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Date: 4月 14th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その2)

KEFのModel 303は、ステレオサウンド 54号の特集
「いまいちばんいいスピーカーを選ぶ・最新の45機種テスト」に登場している。

瀬川先生だけでなく、菅野先生黒田先生の評価もそうとうに高い。

《このランクのスピーカーとしては、ひときわぬきんでている》(黒田)、
《スケールこそ小さいが、立派に本物をイメージアップさせてくれるバランスと質感には、脱帽である》(菅野)、
《ポップスで腰くだけになるような古いイギリスのスピーカーの弱点は、303ではほとんど改善されている》(瀬川)、
三氏とも特選である。

菅野先生は
《このシステムを中高域に使って、低域を大型のもので補えば、相当なシステムが組み上げられるのではないかという可能性も想像させてくれた》
とまで書かれているし、
菅野先生と瀬川先生は55号の特集ベストバイで、ともにModel 303を、
スピーカーのMy Best3のひとつとして選ばれている。

瀬川先生は、そこでこう書かれている。
     *
 オーディオ機器の音質の判定に使うプログラムソースは、私の場合ディスクレコードがほとんどで、そしてクラシック中心である。むろんテストの際にはジャズやロックやその他のポップス、ニューミュージックや歌謡曲も参考に試聴するにしても、クラシックがまともに鳴らない製品は評価できない。
 ところがその点で近ごろとくにメーカー筋から反論される。最近のローコストの価格帯の製品を買う人は、クラシックを聴かない人がほとんどなのだから、クラシック云々で判定されては困る、というのである。クラシックのレコードの売上げやクラシックの音楽会の客の入り具合をみるかぎり、私には若い人がクラシックを聴かないなどとはとうてい信じられないのだが、しかし、ともかく最近の国産のスピーカーのほとんどは、日本人一般に馴染みの深い歌謡曲、艶歌、そしてニューミュージックの人気歌手たちの、おもにTVを通じて聴き馴れた歌声のイメージに近い音で鳴らなくては売れないと、作る側がはっきり公言する例が増えている。加えて、繁華街の店頭で積み上げられて切替比較された時に、素人にもはっきりと聴き分けられるようなわかりやすい味つけがしてないと激しい競争に負けるという意識が、メーカーの側から抜けきっていない。
 そういう形で作られる音にはとても賛成できないから、スピーカーに関するかぎり、私はどうしても国産を避けて通ることが多くなる。いくらローコストでも、たとえばKEFの303のように、クラシックのまともに鳴るスピーカーが作れるという実例がある。あの徹底したローコスト設計を日本のメーカーがやれば、おそろしく安く、しかしまともな音のスピーカーが作れるはずだと思う。
 KEF303の音は全く何気ない。店頭でハッと人を惹きつけるショッキングな音も出ない。けれど手もとに置いて毎日音楽を聴いてみれば、なにもクラシックといわず、ロックも演歌も、ごくあたり前に楽しく聴かせてくれる。永いあいだ満足感が持続し、これを買って損をしたと思わせない。それがベストバイというものの基本的な条件で、店頭ではショッキングな音で驚かされても、家に持ち帰って毎日聴くと次第にボロを出すのでは、ベストバイどころではない。売ってしまえばそれまでよ、では消費者は困るのだ。
     *
メーカー筋からの反論。
《最近のローコストの価格帯の製品を買う人は、クラシックを聴かない人がほとんど》、
ここでのローコストの価格帯とは、どのあたりを指すのか。

瀬川先生の文章を読むかぎり、
59,800円(一本)のスピーカーも、ここに含まれる。

Date: 4月 13th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その1)

別項「現代スピーカー考(余談・その2)」で、
とあるレコード店のスピーカー、KEFのModel 303について触れた。

今日久しぶりに、そのレコード店に入った。
同じ位置にModel 303は置いてある。
モーツァルトのピアノ協奏曲が鳴っていた。

ほどよい音量で鳴っていた。

瀬川先生はステレオサウンド 56号での組合せで、
《最新の録音のレコードから、旧い名盤レコードまでを、歪の少ない住んだ音質で満喫できる》
と書かれている。
そのとおりの音で、モーツァルトが美しく鳴っていた。

1979年発売のスピーカーだから、ほぼ40年が経っている。
専用スタンドで設置されているModel 303には、
高価なスピーカーケーブルやアクセサリーが使われてはいない。
ごくごく一般的な置き方のまま鳴っている。

