Archive for category 音楽家

Date: 11月 11th, 2020
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その6)

一週間前のaudio wednesdayで、
カザルスのモーツァルトを鳴らしてからというもの、
頭のなかで、カザルスのモーツァルトが流れている。

剛毅な、といいたくなるカザルスのモーツァルトは、
耳に残るし、心に残る。
それを反芻している。

意識的に、というよりも、ほぼ無意識的に、といったほうがいい。
電車に乗っていると、ほぼずっとカザルスのモーツァルトが、
頭の中に響いている。

きいたことすら記憶に残らない音楽(演奏)もある。

どちらのモーツァルトを聴くのかは、聴き手の自由である。

Date: 11月 5th, 2020
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その5)

昨晩のaudio wednesdayの最後にかける曲は、
あらかじめカザルスのモーツァルトに決めていた。

まず「ハフナー」をかけた。
残念なことに途中で、「偶然は続く(その3)」で書いているように、
マッキントッシュのMA7900の電源がふいに落ちた。

再び電源をいれて、最初からかけなおすことも考えたけれど、
「ジュピター」をかけることにした。

「ハフナー」にしても、「ジュピター」にしても、
一楽章から四楽章まで鳴らすつもりでいたので、
一楽章だけでなく最後まで聴いていた。

ライヴ録音なので、最後に拍手が入る。
拍手が鳴り出して、わりとすぐにMA7900の電源が落ちた。
この日、何度目になるのか。
途中で数えるのがイヤになるくらい、マッキントッシュの電源が落ちた。
十回ほどか。

それでもカザルスの「ジュピター」だけは、拍手の音は途中で切れたものの、
最後まで鳴らしてくれた。

Date: 11月 3rd, 2020
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その4)

指揮者パブロ・カザルスの演奏は、
録音は残っているけれど、映像はないものだ、と今日まで、そう思っていた。

残っていてもおかしくはないのだけれど、なんとなくそう思い込んでいた。
でも、残っていた。

YouTubeに“Casals at Marlboro”がある。
14分32秒の、さほど長くない動画だけれど、冒頭と最後のところで、
モーツァルトの「ハフナー」を指揮するカザルスが、数分とはいえみることができる。

「ハフナー」のときだから、1967年のマールボロ音楽祭だ。

とにかくカザルスの指揮する姿をはじめてみた。

Date: 10月 30th, 2020
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その3)

カザルス指揮によるモーツァルトの後期交響曲六曲で、
20代のころ、いちばん聴いていたのは、ト短調(40番)だった。

ハ長調(41番)は、なぜだか、まったくといいほど聴かなかった。
カザルスの演奏が──、というよりも、
「ジュピター」のニックネームで呼ばれている、この交響曲を、
当時の私は、意識的に遠ざけていた。

いま思うと、なぜなんだろう? と自分でもなぞでしかないのだが、
ほかの指揮者でも「ジュピター」を聴くことは、ほとんどなかった。

40近くなったころに、なにかのきっかけで「ジュピター」を聴いた。
聴いていて、20代のころ、聴く機会はけっこうあったにもかかわらず避けてきた、
その理由をおもいだそうとしたけれど、何もなかった。

それでも、もっと早く聴いておけばよかった──、と思ったわけではない。
まったく聴いていなかったわけではないし、
カザルスの「ジュピター」も、数えるほどでしかないが、聴いていた。

とはいえ、記憶のなかで鳴り響くカザルスのモーツァルトは、ト短調ばかりだった。
カザルスの「ジュピター」は……、と思い出そうとしても、朧げだった。

カザルスの「ジュピター」は、熱かった。
こうなると、カザルスの4ジュピター」ばかり聴く日が、しばらく続いた。

不思議なもので、それでも、もっと早く聴いていれば、
そのよさがわかっていれば、といったことはおもわなかった。

いま聴いて、素晴らしいと思える──、
そのことに、音楽を聴く喜びを感じられれば、それでいいのだと。

Date: 9月 17th, 2020
Cate: Friedrich Gulda

eとhのあいだにあるもの(その6)

地球(earth)の中心には、artがある。
eとhのあいだにartがある。
eとhのあいだは、アルファベット順だと、fg(FG) 。
つまりは、fg = art。

