Archive for category 音楽家

Date: 7月 18th, 2026
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その6)

来年(2027年)は、マリア・カラス没後五十年。

マリア・カラスは日本でも高く評価されていたし、人気も高かったのに……、と思ってしまうのは、2020年に予定されていた“Callas in Concert – The Hologram Tour”が、コロナ禍で、延期ではなく中止になってしまったことが一つ。

それから2024年に公開された映画「Maria」が、日本では公開されないどころか、Netflixでも配信されていない。
アンジェリーナ・ジョリーが七ヵ月に及ぶ声楽のトレーニングを受けてマリア・カラスを演じた作品は、日本でも話題になっていた。

なのに、何も伝わってこなくなっている。映画館での公開はもう期待できないと思っているが、なぜNetflixは日本で配信しないのか。その理由も伝わってこない。

来年に期待できるのか。

Date: 5月 27th, 2026
Cate: Carlo Maria Giulini, ディスク/ブック

ジュリーニのバッハ(その2)

(その1)を読まれた方(Fさん)から、「バッハに何を求めますか」というメールが届いた。

こうやってあらためて問われて、すぐに出てきた答は「美しい」かどうかだった。

薄っぺらな「美しい」では、もちろんない。昨晩書いたことと重なるが、こちらの齢とともに美しくなっていく「美しい」である。

ジュリーニのロ短調ミサも、私にとってはヨッフムのマタイ受難曲も、そうだ。
そうそう頻繁に聴くわけではない。一年に一度だったり、時にはもっとあいたりするが、聴くたびに「美しい」と思える。より「美しい」と思える。

結局、それは何かと考えると、何度も引用している五味先生の「神を視ている」につながっていくことであり、
二年前に別項で書いている《自分自身の神性の創造》となる。

Date: 5月 26th, 2026
Cate: Carlo Maria Giulini, ディスク/ブック

ジュリーニのバッハ(その1)

カルロ・マリア・ジュリーニのバッハは、ロ短調ミサだ。
1994年の録音だから、CDの発売は1995年ごろか。
発売されてすぐに買っているから、聴いたのは三十年ほど前となる。

三十代前半のころ聴いているわけだが、最初から強い感動があったわけではない。
ジュリーニらしい演奏だと思ったし、素晴らしい演奏とは思いつつも、愛聴盤となったわけではなかった。

それでも聴くのをやめたわけではなかったが、頻繁に聴いてきたわけでもなかった。
何年かに一度聴く感じで三十年が過ぎた。

聴くたびに、ジュリーニの、このバッハが素晴らしく感じられるようになってきている。
ジュリーニのロ短調ミサの評価はどうだったのか。あまり知らないが、話題になることもなかったような気がする。

バッハのロ短調ミサならばリヒター盤だろう、という声が一般的なのはわかっているし、リヒター盤とジュリーニ盤のどちらが素晴らしいかは私にはどうでもいいことで、
ジュリーニ盤が私にとっては、聴くたびに愛聴盤になりつつあるということが大事なことだ。

そのジュリーニのロ短調ミサは、なぜかTIDALにもQobuzでも配信されていなかった。
ようやく昨日(5月25日)に、Qobuzで配信されるようになった。

美しいバッハだ。
聴くたびに美しく感じられるようになってきた。
だからといって、頻繁に聴くようになるわけではない。
あと何回聴く(聴ける)だろうか。

指折り数えるほどかもしれないが、ジュリーニ盤は私にとって、すでに愛聴盤となっている。

デュ=プレとフェリアーを「友」として

ジャクリーヌ・デュ=プレとカスリーン・フェリアーを生涯の「友」として聴いてきたのであれば、その人の人生は幸福だったはず。

人生にはいろんなことが起こる。苦労ばかりだった──、そんなことをつぶやきたくなる人生でも、
デュ=プレとフェリアーの音楽とともに歩んでこれたのならば、やはり幸せなはずだ。

もっとも、どんな音で聴いてきたか。
このことを無視して、生涯の「友」として聴いてきたとは語れない。

11月5日のaudio wednesdayで、ヴァイタヴォックスのCN191を鳴らすわけだが、
うまく鳴ってくれれば、二人の演奏をかける。

Date: 2月 7th, 2025
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その20)

この項で「骨格のある音」、「骨格のしっかりした音」といったことを、
くり返し書いている。

「骨格のある音」、わかりやすそうで、そうでない音の表現である。
私が骨格のしっかりした音と感じても、別の人は、
その音に骨格を感じたり意識することはなかったりする。

