Archive for category 音楽家

Date: 2月 13th, 2019
Cate: Wilhelm Backhaus, ディスク/ブック

バックハウスのベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集

バックハウスは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタを二回録音している。
4月に二回目の録音が、シングルレイヤーのSACDで出る。
(29番のみ二回目の録音は未了のため、一回目のモノーラル録音が使われている)

今年はバックハウス没後50年、デッカ創立90周年ということでの限定発売のようだ。

バックハウスのベートーヴェンがSACDで聴ける日が来るとは、まったく期待していなかった。
私が20代前半のころ、
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集はいくつかあった。
バックハウスのがあったし、
グルダ、アシュケナージ、ブレンデル、シュナーベル、ナットなどの全集があった。

シュナーベルの録音はかなり古い。
ナットの録音は、シュナーベルほど古くはないがモノーラルだった。

ステレオ録音となると、バックハウスによる全集が、
そのころの私には輝いて見えていた。

いつかはバックハウスの全集を……、そう思いつづけていた日がある。
なのに、なぜか買うことはなかった。

もちろんバックハウスのベートーヴェンの後期のソナタに関しては買った。
けれど全集となると、CDではそれほど高価でもなかったにもかかわらず、手が伸びなかった。

今回のSACD全集を逃してしまえば、
バックハウスの演奏でベートーヴェンのソナタをすべて聴くことはなかろう。
今回の最後の機会だとおもっている。

これまで頻繁に聴いてきた、とはいえないが、
それでも20代のころから聴いてきているのが、
バックハウスによるベートーヴェンの後期のソナタである。

それでもひさしく聴いていない。
だからこそおもうところがある。

Date: 1月 12th, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスとD731(その3)

ローザ・ポンセルのCDは、ナクソスから数枚出ている。
「椿姫」もナクソスから、である。

ポンセルの「椿姫」は、ジャケットにBroadcast on 5th January, 1935と記されているように、
放送用に録音されたものので、
再生してみればわかるようにいきなり音楽から始まるのではなく、コメンタリーから始まる。

録音年代からすると、それほど音は悪くはないし、
鑑賞にたえるだけの音質ではある。

それでも、セラフィンの
「私の長い生涯に、三人の奇蹟に出会った──カルーソー、ポンセルそしてルッフォだ。この三人を除くと、あとは数人の素晴らしい歌手がいた、というにとどまる」、
アーネスト・ニューマンがカラスのコヴェント・ガーデンへのデビューの際に評した
「彼女は素晴らしい。だが、ポンセルではない」、
これらにすなおに首肯けたかというと、決してそうではなかった。

ずっと以前きいたときよりも印象はよくなっていたけれど、
それでも……、とやっぱり感じてしまうのは、ポンセルの実演に接していないからなのか。

残されている録音を聴くことしかできない聴き手にとって、
ローザ・ポンセルのすごさは感じとり難いとしかいいようがない。

1月のaudio wednesdayに19時前に来られた方は二人。
二人とも、ポンセルの歌にすごさは感じられてなかった。

ローザ・ポンセルの「椿姫」の二枚組のCDは、昨秋ディスクユニオンで買ったものだ。
新品で定価は500円となっていた。

レジに持っていくと、店員がちょっと待ってください、という。
なにかな、と思っていたら、何かのセールのようで、100円になっていた。
一枚あたり50円。
だからそれだけの価値しかない、とはいわないし、思っていない。

それでも……、ともう一度くりかえしてしまうが、
私は、おそらく死ぬまでローザ・ポンセルのすごさはわからないのかもしれない。

ローザ・ポンセルの「椿姫」を最後までかけはしなかった。
19時になったので、マリア・カラスの「椿姫」をかけた。

Date: 1月 11th, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスとD731(その2)