ほぼ40年、店主の好きな音楽を、ほぼ毎日鳴らしてきての、
今日、私が聴いた音なのだろう。

中古のModel 303は、誰がどんな鳴らしかたをしてきたのか、わからない。
どんな使われ方だったのかもわからない。
そんなModel 303に、私が今日聴いた音を期待しても無理というものだ。

Model 303は、一本59,000円(その後62,000円)の、イギリス製のスピーカーだ。
海を渡っての、この価格ということは、イギリスでは普及クラスのスピーカーだったのだろう。

598戦争が始る、ほんの数年前に、同価格帯にModel 303が存在していた。
そのことを、今日、その音を聴いて思い出していた。

Date: 3月 19th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その37)

598のスピーカーについて、ここまで書いてきて考えているのは、
なぜ598だったか、である。

698でもなく、498でもなく、598(一本59,800円)のスピーカーが、
これほどメーカーがコストパフォーマンスを競うようになったのか。

それを煽ったのは、長岡鉄男氏であり、
598のスピーカーにおける異常な物量投入の最初はオンキョーのスピーカーだったことは確かだ。

とはいえ、どのメーカーもこれほど598に集中しすぎたのか。

ステレオサウンド 44号(1977年)の新製品紹介の記事で、
井上先生と山中先生が語られていることが、いま読み返してみると、ひじょうに興味深い。
     *
井上 海外製品を含めて、いわゆる名器とか高級スピーカーといわれているものは、「好み」という次元でいえば得てして幅の狭いものではないかと思いますね。むしろ五、六万円のスピーカーの方がいろいな人の「好み」を満足させることができる。より「一般的な音」を持っているのではないかと思うんです。大型になってくるとそんなにオールマイティというわけにはいかなくなる。「いいスピーカーシステムなんだけれども」ということを前提にして、一人一人の人がそれでは自分に応わしいかどうかを聴くことが本来の趣味になってくると思います。それをはっきり認識する必要があります。
山中 趣味っていうのはみんなそうですね。非常に多様なものがあって、その中で自分に合った対応の仕方がいろいろできるというのでないと、また趣味にはならないでしょうね。
     *
この発言から数年後に、598戦争といわれるものが始まり、
十年後の1987年にはたいへんなことになっていた。

「一般的な音」を持っていたであろう、この価格帯のスピーカーの音は、
よほど鳴らしこなしの腕がないと、ひどくアンバランスに鳴りがちで、
とても「一般的な音」からはある意味遠ざかったにも関らず、
数は売れていただけに、その音が「一般的な音」と受け止められていくようにもなっていった。

Date: 11月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その19)

長岡鉄男氏の信者と長岡教の信者とを、完全に同じと捉えるのは危険である。

日本にも世界にも、演奏家の名前のあとに協会とつく組織はいくつもある。
フルトヴェングラー協会とかワルター協会とか、である。

ずっと以前ある人がいっていた、
日本では協会がいつのまにか教会になってしまうところがあるから、
ぼくはそれがいやだから、どこの協会にも入らないんだ、と。

そういう傾向は、日本のクラシックの聴き手においては特に強いのかもしれない。
そんな感じがしていたから、その人の言葉に頷いていた。

教会は建造物でもあるが、
協会とともに教会は、ひとつのシステムでもある。

長岡教も、システムといえる。
長岡鉄男氏というオーディオ評論家を中心(教祖)とする組織(システム)である。

ただ、そのシステムが、長岡鉄男氏が自らすすんで組織したものか、
それとも周りの、長岡鉄男氏の信者たちが集まってつくりあげたものなのかは、
くわしいことは私は知らない。どちらなのだろうか。

長岡鉄男氏は、1987年に「方舟」と名付けられたリスニングルームを建てられている。
この方舟は、長岡教の信者にとっては、いわば「教会」として機能していたはずだ。

Date: 11月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その18)

話はそれてしまうが、信者ということで思い出したことがある。
2001年だったか、audio sharingを公開して一年ほど経ったころにメールがあった。

メールには、なぜ高城重躬氏の文章を公開しないのか、とあった。
その理由を返信した。
すぐさま返信があった。

怒りのメールであった。
けしからん、とあった。

メールの主は、audio sharingをオーディオ協会がやっているものと勘違いされていた。
そして、高城重躬氏はHi-Fiの神様なのだから……、とつづられていた。

