Date: 7月 16th, 2022
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック
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Gould 90(その3)

グレン・グールドは、音楽のキット化を提唱していたことがある。
音楽のキット化は、クラシック音楽におけることであって、
ベートーヴェンの第九のことを思い浮べたことがある。
     *
 戦後のLP時代に入って、〝第九〟でもっとも印象にのこるのはトスカニーニ盤だろうか。
 はじめてこれを聴いたとき、そのテンポの速いのに驚いた。これはベートーヴェンを冒涜するものだとそれから腹を立てた。ワインガルトナーしかそれまで知らなかったのだからこの怒りは当然だったと今でもおもう。もともと、ヴェルディの〝レクイエム〟やオペラを指揮した場合を除いて、彼のチャップリン的風貌とともにトスカニーニをあまり私は好きではなかった。戦前の世評の高い、〝第五〟を聴いたときからそうである。のちに、トスカニーニがアメリカへ招聘されるにあたって、〝トリスタンとイゾルデ〟を指揮することを条件に出した話を、マーラー夫人の回想記で読み、トスカニーニにワグナーが振れてたまるかとマーラーと同様、いきどおりをおぼえたが、いずれにせよ、イタ公トスカニーニにベートーヴェンは不向きと私はさめていた。だからその〝第九〟をはじめて聴いたとき、先ずテンポの速さにあきれ、何とアメリカナイズされたベートーヴェンかと心で舌打ちしたのである。
 それが、幾度か、くりかえして聴くうちに速さが気にならなくなったから《馴れる》というのはこわいものだ。むしろその第三楽章アダージォなど、他に比肩するもののない名演と今では思っている。
「何と美しいアダージォだ……」
 トスカニーニー自身が、プレイバックでこの楽章を聴きながら涙を流した話を、後年、彼の秘書をつとめた人の回想録〝ザ・マエストロ〟で読んだときも、だからさもありなんと思ったくらいで、いかなフルトヴェングラーの〝第九〟——第二次大戦後のバイロイト音楽祭復活に際し、そのオープニングに演奏されたもの。ちなみに、フルトヴェングラーは生前この〝第九〟のレコードプレスを許さなかった——でさえ、アダージォはトスカニーニにくらべやや冗長で、緻密な美しさにおとる印象を私はうけた。フルトヴェングラーがこれをプレスさせなかったのも当然とおもえた。それくらい、第三楽章のトスカニーニは完ぺきだった。ベートーヴェンの〝第九〟では古くはビーチャム卿、ピエール・モントゥ、ワルター、カラヤン、クリュイタンス、ベームと聴いてきたが、ついに決定盤ともいうべき演奏・録音に優れたレコードを私は知らない。
     *
五味先生の「《第九交響曲》からの引用だ。
グレン・グールドのいう音楽のキット化は、こういうことである。

《決定盤ともいうべき演奏・録音に優れたレコード》が、
第九にはなかったと感じたらどうするか。

第三楽章はトスカニーニで聴いて、
第一楽章、第二楽章、第四楽章は、
《他に比肩するもののない名演》と感じている指揮者の演奏をそれぞれ選択する。

それをひとつにまとめて聴く、という行為が音楽のキット化だった。
グールドの音楽のキット化を読んだ時、
おもしろいと感じながらも、実際の問題点としてあれこれ思ったものだ。

けれど、今回のゴールドベルグ変奏曲の未発表レコーディング・セッション・全テイクは、
まさにグールドが提唱した音楽のキット化のための理想的な素材ととらえることができる。

そして、一つおもうことがある。
アレクシス・ワイセンベルクのゴールドベルグ変奏曲のことである。

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