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Date: 8月 18th, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その11)

「コンポーネントステレオの世界 ’80」に、KEFのModel 303は、
瀬川先生による組合せは登場していない。

「コンポーネントステレオの世界 ’81」という別冊が出ていれば、
そこに登場していたことだろう。
けれど「コンポーネントステレオの世界 ’81」そのものが出なかった。

「コンポーネントステレオの世界 ’82」は出た。
けれど、そこには瀬川先生はいなかった。

瀬川先生による303の組合せは、ステレオサウンド 56号のなかに出てくるだけである。
だからよけいに、56号での組合せが記憶に残っているのかもしれない。

「コンポーネントステレオの世界 ’80」に303が間に合っていれば、
JBLの4301のかわり、もしくはA案は4301で、B案は303となっていたであろう。

アンプは、4301も303ともに、ラックスのL58Aだった、と思う。
そんなことを想像していると、303をL58Aで鳴らしてみたい、,という気持がわいてくる。

L58Aは148,000円のプリメインアンプである。
サンスイのAU-D607の二倍の価格だ。

この組合せも聴いてみたい、と思いつつも、
サンスイのAU-D607は価格的なバランスを含めて、やっぱりいい組合せと思えてくる。

そのころのサンスイには、AU-D607の上にAU-D707が、
さらにその上にAU-D907もあった。

AU-D707もいいプリメインアンプだった。
AU-D607よりも、充実した音のプリメインアンプといえた。

そんなことを思い出していると、
303にAU-D707のほうが、607よりもいい音に鳴ってくれそうだし、
607と707の価格差は25,200円である。
それほどあるわけではない。

56号の組合せでも、組合せのトータルは30万円を超えるが、
大きく超えるわけではない。

このころの25,200円の価格差は、
現在の中古市場では、どの程度の差になるのか。

ヤフオク!を先月眺めていたところでは、小さくなっている。
こうなると、303にAU-D707の組合せはどうだろうか、と妄想が少しずつ加速しはじめる。

Date: 8月 4th, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その10)

瀬川先生の時代、
ステレオサウンドは、「コンポーネントステレオの世界」という別冊を出していた。

この「コンポーネントステレオの世界」で、
瀬川先生によるKEFのModel 303の組合せはない。

1979年末の「コンポーネントステレオの世界 ’80」に間に合えば間違いなく登場していたであろう。
瀬川先生は予算50万円から100万円、200万円へとステップアップする組合せで、
まずJBLの4301を鳴らす50万円の組合せをつくられている。

この50万円の組合せのスピーカーシステムの候補は、
4301の他に、ロジャースまたはオーディオマスターのLS3/5A、KEFのModel 303があった。

けれど103は製造中止になって、Model 303が発表されたばかりで、
そのニュースが、組合せの試聴に入ってから届いたそうである。

なので、この組合せに303は登場しないが、写真は載っている。
どのくらい303の登場が遅かったのかは正確にはわからないが、
おそらく一〜二週間なのだろう。

「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭、
「80年代のスピーカー界展望」のなかで、
《イギリスKEFは、リファレンスシリーズの最高機種♯105をシリーズIIに改良し、また、小型の101を新たに加えた。103は製造中止になるとのこと。そしてコンシュマー用としては、ローコストの303と304が登場したが、これはなかなかの出来ばえだ》
と瀬川先生が書かれている。

さらに巻末の「’80特選コンポーネント・ショーウインドー」では、
井上先生が303について、
《柔かく伸びやかな低音と透明な高音だ》と書かれている。

巻末には、さらに行方洋一氏と安原顕氏による
「ローコスト・ベストコンポ徹底研究」があり、
そこに303は登場している。

メインの組合せの試聴には間に合わなかったが、1979年中にモノは到着しており、
試聴も行われていたことがわかる。

Date: 8月 1st, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その9)

カートリッジについては、
《カートリッジは(一例として)デンオンDL103D》となっている。

DL103D以外のカートリッジ、
たとえば、同時代のオルトフォンのMC20MKIIもいいカートリッジだし、
瀬川先生は、ステレオサウンド 55号の特集ベストバイでは、
My Best3として、デンオン DL303(45,000円)、
オルトフォン MC20MKII(53,000円)とMC30(99,000円)を挙げられている。

