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Date: 7月 3rd, 2020
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その16)

歌い手の口の小ささを優先した気持は、私にもかなり強くある。
それでも、口の小ささばかりに気をとらわれていると、
歌は口からばかり発せられているのではないことを、忘れてしまいがちになるのかもしれない。

口の小ささに強くこだわっている人をみていると、そんな気がすることがある。
人の声は口から発せられているのは間違いないが、
身体は共鳴体でもある。

頭蓋骨からも音が発せられている、ということを何かで読んだことがある。
腹から声を出す、ともいう。
腹式呼吸が重要だということである。

少なくともプロフェッショナルの歌い手は、口だけではない。
上半身から声を出しているように感じている。

ウォルター・レッグの「レコードうら・おもて」に興味深いことが書かれている。
     *
カラスが、私の妻がミラノにその晩来ていると知っていて、一緒に食事をしたいといい張った時のことは、しばしば報道されている。私がカラスの代りを探しているという根拠のない噂が何人かの有名なソプラノを磁石のように引きつけ、私たち夫婦がきまって食事するビフィ・スからの中や周辺を、望みを抱いて動き廻っていた。そこへ、まるで何事もないかのような顔でカラスが入って来て、妻の頬に申しわけのようにせっかちなキスをして腰も下ろさずにいった、「あなたの最高音AとBの歌い方を、そのディミヌエンドの仕方を歌って見せて下さい。ウォルターが私のを聴くと船酔いがするっていうの。」シュヴァルツコップが躊躇していると、カラスは、驚いているレストランの客たちを無視して、彼女のトラブルになっている音をフル・ヴォイスで歌った。その間、シュヴァルツコップは横隔膜や下顎や喉、それに肋骨を手で触っていた。給仕たちはびっくりして足を止め、客は眼を見張り耳を傾けてこの面白い光景を楽しんだ。数分してシュヴァルツコップが同じ音を歌い始め、カラスが、どのようにしてそれらの同じ音を安定して歌うことができるのかを探ろうと、同じ箇所を指でつついた。二十分ほどしてカラスは「分かったと思うわ。朝またやって来ます。それまで練習しておきますわ」といって腰を下ろし、夕食を始めた。
     *
身体は共鳴している。
というよりも、プロフェッショナルの歌い手になればなるほど、
身体の共鳴をコントロールしているのだろう。

Date: 5月 20th, 2020
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その15)

その14)で引用した五味先生によるマッキントッシュのMC275とMC3500の音の違いは、
レンダリングの違いとも読める。

音の構図の確かさ(モデリングの確かさ)は、MC275もMC3500もあまり違いはないのではないか。
しっかりと音の構図を描いたうえで、
MC3500のように《音のすみずみまで容赦なく音を響かせている》のか、
MC275のように
《必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある》のか。

この違いをどう読みとるのか、
人によって違ってこようが、私はモデリング(音の構図)ではなく、レンダリングの違いと読む。

簇生の美しさを出すためにぼかすためにも、
音の構図に曖昧なところがあってはならない。

モデリングを音の構図とすれば、
レンダリングは音色ともいえる。
音色のひとことだけですべてを表わしているわけではないが、
レンダリングは、オーディオ的音色につながっていくものといえるのは確かだ。

ここでも、優先順位が関係してくる。
人によって、どちらを優先するのか。

もちろん音の構図も音色も、高い次元で求めたい、というのがほんとうのところであっても、
そこへ行き着く過程では、どちらかを優先する場面が多々ある。

このことは、別項のフルレンジスピーカーの次なるステップとして、
トゥイーターなのか、それともウーファーなのかについて書いているが、
そこで歌い手の口の小ささを優先するのか、
それとも歌い手の肉体の再現をとにかく優先するのか─。

音の構図を優先する人ならば、歌い手の口の小ささよりも、
歌い手の肉体の再現を優先するのではないのか。
少なくとも私はそうである。

私にも音の構図よりも、好きな音色を優先していた時期がある。
ずいぶん若い時のことだ。

そこでは口の小ささは、とても重要だった。
肉体の再現の重要性を、「五味オーディオ教室」を読んでいて、
頭では理解していても、未熟なころの私は、口の小ささの優先順位は高かった。

Date: 3月 18th, 2019
Cate: 930st, EMT, MERIDIAN, ULTRA DAC

オーディオの唯一無二のあり方(その3)