FGといえば、私にとってはFridrich Gulda(フリードリヒ・グルダ)。

こじつけである。
そんなことを(その1)で書いたのは、十一年前。

そしてグルダの平均律クラヴィーア曲集のリマスター盤(CDとLP)が出たのが、五年前。
いまも聴いているグルダの平均律クラヴィーア曲集は、このリマスター盤(CD)だ。

ピアノで弾かれた平均律クラヴィーア曲集ならば、
私はリヒテル、グールド、グルダがあれば、いい、というのは私の本音である。

内田光子、アルゲリッチの平均律クラヴィーア曲集を聴いてみたいが、
録音してくれるのかどうかは、わからない。

リヒテル、グールド、グルダの平均律クラヴィーア曲集で、
グルダのだけSACDが出ていない。

SACDでなくてもいい、MQAで出ないのか、と思っていた。
今日届いたタワーレコードからのメールに、
グルダの平均律クラヴィーア曲集のSACDハイブリッド盤が、10月に発売になる、とあった。

タワーレコードの独自企画である。
グルダ没後20年、生誕90年の今年に、平均律クラヴィーア曲集がSACDで、というのは、
ほんとうにうれしいかぎりである。

平均律クラヴィーア曲集だけでなく、ベートーヴェンのディアベリ変奏曲も出る。

タワーレコードのサイトには、
「クリストフ・スティック氏からのメッセージとマスタリング詳細」が公開されている。
そこには、
《そのアナログ信号DSDとPCMの2つの音源へと分割・変換されています。ネイティヴDSD音源(DSD64­­­_2ほ8224Mhz)は、それ以上、一切手を加えることなく、SACDレイヤーに採用されています。96khz 24bitのPCM音源はハイレゾ音源用に使用されます。》
とある。

ということは、96kHz、24ビットの配信も行われるということだろう。
MQAでの配信も期待していいのだろうか。

Date: 4月 30th, 2020
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その2)

パブロ・カザルス指揮によるモーツァルトを聴いていると、
「細部に神は宿る」について、あらためて考えさせられる。

なにもモーツァルトでなくてもいい、
カザルス指揮のベートーヴェンでもいい、シューベルトでもいい、
私にとって指揮者カザルスによって生み出された音楽を聴いていると、
これこそ「細部に神は宿る」と実感できる。

「細部に神は宿る」ときいて、どんなことを思い浮べるか。
細部まで磨き上げた──、そういったことを思い浮べる人が多いかもしれない。

そういう人にとって、カザルスが指揮した音楽は、
正反対のイメージではないか、と思うかもしれない。

丹念に磨き上げられ、キズひとつない──、
そういった演奏ではない。

それなのに「細部に神は宿る」ということを、
指揮者カザルスの音楽こそ、そうだ、と感じるのは、
すみずみまで、血が通っているからだ。

太い血管には血が通っていても、
毛細血管のすべてにまで十分に血が通っているわけではない、ときく。

毛細血管の端っこまで値が通っていなくとも、
指先の手入れをきちんとやり、爪も手入れも怠らない。
そういう演奏は少なくない。

そういう演奏を「細部に神は宿る」とは、私は感じない。

カザルスの音楽は、そうじゃない。
毛細血管の端っこまで充分すぎるくらいの血が通っている。

Date: 4月 28th, 2020
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(「コンサートは死んだ」のか・その3)