高城重躬氏の信者だったのだろう。
そう思ったけれど、高城教の信者、とは思わなかった。

高城重躬氏の信者ということでは、五味先生も一時期そうだった、といえる。
     *
 あれは、昭和三十一年だったから今から十七年前になるが、当時、ハイ・ファイに関しては何事にもあれ、高城重躬氏を私は神様のように信奉し、高城先生のおっしゃることなら無条件に信じていた。理由はかんたんである。高城邸で鳴っていたでかいコンクリートホーンのそれにまさる音を、私は聴いたことがなかったからだ。経済的に余裕が有てるようになって、これまでにも述べたように、私も高城邸のような音で聴きたいとおもい(出来るなら高城邸以上のをと、欲ばり)同じようなコンクリートホーンを造った。設計は高城先生にお願いした(リスニング・ルームの防音装置に関しても)。
(「オーディオ愛好家の五条件」より)
     *
五味先生と高城重躬氏の関係のその後のことについては、ここでは書かない。

Date: 11月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その17)

facebookで、五味康祐氏の信者を自認している人がいる、というコメントがあった。
それはそうだろう、と思う。

私は(その16)で、
五味教なんてものはないし、五味教の信者とも思っていない、と書いた。

五味先生の信者を自認している人は、どういう人なのかは知らない。
けれど、五味教の信者を自認しているわけではないはず、と思う。

五味先生の信者なのか、五味教の信者なのか、
五味先生に関心のない人にとっては、どちらも同じじゃないか、となるかもしれないが、
「教」がつくかつかないかは、無視できない違いである。

長岡鉄男氏の熱心な読者のすべてが、長岡教の信者なわけではないはずだ。
熱心な読者もいれば、長岡鉄男氏の信者の人もいるだろうし、
長岡教の信者もいる。

私にしても、傍からみれば、五味先生の信者じゃないか、と思われているかもしれない。
五味先生の書かれていることを、一から十まですべて盲目的に信じるのが信者であろう。
別項「耳の記憶の集積こそが……」で書いているように、
くり返しくり返し読むことで(その音を聴くことは叶わないから)、
五味先生の耳の記憶を継承しようとしている。

Date: 10月 31st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その16)

ステレオサウンドの創刊が1966年。
ここをオーディオ雑誌の始まりとして、
51年間に多くの人がオーディオ雑誌に文章を書いてきている。

いったい何人になるのかはわからない。
多くの人が書いてきた、としかいえない。

その中で、○○教といわれているのは、長岡鉄男氏だけではないだろうか。
長岡鉄男氏が教祖で、その読者が信者である。

長岡教の信者が、教祖様の文章を読む以上に、
私は、他の人の文章を読んできた、といえる。

けれど、○○教の信者だとは思っていない。
五味先生の文章をそれこそ熱心に読んできたわけだが、
五味教なんてものはないし、五味教の信者とも思っていない。

五味先生を教祖だとおもったことは一度もない。
五味先生だけではない。

瀬川先生の文章も、熱心に読んできた。
けれど瀬川教はないし、瀬川教の信者でもない。

同じことは他の人にもいえる。
これは私だけのことではないはずだ。

五味先生の文章を熱心に読んできた人は、
私より上の世代には多くいる。

その人たちが五味教の信者かというと、そうではないはずだ。

長岡鉄男氏だけが教祖と呼ばれている。
その熱心な読者は、自身のことを長岡教の信者ともいう。

Date: 10月 21st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その15)

長岡鉄男氏がオーディオ評論をはじめる以前は、
放送作家だったことは、よく知られている。

長岡鉄男氏が手がけられた番組がどういうものであったのか、
放送作家としての長岡鉄男氏の評価はどうであったのかは直接は知らない。

中野英男氏の「音楽、オーディオ、人びと」の中に、
オーディオ評論家ではない長岡鉄男氏についての記述がある。
     *
 成城の我が家の書斎──四畳半の腰掛け式コタツのある、我が家では音だし機械が置いてない唯一の部屋──の小さな本箱には、長岡鉄男さんの著書が何冊か並んでいる。オーディオの本ではない。奇智、頓智、隠し芸に関する新書判である。二十年前、長岡さんはラジオ、テレビのコミック・ライターであった。天才的、としか評しようのない創造力で幾つかの人気番組を作り上げておられたが、同時にコミックな本も次々にものされ、その方面でも人気作家のひとりであった。その頃、新しい本が出版されるたびに、長岡さんは献呈の辞を添えて私に贈って下さった。当時の宴会における私の隠し芸の種本は、ほとんど長岡さんの作であった。人気が出ないわけはないではないか。
     *
才能ある放送作家だったのだと思う。
その才能がオーディオマニア(キチガイでない)に向けられたからこそ、
長岡教と呼ばれる、ある種の集団が生れたのではないだろうか。

