピーカーシステムとの組合せではなく、
ビクターのS-M3という小型スピーカーシステムとB&Oのプレーヤーとの組合せを、
「キャスターのついた白い台」とともに構成されたからこそ、聴く音楽にすこしの条件はつくものの、
メインの装置としてつかえるようになる。

「スタイリングは、サイズと構成の上に成り立つ」
インダストリアルデザイナーの坂野博行さんが、Twitterに5日前につぶやかれている。

Date: 9月 11th, 2010
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その15)

テクニクスのコンサイス・コンポ一式をむかえ入れられたとき、
黒田先生の部屋にはスピーカーはJBLの4343、パワーアンプはスレッショルドの4000、コントロールアンプは、
まだこのときはソニーのTA-E88(マークレビンソンのML7Lを導入されるのはまだ先のこと)だった。

この「より大がかりな装置」では、
「マーラーのシンフォニーをきくことも、リヒャルト・シュトラウスの楽劇をきくこともある」一方で、
「レコードによっては、スピーカーとききての間に生じる濃密な空気を求めて、
キャスターのついた白い台の一式できくことになるだろう」と書かれている。

「より大がかりな装置」は「小型の装置」よりも、「呼ばなかったであろうレコード」は少なくなる。
言いかえれば、「装置の呼ぶレコード」の数(種類、ジャンルの幅)は増えて広がっていく。

オーディオ機器としての能力が高いのは、呼ぶことのできるレコード(音楽)の多さ・広さと比例している、
そんなふうにいえるところがある。

けれど、黒田先生は「濃密な空気」を求めるときは、
「呼ぶレコード」の数・広さの少ない・狭い「小型の装置」を選ばれる。

さらに黒田先生はこうも書かれている。
     *
もし小編成のグループによって演奏された、ことさらダイナミックな表現力を必要としない音楽をおもにきくという人なら、この一式をメインの装置としてつかえるにちがいない。
もっとも、SU−C01+SE−C01を、一般的な使い方で──ということは、フロア型スピーカーにつないで、ききてが一定のリスニング・ポジションできくという使い方でということなら、その限りではない。
     *
そう、あくまでもアンプだけでなくプレーヤー、スピーカーを含めての装置一式を、
キャスターつきの台の上にのせて、という条件があったうえで、
「濃密な空気」を求めるときに聴くものであったり、
「ダイナミックな表現を必要としない音楽」とってはメインの装置として使える、ということである。

Date: 9月 4th, 2010
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その14)

黒田先生は、同じ文章の、もうすこし前の方に書かれている──。
     *
それぞれの装置の呼ぶレコードがある。カートリッジをとりかえた、さて、どのレコードにしようかと、そのカートリッジで最初にきくレコードは、おそらく、そのカートリッジを選んだ人の、そこで選ばれたカートリッジに対しての期待を、無言のうちにものがたっていると考えていいだろう。スピーカーについて、アンプについても、同じことがいえる。
     *
「装置の呼ぶレコード」とは微妙に違うものの、同じ面をあらわしていることに、
使っているオーディオ装置(鳴らしている音)が、いつのまにか聴くレコードを選んでいる、ということがある。

家庭で音楽を聴く、レコードで音楽を聴くときの主体は聴き手なのに、
知らず知らずのうちに、自分の音(装置)がよく鳴らしてくれるレコードばかりかけている、そんな自分に気がつく。
どんなに人にも、すくなくともいちどはそういう時期があったはずだ。

そんなことは一度もなかった、断言できる人は、すくなくともオーディオマニアではない。
装置が呼ぶレコード、装置が鳴らしたがるレコードがあることを察することができないということは、
どういうことなのかを考えてみればわかることだ。

Date: 9月 3rd, 2010
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その13)

気ままに距離を変えるためには、重くては困る。
すごく軽くなくてもいいけれど、QUADのESLのように片手でもてるのであればそのぐらいでもいいし、
キャスターがついた台のうえにのせていれば、もうすこし重くも、片手で動かすことはできる。

それほど大きくてなくて、それほど重くなくて、というふたつの条件が満たされなければ、
装置(スピーカーといいかえてもいい)と聴き手の距離を変えることは、ただ億劫になるだけだ。

ステレオサウンド 47号の黒田先生の文章を読みなおしてみても、
キャスターのついた白い台を、両手で動かされていたのか、片手だったのかは書かれていない。
ただ「かえようとしてかえたのではなく、後から気がついたら」とは書かれている。

両手で動かしていたら、「後から気がついて」とはならないように思う。片手ですっと動く。
だから、白い台を音楽によって動かしているときはそのことに気がつかなかった、とはいえいなだろうか。

大きくなく重くない。つまり、物量投入の大きくて重いオーディオ機器ではない。
そこには、制約がいくつか生じてくる。

黒田先生は、テクニクスのコンサイス・コンポで聴かれたレコードについても書かれているが、
最後のほうで、聴かなかったレコードをあげられている。
     *
たしかに、キャスターのついた白い台の前ですごした5時間の間、マーラーのシンフォニーも、ハードなロックもきかなかった。結局、そういうレコードは、それらの装置が呼ばなかったからだろう。きいたレコードのうちの多くがインティメイトな表情のある音楽だった。
     *
「呼ばなかったからだろう」と書かれている──。

Date: 7月 4th, 2010
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その12)

まわりにいる人にきかれたくないとき、声をひそめて話す。
きく側は、聞き耳をたてる。
話す二人の距離は、他の人に聞かれてもいいときにくらべて近くなる。

距離が縮まることによって、ある種の親密感みたいなものがそこに生れてきはしないか。

QUADのESLでは、パワーアンプを慎重に選んだとしても、得られる音量には限りがある。
どんなパワーアンプをもってこようと、どれほどパワーアンプに贅沢をしたとしても、
ダイナミック型のスピーカー(とくにホーン型)のような音圧を得ることは無理である。

二段スタック、三段スタックと、ESLの数を増やしていくのであれば話は違ってくるが、
ESLを片チャンネルあたり1本で鳴らすのであれば、音量の制限をなくすことはできない。

それにESLの音の鳴り方も、声をひそめて話すような性質がある。
きき耳をたてる聴き方を、自然とESLは聴き手に求めている。

だから、ときにESLとでの音楽とのつき合いでは、近づくこともおこる。
そんな気がする。だから把手があるのかもしれない。

黒田先生は、コンサイス・コンポとスピーカーシステムを、キャスター付の白い台に置かれていた。
キャスターの存在のおかげで、
片手で簡単にスピーカーシステム(オーディオシステム)との距離を変えられる。