私がEMTの製品の音を聴いたのは、カートリッジのXSD15が最初だった。
熊本のオーディオ店に定期的に来られていた瀬川先生の試聴会で、XSD15を聴いた。

その時はいくつかのカートリッジの比較試聴がテーマだった。
MM型、MC型、いくつものカートリッジを聴くことができた。
瀬川先生のプレーヤーの使いこなしをたっぷり見ることができた。

プレーヤーは、だから930stではなく、
ラックスのPD121にトーンアームはオーディオクラフトだったと記憶している。

瀬川先生も五味先生も書かれている、
EMTのカートリッジは単体で聴かれるから、誤解が生じるのだ、と。
EMTのカートリッジはEMTのプレーヤーの構成するパーツの一つである、ということ。

EMTの音は、EMTのプレーヤーの音を聴いてこそ──、
それはわかっていたけれど、熊本ではついにその機会はなかった。

それでも熊本のオーディオ店では、トーレンスのReferenceでのTSD15の音を聴くことができた。
PD121+オーディオクラフトで聴いたXSD15のときと、
アンプもスピーカーも違うから正確な比較試聴なわけではないが、
それでもそんな差は問題にならないくらいに、
ReferenceでのTSD15の音は圧倒的だった。

しかも、このReferenceを聴くことができた回が、
瀬川先生が熊本に来られた最後に、結果的になってしまった。
よけいに、このときの音は耳に強く刻んでいる。

ようするに、私が聴いたトータルでのEMTの音というのは、
トーレンスの101 Limitedでの音が最初ということになる。

このころのステレオサウンドの誌面に掲載されている写真は、
私のモノとなったシリアルナンバー102の101 Limitedである。

近々引っ越しをすることになっていたし、記事のためにも撮影が必要ということで、
購入してすぐに持って帰ったわけではなく、しばらくステレオサウンドに置いていた。

そのおかげでノイマンのDSTとDST62を聴くこともできた。

Date: 3月 12th, 2019
Cate: 930st, EMT, MERIDIAN, ULTRA DAC

オーディオの唯一無二のあり方(その2)

トーレンスの創立は1883年で、
創立100周年に記念モデルとしてTD126MkIIIc Centennial が出た。

一年後、101周年モデルととして、EMTの930stをベースとした101 Limitedが出た。
輸入元のノアに、サンプルとして二台入ってきた。
シリアルナンバーは101から始まっていた。

私が買ったのはシリアルナンバー102である。
サンプルで入ったうちの一台である。
もちろんシリアルナンバー101が欲しかったけれど、
「これは売らない」ということで、102番の101 Limitedになった。

21歳だった。

101 Limitedはトーレンス・ブランドだから、
カートリッジはトーレンスのMCH-Iがついていた。

EMTのTSD15をベースに針先をヴァン・デン・ハルにしたモデルである。
TSD15は丸針である。
MCH-Iは超楕円といえる形状になっていた。

最初のうちはMCH-Iで聴いていた。
MCHは、通常のトーンアームで使えるMCH-IIは、
ステレオサウンドの試聴室で何度も聴いている。

針先が最新の形状になった効果は、はっきりと音にあらわれている。
歪みっぽさは少なくなっていたし、高域のレンジも素直にのびている。
そんな感じを受ける。

TSD15は丸針ということからもわかるように、当時としても新しい設計のカートリッジではなかった。
TSD15を愛用されてきた瀬川先生も、
ステレオサウンド 56号に次のようなことを書かれている。
     *
 EMTのTSD(およびXSD)15というカートリッジを、私は、誰よりも古くから使いはじめ、最も永い期間、愛用し続けてきた。ここ十年来の私のオーディオは、ほとんどTSD15と共にあった、と言っても過言ではない。
 けれど、ここ一〜二年来、その状況が少しばかり変化しかけていた。その原因はレコードの録音の変化である。独グラモフォンの録音が、妙に固いクセのある、レンジの狭い音に堕落しはじめてから、もう数年あまり。ひと頃はグラモフォンばかりがテストレコードだったのに、いつのまにかオランダ・フィリップス盤が主力の座を占めはじめて、最近では、私がテストに使うレコードの大半がフィリップスで占められている。フィリップスの録音が急速に良くなりはじめて、はっきりしてきたことは、周波数レンジおよびダイナミックレンジが素晴らしく拡大されたこと、耳に感じる歪がきわめて少なくなったこと、そしてS/N比の極度の向上、であった。とくにコリン・デイヴィスの「春の祭典」あたりからあとのフィリップス録音。
 この、フィリップスの目ざましい進歩を聴くうちに、いつのまにか、私の主力のカートリッジが、EMTから、オルトフォンMC30に、そして、近ごろではデンオンDL303というように、少しずつではあるが、EMTの使用頻度が減少しはじめてきた。とくに歪。fffでも濁りの少ない、おそろしくキメこまかく解像力の優秀なフィリップスのオーケストラ録音を、EMTよりはオルトフォン、それよりはデンオンのほうが、いっそう歪少なく聴かせてくれる。歪という面に着目するかぎり、そういう聴き方になってきていた。TSD15を、前述のように930stで内蔵アンプを通さないで聴いてみてでも、やはり、そういう印象を否めない。
     *
1980年で、こうである。
私が101 Limitedを手に入れたのは1984年である。
私には、瀬川先生のようなTSD15との永い期間のつきあいはない。