Date: 10月 18th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その14)

長岡鉄男というオーディオ評論家は、どのタイプなのか。
オーディオマニア(キチガイでない)のためのオーディオ評論家(キチガイでない)だと私は思っている。

だからこそ、あれだけ多くの読者からの支持があったのだと思っている。
長岡鉄男氏のうまいところは、
オーディオマニア(キチガイでない)を相手に、
オーディオマニア(キチガイ)と思い込ませることにあったのではないだろうか。

オーディオメーカーにとってありがたいのは、
長岡鉄男氏のようなオーディオ評論家であったはずだ。

オーディオマニア(キチガイでない)がオーディオマニア(キチガイ)と思い込むことで、
オーディオにお金を注ぎ込む。
メーカーにとってありがたい存在(客)を、長岡鉄男氏はその文章でつくってきた。

その10)で引用した五味先生の文章。
その中に出てくる、あるステレオ・メーカーの音響技術所長の
「キチガイ相手にショーバイはできませんよ」、これこそがメーカーの本音であり、
オーディオブームはオーディオマニア(キチガイでない)によって支えられていた、ともいえるし、
ブームのためには、オーディオマニア(キチガイでない)を、
オーディオマニア(キチガイ)だと思い込ませることだったのではないか。

Date: 7月 19th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その13)

オーディオマニア(キチガイ)のためのオーディオ評論家(キチガイ)がいる、
オーディオマニア(キチガイでない)のためのオーディオ評論家(キチガイ)がいる、
オーディオマニア(キチガイでない)のためのオーディオ評論家(キチガイでない)がいる。

オーディオマニア(キチガイ)のためのオーディオ評論家(キチガイでない)はいない。

ここでいうキチガイとキチガイでないをわけるのは、
決定的にわけるのは想像力である。

想像力だけではないが、想像力の欠如はキチガイとはならない。
想像力がある人すべてがオーディオマニア(キチガイ)になるわけではない、
オーディオマニア(キチガイでない)の人もいるが、
想像力の欠如では、オーディオマニア(キチガイ)にはなれない。

Date: 7月 18th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その12)

オーディオマニアとは、はっきりといおう、キチガイである。
キチガイは気違いと書く。

気が、ふつうの人と違うわけだ。
そういう人がオーディオをやっている。
その人たちのことをオーディオマニアという。
私は、そういう認識でいる。

世の中に、オーディオマニアと自称する人は、
いまどのくらいいるのか。

マニアという言葉が嫌いで、
オーディオファン、オーディオファイル、レコード演奏家と自称する人もいる。
そういう人もひっくるめて、ここではオーディオマニアとしているわけだが、
真の意味でオーディオマニア(キチガイ)といえる人は、そう多くはない、と感じている。

オーディオマニアを自称している人が、キチガイなのかどうかは、わかりにくい。
高価なオーディオ機器を揃えていたり、
珍しいオーディオ機器を持っていたり、
レコードのコレクションも見事だったり、
人がうらやむようなリスニングルームも持っていたりしている人が、
オーディオマニア(キチガイ)とは限らない。
限らないから、わかりにくい。

オーディオマニア(キチガイ)とオーディオマニア(キチガイでない)とがいる。
オーディオを始めてから40年以上。
ここ十年くらい、意外に、というか、当然というべきか、
オーディオマニア(キチガイ)は少ない、と感じている。
そうとうに少ないように感じている。

同じことは、そのままオーディオ評論家にいえる。
オーディオ評論家(キチガイ)とオーディオ評論家(キチガイでない)とがいる。

長岡鉄男氏は、
オーディオマニア(キチガイでない)のためのオーディオ評論家(キチガイでない)である。

Date: 6月 13th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その11)