どのカートリッジにしてもDL103Dよりも高価になる。
それにAU-D607内蔵のヘッドアンプに関して、別冊FM fanの25号で、次のように評価されている。
     *
MCヘッドアンプだが、やはりMC20MKIIまではちょっとこなせない。ゲインは音量をいっぱいにすればかなりの音量は出せるが、その部分では、ハム、その他のノイズがあるので、オルトフォンのような出力の低いカートリッジにはきつい。ただし、MC20MKIIの持っている音の良さというのを意外に出してくれた。ヘッドアンプの音質としてはなかなかいい。もちろんデンオン103Dの場合は問題なく、MCの魅力を十分引き出してくれた。
     *
オルトフォンのような低インピーダンスで、低出力電圧のMC型カートリッジは、
ヘッドアンプには少々荷が重いところがある。
かなり優秀なヘッドアンプでなければ、満足のいく再生音は得にくかったのが、
この時代である。

ならばカートリッジはMM型の選択も考えられる。
それでもMC型のDL103Dである。

DL103シリーズには、DL103、DL103S、DL103Dの三つがあった。
瀬川先生の、熊本のオーディオ店での試聴会で、この三つを聴くことができた。

DL103Dを瀬川先生は高く評価されていた。
聴けば、そのことが納得できた。

56号の組合せにおいて、DL103でなくDL103Sでもないのは、
やっぱりと納得できた。
DL103Dが、この三つのカートリッジのなかでは、音楽を活き活きと聴かせてくれる。
47号で《単なる優等生の枠から脱して音質に十分の魅力も兼ね備えた注目作》とある。

そのとおりである。

にしても、である。
MM型カートリッジも、この時代は多くの選択肢があった。
それでもDL103Dを選択されたのは、
一種の遊び心(型番遊び)ではないのだろうか。

岩崎先生が書かれていたことをおもいだす。
     *
名前が良くて得をするのはなにも人間だけではない。オーディオファンがJBLにあこがれ、プロフェッショナル・シリーズに目をつけ、そのあげく2345という型番、名前のホーンに魅せられるのは少しも変なところはあるまい。マランツ7と並べるべくして、マッキントッシュのMR77というチューナーを買ってみたり、さらにその横にルボックスのA77を置くのを夢みるマニアだっているのだ(実はこれは僕自身なのだが)。理由はその呼び名の快さだけだが、道楽というのは、そうした遊びが入りやすい。
(「ベスト・サウンドを求めて」より)
     *
瀬川先生にも、こういうところがあったのだろう。

Date: 7月 31st, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その8)

ステレオサウンド 57号のプリメインアンプの総テストには、
ビクターのA-X7Dの上級機A-X9も登場している。

瀬川先生はA-X9の試聴記の最後に
《音の重量感、安定感という点で、さすがに10万円台の半ばのアンプだけのことはある。ただし、X7Dと比較してみると、5万円の差をどうとるかはむずかしいところ。遠からずX9D、に改良されることを期待したい》
と書かれている。

私も、A-X9Dにはとても期待していた。
A-X5、A-X7が、型番末尾にDがついて、文字通り改良されている。
A-X7Dを、瀬川先生は超特選にしたい、と高く評価されていた。

A-X9Dが登場したら、
サンスイのAU-D907 Limitedと少し安いけれど、
ほぼ同価格帯のアンプといえる。

PM510には、A-X7DよりもA-X9Dのほうが、よりふさわしい──、
未だ登場していないアンプに一方的で過大な期待を抱いては、
PM510とA-X9Dとの組合せの音を夢想していた。

結局、A-X9Dはいくら待っても登場しなかった。
A-X5DhA-X55に、A-X7DはA-X77へとさらにモデルチェンジしたが、
A-X9はA-X9DにもA-X99にもモデルチェンジすることなく消えていった。

瀬川先生の、ステレオサウンド 56号で始まった組合せの記事も、
57号は休載で、それっきりになってしまった。

連載が続いていたら、KEFのModel 303の組合せは、どうなっただろうか。
57号の時点ではサンスイのAU-D607は製造中止になり、AU-D607Fになっていた。

音だけならば、303にもA-X7Dだった、と思う。
A-X7DはAU-D607よりも四万円ほど高いから、
56号の組合せのトータル価格が三十万円を超えることになる。

予算の制約をどう捉えるかによるが、
それまでの瀬川先生の組合せは、予算を少しばかりオーバーすることはけっこうあった。
だからAU-D607とA-X7Dの価格差は、勘弁してもらおう、ということになったはず。

