Archive for category 598のスピーカー

Date: 11月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その19)

長岡鉄男氏の信者と長岡教の信者とを、完全に同じと捉えるのは危険である。

日本にも世界にも、演奏家の名前のあとに協会とつく組織はいくつもある。
フルトヴェングラー協会とかワルター協会とか、である。

ずっと以前ある人がいっていた、
日本では協会がいつのまにか教会になってしまうところがあるから、
ぼくはそれがいやだから、どこの協会にも入らないんだ、と。

そういう傾向は、日本のクラシックの聴き手においては特に強いのかもしれない。
そんな感じがしていたから、その人の言葉に頷いていた。

教会は建造物でもあるが、
協会とともに教会は、ひとつのシステムでもある。

長岡教も、システムといえる。
長岡鉄男氏というオーディオ評論家を中心(教祖)とする組織(システム)である。

ただ、そのシステムが、長岡鉄男氏が自らすすんで組織したものか、
それとも周りの、長岡鉄男氏の信者たちが集まってつくりあげたものなのかは、
くわしいことは私は知らない。どちらなのだろうか。

長岡鉄男氏は、1987年に「方舟」と名付けられたリスニングルームを建てられている。
この方舟は、長岡教の信者にとっては、いわば「教会」として機能していたはずだ。

Date: 11月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その18)

話はそれてしまうが、信者ということで思い出したことがある。
2001年だったか、audio sharingを公開して一年ほど経ったころにメールがあった。

メールには、なぜ高城重躬氏の文章を公開しないのか、とあった。
その理由を返信した。
すぐさま返信があった。

怒りのメールであった。
けしからん、とあった。

メールの主は、audio sharingをオーディオ協会がやっているものと勘違いされていた。
そして、高城重躬氏はHi-Fiの神様なのだから……、とつづられていた。

高城重躬氏の信者だったのだろう。
そう思ったけれど、高城教の信者、とは思わなかった。

高城重躬氏の信者ということでは、五味先生も一時期そうだった、といえる。
     *
 あれは、昭和三十一年だったから今から十七年前になるが、当時、ハイ・ファイに関しては何事にもあれ、高城重躬氏を私は神様のように信奉し、高城先生のおっしゃることなら無条件に信じていた。理由はかんたんである。高城邸で鳴っていたでかいコンクリートホーンのそれにまさる音を、私は聴いたことがなかったからだ。経済的に余裕が有てるようになって、これまでにも述べたように、私も高城邸のような音で聴きたいとおもい(出来るなら高城邸以上のをと、欲ばり)同じようなコンクリートホーンを造った。設計は高城先生にお願いした(リスニング・ルームの防音装置に関しても)。
(「オーディオ愛好家の五条件」より)
     *
五味先生と高城重躬氏の関係のその後のことについては、ここでは書かない。

Date: 11月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その17)

facebookで、五味康祐氏の信者を自認している人がいる、というコメントがあった。
それはそうだろう、と思う。

私は(その16)で、
五味教なんてものはないし、五味教の信者とも思っていない、と書いた。

五味先生の信者を自認している人は、どういう人なのかは知らない。
けれど、五味教の信者を自認しているわけではないはず、と思う。

五味先生の信者なのか、五味教の信者なのか、
五味先生に関心のない人にとっては、どちらも同じじゃないか、となるかもしれないが、
「教」がつくかつかないかは、無視できない違いである。

長岡鉄男氏の熱心な読者のすべてが、長岡教の信者なわけではないはずだ。
熱心な読者もいれば、長岡鉄男氏の信者の人もいるだろうし、
長岡教の信者もいる。

私にしても、傍からみれば、五味先生の信者じゃないか、と思われているかもしれない。
五味先生の書かれていることを、一から十まですべて盲目的に信じるのが信者であろう。
別項「耳の記憶の集積こそが……」で書いているように、
くり返しくり返し読むことで(その音を聴くことは叶わないから)、
五味先生の耳の記憶を継承しようとしている。

Date: 10月 31st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その16)

ステレオサウンドの創刊が1966年。
ここをオーディオ雑誌の始まりとして、
51年間に多くの人がオーディオ雑誌に文章を書いてきている。

いったい何人になるのかはわからない。
多くの人が書いてきた、としかいえない。

その中で、○○教といわれているのは、長岡鉄男氏だけではないだろうか。
長岡鉄男氏が教祖で、その読者が信者である。

長岡教の信者が、教祖様の文章を読む以上に、
私は、他の人の文章を読んできた、といえる。

けれど、○○教の信者だとは思っていない。
五味先生の文章をそれこそ熱心に読んできたわけだが、
五味教なんてものはないし、五味教の信者とも思っていない。

五味先生を教祖だとおもったことは一度もない。
五味先生だけではない。

瀬川先生の文章も、熱心に読んできた。
けれど瀬川教はないし、瀬川教の信者でもない。

同じことは他の人にもいえる。
これは私だけのことではないはずだ。

五味先生の文章を熱心に読んできた人は、
私より上の世代には多くいる。

その人たちが五味教の信者かというと、そうではないはずだ。

長岡鉄男氏だけが教祖と呼ばれている。
その熱心な読者は、自身のことを長岡教の信者ともいう。

Date: 10月 21st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その15)