グレン・グールドが語った「コンサートは死んだ」。
新型コロナ禍のいま改めて「コンサートは死んだ」を考えると、
「コンサート(ホール)は死んだ」なのかもしれない。

グレン・グールドはコンサート・ドロップアウト後も、テレビ用に演奏している。
カメラの向う側、テレビの向う側に聴き手に向けてのコンサートである。

それにゴールドベルグ変奏曲もDVDが出ているくらいだ。
その他にも、グールドの映像は、
ホールでの演奏会を頻繁に行っている演奏家よりも、ずっと多い。

そんなグールドがいうところの「コンサートは死んだ」は、
コンサートホールは死んだ、ということかもしれない。

しかもコンサートホールそのものが消滅するということではなく、
そこに大勢の観客が集まってのライヴ演奏が死んだ、ということなのか。

グールドのいうように「コンサートが死んだ」としても、
コンサートホールは、特にクラシックの録音に関しては、録音の場として残っていくだろう。

だとすれば、ライヴ会場としての「コンサート(ホール)は死んだ」なのか。

グールドは指揮者としての活動も始めていた。
ワーグナーのジークフリート牧歌の録音が残っている。

それにグールドは別の場所にいて、テレビカメラでオーケストラがいる場と中継して、
離れた場所から指揮するという試みも行っている。
いまから40年ほど前のことだ。

コロナ禍により、STAY HOMEである。
クラシックの演奏家に限らず、いろんなジャンルの音楽家(演奏家)が、
自宅からインターネットのストリーミングを里余しての演奏を公開しいてる。

さらには離れた場所にいる数人がインターネットを介して、いっしょに演奏している。

昔、グールドがやっていたこととほぼ同じことをやっている、とも見える。
もしいまグールドが生きていたら、まっさきに演奏を公開していたのではないだろうか。

Date: 4月 20th, 2020
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その1)

こういう状況下で、どういう音楽を聴くのか。

グレン・グールドはコンサート・ドロップアウトした。
グレン・グールドは演奏家として、コンサート・ドロップアウトをした。

こういう状況下は、聴き手がコンサート・ドロップアウトしている、ともいえる。
もちろんコンサートが中止、もしくは延期になっている。

主体的なコンサート・ドロップアウトとはいえないかもしれないが、
こういう状況下が続く、もしくはくり返すことになれば、
聴き手の、主体的なコンサート・ドロップアウトもあたりまえのことになっていくのか。

こういう状況下で、どういう音楽を聴くのか──、
ひとによって違っていることだろう。

耳あたりの良い音楽を、こういう状況下だから聴く機会が増えた、という人もいるだろう。
不安を癒してほしい、そういう音楽を選ぶ人もいるだろう。
それまでとかわりなく──、という人もいよう。

カザルスのモーツァルトを聴いた。
指揮者カザルスのモーツァルトを聴いた。

ぐいぐいと押しだしてくるカザルスによるモーツァルトの音楽を聴いていると、
こういう状況下だからこそ、カザルスによる音楽を聴きたい、という、
裡なる声に気づく。

優美な音楽、優美な表現、優美な音、
優美さこそ──、という音楽の聴き手には、
カザルスによる音楽は、野暮に聴こえてくることだろう。

いまどきのオーディオは、カザルスの剛毅な音楽を鳴らせなくなりつつあるのかもしれない。

優美な音楽、優美な表現、優美な音は、
ほんのいっとき、聴き手をなぐさめてはくれよう。
けれど、そこに祈りはない。

Date: 3月 30th, 2020
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(「コンサートは死んだ」のか・その2)

(その1)へのコメントがfacebookにあった。
録り直しを気が済むまでできる演奏と、
やり直しがきかない演奏とでは、
そこにマイクロフォンがたてられていても違うのではないか……、
という趣旨のことだった。

録音は確かに何度でも録れる。
グレン・グールドは、“non-take-two-ness”(テイク2がない)と言っている。
それにテープ編集での新たな創造についても、具体例を語っている。

録音の歴史をふりかえってみれば、
録音も、そう簡単に何度もやり直せるわけではなかった。

エジソンの時代、
いわゆるダイレクトカッティングで録音れさていた。
ちょっとでもミスがあったら、最初からやり直すしかない。

蝋管の時代から円盤の時代に移行しても、変らない。
ドイツがテープ録音を発明し、
アメリカで第二次大戦以降に実用化されて、録り直しが当り前のとこになってきたし、
テープ編集も生れてきた。

それでも1970年代には、音を追求してのダイレクトカッティングが、
いくつかのレコード会社で行われてきた。

最近では、2014年に、ドイツ・グラモフォンが、
サイモン・ラトル/ベルリン・フィルハーモニーによるブラームス交響曲全集を、
ダイレクトカッティングで録音している。

いまはテープ録音からハードディスクへの記録に変っている。
編集は、テープよりもより簡単に、正確に行える時代になってきているのは確かだ。

だからといって、演奏家はいいかげんな気持で録音に臨んでいるわけではないはずだ。

Date: 3月 22nd, 2020
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(「コンサートは死んだ」のか・その1)