ただそれでも、AU-D607がそのまま現行製品であったならば、
やっぱりAU-D607だったような気もする。

スピーカーがKEFの303、アンプがサンスイのAU-D607、カートリッジがデンオンのDL103D。
型番に共通するのは、いずれも三桁の数字が真ん中が0であること。

Date: 7月 25th, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その7)

あのころ、ロジャースのPM510は一本440,000円していた。
ペアで880,000円。

高校生にとっては、はっきりと手の届かない金額であり、
いつの日かPM510を、と、ステレオサウンド 56号を読んだ直後から、
そう思いはじめていたけれど、いつの日になるのかは見通しが立たなかった。

そういう価格のスピーカーをなんとか自分のモノに出来た。
けれど、プレーヤー、アンプにまわす予算は、ない。
それまで使っていたプレーヤーとアンプで鳴らすことになるわけだが、
ここで一つ考え込んでしまう、というか、悩むのは、
そこまで惚れ込んだスピーカーを、いいかげんなアンプで鳴らしたくない、というおもいである。

そのころはサンスイのAU-D907 Limitedを使っていた。
高校二年の修学旅行を行かずに、戻ってきた積立金とバイトで貯めた分とをあわせることで、
なんとか175,000円のプリメインアンプを自分のモノにできた。

AU-D907 Limitedは、いいアンプだった。
いまでも、そう思っている。

それでも、PM510と組み合わせるアンプではない、と直感的に思った。
PM510をひどい音で鳴らしたりはしないだろうが、
PM510の良さを積極的に鳴らしてくれるとは、到底おもえなかった。

175,000円の、しかも限定販売のアンプのよりも、
108,000のA-X7Dのほうが、いい音がする、とは普通は考えない。
誰だってそうだろう。

私もそうだった。
けれど、PM510というスピーカーを鳴らすのであれば、
AU-D907 LimitedからA-X7Dにするのもありだ、と決めてしまっていた。

傍からみればバカな考えでしかないだろう。
でも、あのころは真剣だった。

大切なスピーカーを穢したくない、というおもいが強すぎた。
穢してしまうかも……、とおもいながら、鳴らしたくはない。

もちろん、一日でも早く、その音を聴きたい、鳴らしたい、というおもいも強い。
どちらも同じくらい強かった。

そんなA-X7DとModel 303は、どんな音を響かせてくれたのだろうか。

Date: 7月 25th, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その6)

KEF Model 303の組合せについて書かれたのが56号、
三ヵ月後の57号の特集は、プリメインアンプだった。

この特集で、瀬川先生はビクターのA-X7Dを非常に高く評価されていた。
《もし特選の上の超特選というのがあればそうしたいアンプ》とまで書かれている。

A-X7Dは、108,000円の、いわば中級クラスのプリメインアンプである。
型番からわかるようにA-X7の改良モデルでもある。

A-X7も世評はそこそこあったように記憶しているが、
A-X7Dはそうとうに良くなっているようだ(このアンプ、聴く機会がなかった)。

57号の試聴記で、
《テスト機中、ロジャースを積極的に鳴らすことのできた数少ないアンプだった》
とあるのが、特に印象的というか、強く惹かれた。

56号で、瀬川先生はロジャースの新製品PM510についても書かれていた。
その瀬川先生の文章を難度読み返したことか。

JBLの4343にも強い憧れがあった。
けれど、まだ聴いていないPM510の音を、瀬川先生の文章から想像しては、
もう、このスピーカーしかない、とまで思い込んでいた。

その PM510を十万円ほどのプリメインアンプが、積極的に鳴らしてくれる──、
このことは、当時高校生だった私にとって、どれだけ心強かった、とでもいおうか、
希望を与えてくれた、とでもいおうか、
とにかくPM510を手に入れて、A-X7Dを揃えれば、
PM510から積極的な良さを抽き出してくれるはず──、
そう信じていた。

A-X7Dでまず鳴らして、次のステップでセパレートアンプへ──、
そんな先のことまで見据えてのA-X7Dだった。

だから、A-X7Dがもう少し早く登場していれば、
56号では、KEFのModel 303には、AU-D607ではなく、
もしかするとA-X7Dを選ばれていたかも……、そんな想像もしていた。

Date: 7月 23rd, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その5)