そんなこともあって、最初のうちは、MCH-Iがついていてよかった、と素直に喜んでいた。

Date: 3月 11th, 2019
Cate: 930st, EMT, MERIDIAN, ULTRA DAC

オーディオの唯一無二のあり方(その1)

五味先生がEMTの930stについて書かれた文章は、
こんなふうに毎日、オーディオと音楽について書いていると、
無性に読み返したくなることがふいに訪れる。

私のオーディオの出発点となった「五味オーディオ教室」にあった文章が、
特に好きである。
     *
 いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
 私の家のスピーカー・エンクロージァやアンプのせいもあろうかとは思うが、とにかく同じアンプ、同じスピーカーで鳴らしても人数は増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉しなみに再生するのを意味するのだろうが、レンジはのびていないのだ。近ごろオーディオ批評家の言う意味ではハイ・ファイ的でないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードをかけたおもしろさはシュアーに劣る。
 そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。あまりそれがあざやかなのでチクオンキ的と私は言ったのだが、つまりは、「音楽として美しく」鳴らすのこそは、オーディオの唯一無二のあり方ではなかったか? そう反省して、あらためてEMTに私は感心した。
 極言すれば、レンジなどくそくらえ!
     *
930stについて、この文章を読んだ時から、アナログプレーヤーは930stしかない──、
中学二年のときに思ってしまった。

だから930stが生産中止になり、
トーレンスから930stのゴールドヴァージョンの101 Limitedが出た時に、
思わず「買います!」と宣言した(というかさせられた)。

自分のモノとしてじっくり聴いてこそ、
五味先生の書かれたことを実感できる。

いま、このことを改めて書いているのは、
私のなかでのメリディアンのULTRA DACは、930stに近い存在、
つまり音楽として美しく鳴らす、というオーディオの唯一無二のあり方だからだ。

少し前に、耳に近い音と心に近い音ということを書いた。
心に近い音とは、音楽として美しく鳴らす、ということであり、
私が最近のオーディオ評論が薄っぺらだと感じる理由も、ここにある。

Date: 4月 12th, 2018
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その14)

五味先生は、こう書かれている。
     *
 ところで、何年かまえ、そのマッキントッシュから、片チャンネルの出力三五〇ワットという、ばけ物みたいな真空管式メインアンプ〝MC三五〇〇〟が発売された。重さ六十キロ(ステレオにして百二十キロ——優に私の体重の二倍ある)、値段が邦貨で当時百五十六万円、アンプが加熱するため放熱用の小さな扇風機がついているが、周波数特性はなんと一ヘルツ(十ヘルツではない)から七万ヘルツまでプラス〇、マイナス三dB。三五〇ワットの出力時で、二十から二万ヘルツまでマイナス〇・五dB。SN比が、マイナス九五dBである。わが家で耳を聾する大きさで鳴らしても、VUメーターはピクリともしなかった。まず家庭で聴く限り、測定器なみの無歪のアンプといっていいように思う。
 すすめる人があって、これを私は聴いてみたのである。SN比がマイナス九五dB、七万ヘルツまで高音がのびるなら、悪いわけがないとシロウト考えで期待するのは当然だろう。当時、百五十万円の失費は私にはたいへんな負担だったが、よい音で鳴るなら仕方がない。
 さて、期待して私は聴いた。聴いているうち、腹が立ってきた。でかいアンプで鳴らせば音がよくなるだろうと欲張った自分の助平根性にである。
 理論的には、出力の大きいアンプを小出力で駆動するほど、音に無理がなく、歪も少ないことは私だって知っている。だが、音というのは、理屈通りに鳴ってくれないこともまた、私は知っていたはずなのである。ちょうどマスター・テープのハイやロウをいじらずカッティングしたほうが、音がのびのび鳴ると思い込んだ欲張り方と、同じあやまちを私はしていることに気がついた。
 MC三五〇〇は、たしかに、たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。
(五味オーディオ教室 より)
     *
MC275の音について
《必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ》
と表現されている。
瀬川先生が書かれていたことと、表現が違うだけで同じともいえる。