長岡鉄男氏がオーディオ評論をはじめる以前は、
放送作家だったことは、よく知られている。

長岡鉄男氏が手がけられた番組がどういうものであったのか、
放送作家としての長岡鉄男氏の評価はどうであったのかは直接は知らない。

中野英男氏の「音楽、オーディオ、人びと」の中に、
オーディオ評論家ではない長岡鉄男氏についての記述がある。
     *
 成城の我が家の書斎──四畳半の腰掛け式コタツのある、我が家では音だし機械が置いてない唯一の部屋──の小さな本箱には、長岡鉄男さんの著書が何冊か並んでいる。オーディオの本ではない。奇智、頓智、隠し芸に関する新書判である。二十年前、長岡さんはラジオ、テレビのコミック・ライターであった。天才的、としか評しようのない創造力で幾つかの人気番組を作り上げておられたが、同時にコミックな本も次々にものされ、その方面でも人気作家のひとりであった。その頃、新しい本が出版されるたびに、長岡さんは献呈の辞を添えて私に贈って下さった。当時の宴会における私の隠し芸の種本は、ほとんど長岡さんの作であった。人気が出ないわけはないではないか。
     *
才能ある放送作家だったのだと思う。
その才能がオーディオマニア(キチガイでない)に向けられたからこそ、
長岡教と呼ばれる、ある種の集団が生れたのではないだろうか。

Date: 10月 18th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その14)

長岡鉄男というオーディオ評論家は、どのタイプなのか。
オーディオマニア(キチガイでない)のためのオーディオ評論家(キチガイでない)だと私は思っている。

だからこそ、あれだけ多くの読者からの支持があったのだと思っている。
長岡鉄男氏のうまいところは、
オーディオマニア(キチガイでない)を相手に、
オーディオマニア(キチガイ)と思い込ませることにあったのではないだろうか。

オーディオメーカーにとってありがたいのは、
長岡鉄男氏のようなオーディオ評論家であったはずだ。

オーディオマニア(キチガイでない)がオーディオマニア(キチガイ)と思い込むことで、
オーディオにお金を注ぎ込む。
メーカーにとってありがたい存在(客)を、長岡鉄男氏はその文章でつくってきた。

その10)で引用した五味先生の文章。
その中に出てくる、あるステレオ・メーカーの音響技術所長の
「キチガイ相手にショーバイはできませんよ」、これこそがメーカーの本音であり、
オーディオブームはオーディオマニア(キチガイでない)によって支えられていた、ともいえるし、
ブームのためには、オーディオマニア(キチガイでない)を、
オーディオマニア(キチガイ)だと思い込ませることだったのではないか。

Date: 7月 19th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その13)

オーディオマニア(キチガイ)のためのオーディオ評論家(キチガイ)がいる、
オーディオマニア(キチガイでない)のためのオーディオ評論家(キチガイ)がいる、
オーディオマニア(キチガイでない)のためのオーディオ評論家(キチガイでない)がいる。

オーディオマニア(キチガイ)のためのオーディオ評論家(キチガイでない)はいない。

ここでいうキチガイとキチガイでないをわけるのは、
決定的にわけるのは想像力である。

想像力だけではないが、想像力の欠如はキチガイとはならない。
想像力がある人すべてがオーディオマニア(キチガイ)になるわけではない、
オーディオマニア(キチガイでない)の人もいるが、
想像力の欠如では、オーディオマニア(キチガイ)にはなれない。

Date: 7月 18th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その12)

オーディオマニアとは、はっきりといおう、キチガイである。
キチガイは気違いと書く。

気が、ふつうの人と違うわけだ。
そういう人がオーディオをやっている。
その人たちのことをオーディオマニアという。
私は、そういう認識でいる。

世の中に、オーディオマニアと自称する人は、
いまどのくらいいるのか。

マニアという言葉が嫌いで、
オーディオファン、オーディオファイル、レコード演奏家と自称する人もいる。
そういう人もひっくるめて、ここではオーディオマニアとしているわけだが、
真の意味でオーディオマニア(キチガイ)といえる人は、そう多くはない、と感じている。