ステレオサウンド 56号で、瀬川先生はこう書かれている。
     *
 いまもしも、ふつうに音楽が好きで、レコードが好きで、好きなレコードが、程々の良い音で鳴ってくれればいい。というのであれば、ちょっと注意深くパーツを選び、組合わせれば、せいぜい二~三十万円で、十二分に美しい音が聴ける。最新の録音のレコードから、旧い名盤レコードまでを、歪の少ない澄んだ音質で満喫できる。たとえば、プレーヤーにパイオニアPL30L、カートリッジは(一例として)デンオンDL103D、アンプはサンスイAU-D607(Fのほうではない)、スピーカーはKEF303。これで、定価で計算しても288600円。この組合せで、きちんとセッティング・調整してごらんなさい。最近のオーディオ製品が、手頃な価格でいかに本格的な音を鳴らすかがわかる。
     *
KEFのModel 303は聴いたことがある。
サンスイのAU-D607も聴いたことがある。
デンオンのDL103Dも聴いている。

パイオニアのPL30Lは聴いたことはないが、
上級機のPL70LIIは聴いたことがある。

この組合せの音が想像できないわけではない。

それでも、KEFの303をAU-D607で鳴らした音は聴いていない。

《十二分に美しい音が聴ける》とある。
けれど56号は1980年に出たステレオサウンドである。
もう四十年ほど前のことである。

《十二分に美しい音》は、四十年前だからだったのか、
いまでも《十二分に美しい音が聴ける》のか。

なんともいえない。
それでもKEFのModel 303を手に入れてから、
瀬川先生にとっての、この時の《十二分に美しい音》を聴きたくなった、
というか出したくなった。

PL30L、DL103Dは、いまのところめどが立っていないが、
AU-D607は揃えられるようになった。

この組合せの中核である303とAU-D607は、なんとか揃う。

いま住んでいるところから、
喫茶茶会記のある四谷三丁目まで運ぶ手段がなんとかなったら、
audio wednesdayで鳴らす予定である。
(なんともならないだろうから、実現の可能性は低いけれど……)

Date: 4月 29th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その4)

サプリーム「瀬川冬樹追悼号」で、菅野先生は瀬川先生について、こうも書かれている。
     *
 よく音楽ファンとオーディオファンはちがうといわれるが、僕達は音楽の好きなオーディオファンだから、そういう言葉がぴんとこない。しかし、いろいろなオーディオファンと会ってみると、確かに、音楽不在のオーディオファンというのも少なくないようである。そして、多くの音楽ファンは、ほとんど、オーディオファンとは呼べない人達であることも確かである。音楽会へは行くけれどレコードは買わないという音楽ファン。レコードは大好きだが、それを再生する装置のほうにはあまり関心がないというレコードファン。レコードしか聴かないというレコードファンもいる。レコードを聴かないオーディオファンはいないだろうが、レコードで音楽を楽しまないオーディオファンは大勢いるようだ。どれもこれも、個人的な問題だから、とやかくいう筋合いではないと思うが、これは僕にとって大変興味深い人間の質の問題である。僕とオーム(注:瀬川先生のこと)は会うたびに、このことについて談笑したものである。そして、そこで得られた結論らしきものは、我々ふたりは音楽ファンであり、メカマニアであるという、ごく当り前のものだった。音楽が好きで、機械が好きだったら、自然にオーディオマニアになるわけだということになり、オーディオに関心のない音楽ファンやレコードファンという人達は、機械が好きでない人か、技術や機械にコンプレックスをもっている人達にちがいないということになった。そして、技術や機械に無関心だったり、コンプレックスをもってこれを嫌う人達は、お気の毒だが、現代文明人としては欠陥人間であるということに発展してしまった。そして、さらに、機械と技術の世界にだけ止まっている人達は、ロボットのようなもので、我々とは共通の言語をもち得ないということになってしまったのである。ふたりとも、人のつくるモノが大好きで、芸術作品と同様に、技術製品を尊重した。道具の文化というものを大切に考え、そこにオーディオ文化論的な論議の根拠を置いたようでもある。現代のオーディオは、あまりにもモノ中心、いいかえれば商品中心になってしまっているが、それはモノがひとり歩きをしだした結果である。我々がいっているように、モノは人の表れという考え方からは、現代のようなマーケット現象は生れるはずがないと思うのだが……とよく彼は口をとがらしていた。
     *
《機械と技術の世界にだけ止まっている人達は、ロボットのようなもので、我々とは共通の言語をもち得ないということになってしまった》
そういう人たちが、598戦争時代のスピーカーを手がけていたのかもしれない。