それにも関わらず、久しぶりにこの項の続きを書いているのは、
2月5日のaudio wednesdayで鳴らしたウェストレックスの10Aの音は、
まさしく骨格のしっかりした音だったし、
その音を聴きながら、いまから四十年以上前に聴いたノイマンのDSTも、
やはり骨格のしっかりした音だったなぁ、と思いだしていた。

野口晴哉氏所有の10Aは、ヘッドシェル、取付用のアダプターを含めると、
オルトフォンのSPUよりも、かなり重い。

SMEの3012-R Specialではゼロバランスがとれないほどだった。
メインウェイトをめいっぱい後ろに下げても、感覚での針圧は5gを優に超えている。
6g以上はあったはずだ。

そういう状態だから、インサイドフォースキャンセラーも十分にかけられない。
オーバーハングも含めて、かなりの調整不備なところがあっての音出しだったが、
その骨格のしっかりした音は、皆の心を鷲掴みにした。

10Aは、日本で復刻モデルが出ている。
その音がどうなのかは、聴いていないのでなんとも言えないが、
それでもオリジナルの10A同様、骨格のしっかりした音を聴かせてくれるのであれば、
その10Aレプリカモデルを買える買えないは別として、
骨格のある音が、どういう音なのかの、
非常にはっきりした基準となるはず。

10Aは、いずれきちんとして状態で鳴らす。
その時はバックハウスのレコードを鳴らしたい。

Date: 3月 13th, 2024
Cate: Pablo Casals

カザルスのバッハ 無伴奏チェロ組曲(その2)

カザルスによるバッハの無伴奏チェロ組曲は、
SP盤をアクースティック蓄音器でも聴いている。

LPでも、日本盤とイギリス盤で聴いている。
CDを聴いている。SACDも聴いている。

どれが一番だということは、鳴らす機器によっても大きく違ってくることだから、
それぞれが、自分で聴ける範囲で聴いていくしかない──、そうとしかいえない。

3月6日のaudio wednesdayでの、TIDAL(MQA)でのカザルスは、
すでに書いているように私がこれまで聴いた中では最高といえるほどだった。

1936年の演奏(録音)とは、まったく思えなかった。
もちろん最新のデジタル録音のように聴こえてきたわけではない。
冷静に聴けばモノーラルだし、復刻につきもののスクラッチノイズもある。

けれどカザルスのリアリティは群を抜いていた。
正直、ここまで鳴るのか、と困惑も少しばかりあった。

別項で「オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる」を書いている。
私にとっての「裸の音楽」が、この時のカザルスが最初でないのか。
そんなことを思いながら、ただ聴くだけだった……

Date: 3月 9th, 2024
Cate: Pablo Casals

カザルスのバッハ 無伴奏チェロ組曲(その1)

バッハの無伴奏チェロ組曲を、一度も聴いていないというクラシック好きの人はいない。
確認したわけではないが、そう断言してもいいと思っている。

もしクラシック好きといっておきながら、無伴奏チェロ組曲を聴いていない人は、
クラシック好きではない、といってもいい。

クラシック好きでない人でも、バッハの無伴奏チェロ組曲は、どこかで耳にしている。
ドラマで使われていたりする。

そういう曲において、カザルスの演奏は別格だった。
私も、まずはカザルスの演奏(録音)を聴く、と、
その存在を知ってときからそう心に決めていたし、実際にカザルスのLPを最初に買った。
それからフルニエを買った、マイスキーなど何人ものチェリストの演奏(録音)を聴いた。

カザルスによる無伴奏チェロ組曲は、歴史的重みもあった。
でも、だからといって、バッハの無伴奏チェロ組曲を聴く時、
常にカザルスを聴いていたわけではなかった。

最初のころはカザルスを多く聴いていた。
けれどカザルスのディスクを取り出すことは減っていった。

CDで登場した時も、すぐに買った。
それでも常にカザルスというわけではなかった。

Date: 1月 26th, 2023
Cate: Jacqueline du Pré

絶対零度下の音

「絶対零度下の音」。
これが、audio sharingを思いつく前に考えていたサイトの名称である。
このことは以前も書いている。

絶対零度下では分子運動さえ止ってしまう。
つまり音は存在しない状態のはずだ。

存在しない音。音が存在しない環境のこと。
それはジャクリーヌ・デュ=プレのことをおもいながら考えていたことだ。

今日(1月26日)は、デュ=プレの誕生日。

Date: 1月 5th, 2023
Cate: Claudio Abbado

Abbado 90(その3)