だから対極といえるマッキントッシュのC22+MC275、
マークレビンソンのLNP2+SAEのMark 2500、
なのにアナログプレーヤーは930stなのは、やはり音の構図の確かさゆえだ、と私はおもっている。

《マッキントッシュの風景は夜景》であり、
《必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかして》あるからこそ、
音の構図は確かなものでなければ、その美しさは成り立たない。

Date: 4月 12th, 2018
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その13)

私がここまで930stに入れ込むことになったきっかけは、
いうまでもなく五味先生と瀬川先生の影響である。

ふたりの930stについて書かれたものを読んで、
興味をもたないほうが不思議におもえるくらいである。

音の入口である930stは同じであっても、
アンプは五味先生はマッキントッシュの管球式のC22とMC275のペア、
瀬川先生は世田谷の新居に引っ越されるまでは、
マークレビンソンのLNP2とSAEのMark 2500という、
最新トランジスター式のペアである。

音の傾向は対極といえる。
     *
 JBLと全く対極のような鳴り方をするのが、マッキントッシュだ。ひと言でいえば豊潤。なにしろ音がたっぷりしている。JBLのような〝一見……〟ではなく、遠目にもまた実際にも、豊かに豊かに肉のついたリッチマンの印象だ。音の豊かさと、中身がたっぷり詰まった感じの密度の高い充実感。そこから生まれる深みと迫力。そうした音の印象がそのまま形をとったかのようなデザイン……。
 この磨き上げた漆黒のガラスパネルにスイッチが入ると、文字は美しい明るいグリーンに、そしてツマミの周囲の一部に紅色の点(ドット)の指示がまるで夢のように美しく浮び上る。このマッキントッシュ独特のパネルデザインは、同社の現社長ゴードン・ガウが、仕事の帰りに夜行便の飛行機に乗ったとき、窓の下に大都会の夜景の、まっ暗な中に無数の灯の点在し煌めくあの神秘的ともいえる美しい光景からヒントを得た、と後に語っている。
 だが、直接にはデザインのヒントとして役立った大都会の夜景のイメージは、考えてみると、マッキントッシュのアンプの音の世界とも一脈通じると言えはしないだろうか。
 つい先ほども、JBLのアンプの音の説明に、高い所から眺望した風景を例として上げた。JBLのアンプの音を風景にたとえれば、前述のようにそれは、よく晴れ渡り澄み切った秋の空。そしてむろん、ディテールを最もよく見せる光線状態の昼間の風景であろう。
 その意味でマッキントッシュの風景は夜景だと思う。だがこの夜景はすばらしく豊かで、大都会の空からみた光の渦、光の乱舞、光の氾濫……。贅沢な光の量。ディテールがよくみえるかのような感じは実は錯覚で、あくまでもそれは遠景としてみた光の点在の美しさ。言いかえればディテールと共にこまかなアラも夜の闇に塗りつぶされているが故の美しさ。それが管球アンプの名作と謳われたMC275やC22の音だと言ったら、マッキントッシュの愛好家ないしは理解者たちから、お前にはマッキントッシュの音がわかっていないと総攻撃を受けるかもしれない。だが現実には私にはマッキントッシュの音がそう聴こえるので、もっと陰の部分にも光をあてたい、という欲求が私の中に強く湧き起こる。もしも光線を正面からベタにあてたら、明るいだけのアラだらけの、全くままらない映像しか得られないが、光の角度を微妙に選んだとき、ものはそのディテールをいっそう立体的にきわ立たせる。対象が最も美しく立体的な奥行きをともなってしかもディテールまで浮び上ったときが、私に最上の満足を与える。その意味で私にはマッキントッシュの音がなじめないのかもしれないし、逆にみれば、マッキントッシュの音に共感をおぼえる人にとっては、それがJBLのように細かく聴こえないところが、好感をもって受け入れられるのだろうと思う。さきにもふれた愛好家ひとりひとりの、理想とする音の世界観の相違がそうした部分にそれぞれあらわれる。
(「いま、いい音のアンプがほしい」より」
     *
C22とMC275について、瀬川先生は、
《マッキントッシュの愛好家ないしは理解者たちから、お前にはマッキントッシュの音がわかっていないと総攻撃を受けるかもしれない》
と書かれている。