《カラス至上のレコードは、彼女の最初の〈トスカ〉である。ほぼ二十五年経った今も、イタリア歌劇のレコード史上いぜんとしてユニークな存在を保っている。》

ウォルター・レッグは「レコードうら・おもて」でそう書いている。

カラスは、ヴィクトル・ザ・サバータ/ミラノ・スカラ座と1953年に、
その後、ステレオ時代に入ってからプレートル/パリ音楽院管弦楽団と1964年に録音している。

いまはどうなのか知らないが、1980年代までは、「トスカ」の名盤といえば、
カラスの、この二組のトスカがまず挙げられていた。

CD化されたのは、デ・サバータとのモノーラル盤のほうが先立った。
このこともウォルター・レッグのことばを裏づけていよう。

「トスカ」もかけようと考えていた。
けれど、四時間もカラスばかりかけていたにも関らず、
「トスカ」からは「歌に生き、愛に生き」だけしかかけなかった。

19時からの始まりで、最初にかけたのは「椿姫」。
EMI録音のサンティーニ/RAI交響楽団とによるものは、
カラスひとりだけ素晴らしくても……、とおもわざるをえない。

黒田先生が、以前どこかで書かれていたが、
「椿姫」のヴィオレッタの理想は、絶頂期のマリア・カラスであろうが、
それでもカラスのEMI盤は、名盤とは思えない。

なのに最初に、その「椿姫」をかけたのは、
19時の直前までかけていたのが、ローザ・ポンセルの「椿姫」だったからである。

Date: 1月 6th, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その2)

続きを書く予定は最初はなかったけれど、
そういえば「レコード・トライアングル」にカラスの章があったことを思い出した。

黒田先生は、マリア・カラスの章に「声だけで女をみせる:マリア・カラス」とつけられている。
     *
 いまふりかえってみて気がつくのはカラスのレコードを全曲盤にしろ、アリア集のレコードにしろ、たのしみのためだけにきいたとはいえないということである。そのときはなるほどたのしみのためにきいたのかもしれなかったが、結果としてさまざまなことを勉強したにちがいなかった。なにを勉強したのかといえば、オペラとはなにか?——ということであった。オペラとは音楽であり同時にドラマでもあるとういことを、カラスのうたうノルマやルチアの〈トロヴァトーレ〉のレオノーラをきいてわかった。
 そのことを別の面から教えてくれたのがトスカニーニであった。なるほどオペラとはこういうものであったのか——といった感じで、トスカニーニによってオペラに対しての目をひらかれた。はじめてカラスの〈ノルマ〉をきいた当時のぼくはききてとして、完全にトスカニーニの影響下にあった。
 そういうかたよったきき方をあらためるのに、カラスのレコードはまことに有効であった。
 あれこれさまざまなカラスのレコードをきいているうちに見えてくるものがあった。レコードが与えてくれるのはたしかに聴覚的なよろこびだけである。いかに目を凝らしてもなにも見えない。レコードでできるのはきくことだけのはずである。ところがカラスのレコードをきいていたら、悲しむノルマの表情が、怒るノルマの頬のひきつりが、見えてきた。それをも演技というべきかどうか。カラスによってうたわれた場合には、ノルマなり、ルチアなり、レオノーラなり、つまりひとりの女を、音だけで実感することができた。
 それはむろん信じがたいことであった。しかしそれは信じざるをえない事実でもあった。
 カラスのレコードをきくということは、そこでカラスが受けもっている役柄を、ひとりの生きた人間として実感することであった。オペラのヒロインには、中期のヴェルディ以後の作品でのものならともかく、その描き方に少なからずステロ・タイプなところがある。そういう役柄は、うたわれ方によってはお人形さんの域を出ない。しかしそのことをもともと知っていたわけではなかった。
 ルチアにしろ、〈夢遊病の女〉のアミーナにしろ、〈清教徒〉のエルヴィーラにしろ、幸か不幸かまずカラスのうたったレコードできいた。そういう役柄がひとつ間違うとお人形さんになってしまうということを、後で別のソプラノがうたったものをきいて知った。たとえば、カラスのうたったアミーナとタリアヴィーニがエルヴィーノをうたったチェトラの全曲盤でのリナ・パリウギのアミーナとでは、なんと違っていたことか。カラスのアミーナには人間の体温が感じられたが、パリウギのアミーナは美しくはあったがお人形さんの可憐さにとどまった。
 さまざまなレコードをきいたり、実際に舞台で上演されたものに接したりしているうちに、やはり人並みにオペラのたのしみ方のこつをおぼえてきた。その結果、ますますカラスのオペラ歌手としての尋常でなさがわかってきた。
(中略)
 オペラを好きになりはじめた頃からずっと、マリア・カラスはもっとも気になるオペラ歌手であった。はじめはなんと変わった声であろうと思い、この人がうたうとなんでこんなに生々しいのであろうと考え、つまりカラスは大きな疑問符であった。その大きな疑問符にいざなわれて、オペラの森に分け入ったのかもしれなかった。
 ぼくはカラスの熱烈なファンであったろうか?——と自問してみて、気づくことがある。かならずしも熱烈なファンではなかったかもしれない。しかしカラスによって、より一層オペラをたのしめるようになったということはいえそうである。マリア・カラスは、ぼくにとって、オペラの先生であった。カラスによっていかに多くのことを教えられたか数えあげることさえできない。
 しかしカラスの他界によってカラス学級が閉鎖したわけではない。決して充分とはいえないが、それでもかなりの数のレコードが残っている。これからもオペラとはなんであろう? という、相変わらず解けない疑問をかかえて、カラスのレコードをききつづけていくにちがいない。
     *
黒田先生の文章を読んで、
マリア・カラスは、また違う意味での「古典」でもある、と思っているところだ。