共通言語をもち得ないのだから、
どんなに瀬川先生がクラシックがまともに鳴るスピーカーを、といわれたところで、
それを期待するのは無理だったかもしれない。

《モノがひとり歩きをしだした結果》が、598戦争時代のスピーカーであり、
それをあおっていたのが長岡鉄男氏であり、
その時代、長岡鉄男氏と対極にいた瀬川先生不在の時代でもあった。

KEFのModel 303の音に、ひさしぶりに触れて、帰り途、そんなことをおもっていた。

Date: 4月 28th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その3)

ひとりのオーディオ評論家を過大評価しすぎ、といわれるであろう。
それでも、瀬川先生が生きておられたら、
598戦争なる消耗戦は起きなかった、と私は思っている。

単なる偶然なのだろうが、そうとは思えないのが、
1981年に瀬川先生が亡くなられたこと、
それから二、三年後にKEFの輸入元が日本から消えてしまった。
そして598戦争である。

瀬川先生が生きておられたら、
KEFの輸入は、どこか引き受けていたであろう。

瀬川先生が生きておられたら、
KEFのスピーカーシステムの展開も違っていたであろう。

303は303.2、303.3となっていった。
303と303.2の外観は同じだが、なぜだが303.3では一般的な外観になっている。
そのころのKEFは輸入元がなかったころであり、
303.3の音がどうだったのかは、知りようがない。

《ところがその点で近ごろとくにメーカー筋から反論される。最近のローコストの価格帯の製品を買う人は、クラシックを聴かない人がほとんどなのだから、クラシック云々で判定されては困る、というのである》、
こんなことをステレオサウンドに書く瀬川先生を、
メーカーのスピーカーの担当者はどう思っていたのだろうか。

煙たい存在、小うるさい存在……、そんなふうに思っていた人もいたはずだ。
それでも、瀬川先生は厳しいことを日本のスピーカーメーカーの技術者に、
しつこいぐらいいい続けられていた──、と私は信じている。

《あの、わがままで勝手な人間のことだったから、ずいぶん誤解されたり、嫌われたりもしたらしい》、
菅野先生が、サプリームに書かれていた。
瀬川先生を嫌っていたメーカーがあったことは、聞いている。

Date: 4月 14th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その2)

KEFのModel 303は、ステレオサウンド 54号の特集
「いまいちばんいいスピーカーを選ぶ・最新の45機種テスト」に登場している。

瀬川先生だけでなく、菅野先生黒田先生の評価もそうとうに高い。

《このランクのスピーカーとしては、ひときわぬきんでている》(黒田)、
《スケールこそ小さいが、立派に本物をイメージアップさせてくれるバランスと質感には、脱帽である》(菅野)、
《ポップスで腰くだけになるような古いイギリスのスピーカーの弱点は、303ではほとんど改善されている》(瀬川)、
三氏とも特選である。

菅野先生は
《このシステムを中高域に使って、低域を大型のもので補えば、相当なシステムが組み上げられるのではないかという可能性も想像させてくれた》
とまで書かれているし、
菅野先生と瀬川先生は55号の特集ベストバイで、ともにModel 303を、
スピーカーのMy Best3のひとつとして選ばれている。