クラウディオ・アバドは、こういう演奏(指揮)もできるのか──、
という意味で、驚いたのはポリーニとのバルトークのピアノ協奏曲であり、
ベルクの「ヴォツェック」である。

いまも、ポリーニとのバルトークのピアノ協奏曲を初めて聴いた時の驚きは、
はっきりと思い出せる。そのくらい凄い演奏と感じたものだった。

あの時代に、この二人が、あの年齢だったからこそ可能だった演奏なのだろうが、
それにしても、思い出していま聴いても、やはり凄いと感じる。

アバドは、こういう演奏(指揮)もできる──、
そうわかって聴いても驚いたのが、「ヴォツェック」だった。

アバドの「ヴォツェック」が登場したころは、
世評高いベーム、ブーレーズのほかに、ドホナーニ、ミトロプーロスぐらいしかなかった、と記憶している。

ミトロプーロス盤が1951年、ベーム盤が1965年、ブーレーズ盤が1966年、
ドホナーニ盤が1979年録音だった。
すべてアナログ録音であり、そこにデジタル録音のアバド盤が登場した。

「ヴォツェック」を積極的に聴いてきたわけではなかった。
ベーム盤を聴いたことがあるくらいだった。
「ヴォツェック」の聴き方が、自分のなかにあったとはいえないところに、
アバドの「ヴォツェック」である。

このときの衝撃は、バルトークのピアノ協奏曲も大きかった。
そういえばバルトークのピアノ協奏曲もそうだった。
自分のなかに、バルトークのピアノ協奏曲についての聴き方が、
ほぼないといっていい状態での衝撃だった。

Date: 1月 1st, 2023
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その6)

大晦日の夜おそくに、グールドの平均律クラヴィーア曲集を聴いていた。
第一集を、TIDALでMQA Studioで聴いた。

今日の朝、やはりグールドを聴いた。
第二集ではなく、モーツァルトのピアノ・ソナタを聴いていた。
Vol.1、2、4を聴いた。
もちろんTIDALでMQA Studioだ。

最新のピアノ録音を聴きなれた耳には、
グールドの残した録音は、どれも古く聴こえる。

バッハとモーツァルトはアナログ録音だし、もう五十年ほど前のことだ。
聴いていると、そんなに経つのか──、とおもうこともある。

たしかに音は古さを感じさせるところがある。
けれど、それは音だけであって、しばらく聴いていると、そのことさえさほど気にならなくなる。

「録音は未来だ」ということだ。

Date: 12月 20th, 2022
Cate: Claudio Abbado

Abbado 90(その2)

気にはなっていたものの、ステレオサウンドの試聴で初めて聴いたのだから、
それまではクラウディオ・アバドの聴き手ではなかったわけで、
マーラーの第一番を聴いても、熱心な聴き手になったわけでもなかった。

それでもアバドの演奏(録音)は、気になる作品が出ればわりと聴いてきた、と思っている。
思っているだけで、アバドの夥しい録音量からすれば、わずかとかいえないのだが、
それでもアバドが残した演奏(録音)のなかで、いくつかは愛聴盤といえるものがあるし、
ことあるごとに聴いているレコード(録音物)もある。

シカゴ交響楽団とのマーラーの一番に続いて、
ステレオサウンドの試聴ディスクとなったアバドのディスクは、
ベルリオーズの幻想交響曲である。

マーラーの一番は、サウンドコニサーの試聴だけだったが、
幻想交響曲は、いくつかの試聴で使われたから、
聴いた回数はマーラーの一番よりもずっと多い。

マーラーの一番はLPだった。
幻想交響曲は最初はLPで途中からCDにかわった、と記憶している。

マーラーの一番は買わなかったけれど、幻想交響曲はLPを購入した。
シーメンスのコアキシャル・ユニットを、
平面バッフル(1.8m×0.9m)に取りつけて聴いていた時期だ。

ステレオサウンドの試聴室で聴いて、
その音が耳に残っているうちに帰宅してからも幻想交響曲を聴いていた。

アバドの残した録音で、回数的(部分的であっても)には、
幻想交響曲をいちばん聴いているといえるが、だからといって、
アバドの幻想交響曲が愛聴盤というわけではない。

愛聴盤は他にある。
ベルクの「ヴォツェック」だったり、シューベルトのミサ曲、
ポリーニとのバルトークのピアノ協奏曲などがそうである。

Date: 12月 19th, 2022
Cate: Claudio Abbado

Abbado 90(その1)