Date: 1月 5th, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その1)

“′Classic′ – a book which people praise and don’t read.”
マーク・トウェインの、古典について語ったことばだ。
日本語に訳する必要はないだろう。

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その4)」で、
オーディオショウでマリア・カラスを聴いた記憶がない、と書いた。

なぜだろうなぁ、と考えても、答が見つかったわけではない。
けれど、マリア・カラスはいまや古典なのかもしれない。

誰もが賞讃するけれど、だれも聴かないのかもしれない。

Date: 1月 3rd, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスとD731(その1)

マリア・カラスのCDだけを聴く四時間だった。
集中してマリア・カラスを聴いたことは、いままでやってこなかった。

昨晩のaudio wednesdayに来てくれた人たちが楽しんでくれたのかどうかはきかなかったが、
私自身は楽しかった。

退屈するかも……、と少しは思っていた。
でも杞憂だった。

今回、セッティングでいままで試してこなかったことをやった。
実験的なことなため、すぐ元にもどせるようにと、
見た目は少し手抜きのところがあった。

その効果はあったので、次回以降できちんと仕上げる予定ではあるが、
そんなことをやっても、昨晩のaudio wednesdayには、
メリディアンのULTRA DACがないんだなぁ……、と胸の裡でつぶやいていた。

CDプレーヤーはスチューダーのD731。
前回、トランスポートとした使っている。
ULTRA DACの存在があるかないかの違いである。

大きな音の違いがあるのは、音を出す前からわかっていた。
それでも前回、D731単体の音出しからULTRA DACと組み合わせての音との違いよりも、
今回のULTRA DAC不在の音の違いが、ずっとずっと大きく感じられた。

四週間すぎてなお、これほど違いを感じるのか……、とも思っていた。

マリア・カラスの「カルメン」ももちろんかけた。
「ノルマ」から「Casta Diva」もかけた。

そして後悔していた。
前回、ULTRA DACがあったときに「Casta Diva」を聴かなかったことを。

Date: 11月 5th, 2018
Cate: Kate Bush, ディスク/ブック

Kate Bush – Remastered

ケイト・ブッシュのリマスターの告知は知っていた。
LPとCDの予約が始まっているのも、もちろん知っている。

今日、Kate Bush – Remastered – Adという動画を見た。
最後に、LP – CD – Digitalとある。

Digitalが意味するのは、配信なのだろう。

Date: 8月 19th, 2018
Cate: Wilhelm Furtwängler

フルトヴェングラーのことば(その2)