「五味オーディオ教室」には、音キチという表現が出てくる。
音キチの「キチ」とは、キチガイの略である。

「五味オーディオ教室」が出た1976年は、
ぎりぎり音キチという言葉が使われていた。

音キチは、ある意味蔑称でもある。
音ばかりに夢中になって、肝心の音楽を聴いていない──、
そんな意味も含まれて使われることがあるからだ。

けれど、私は音キチといわれようと気にはしない。

よく音(オーディオ)に関心のない人の中には、
「まず音楽ありき、でしょ、オーディオありきではないでしょ」、
こんなことをいう。

いちいち反論するのもイヤになるくらいに聞き飽きた。
だが、いいたい。
音楽ありきの前に、音ありき、である、と。

「まず音楽ありき、でしょ、オーディオありきではないでしょ」という人の多くは、
音とオーディオをまったく同一視している。

そうでないことをいちいち説明したところで、わからない人はわからない。
オーディオに関心がなくとも、わかる人はわかる。
そういうものである。

まず音ありき、なのだ。
だからこその音キチである。

Date: 6月 10th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その10)

「五味オーディオ教室」にこんなことが書いてあった。
     *
 よくステレオ雑誌でヒアリング・テストと称して、さまざまな聴き比べをやっている。その結果、AはBより断然優秀だなどとまことしやかに書かれているが、うかつに信じてはならない。少なくとも私は、もうそういうものを参考にしようとは思わない。
 あるステレオ・メーカーの音響技術所長が、私に言ったことがあった。
「われわれのつくるキカイは、畢竟は売れねばなりません。商業ベースに乗せねばならない。百貨店や、電気製品の小売店には、各社のステレオ装置が並べられている。そこで、お客さんは聴き比べをやる。そうして、よくきこえたと思える音を買う。当然な話です。でもそうすると、聴き比べたときによくきこえるような、そんな音のつくり方をする必要があるのです。
 人間の耳というのは、その時々の条件にひじょうに左右されやすい。他社のキカイが鳴って、つぎにわが社の音が鳴ったときに、他社よりよい音にきこえるということ(むろんかけるレコードにもよりますが)は、かならずしも音質自体が優れているからではない場合が多いのです。ときには、レンジを狭くしたほうが音がイキイキときこえる場合があります。自社の製品を売るためには、あの騒々しい百貨店やステレオ屋さんの店頭で、しかも他社の音が鳴ったあとで、美しく感じられねばならないのです。いわば、家庭におさまるまでが勝負です。さまざまな高級品を自家に持ち込んで比較のできる五味さんのような人は、限られています。あなたはキチガイだ。キチガイ相手にショーバイはできませんよ」
 要するに、聴き比べほど、即座に答が出ているようでじつは、頼りにならぬ識別法はない、ということだろう。
 テストで比較できるのは、音の差なのである。和ではない。だが、和を抜きにして、私たちの耳は、音の美を享受できない。ヒアリング・テストを私が信じない理由がここにある。
     *
「五味オーディオ教室」を最初に読んだとき、
つまり中学二年だったころは、
ここに書いてあること、そのままに読んだ。

ヒアリングテストはあてにならない、ということ。
「五味オーディオ教室」が出た当時は、
自分のリスニングルームで比較試聴できる人は、ひじょうに限られていた、だろう、ということである。

でも、いま読むと,別の捉え方ができる。
あるステレオ・メーカーの音響技術所長の「キチガイ相手にショーバイはできませんよ」、
この発言こそが、オーディオブームを端的に語っている、ということだ。

Date: 6月 9th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その9)

この項の(その8)にfacebookでコメントがあった。
そこには、ある個人サイトのURLがコピーされていた。

DoromPATIOというサイトの中の「日々雑感2000」の6月6日の記事についてのリンクであった。
タイトルは「合掌:長岡鉄男氏逝去」である。

そこに次のような記述がある。
     *
と言う話とは関係なく、その初めて買った「ステレオサウンド」に、岩崎千明、瀬川冬樹(いずれも故人。当時のカリスマ的オーディオ評論家。以下、敬称略)、菅野沖彦などに混じって、明らかに異色・異質の長岡鉄男も参加した大規模な試聴会の記事が載っていた。何が異色・異質かと言えば、長岡鉄男だけが音をまともに論評しており、他の全員は音の前にブランドと国別の文化論を語っていたのだ。
このようなわけだから、その後、長岡鉄男が「ステレオサウンド」に登場することはなかった。
     *
facebookにコメントされた方も、ここのところに興味を持たれたようだ。
「岩崎千明、瀬川冬樹(いずれも故人。当時のカリスマ的オーディオ評論家。以下、敬称略)、菅野沖彦などに混じって、明らかに異色・異質の長岡鉄男も参加した大規模な試聴会の記事」、
この記事とはいったいどの号に載っているのだろうか。