けれどほんとうにそうだろうか、とおもう。

Date: 11月 27th, 2017
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その12)

フィリップスのLHH2000は、確かにプロフェッショナル用CDプレーヤーだった。
その数年後に登場したLHH1000は、型番の上ではプロフェッショナル用ということになるし、
トランスによるバランス出力を備えていた。

一見すればプロフェッショナル用と見えなくもない、このCDプレーヤーは、
音を聴けば、コンシューマー用CDプレーヤーであると断言できる。

LHH2000はフィリップスの開発、
LHH1000はブランド名こそフィリップスであっても、開発はマランツである。
でも、そういうこと抜きにしても、
この項でくり返し書いている音の構図という、この一点だけで、
少なくとも私の耳には、LHH1000はプロフェッショナル用とは聴こえなかった。

ことわっておくが、LHH1000の音がダメだ、といいたいのではなく、
プロフェッショナル用かコンシューマー用かを、
型番やブランドではなく、音で判断するのならば、コンシューマー用ということだけである。

LHH1000だけではない。
その後に登場したLHHの型番がつくCDプレーヤーのすべて、
プロフェッショナル用とは私は思っていない。

プロフェッショナル用が、コンシューマー用より優れている、といいたいわけではない。
このころまでのプロフェッショナル用機器には、
少なくとも優れたプロフェッショナル用機器には、
音の構図の確かさがあった、といいたいだけであるし、
私はそのことによって、
プロフェッショナル用かコンシューマー用かを判断している、ということである。

Date: 11月 27th, 2017
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その11)

同じことはCDプレーヤーに関しても、いえた。

スチューダーのA727を買う時に、気になっているCDプレーヤーがあった。
アキュフェーズのDP70だった。

DP70は430,000円だった。
A727とほぼ同じだった。
どちらもバランス出力を持っている。

片やプロフェッショナル用CDプレーヤー、
もう片方はコンシューマー用CDプレーヤーと、はっきりといえた。

ステレオサウンドで働いていたから、じっくりと試聴室で聴き比べた。
DP70にかなり心は傾いたのは事実だ。

情報量の多さでは、DP70といえた。
けれど、A727に最終的に決めたのは、音のデッサン力、音の構図の確かさである。

瀬川先生がステレオサウンド 59号で、
ルボックスのカセットデッキB710について書かれていることは、ここでも当てはまる。

国産カートリッジと海外製カートリッジ、
国産カセットデッキ、テープと海外製カセットデッキ、テープの音の描き方の根源的な違い、
それはDP70とA727にもあり、
そこにコンシューマー用とプロフェッショナル用の違いが加わる。

何を優先するのかは人によって違う。
だから、DP70とA727を比較して、DP70を選ぶ人もいてこそのオーディオの世界である。

A727に感じた音の構図の確かさは、フィリップスのLHH2000にもあったし、
A727の後に登場したA730も、まったくそうだ。

Date: 11月 26th, 2017
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その10)

EMTの930stとガラードの301+オルトフォン、
ふたつのアナログプレーヤーを比較試聴して、顕著な違いとして感じたのが、音の構図である。

音のデッサン力の確かさ、といってもいい。
この音の構図をしっかり描くのは930stであり、
ガラード+オルトフォンでは、正直心許ない印象を受けた。

ここのところに、
プロフェッショナル用とコンシューマー用の違いを意識させられる。

こう書くと、
ガラードの301もBBCで使われていたから、プロフェッショナル用ではないか、
と反論がありそうだが、
私はガラードの301をプロフェッショナル用だとはまったく思っていない。