フルトヴェングラーが1929年に発表した「指揮の諸問題」に、こう書いてある。
     *
 アメリカ的な様式に見られるオーケストラ崇拝、総じて素材的な面における楽器崇拝は、現在の技術的な思考方式に即応している。「楽器」がもはや音楽のために存在しなくなれば、ただちに音楽が楽器のために存在するようになる。「ハンマーになるか、鉄敷(かなしき)になるか」の言葉が、ここにもまた当てはまる。それによってすべての関係が逆になる。そしていまや、アメリカから私たちに「模範的」なものとして呈示される、あの技術的に「無味乾燥な」演奏の理想が姿を見せるようになる。それはオーケストラ演奏においては均整のとれた、洗練された音色美を通して顕示され、この音色美は決して一定の限度を越えることなく、楽器それ自体の音色美という一種の客観的な理想を追うのである。ところで作曲家の意図は、このように「美しく」響くということになるのだろうか。むしろ、このようなオーケストラや指揮者によって、ベートーヴェンの律動的・運動的な力ならびに音の端正さがまったく損われてしまうことは明らかである。
     *
「指揮の諸問題」なのだが、現在のオーディオの諸問題にも読める。
この「指揮の諸問題」の初めのほうには、こうも書かれている。
     *
 芸術における技術的なものの意義、それは以前の、非合理性に傾いていた時代には過小評価されがちであったが、今日ではむしろ過大評価されている。
     *
これはある種のスポーツ化ともいえるような気がしてくる。
より高度な技を、より精度高く演じていくことで、
現代の、たとえば体操、フィギュアスケートは高得点を得られるのではないのか。

それはそれで、凄いことではあるけれど、ずっと以前とは違ったものになりつつあるようにも感じる。

スポーツも演奏も、どちらも肉体を駆使しての結果であるのだから──、
という考え方は成り立つのだろうが、それでも「違う」といいたくなる。

「指揮の諸問題」はいまから90年前に書かれている。
それをいま読んで、オーディオにあてはめている。

《「楽器」がもはや音楽のために存在しなくなれば、ただちに音楽が楽器のために存在するようになる。》
楽器をスピーカーにおきかえれば、
《「スピーカー」がもはや音楽のために存在しなくなれば、ただちに音楽がスピーカーのために存在するようになる。》
となる。

《「美しく」響くということになるのだろうか》は、
いまならば
《「スマートに」響くということになるのだろうか》だ。

Date: 8月 4th, 2018
Cate: Wilhelm Furtwängler

フルトヴェングラーのことば(その1)

フルトヴェングラーの「音と言葉」。
「アントン・ブルックナーについて」という章で、こう書いてある。
     *
もう二十年以上も前になりますが、あらゆる世界の国々の全音楽文献をあさって、最も偉大な作品は何かという問合せが音楽会全般に発せられたことがありました。この質問は国際協会(グレミウム)によって丹念に調査されたうえ、回答されました。人々の一致した答えは、──『マタイ受難曲』でもなければ、『第九シンフォニー』でも、『マイスタージンガー』でもなく、オペラ『カルメン』ということに決定されました。こういう結果が出たのも決して偶然ではありません。もう小粋(エレガンス)だとか、「申し分のない出来」とか、たとえば「よくまとまっている」とかいうことが第一級の問題として取り上げられるときは、『カルメン』は例外的な高い地位を要求するに値するからです。しかしそこにはまた我々ドイツ人にとってもっとふさわしい、もっとぴったりする基準もあるはずです。
(新潮文庫・芳賀檀 訳より)
     *
「アントン・ブルックナーについて」は1939年だから、20年前というと1919年以前。
ニイチェが亡くなったのが1900年。
ニイチェの「ワーグナーの場合」のこと。

そんなことも考えながら、もっとふさわしい基準、もっとぴったりする基準、
名曲はオーディオの名器にも置き換えられる。

いろんなことにつながっていき、いろんなことを考えさせられる。

Date: 7月 23rd, 2018
Cate: Frans Brüggen

Frans Brüggen(その2)

カザルスのベートーヴェンの交響曲第七番については、何度か書いている。
文字通り、カザルス指揮の第七番を聴いて打ちのめされた。

それから一時期、カザルスのレコードを聴きまくっていた。
七番以外にもモーツァルトの交響曲を買ったし、バッハももちろん買った。
シューベルト、それにベートーヴェンの八番などである。