瀬川先生は、そこでこう書かれている。
     *
 オーディオ機器の音質の判定に使うプログラムソースは、私の場合ディスクレコードがほとんどで、そしてクラシック中心である。むろんテストの際にはジャズやロックやその他のポップス、ニューミュージックや歌謡曲も参考に試聴するにしても、クラシックがまともに鳴らない製品は評価できない。
 ところがその点で近ごろとくにメーカー筋から反論される。最近のローコストの価格帯の製品を買う人は、クラシックを聴かない人がほとんどなのだから、クラシック云々で判定されては困る、というのである。クラシックのレコードの売上げやクラシックの音楽会の客の入り具合をみるかぎり、私には若い人がクラシックを聴かないなどとはとうてい信じられないのだが、しかし、ともかく最近の国産のスピーカーのほとんどは、日本人一般に馴染みの深い歌謡曲、艶歌、そしてニューミュージックの人気歌手たちの、おもにTVを通じて聴き馴れた歌声のイメージに近い音で鳴らなくては売れないと、作る側がはっきり公言する例が増えている。加えて、繁華街の店頭で積み上げられて切替比較された時に、素人にもはっきりと聴き分けられるようなわかりやすい味つけがしてないと激しい競争に負けるという意識が、メーカーの側から抜けきっていない。
 そういう形で作られる音にはとても賛成できないから、スピーカーに関するかぎり、私はどうしても国産を避けて通ることが多くなる。いくらローコストでも、たとえばKEFの303のように、クラシックのまともに鳴るスピーカーが作れるという実例がある。あの徹底したローコスト設計を日本のメーカーがやれば、おそろしく安く、しかしまともな音のスピーカーが作れるはずだと思う。
 KEF303の音は全く何気ない。店頭でハッと人を惹きつけるショッキングな音も出ない。けれど手もとに置いて毎日音楽を聴いてみれば、なにもクラシックといわず、ロックも演歌も、ごくあたり前に楽しく聴かせてくれる。永いあいだ満足感が持続し、これを買って損をしたと思わせない。それがベストバイというものの基本的な条件で、店頭ではショッキングな音で驚かされても、家に持ち帰って毎日聴くと次第にボロを出すのでは、ベストバイどころではない。売ってしまえばそれまでよ、では消費者は困るのだ。
     *
メーカー筋からの反論。
《最近のローコストの価格帯の製品を買う人は、クラシックを聴かない人がほとんど》、
ここでのローコストの価格帯とは、どのあたりを指すのか。

瀬川先生の文章を読むかぎり、
59,800円(一本)のスピーカーも、ここに含まれる。

Date: 4月 13th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その1)

別項「現代スピーカー考(余談・その2)」で、
とあるレコード店のスピーカー、KEFのModel 303について触れた。

今日久しぶりに、そのレコード店に入った。
同じ位置にModel 303は置いてある。
モーツァルトのピアノ協奏曲が鳴っていた。

ほどよい音量で鳴っていた。

瀬川先生はステレオサウンド 56号での組合せで、
《最新の録音のレコードから、旧い名盤レコードまでを、歪の少ない澄んだ音質で満喫できる》
と書かれている。
そのとおりの音で、モーツァルトが美しく鳴っていた。

1979年発売のスピーカーだから、ほぼ40年が経っている。
専用スタンドで設置されているModel 303には、
高価なスピーカーケーブルやアクセサリーが使われてはいない。
ごくごく一般的な置き方のまま鳴っている。

ほぼ40年、店主の好きな音楽を、ほぼ毎日鳴らしてきての、
今日、私が聴いた音なのだろう。

中古のModel 303は、誰がどんな鳴らしかたをしてきたのか、わからない。
どんな使われ方だったのかもわからない。
そんなModel 303に、私が今日聴いた音を期待しても無理というものだ。

Model 303は、一本59,000円(その後62,000円)の、イギリス製のスピーカーだ。
海を渡っての、この価格ということは、イギリスでは普及クラスのスピーカーだったのだろう。

598戦争が始る、ほんの数年前に、同価格帯にModel 303が存在していた。
そのことを、今日、その音を聴いて思い出していた。

Date: 3月 19th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その37)

598のスピーカーについて、ここまで書いてきて考えているのは、
なぜ598だったか、である。

698でもなく、498でもなく、598(一本59,800円)のスピーカーが、
これほどメーカーがコストパフォーマンスを競うようになったのか。

それを煽ったのは、長岡鉄男氏であり、
598のスピーカーにおける異常な物量投入の最初はオンキョーのスピーカーだったことは確かだ。

とはいえ、どのメーカーもこれほど598に集中しすぎたのか。

ステレオサウンド 44号(1977年)の新製品紹介の記事で、
井上先生と山中先生が語られていることが、いま読み返してみると、ひじょうに興味深い。
     *
井上 海外製品を含めて、いわゆる名器とか高級スピーカーといわれているものは、「好み」という次元でいえば得てして幅の狭いものではないかと思いますね。むしろ五、六万円のスピーカーの方がいろいな人の「好み」を満足させることができる。より「一般的な音」を持っているのではないかと思うんです。大型になってくるとそんなにオールマイティというわけにはいかなくなる。「いいスピーカーシステムなんだけれども」ということを前提にして、一人一人の人がそれでは自分に応わしいかどうかを聴くことが本来の趣味になってくると思います。それをはっきり認識する必要があります。
山中 趣味っていうのはみんなそうですね。非常に多様なものがあって、その中で自分に合った対応の仕方がいろいろできるというのでないと、また趣味にはならないでしょうね。
     *
この発言から数年後に、598戦争といわれるものが始まり、
十年後の1987年にはたいへんなことになっていた。