コンサート・ドロップアウトを宣言し、
「コンサートは死んだ」と語ったグレン・グールド。

グールドの死後、コンサートは廃れるどころか、その真逆である。
グールドの予言は外れた、ともいえる。

コンサート(ライヴ会場)には行くけれど、
レコード(録音メディア)はあまり購入しない、という人が増えている、ときく。

人気のある歌手の、近年のコンサートの様子は、大型テーマパークのようでもある。
このままますます肥大化していくようにも思えた。

そこに新型コロナである。
音楽コンサートだけでなく、大型イベントが中止もしくは延期になっている。

私が好きな自転車レースも、そうとうに影響を受けている。
不謹慎といわれるだろうが、グールドの予言が現実のものになりつつある。

とはいえグールドの予言そのままというわけではない。
電子メディアの発達によってコンサートが廃れていっているわけではない。

新型コロナが今後どうなっていくのか、私にはわからない。
早くに収束していくのかもしれないし、ずっと長引くのかもしれない。

そのため、ある試みがなされている。
無観客で演奏会、
その様子をストリーミング中継する。

これこそ電子メディアの発達による音楽鑑賞のひとつである。
そうなると、クラシックの演奏会では、基本的に無縁の存在であるマイクロフォンが、
ステージの上に立つことになる。

Date: 3月 16th, 2020
Cate: Claudio Abbado, ベートーヴェン

ベートーヴェン(交響曲第三番・その3)

先週、二日ほどアバドとシカゴ交響楽団によるベルリオーズの幻想交響曲を、
それこそくり返し聴いていた。

モバイルバッテリーでいろいろ試すためのディスクとして、
このディスクを選んだからである。

アバドの幻想は、ステレオサウンドで、当時試聴ディスクだったから、
試聴室ではCDでよく聴いていたし、
自宅ではLPで、飽きずに聴いていたものだ。

幻想交響曲に、特に思い入れはないから、
くり返し聴くのがわかっていたからの選曲である。

とはいっても、アバドの幻想交響曲を聴くのは、そのころ以来である。
三十年は優に経っている。

それだけの長いあいだ聴いていなくても、
第一楽章が鳴ってくると、おもしろいもので、そうだった、と思い出す。

試聴でよく聴いていたのは、いうまでもなく第四楽章であり、
第五楽章もけっこう聴いていた。

第一楽章から最後まで通して聴いたのは、数えるくらいしかない。
アバドの幻想を愛聴盤としている人からすれば、ひどい聴き方と誹られよう。

そんな聴き方ではあったが、
モバイルバッテリーのあれこれを試したあとは、通しで聴いた。

聴き終って、
アバドとウィーンフィルハーモニーとによるベートーヴェンの三番を無性に聴きたくなった。

Date: 9月 30th, 2019
Cate: Jacqueline du Pré

1965年夏(その1)

今日、写真家の野上眞宏さんのところに行っていた。
野上さんは、先週金曜日に、メリディアンの218を導入された。

野上さんとは先週の月曜日(23日)、水曜日(25日)、金曜日(27日)にも会っていたのに、
218を聴きたくて、また出掛けていった。

野上さんのところに行くのは、ちょうど二週間ぶり。
玄関を開けると、奥にある仕事場兼リスニングルームからの音が聴こえてくる。

今日の音は、二週間前とはかなり違うことが、玄関を入っただけでわかる。
218の音に、どのくらい満足されているかは、野上さんの顔をみればわかることだ。

野上さんは先週土曜日まで、
写真展「DISCOVER AMERICA; Summer Of 1965」を開催されていた。
展示されていた写真の点数は、スペースの関係もあって十数点だった。

野上さんが1965年のアメリカ旅行で撮られた写真は250枚ほどだ、と聞いている。

開催期間中の土曜日には、展示できなかった写真のスライドショーが行われていた。
野上さんの解説つきである。

私は都合がつかなくて、土曜日には行けなかった。

野上さんのところで、MQAの音を、いくつかの録音で聴いた。
ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲も聴いた。