八番も凄かった。
カザルスの八番を聴くまで、八番がこういう曲だとは思ってもみなかった。
カザルスの八番を聴いて、いろんな指揮者の八番を聴きまくった。

カザルスの八番以外でもっともよく聴いていたのが、
フランス・ブリュッヘン/18世紀オーケストラによる八番だった。

その後もいくつもの八番を聴いてきた。
いまもベートーヴェンの八番といえば、カザルスとブリュッヘンである。

この二枚があれば、ベートーヴェンの八番は他にはいらない、とまではいわないものの、
この二枚がなければ、私にとってのベートーヴェンの八番はないに等しい曲になってしまう。

Date: 10月 6th, 2017
Cate: Pablo Casals

「鳥の歌」を聴いて

10月3日に「鳥の歌」を書いた。
翌日はaudio wednesdayだった。

Aさんが、「ホワイトハウス・コンサート/カザルス」のCDを持ってこられた。
私がずっと以前に聴いたときはLPだった。

CDで聴くのは初めてだったし、
前回聴いたのはいつだったのか、もう憶い出せないほどに年月が経っている。

こんなにも感じ方が変ってきたのか、と思うほどに、
記憶にある聴こえ方とは大きく違って聴こえた。

黒田先生が「音楽への礼状」で書かれていることを、心の中でくり返す。
     *
大切なことを大切だといいきり、しかも、その大切なことをいつまでも大切にしつづける、という、ごくあたりまえの、しかし、現実には実行が容易でないことを、身をもっておこないつづけて一生を終えられたあなたのきかせて下さる音楽に、ぼくは、とてもたくさんのことを学んでまいりました。
     *
大切なことを大切だといいきる、こと。
どれだけの人が実行しているのだろうか。
大切なことに新しいも古いもない。
そんなことさえ、いまでは忘れられているような気さえする。

大切なことをいつまでも大切にしつづける、
ということはそれだけの時間が経っている。
大切なことが新しいわけがない。

Date: 10月 3rd, 2017
Cate: Pablo Casals

「鳥の歌」

カタルーニャの独立がニュースになっている。
     *
 あなたの録音なさったディスクではほとんどかならず、演奏中のあなたによって発せられる呻き声をきくことができます。「わたしの生まれ故郷であるカタロニアの鳥たちは、ピース、ピース、と鳴きます」とおはなしになってから演奏なさったと伝えられているホワイトハウスでの「鳥の歌」でも、あなたの呻き声がきかれます。きっと、あのときのあなたの呻き声は、平和を願うあなたの祈りが、あなたの大きな胸にあふれ、こぼれ落ちるときにもたらしたものにちがいありませんでした。
 ぼくは、あなたがホワイトハウスで演奏なさった「鳥の歌」をきくと、いつでも、万感胸に迫り、なにもいえなくなります。これが音楽だ、と思い、同時に、これはすでに音楽をこえた祈りだ、とも思います。あの「鳥の歌」は、真に剛毅なペガサスだけにうたえた祈りの歌でした。
 ホワイトハウスでの「鳥の歌」をおさめた「ホワイトハウス・コンサート/カザルス」のディスクには、当時のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディとか、あるいは行儀わるく足をなげだしているジャクリーヌといったひとたちからなる聴衆の拍手にこたえ、チェロを片手に頭をさげているあなたの写真が、掲載されています。一九六一年の十一月十三日、あなたはあの日、特別の事情があってホワイトハウスで演奏をなさったのでしたね。「鳥の歌」はそのコンサートの最後に演奏されました。
 それから半年もたっていない一九六二年の三月二十二日、アメリカに支援された南ベトナム軍はベトコン・ゲリラ掃討の目的でサンライズ作戦を開始しました。それをきっかけに、あなたの平和への祈りも虚しく、あの不幸なベトナム戦争がはじまりました。あなたが平和への祈りをこめて切々とうたった「鳥の歌」も、時のアメリカ大統領にとっては、馬の耳に念仏でしかなかったのです。あなたは、ホワイトハウスで、頭などさげる必要はなかった、と思い、あの写真をみるたびに、ぼくは、柄にもなく義憤を感じてしまいます。
 しかし、さいわいにして、ぼくらは、誰にもまして誠実に音楽で自己を語りつづけられたあなたの剛毅な音楽を、そのホワイトハウスでの「鳥の歌」もふくめ、残されたディスクできくことができます。あなたがあなたの楽器であるチェロでひかれたバッハやベートーヴェンはもとより、指揮をされたモーツァルトやシューベルトをきけば、ぼくは、音楽のむこうに、雷霆をはこんで空を飛ぶペガサスをみて、その勇気に鼓舞され、おのれのうちの軟弱を追放することができそうに思えてきます。
 大切なことを大切だといいきり、しかも、その大切なことをいつまでも大切にしつづける、という、ごくあたりまえの、しかし、現実には実行が容易でないことを、身をもっておこないつづけて一生を終えられたあなたのきかせて下さる音楽に、ぼくは、とてもたくさんのことを学んでまいりました。
     *
黒田先生の「音楽への礼状」から書き写した。