オーディオマニアを自称している人が、キチガイなのかどうかは、わかりにくい。
高価なオーディオ機器を揃えていたり、
珍しいオーディオ機器を持っていたり、
レコードのコレクションも見事だったり、
人がうらやむようなリスニングルームも持っていたりしている人が、
オーディオマニア(キチガイ)とは限らない。
限らないから、わかりにくい。

オーディオマニア(キチガイ)とオーディオマニア(キチガイでない)とがいる。
オーディオを始めてから40年以上。
ここ十年くらい、意外に、というか、当然というべきか、
オーディオマニア(キチガイ)は少ない、と感じている。
そうとうに少ないように感じている。

同じことは、そのままオーディオ評論家にいえる。
オーディオ評論家(キチガイ)とオーディオ評論家(キチガイでない)とがいる。

長岡鉄男氏は、
オーディオマニア(キチガイでない)のためのオーディオ評論家(キチガイでない)である。

Date: 6月 13th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その11)

「五味オーディオ教室」には、音キチという表現が出てくる。
音キチの「キチ」とは、キチガイの略である。

「五味オーディオ教室」が出た1976年は、
ぎりぎり音キチという言葉が使われていた。

音キチは、ある意味蔑称でもある。
音ばかりに夢中になって、肝心の音楽を聴いていない──、
そんな意味も含まれて使われることがあるからだ。

けれど、私は音キチといわれようと気にはしない。

よく音(オーディオ)に関心のない人の中には、
「まず音楽ありき、でしょ、オーディオありきではないでしょ」、
こんなことをいう。

いちいち反論するのもイヤになるくらいに聞き飽きた。
だが、いいたい。
音楽ありきの前に、音ありき、である、と。

「まず音楽ありき、でしょ、オーディオありきではないでしょ」という人の多くは、
音とオーディオをまったく同一視している。

そうでないことをいちいち説明したところで、わからない人はわからない。
オーディオに関心がなくとも、わかる人はわかる。
そういうものである。

まず音ありき、なのだ。
だからこその音キチである。

Date: 6月 10th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その10)

「五味オーディオ教室」にこんなことが書いてあった。
     *
 よくステレオ雑誌でヒアリング・テストと称して、さまざまな聴き比べをやっている。その結果、AはBより断然優秀だなどとまことしやかに書かれているが、うかつに信じてはならない。少なくとも私は、もうそういうものを参考にしようとは思わない。
 あるステレオ・メーカーの音響技術所長が、私に言ったことがあった。
「われわれのつくるキカイは、畢竟は売れねばなりません。商業ベースに乗せねばならない。百貨店や、電気製品の小売店には、各社のステレオ装置が並べられている。そこで、お客さんは聴き比べをやる。そうして、よくきこえたと思える音を買う。当然な話です。でもそうすると、聴き比べたときによくきこえるような、そんな音のつくり方をする必要があるのです。
 人間の耳というのは、その時々の条件にひじょうに左右されやすい。他社のキカイが鳴って、つぎにわが社の音が鳴ったときに、他社よりよい音にきこえるということ(むろんかけるレコードにもよりますが)は、かならずしも音質自体が優れているからではない場合が多いのです。ときには、レンジを狭くしたほうが音がイキイキときこえる場合があります。自社の製品を売るためには、あの騒々しい百貨店やステレオ屋さんの店頭で、しかも他社の音が鳴ったあとで、美しく感じられねばならないのです。いわば、家庭におさまるまでが勝負です。さまざまな高級品を自家に持ち込んで比較のできる五味さんのような人は、限られています。あなたはキチガイだ。キチガイ相手にショーバイはできませんよ」
 要するに、聴き比べほど、即座に答が出ているようでじつは、頼りにならぬ識別法はない、ということだろう。
 テストで比較できるのは、音の差なのである。和ではない。だが、和を抜きにして、私たちの耳は、音の美を享受できない。ヒアリング・テストを私が信じない理由がここにある。
     *
「五味オーディオ教室」を最初に読んだとき、
つまり中学二年だったころは、
ここに書いてあること、そのままに読んだ。

ヒアリングテストはあてにならない、ということ。
「五味オーディオ教室」が出た当時は、
自分のリスニングルームで比較試聴できる人は、ひじょうに限られていた、だろう、ということである。

でも、いま読むと,別の捉え方ができる。
あるステレオ・メーカーの音響技術所長の「キチガイ相手にショーバイはできませんよ」、
この発言こそが、オーディオブームを端的に語っている、ということだ。

Date: 6月 9th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その9)