プロフェッショナル用だから、素晴らしいわけではないし、
コンシューマー用のほうが素晴らしいモノは、けっこうある。

それなのにこんなことを書いているのは、
私が以前から感じているプロフェッショナル用機器の音の良さとは、
930stの音の良さと、共通するからである。

くり返しになるが、それが音の構図であり、音のデッサン力の確かさである。
アナログプレーヤーだけでなく、スピーカーシステムに関しても同じだ。

JBLのスピーカーシステムに感じる良さのひとつに、同じことが挙げられる。
いまやJBLのスピーカーシステムのラインナップは拡がりすぎているが、
少なくともJBLのプロフェッショナル用は、930stと同じで、確かな音の構図を描く。

すべてのプロフェッショナル用機器がそうだとまではいわないが、
優れたプロフェッショナル用機器に共通する良さは、ここにあった、といえる。

過去形で書いたのは、私がここでプロフェッショナル用として思い出しているのは、
往年のプロフェッショナル用機器ばかりであるからだ。

Date: 7月 24th, 2015
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その9)

アナログディスク再生でカートリッジを交換すれば、音の表情が変る。
ひとつひとつにそれぞれの音の表情があり、ひとつとして同じ音(表情)で音楽を鳴らすモノはない。
だからオーディオマニアはカートリッジをひとつでは満足できずに、いくつも持ち、
レコードによってカートリッジをつけ替え調整して聴く、ということも苦とすることなくやっている。

特に人の声の表情は、よくわかる。
もちろんどんな楽器の音(表情)であろうとカートリッジを替えれば変るわけだが、
人の声、それも気に入っている歌手の声であるならば、その変りようは、より敏感に聴き分けられる。

音の表情は大事なことである。
けれど、そこばかりに気をとらえすぎてはいないだろうか。
音には音の構図がある。

まず音の構図がある程度きちんと再現されているべきだと私は考える。
そのための音のデッサン力の確かさを、
私はガラード301+オルトフォンSPUよりもEMT930stにはっきりと感じた。

なにもガラード+オルトフォンと比較して気づいたことではない。
EMTのアナログプレーヤーの音の良さは、この音のデッサン力の確かさにあることは、
初めてEMTのプレーヤー(930st)を聴いたときから感じていた。

EMTのプレーヤーがもつ音のデッサン力の確かさは、
演奏者ひとりひとりのデッサンが確かなのもそうだが、
それ以上に全体の音の構図、そしてその構図の中でのそれぞれの演奏者の提示の仕方も含めて、
音のデッサン力が確かだといえる。

その3)で書いている、それぞれの演奏者が適切な位置関係で鳴っている、
という感じとは、この音のデッサン力の確かさによるものである。

Date: 7月 7th, 2015
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その8)

たまたま松田聖子のディスクで、EMTの930stとガラードの301+オルトフォンSPUとを聴き比べたから、
松田聖子について書いてきたわけだが、
これが私自身が熱心な聴き手であるグラシェラ・スサーナだったら、
930stと301+SPUのどちらを選ぶかとなると、これもためらうことなく930stを選ぶ。

前回、親密感について書いた。
私は熱心な松田聖子の聴き手ではないから、そこでは親密感を求めない、とした。
だから930stをとる、と。

グラシェラ・スサーナに関しては熱心な聴き手だ。
彼女の歌い方からすれば、そこに親密感はあってほしいとは思う。
けれど、親密感というよりも、もっと求めるのは、私ひとりのために歌ってほしい。

このことは女性ヴォーカル、それも気に入っている女性ヴォーカルのレコードを鳴らす場合に、
多くの聴き手(男ならば)が求めていることだろう。

ならば親密に鳴ってほしいのかといえば、私はそうではない。
グラシェラ・スサーナにしても松田聖子にしてもプロの歌い手である。

私が望むのは、あくまでもプロの歌い手が私ひとりのために歌っている、
そういう感じで鳴ってきてくれたらうれしいのであって、
プロの歌手が聴き手に媚びているような親密感で歌ってほしいとは思っていない。

親密より濃密に歌ってほしい。
そしてなによりも930stと301+SPUの聴き較べてあらためておもったのは、
930stの音のデッサン力の確かさである。

Date: 3月 22nd, 2014
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その7)

たしかに松田聖子の声の質感はガラードとオルトフォンによる音のほうが、滑らかだった。
それでも気になるのは、松田聖子の歌手としての力量をどちらのプレーヤーがより正確に伝えてくれるか、
正確に再現してくれるか、という視点に立てば、私には930stのほうが、より正確に感じられる。