「合掌:長岡鉄男氏逝去」の中で、こまかなことについては触れられていない。
私もすぐには、どの号なのか思い出せない。

大規模な試聴会とある。
総テストをひとつの売りにしていたステレオサウンドだから、
大規模な試聴会とは特集のことである。

特集記事で、岩崎千明、瀬川冬樹、菅野沖彦、長岡鉄男の四氏が参加されているとなると、
実は該当する記事を見つけられないでいる。

ステレオサウンド 50号巻末附録を見ているところだが、
どの記事のことを書かれているのだろうか。

4号の特集は「組み合わせ型ステレオの選び方・まとめ方」で、
岩崎千明、瀬川冬樹、菅野沖彦、山中敬三の四氏が登場されている。
特集後半の「オーソリティ10氏が推す組み合わせ決定版」に長岡鉄男氏は登場されているが、
10氏の中のひとりである。

ここでの長岡鉄男氏が語られていることが、異色・異質とは思えない。
それにこの号の後にも長岡鉄男氏はステレオサウンドに書かれているから、
4号ではないことは確かである。

16号の特集「ブックシェルフ型スピーカーシステム53機種の試聴テスト」にも、
長岡鉄男氏は登場されているが、この特集に登場されているのは、
上杉佳郎、岡俊雄、瀬川冬樹であり、岩崎千明、菅野沖彦の名前はない。
これも違うことになる。

17号の特集「コンポーネントステレオのすべて」も規模の大きな試聴である。
けれど、ここには岩崎千明の名前はない。

私が見落しているのだろうか。
岩崎千明、瀬川冬樹、菅野沖彦、長岡鉄男の四氏が参加された記事を見つけられないでいる。

それに長岡鉄男氏は、(その8)でも書いているように、
23号までステレオサウンドに登場されている。

23号の記事は連載の「オーディオ工作室」である。

仮に私が記事を見落していたとしても、
長岡鉄男氏が、特集記事で異色・異質なことを語られていたとしても、
それ以降、ステレオサウンドに登場されなくなった、という事実はない、といえる。

Date: 6月 7th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その8)

私が読みはじめたころ(41号)は、すでに書かれなくなっていたが、
長岡鉄男氏はステレオサウンドのレギュラー筆者だったころがある。

ステレオサウンド 50号の巻末には創刊号から49号までの総目次が附録として載っている。
意外に思われるかもしれないが、
菅野先生は創刊号には書かれていなくて、2号からであるし、
長岡鉄男氏は創刊号から23号(1972年夏号)まで書かれている。
私も、50号の巻末を見ていて、意外に思っていた。

時代がかわれば、人も本もかわっていくものだろう。
長岡鉄男氏がステレオサウンドから離れられた理由は、私は知らない。

ただ長岡鉄男氏は、1972年当時も売れっ子の書き手であったはずである。
にも関わらず……、であるわけだ。

1972年オーディオブームの最盛期といえよう。
そのころに、ということを考えると、よけいにあれこれ考えてしまう。

オーディオブームは、それまでオーディオに関心のなかった層まで取り込んだといえるだろう。
私も、1976年に「五味オーディオ教室」と出逢ったからこそ、であるわけで、
この「五味オーディオ教室」もオーディオがブームだったからこそ出版された、ともいえる。

そうやってオーディオの世界に入ってきた人たちが、
オーディオマニアに向いていたのかどうか、ということを思ってしまう。

少し前に、音楽が好きで、少しでもいい音で聴きたい、と思い、
オーディオに熱心に取り組んでいても、本質的にオーディオマニアではない人がいる、と書いた。

オーディオに関心のない人からみれば、そういう人も立派なオーディオマニアだし、
私はそう捉えていても、他の、オーディオに取り組んできた人たちから見ても、
立派なオーディオマニアとうつる人でさえ、本質的にオーディオマニアだろうか、と、
この十年ほど、そう感じるようになってきた。

結局、オーディオマニアとは、頭のおかしい人のことだ、
狂っている人のことだ。

だからオーディオマニアと呼ばれたくない、という人もいる。
そういう人たちのほうが、オーディオを趣味としてまともに楽しんでいるのかもしれない。

かといって、オーディオマニアと呼ばれて喜んでいる人のすべてが、
何度もいうようだが、本質的にオーディオマニアとは限らない。

オーディオブームとは、
そういう本質的にオーディオマニアでない人たちを、
オーディオマニアであると勘違いさせていた(思い込ませていた)のではないのか。