曲が鳴りはじめて少しして、野上さんがパソコンを操作して、
スピーカーのあいだにあるディスプレイに、
「DISCOVER AMERICA; Summer Of 1965」の写真を映し出された。

1965年8月のアメリカが、そこに次々と映し出されていた。
耳にはデュ=プレのエルガーが入ってくる。

この録音も、1965年8月だったことをふと思い出した。

Date: 7月 11th, 2019
Cate: Wilhelm Backhaus, 五味康祐

ケンプだったのかバックハウスだったのか(補足・7)

今年2月に、バックハウスのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集がSACDで発売になった。
9月には、ケンプによる全集が、CD八枚組+Blu-Ray Audio(一枚)で出る。

バックハウスはDSDで、ケンプは96kHz/24ビットで、それぞれのベートーヴェンが聴ける。
ケンプはさらにe-onkyoでMQAでも配信されている。

いい時代、面白い時代になってきた。

Date: 6月 14th, 2019
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その15)

今年2月に、バックハウスのベートーヴェンのピアノソナタ全集がSACDで登場することに触れた。
そこでも書いているが、今年はバックハウス没後50年、デッカ創立90年である。

バックハウスのデッカ録音全集(39枚組)が、今回出る。
デッカ録音全集というだけあって、「最後の演奏会」もここには含まれている。

不思議なことに、LPもCDも、輸入盤を手に入れたいと思っていたが、
見たことがない。

国内盤のCDは何度も廉価盤で登場しているにも関らず、だ。
ようやく今回、輸入盤で「最後の演奏会」が聴ける。

輸入盤ということだけでなく、今回新たにリマスタリングを行っているそうだ。
「最後の演奏会」のCDを聴く度に(頻繁に聴いているわけではないが)、
その録音に疑問を抱いてしまう。

「最後の演奏会」なわけだから、当然ライヴ録音である。
そのためなのか、と思うこともあったが、
とかにく今回、やっと自分の耳で確認できるようになる。

Date: 3月 8th, 2019
Cate: Kate Bush, ディスク/ブック

THE DREAMING(その1)

ケイト・ブッシュのアルバムで、強い印象をうけたのは、
やはりデビューアルバムの“THE KICK INSIDE”、
そして“THE DREAMING”である。

“THE KICK INSIDE”を初めて聴いたのは、FMだった。
衝撃だった。

背中に電気が走った、という表現があるが、
“THE KICK INSIDE”を聴いたときが、まさしくそうだった。

ケイト・ブッシュの四枚目の“THE DREAMING”が出た時、東京で暮していた。
同じころ、バルバラの“Seule”で出ていた。

“THE DREAMING”は、“THE KICK INSIDE”以上に、
“THE KICK INSIDE”とは違った衝撃を受けた。

バルバラの“Seule”とケイト・ブッシュの“THE DREAMING”。
どちらも重く、聴き手のこちらにのしかかってくるような感じも受けた。

ひたひたと何かが迫ってくる、とも感じた。
この二枚が、これから先、愛聴盤になっていくのだろうか、とも思っていた。

東京では独り暮しの始まりでもあった。
そのことも、そう感じたことと無関係ではない、といまでは思う。

“THE DREAMING”は、72トラック録音だといわれた。
36トラックのマルチトラックレコーダーを二台シンクロさせての録音である。
当時としては最大数のトラックだったはずだ。
厳密には同期用にトラックが使われているので、
72トラックすべてに録音されているわけではない。

にしても、すごい録音だと感じた。
“THE DREAMING”が発売になって、とのくらい経っただろうか、
ケイト・ブッシュが精神病院に通っている(入院している)というウワサが出た。

そもありなん、と思える録音であった。
事実は、セラピーに通っていた、ということだった。

これだけの録音を仕上げるのは、そうとうにしんどい作業であったはずだ。
“THE DREAMING”はアナログ録音である。

トラックダウン作業の実際を知りたい、とそのころ思っていた。
“THE DREAMING”は、すごく凝った録音なのは聴けばすぐにわかる。

けれど、これだけのものを作り上げるために、どれだけの作業高低が必要だったのか。
“THE DREAMING”は、どう鳴らしてもスタティックな印象がついてまわる。

もっと躍動的に鳴らないのか──、そう感じてもいた。