「一般的な音」を持っていたであろう、この価格帯のスピーカーの音は、
よほど鳴らしこなしの腕がないと、ひどくアンバランスに鳴りがちで、
とても「一般的な音」からはある意味遠ざかったにも関らず、
数は売れていただけに、その音が「一般的な音」と受け止められていくようにもなっていった。

Date: 11月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その19)

長岡鉄男氏の信者と長岡教の信者とを、完全に同じと捉えるのは危険である。

日本にも世界にも、演奏家の名前のあとに協会とつく組織はいくつもある。
フルトヴェングラー協会とかワルター協会とか、である。

ずっと以前ある人がいっていた、
日本では協会がいつのまにか教会になってしまうところがあるから、
ぼくはそれがいやだから、どこの協会にも入らないんだ、と。

そういう傾向は、日本のクラシックの聴き手においては特に強いのかもしれない。
そんな感じがしていたから、その人の言葉に頷いていた。

教会は建造物でもあるが、
協会とともに教会は、ひとつのシステムでもある。

長岡教も、システムといえる。
長岡鉄男氏というオーディオ評論家を中心(教祖)とする組織(システム)である。

ただ、そのシステムが、長岡鉄男氏が自らすすんで組織したものか、
それとも周りの、長岡鉄男氏の信者たちが集まってつくりあげたものなのかは、
くわしいことは私は知らない。どちらなのだろうか。

長岡鉄男氏は、1987年に「方舟」と名付けられたリスニングルームを建てられている。
この方舟は、長岡教の信者にとっては、いわば「教会」として機能していたはずだ。

Date: 11月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その18)

話はそれてしまうが、信者ということで思い出したことがある。
2001年だったか、audio sharingを公開して一年ほど経ったころにメールがあった。

メールには、なぜ高城重躬氏の文章を公開しないのか、とあった。
その理由を返信した。
すぐさま返信があった。

怒りのメールであった。
けしからん、とあった。

メールの主は、audio sharingをオーディオ協会がやっているものと勘違いされていた。
そして、高城重躬氏はHi-Fiの神様なのだから……、とつづられていた。

高城重躬氏の信者だったのだろう。
そう思ったけれど、高城教の信者、とは思わなかった。

高城重躬氏の信者ということでは、五味先生も一時期そうだった、といえる。
     *
 あれは、昭和三十一年だったから今から十七年前になるが、当時、ハイ・ファイに関しては何事にもあれ、高城重躬氏を私は神様のように信奉し、高城先生のおっしゃることなら無条件に信じていた。理由はかんたんである。高城邸で鳴っていたでかいコンクリートホーンのそれにまさる音を、私は聴いたことがなかったからだ。経済的に余裕が有てるようになって、これまでにも述べたように、私も高城邸のような音で聴きたいとおもい(出来るなら高城邸以上のをと、欲ばり)同じようなコンクリートホーンを造った。設計は高城先生にお願いした(リスニング・ルームの防音装置に関しても)。
(「オーディオ愛好家の五条件」より)
     *
五味先生と高城重躬氏の関係のその後のことについては、ここでは書かない。

Date: 11月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その17)

facebookで、五味康祐氏の信者を自認している人がいる、というコメントがあった。
それはそうだろう、と思う。

私は(その16)で、
五味教なんてものはないし、五味教の信者とも思っていない、と書いた。

五味先生の信者を自認している人は、どういう人なのかは知らない。
けれど、五味教の信者を自認しているわけではないはず、と思う。

五味先生の信者なのか、五味教の信者なのか、
五味先生に関心のない人にとっては、どちらも同じじゃないか、となるかもしれないが、
「教」がつくかつかないかは、無視できない違いである。

長岡鉄男氏の熱心な読者のすべてが、長岡教の信者なわけではないはずだ。
熱心な読者もいれば、長岡鉄男氏の信者の人もいるだろうし、
長岡教の信者もいる。

私にしても、傍からみれば、五味先生の信者じゃないか、と思われているかもしれない。
五味先生の書かれていることを、一から十まですべて盲目的に信じるのが信者であろう。
別項「耳の記憶の集積こそが……」で書いているように、
くり返しくり返し読むことで(その音を聴くことは叶わないから)、
五味先生の耳の記憶を継承しようとしている。