ガラードでの声の滑らかさはよかった。
それでもガラードでの松田聖子は、EMTでの松田聖子ほど歌手として堂々としているようには感じられなかった。

このへんは松田聖子に対する思い入れによっても評価は分れるかもしれない。
松田聖子の声・歌に何を求めたいのか。

松田聖子の熱心な聴き手であれば、親密感を求めるのかもしれない。
930stでの松田聖子は、人によっては立派すぎると感じるかもしれないところもある。
その意味では、親密感は稀薄ともいえよう。

それでもひとりのプロの歌手として松田聖子を聴きたいのであれば、やはり930stを私はとる。
私は松田聖子のレコードをかけたときに、そこに親密感を求めてはいないからである。

ガラードとオルトフォンでの松田聖子は声の質感だけでなく、
930stほど、各演奏者の距離感が適切には表現されていない。
そのため、こじんまりとしたスタジオで録音している雰囲気が漂う。

これもまた親密感ということではうまく働いてくれるのかもしれない。

Date: 3月 19th, 2014
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その6)

EMT・930stで松田聖子の歌が鳴ってきたとき、
少しばかり粗いところが残っている気もした。

でも、聴く前にしばらく930stを使っていなかったことを聞いていたし、
自分でも使っていたアナログプレーヤーであるから、
細かな調整を行うことで、そして通常的に使っていくことで、
いま気になっている点は解消できるという確信があったので、
松田聖子に特に思い入れをもたない聴き手の私は、その点はまったく気にしていなかった。

けれど私の隣で聴いていた松田聖子の熱心な聴き手は、
その点がとても気になっていた、そうだ。

930stからガラード301のターンテーブルの上に松田聖子のLPが載せかえられ、
301とSPUの組合せでの音が鳴った時に、熱心な聴き手の彼は、満足していたようだった。

つまり彼は930stの松田聖子の歌に関しては評価していなかった。
だから、両者の音を聴いた後で、私が「やっぱり930st」といったのをきいて、
「なぜ?」と思ったらしい。

930stがなぜ良かったのかについて、前回書いたことを話すと、彼もそのことには同意する。
それでも松田聖子の歌(声)の質感がどうしても930stのそれはがまんできない、とのこと。

私も彼のいうことは理解できる。
互いに相手のいうこと・評価を理解していても、
松田聖子の熱心な聴き手の彼はガラード301とオルトフォンSPUの組合せによるシステム、
松田聖子の熱心な聴き手ではない私はEMT・930stというシステムを、ためらうことなくとる。

Date: 3月 15th, 2014
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その5)

930stのあとに、ガラード301のシステムで松田聖子を聴いていて、すぐに感じて思い出していたのは、
五味先生が930stについて書かれていた文章だった。
     *
 いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
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ガラード301にはオルトフォンのSPUがついていた。
SPUもシリーズ展開が多過ぎて、ぱっと見ただけでは、SPUのどれなのかはわかりにくい。
少なくともSPU Classicではなかった。もっと高価なSPUだった。
それにフォノイコライザーに関しても、
930stは内蔵の155stで、ガラード301のほうはコントロールアンプ内蔵のフォノイコライザーであり、
301のほうのフォノイコライザーの方が155stよりも新しい設計である。

155stには昇圧用と送り出しの二箇所にトランスが使われている。
ガラードの301のシステムにはかなり高価な昇圧トランスが使われていた。
このトランス自体も155stに内蔵のトランスよりも新しいモノだった。

だからというわけでもないが、周波数レンジ的にはガラード301+オルトフォンSPUのほうがのびていた。
けれど五味先生が書かれているように、
シュアーのV15での三十人の合唱がEMTでは五十人に聴こえるのと同じように、
私が聴いていたシステムでも、930stの方が広かった。

三十人が五十人にきこえる、ということは、それだけの広い空間を感じさせてくれるということでもある。
その意味で930stは、録音に使われた空間が広く感じられる。

こう書いていくと、930stが完璧なアナログプレーヤーのように思われたり、
私が930st至上主義のように思われたりするかもしれない。

けれど930stは欠点の少ないプレーヤーではないし、私自身、930st至上主義ではない。
ガラード301とSPUで聴けた松田聖子の声は、実にしっとりとなめらかだった。