来年(2023年)は、クラウディオ・アバド生誕90年ということで、
ドイツ・グラモフォン&デッカ録音全集が発売になる。

CD237枚、DVD8枚組で、来年2月中旬ごろの発売予定。
通常価格は12万円を超えている。

ドイツ・グラモフォン、デッカからこういうCDボックスが出るということは、
EMI録音も、ワーナーから出てくると思われる。

アバドは、いったいどれだけの録音を残しているのか。
そうとうな数としかいいようがないけれど、私はそのうちのどれだけを聴いているのか。

私がアバドということを意識して聴いた最初のレコード(録音物)は、
シカゴ交響楽団を指揮してのマーラーの交響曲第一番だった。

1982年、ステレオサウンドの別冊サウンドコニサー(Sound Connoisseur)での試聴においてだった。
つまり、それまでは気になる指揮者ではあったものの、
他に聴きたい演奏家が大勢いて、ついついアバドに関してはあとまわしにしていた。

そんな時に聴いたアバドの演奏は、なんと生真面目な演奏なのだろうか、と、
その徹底ぶりにそうとうに刺戟を受けた。

Date: 12月 5th, 2022
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その5)

マリア・カラスは1923年12月2日に生れている。
来年は、マリア・カラス生誕百年にあたる。

2027年には没後五十年になる。

それだけの月日が経っているのだから、
マリア・カラスは「古典」になってしまった、のかもしれないが、
マリア・カラスは「古典」にされてしまっているのかもしれない、とも思うことがある。

黒田先生が、ステレオサウンド 54号の特集の座談会で、
《たとえば、シルヴィア・シャシュが、コベントガーデンで「トスカ」を歌うとすると、おそらく客席にはカラスの「トスカ」も聴いている人がいるわけで、シャシュもそれを知っていると思うのです。聴く方はカラスと比べるぞという顔をしているだろうし、シャシュもカラスに負けるかと歌うでしょう。その結果、シャシュは大きく成長すると思うのです。》
と語られている。

この時代、マリア・カラスは「古典」ではなかった。
54号は1980年3月に出ている。
マリア・カラスが亡くなって、二年半ほどだから、それも当然なのだろうが、
いまの時代、シルヴィア・シャシュのような歌手がいるだろうか。

そして客席にいる聴き手も、マリア・カラスと比べるぞ、という顏をすることはないのではないか。

そんなことを考えていると、
黒田先生が書かれたもうひとつのことを思い出す。
《多くのひとは、大輪の花をいさぎよく愛でる道より、その花が大輪であることを妬む道を選びがちです。あなたも、不幸にして、妬まれるに値する大輪の花でした》、
「音楽への礼状」からの引用だ。

Date: 9月 25th, 2022
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その5)

日付が変って、今日は9月25日。
グレン・グールドの誕生日であり、グールドが生きていれば九十歳なのだが、
九十歳のグールドというのはなかなか想像がつかない。

今年はグレン・グールド生誕九十年、没後四十年ということで、
ソニー・クラシカルからいくつかの企画モノが発売になる。

いちばんの話題は、
1981年録音のゴールドベルグ変奏曲の未発表レコーディング・セッション・全テイク。
もちろん予約しているが、発売日が変更になり10月だ。

もう少し待つことになるわけだが、
今回の生誕九十年でひとつ期待していることがある。

別項で書いている“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”。
今夏、ようやく発売になった。
TIDALでの配信も始まった。

同時に“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”も新たに配信しなおされた。
TIDALでは、これまでMQA Studio(44.1kHz)だったのが、
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の配信が始まったら、
MQA Studio(176.4kHz)に変更されていた。

TIDALではグレン・グールドのアルバムもMQA Studio(44.1kHz)で配信されている。
これらがもしかすると、
MQA Studio(88.2kHz)かMQA Studio(176.4kHz)かになるかも──、
という儚い期待である。

グールドのアルバムは、以前CDボックスが発売された時に、
すべてDSDマスタリングされている。
だから88.1kHz、176.4kHzに期待したくなる。

同時に七年前のことも思い出す。
CDボックスだけでなく、USBメモリー版も発売になった。

この時、amazon、HMV、タワーレコードなどのサイトでは、
24bit/44.1kHz FLACとなっていたが、
ソニー・クラシカルのサイトでは、USBメモリー版はハイレゾ 24bit/96kHz FLACと書いてあった。
結局、ソニー・クラシカルのサイトも44.1kHzになっていた。

