「いい音を身近に」(その20)
黒田先生が「ミンミン蝉のなき声が……」で書かれているのは、音楽のことである。
でも、これは音に置き換えて考えることもできる。
たとえば「音楽に対して正座する、正座したいと思う」とある。
これは音に対しても、同じことがいえる。
スピーカーから鳴ってくる音に対して正座する、正座したいと思う。
けれど黒田先生が書かれているように、
正座したくともできない状態というのが、人にはある。
そうであっても、音楽を聴きたいとおもう。
けれど、正座することを暗に聴き手に要求する音では、
やはり音楽を聴くのがおっくうになることもある。
そんなとき、黒田先生がミンミン蝉のなき声に三日耳をすましたあとに聴かれたレコード、
モーツァルトのヴァイオリンソナタK.296のような音があったらなぁ……、と思う。
黒田先生は書かれている。
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音楽をきいて疲れをいやす──といういい方がある。そういうこともあるかもしれないなと思いながら、ふりかえって考えてみて、音楽をきいて疲れをいやした経験がないことに気づく。音楽をきくことがいつでも、むしろ疲れることだとはいわない。しかし、音楽が、ついにこれまで、ロッキングチェア、ないしは緑陰のハンモックであったためしはない。
*
そういう聴き方をしてこられた黒田先生だからこその「ミンミン蝉のなき声が……」である。
音楽に何を求めるのかは人によって違う。
同じひとりの人間であっても、その時々によって変ってこよう。
黒田先生のように「音楽をきいて疲れをいやした経験がない」聴き手もいれば、
「音楽をきいて疲れをいやす」聴き手もいる。
この場合の「音楽」が違うこともあれば、どちらも「音楽」も同じであることもあるはずだ。