この項の(その8)にfacebookでコメントがあった。
そこには、ある個人サイトのURLがコピーされていた。

DoromPATIOというサイトの中の「日々雑感2000」の6月6日の記事についてのリンクであった。
タイトルは「合掌:長岡鉄男氏逝去」である。

そこに次のような記述がある。
     *
と言う話とは関係なく、その初めて買った「ステレオサウンド」に、岩崎千明、瀬川冬樹(いずれも故人。当時のカリスマ的オーディオ評論家。以下、敬称略)、菅野沖彦などに混じって、明らかに異色・異質の長岡鉄男も参加した大規模な試聴会の記事が載っていた。何が異色・異質かと言えば、長岡鉄男だけが音をまともに論評しており、他の全員は音の前にブランドと国別の文化論を語っていたのだ。
このようなわけだから、その後、長岡鉄男が「ステレオサウンド」に登場することはなかった。
     *
facebookにコメントされた方も、ここのところに興味を持たれたようだ。
「岩崎千明、瀬川冬樹(いずれも故人。当時のカリスマ的オーディオ評論家。以下、敬称略)、菅野沖彦などに混じって、明らかに異色・異質の長岡鉄男も参加した大規模な試聴会の記事」、
この記事とはいったいどの号に載っているのだろうか。

「合掌:長岡鉄男氏逝去」の中で、こまかなことについては触れられていない。
私もすぐには、どの号なのか思い出せない。

大規模な試聴会とある。
総テストをひとつの売りにしていたステレオサウンドだから、
大規模な試聴会とは特集のことである。

特集記事で、岩崎千明、瀬川冬樹、菅野沖彦、長岡鉄男の四氏が参加されているとなると、
実は該当する記事を見つけられないでいる。

ステレオサウンド 50号巻末附録を見ているところだが、
どの記事のことを書かれているのだろうか。

4号の特集は「組み合わせ型ステレオの選び方・まとめ方」で、
岩崎千明、瀬川冬樹、菅野沖彦、山中敬三の四氏が登場されている。
特集後半の「オーソリティ10氏が推す組み合わせ決定版」に長岡鉄男氏は登場されているが、
10氏の中のひとりである。

ここでの長岡鉄男氏が語られていることが、異色・異質とは思えない。
それにこの号の後にも長岡鉄男氏はステレオサウンドに書かれているから、
4号ではないことは確かである。

16号の特集「ブックシェルフ型スピーカーシステム53機種の試聴テスト」にも、
長岡鉄男氏は登場されているが、この特集に登場されているのは、
上杉佳郎、岡俊雄、瀬川冬樹であり、岩崎千明、菅野沖彦の名前はない。
これも違うことになる。

17号の特集「コンポーネントステレオのすべて」も規模の大きな試聴である。
けれど、ここには岩崎千明の名前はない。

私が見落しているのだろうか。
岩崎千明、瀬川冬樹、菅野沖彦、長岡鉄男の四氏が参加された記事を見つけられないでいる。

それに長岡鉄男氏は、(その8)でも書いているように、
23号までステレオサウンドに登場されている。

23号の記事は連載の「オーディオ工作室」である。

仮に私が記事を見落していたとしても、
長岡鉄男氏が、特集記事で異色・異質なことを語られていたとしても、
それ以降、ステレオサウンドに登場されなくなった、という事実はない、といえる。

Date: 6月 7th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その8)

私が読みはじめたころ(41号)は、すでに書かれなくなっていたが、
長岡鉄男氏はステレオサウンドのレギュラー筆者だったころがある。

ステレオサウンド 50号の巻末には創刊号から49号までの総目次が附録として載っている。
意外に思われるかもしれないが、
菅野先生は創刊号には書かれていなくて、2号からであるし、
長岡鉄男氏は創刊号から23号(1972年夏号)まで書かれている。
私も、50号の巻末を見ていて、意外に思っていた。

時代がかわれば、人も本もかわっていくものだろう。
長岡鉄男氏がステレオサウンドから離れられた理由は、私は知らない。

ただ長岡鉄男氏は、1972年当時も売れっ子の書き手であったはずである。
にも関わらず……、であるわけだ。

1972年オーディオブームの最盛期といえよう。
そのころに、ということを考えると、よけいにあれこれ考えてしまう。

オーディオブームは、それまでオーディオに関心のなかった層まで取り込んだといえるだろう。
私も、1976年に「五味オーディオ教室」と出逢ったからこそ、であるわけで、
この「五味オーディオ教室」もオーディオがブームだったからこそ出版された、ともいえる。