Date: 3月 16th, 2017
Cate: Leonard Bernstein

ブルックナーのこと(その2)

別項のためにステレオサウンド 16号を開いている。
16号でのオーディオ巡礼には、瀬川先生のほかに、山中先生と菅野先生も登場されている。

このころの山中先生はアルテックのA5に、
プレーヤーはEMTの930st、アンプはマッキントッシュのMC275を組み合わされていた。
     *
そこで私はマーラーの交響曲を聴かせてほしいといった。挫折感や痛哭を劇場向けにアレンジすればどうなるのか、そんな意味でも聴いてみたかったのである。ショルティの〝二番〟だった所為もあろうが、私の知っているマーラーのあの厭世感、仏教的諦念はついにきこえてはこなかった。はじめから〝復活〟している音楽になっていた。そのかわり、同じスケールの巨きさでもオイゲン・ヨッフムのブルックナーは私の聴いたブルックナーの交響曲での圧巻だった。ブルックナーは芳醇な美酒であるが時々、水がまじっている。その水っ気をこれほど見事に酒にしてしまった響きを私は他に知らない。拙宅のオートグラフではこうはいかない。水は水っ気のまま出てくる。さすがはアルテックである。
     *
アルテックでブルックナーか、
と読んだ時から思っていたけれど、なかなか聴く機会はこれまでなかった。

アルテックといっても604ではなく、ここでのアルテックは劇場用スピーカーとしてのアルテックであり、
A5、最低でもA7ということになる。

周りにA5(A7)を鳴らしている人はいないが、
喫茶茶会記のスピーカーのユニット構成は、A7に近い。
アンプもMC275ではないけれど、MA2275がある。

もらろん山中先生の鳴らし方ではないけれど、
これまで私がブルックナーを聴いてきたシステムとは傾向が違うし、
いちどブルックナーを聴いてみようかな、と思っている。

audio wednesdayのどこかでやってみたい。

Date: 8月 4th, 2016
Cate: Carlo Maria Giulini, マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・余談)

昨夜の最後にかけたカルロ・マリア・ジュリーニのマーラーの第九。
タワーレコードがSACDとして9月に発売するというニュースが、今日あった。

昨夜も、これがSACDだったら、いったいどんな鳴り方・響き方になるのだろうか。
この音楽が、どう聴き手であるこちらに迫ってくるのか。
それを考えずにはいられなかった。

一夜明けたら、SACDのニュース。
すごいタイミングである。

喫茶茶会記には、いまのところSACDプレーヤーはないけれど、
来年の新月のどこかで、また「新月に聴くマーラー」をやりたいと思ってしまった。
そのときにはなんとかSACDプレーヤーを用意しておきたい。
そして最後にかけるのは、やはりジュリーニの第九、第四楽章である。

ジュリーニのマーラーだけでなく、
キリル・コンドラシンのシェエラザードもSACDになる。

Date: 6月 25th, 2016
Cate: Carlo Maria Giulini

実現しなかったモノ・コト(その1)