このこともあるから、もしかする今回こそ──、と期待してしまう。

Date: 9月 9th, 2022
Cate: Wilhelm Furtwängler, ディスク/ブック

Brahmus: Symphony No.1(Last Movement, Berlin 23.01.1945)

五味先生の「レコードと指揮者」からの引用だ。
     *
 もっとも、こういうことはあるのだ、ベルリンが日夜、空襲され、それでも人々は、生きるために欠くことのできぬ「力の源泉」としてフルトヴェングラーの音楽を切望していた時代——くわしくは一九四五年一月二十三日に、それは起った。カルラ・ヘッカーのその日を偲ぶ回想文を薗田宗人氏の名訳のままに引用してみる——
「フルトヴェングラーの幾多の演奏会の中でも、最後の演奏会くらい強烈に、恐ろしいほど強烈に、記憶に焼きついているものはない。それは一九四五年一月二十三日——かつての豪華劇場で、赤いビロードを敷きつめたアドミラル館で行なわれた。毎晩空襲があったので、演奏会は午後三時に始まった。始まってまもなく、モーツァルトの変ホ長調交響曲の第二楽章の最中、はっと息をのむようなことが起った。突如明りが消えたのである。ただ数個の非常ランプだけが、弱い青っぽい光を音楽家たちと静かに指揮しつづけるフルトヴェングラーの上に投げていた。音楽家たちは弾き続けた。二小節、四小節、六小節、そして響はしだいに抜けていった。ただ第一ヴァイオリンだけが、なお少し先まで弾けた。痛ましげに、先をさぐりながら、とうとう優しいヴァイオリンの旋律も絶え果てた。フルトヴェングラーは振り向いた。彼のまなざしは聴衆と沈黙したオーケストラの上を迷った。そしてゆっくりと指揮棒をおろした。戦争、この血なまぐさい現実が、今やはっきりと精神的なものを打ち負かしたのだ。団員がためらいながらステージを降りた。フルトヴェングラーが続いた。しばらくしてからやっと案内があって、不慮の停電が起りいつまで続くか不明とのことであった。ところが、この曖昧な見込みのない通知を聞いても、聴衆はただの一人も帰ろうとはしなかった。凍えながら人びとは、薄暗い廊下や、やりきれない陰気な中庭に立って、タバコを吸ったり、小声で話し合ったりしていた。舞台の裏では、団員たちが控えていた。彼らも、いつものようにはちりぢりにならず、奇妙な形の舞台道具のあいだに固まっていた。まるでこうしていっしょにいることが、彼らに何か安全さか保護か、あるいは少なくとも慰めを与えてくれるかのように。フルトヴェングラーは、毅然と彼らのあいだに立っていた。顔には深い憂慮が現われていた。これが最後の演奏会であることは、もうはっきりしていた。こんな事態の行きつく先は明瞭だった。もうこれ以上演奏会がないとすれば、いったいオーケストラはどうなるというのだ。」
 このあと一時間ほどで、待ちかねた演奏会は再開される。ふつう演奏が中断されると、その曲の最初からくりかえし始められるのがしきたりだが、フルトヴェングラーはプログラムの最後に予定されたブラームスの交響曲から始めた、それを誰ひとり不思議とは思わなかった。あのモーツァルトの「清らかな喜びに満ちて」優美な音楽は、もうこの都市では無縁のものになったから、とカルラ・ヘッカーは書きついでいるが、何と感動的な光景だろうか。おそらく百年に一度、かぎられた人だけが立会えた感動場面だったと思う。こればかりはレコードでは味わえぬものである。脱帽だ。
     *
この「レコードと指揮者」を読んだ頃、
フルトヴェングラーのブラームスの一番といえば、
1951年、ベルリン・フィルハーモニーとのライヴ録音の世評は高かった。

こういものを読むと、聴きたくなる。
1945年のドイツでの演奏会の録音が残されているとは、当時は思わなかった。

けれど残っているものである。
最終楽章のみ録音が残っている。

私が聴いたのは、Music & ArtsのCDだった。
フルトヴェングラーのブラームスの演奏を集めた四枚組ぐらいのCDだった。

そこに1945年1月23日のブラームスの一番の最終楽章があった。
1990年ごろだったはずだ。

五味先生の文章を読んで十年ほど経っていた。
いまはTIDALでも聴くことができる。

なので先日、久しぶりに聴いた。
前回きいた時から、二十年近く経っていた。