そうやってオーディオの世界に入ってきた人たちが、
オーディオマニアに向いていたのかどうか、ということを思ってしまう。

少し前に、音楽が好きで、少しでもいい音で聴きたい、と思い、
オーディオに熱心に取り組んでいても、本質的にオーディオマニアではない人がいる、と書いた。

オーディオに関心のない人からみれば、そういう人も立派なオーディオマニアだし、
私はそう捉えていても、他の、オーディオに取り組んできた人たちから見ても、
立派なオーディオマニアとうつる人でさえ、本質的にオーディオマニアだろうか、と、
この十年ほど、そう感じるようになってきた。

結局、オーディオマニアとは、頭のおかしい人のことだ、
狂っている人のことだ。

だからオーディオマニアと呼ばれたくない、という人もいる。
そういう人たちのほうが、オーディオを趣味としてまともに楽しんでいるのかもしれない。

かといって、オーディオマニアと呼ばれて喜んでいる人のすべてが、
何度もいうようだが、本質的にオーディオマニアとは限らない。

オーディオブームとは、
そういう本質的にオーディオマニアでない人たちを、
オーディオマニアであると勘違いさせていた(思い込ませていた)のではないのか。

Date: 5月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その36)

長岡鉄男氏の、トータルバランスが重要という視点には、
多く欠けているものがあると、私は感じている。

それはデザインである。
オーディオにおけるトータルバランスを語る上でも、
どのジャンルにおいてもトータルバランスを語るのであれば、
デザインを除いて語ることはできない。

長岡鉄男氏の文章を当時読んでいたときには、このことは感じなかったが、
いまいくつか読み返してみると、
そして曖昧な記憶ではあるが思い出してみると、
デザインという視点を欠いたままトータルバランスであったことに気づく。

このことについて書いていくと、
ここでのテーマ、598のスピーカーから離れていくのは明らかだから、
ここではこのへんに留めておく。
別項で、書いていく。

Date: 4月 27th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その7)

本人が、自分は常識人だ、といっているから、そのまま鵜呑みにしているわけではない。

知人に「自己破滅型なんですよ、自分は……」といっていた男がいる。
少し誇らしげに、知人は、そう言っていた。

彼をあまり知らない人は、自己破滅型かも……、と思っていたようだが、
知人をよく知っている人(私も含めて)は、そうは思っていなかった。

誰と話していたのかは書かないが、
その人との会話で、知人のことが出てきた。
その人も私も、知人のことを「自己破滅型に憧れている安定志向型」ということで一致した。

知人の自己破滅型は、いわば演出といえよう。
周りからそう思われたいという願望からの演出だったのかもしれないし、
それは、かなりうまくいっていた、ともいえる。

でも、わかっている人には、そうでないことはバレていた。

私の見当違いの可能性を完全には否定できないが、
少なくとも私と同じに知人のことを見ていた人は、
私よりもずっと先輩で、見識をもつ人である。

そういう知人の例を知っているだけに、
本人が常識人とか自己破滅型といっていたとしても、そのまま信じるわけではないが、
常識人という長岡鉄男氏は、知人の例とは違う、と感じている。

長岡鉄男氏は、確かに常識人であり、
常識人であるからこそ、あれだけ多くのファン(読み手)がいたのだと思うのだ。

Date: 4月 19th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その6)

漢文学者・ 東洋学者の白川静氏によれば、
【くるう】という言葉は「くるくる回る」という場合の【くる】ね、
「くるくる」と同じ語源だそうで、
獣が自分の尻尾を追いかけてくるくる回ったりする、理解できない動作をする、
それが【くるう】ということ、だそうだ。

自分の尻尾を追いかけまわす、
こんな馬鹿げていて、無駄な行為はないだろう。
でも、それが狂っている、ということなのだ、ともおもう。

その意味からすると、確かに長岡鉄男氏は狂っていなかった。
常識人である。
だからこそ、長岡鉄男氏はあれほどコスト・パフォーマンスについて語られたのではないのか。

長岡鉄男氏は1926年1月5日生れである。
ぎりぎり大正生れである。

岩崎先生が1928年、井上先生が1931年、菅野先生、山中先生、長島先生が1932年、
瀬川先生が1935年生れだから、
長岡鉄男氏もラジオやアンプの自作の経験があるはずである。

以前、国産メーカーに勤務されていた方からきいたことがある。
昔の秋葉原は、テープデッキのヘッドも売っていた店があったそうで、
長岡鉄男氏はアンペックスのヘッドをその店から購入し、テープデッキを自作された、とのこと。

スピーカーの自作で知られていただけに、この話をきいたときは、
意外な感じもしたが、この時代の人だから、自作は当然のことだとも思った。