黒田先生は、ヴェルディ「椿姫」における理想のヴィオレッタは、
全盛期のマリア・カラスであったと思われる、と何かか書かれていた。
そうだ、と多くの人が同意されると思う。私もそうだと思う。

でも、マリア・カラスがヴィオレッタを歌ったディスクは、いくつかの注文をつけたくなる。
それは録音も含めて問題があるように感じるからである。

いまもカルロス・クライバーの「椿姫」の評価は高い。
1976年から77年にかけての録音であるから、もう40年前のことになってしまう。
けれど、ヴィオレッタに起用されたコトルバスに心底満足している聴き手は、どのくらいいるのだろうか。

ケチをつける、というほどではないにしても、
マリア・カラスを最高のヴィオレッタと思っている聴き手は、
口にすることはないけれど、何か思うところがあるはずだ。

このカルロス・クライバーの「椿姫」は、
もしかするとカルロ・マリア・ジュリーニの指揮になっていたかもしれない。

以前のステレオサウンドには三浦淳史誌の連載があった。
57号掲載の「続・レコードのある部屋」の大見出しはこうだった。

ジュリーニをオペラに呼び戻した《リゴレット》の録音
ライラック/カルショーの遺言

書き出しのところを引用しておく。
     *
 カルロ・マリア・ジュリーニは、十年間、オペラ録音のためのスタジオに入ったことがなかった。歌劇場も同様である。ジュターにがさいごにふったオペラ全曲盤は、EMIのために録音した《ドン・カルロ》だった。彼が盗用したプラシード・ドミンゴとルッジェーロ・ライモンディは、彼らのキャリアをはじめたばかりだった。その後、ジュリーニはオペラをふる気にならなかった。あわやふりそうな気配は二回ほど見せたが、実現しなかった。
 七年前、EMIはジュリーニのために《トロヴァトーレ》を企画したが、ジュリーニは会社がそろえてきた。キャストのうち、一人の歌手をどうしてもアクセプトできなかった。EMIは歌手の入れ替えをしなかったのか、それとも、できなかったのか、ジュリーニの意向を迎えなかったので、ジュリーニは会釈して出ていった。二回目の機会は一九七六年に起こった。DGはカルロス・クライバーの指揮で《ラ・トラヴィアータ》(俗称「椿姫」)を録音する体制をととのえた。クライバーは急病のため指揮をとれないことになった。DGのプロデューサー、ギュンター・プレーストは、ミラノにジュリーニを訪ね、引き受けてくれるよう懇望した。ジュリーニは二十四時間考えたのち、ことわった。理由は、自分が望んでいるやり方で、このオペラを準備するには、時間がなさすぎるというのである。クライバーが回復して、録音は予定通り行なわれた。
 ジュリーニの拒絶反応が反射的なものでないことを知ったプレーストは、ジュリーニにふさわしいオペラと、ジュリーニのアクセプトするキャストを揃えれば゛オペラ録音にカム・バックする可能性はあると、ふんだ。
 次のプレースト談は『ザ・タイムズ』紙の特派員に語った言葉である。
「私は、カルロの夫人のマルチェッラが『主人はもう少しで《トラヴィアータ》の提案に同意するところだったですよ』と話してくれた事実によって、ひじょうに励まされたのです。私共にとってありがたいもう一つのファクターは、ジュリーニの新しい手兵であるロス・アンジェルス・フィルハーモニック(LAP)とオペラをやるという話し合いが出たことでした。ジュリーニはすでにLAPの総支配人アーネスト・フライシュマンと《ファルスタッフ》をふることを話し合っていたのです。
     *
まだまだ続くし、まだまだ引用しておきたいが、このへんにしておく。

ジュリーニが《ラ・トラヴィアータ》の録音をことわった理由のこまかなことはわからない。
ジュリーニはスカラ座を指揮して、マリア・カラスのヴィオレッタによるライヴ録音を残している。

もしジュリーニが録音していたら、クライバーの「椿姫」はなかった可能性が強い。
それでもジュリーニの録音が実現していたら……、と思ってしまう。