Archive for category 598のスピーカー

Date: 5月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その36)

長岡鉄男氏の、トータルバランスが重要という視点には、
多く欠けているものがあると、私は感じている。

それはデザインである。
オーディオにおけるトータルバランスを語る上でも、
どのジャンルにおいてもトータルバランスを語るのであれば、
デザインを除いて語ることはできない。

長岡鉄男氏の文章を当時読んでいたときには、このことは感じなかったが、
いまいくつか読み返してみると、
そして曖昧な記憶ではあるが思い出してみると、
デザインという視点を欠いたままトータルバランスであったことに気づく。

このことについて書いていくと、
ここでのテーマ、598のスピーカーから離れていくのは明らかだから、
ここではこのへんに留めておく。
別項で、書いていく。

Date: 4月 27th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その7)

本人が、自分は常識人だ、といっているから、そのまま鵜呑みにしているわけではない。

知人に「自己破滅型なんですよ、自分は……」といっていた男がいる。
少し誇らしげに、知人は、そう言っていた。

彼をあまり知らない人は、自己破滅型かも……、と思っていたようだが、
知人をよく知っている人(私も含めて)は、そうは思っていなかった。

誰と話していたのかは書かないが、
その人との会話で、知人のことが出てきた。
その人も私も、知人のことを「自己破滅型に憧れている安定志向型」ということで一致した。

知人の自己破滅型は、いわば演出といえよう。
周りからそう思われたいという願望からの演出だったのかもしれないし、
それは、かなりうまくいっていた、ともいえる。

でも、わかっている人には、そうでないことはバレていた。

私の見当違いの可能性を完全には否定できないが、
少なくとも私と同じに知人のことを見ていた人は、
私よりもずっと先輩で、見識をもつ人である。

そういう知人の例を知っているだけに、
本人が常識人とか自己破滅型といっていたとしても、そのまま信じるわけではないが、
常識人という長岡鉄男氏は、知人の例とは違う、と感じている。

長岡鉄男氏は、確かに常識人であり、
常識人であるからこそ、あれたけ多くのファン(読み手)がいたのだと思うのだ。

Date: 4月 19th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その6)

漢文学者・ 東洋学者の白川静氏によれば、
【くるう】という言葉は「くるくる回る」という場合の【くる】ね、
「くるくる」と同じ語源だそうで、
獣が自分の尻尾を追いかけてくるくる回ったりする、理解できない動作をする、
それが【くるう】ということ、だそうだ。

自分の尻尾を追いかけまわす、
こんな馬鹿げていて、無駄な行為はないだろう。
でも、それが狂っている、ということなのだ、ともおもう。

その意味からすると、確かに長岡鉄男氏は狂っていなかった。
常識人である。
だからこそ、長岡鉄男氏はあれほどコスト・パフォーマンスについて語られたのではないのか。

長岡鉄男氏は1926年1月5日生れである。
ぎりぎり大正生れである。

岩崎先生が1928年、井上先生が1931年、菅野先生、山中先生、長島先生が1932年、
瀬川先生が1935年生れだから、
長岡鉄男氏もラジオやアンプの自作の経験があるはずである。

以前、国産メーカーに勤務されていた方からきいたことがある。
昔の秋葉原は、テープデッキのヘッドも売っていた店があったそうで、
長岡鉄男氏はアンペックスのヘッドをその店から購入し、テープデッキを自作された、とのこと。

スピーカーの自作で知られていただけに、この話をきいたときは、
意外な感じもしたが、この時代の人だから、自作は当然のことだとも思った。

Date: 4月 19th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その5)

長岡鉄男氏は常識人──、ということに同意する人はどのくらいなのだろうか。

長岡鉄男氏の熱心なファンであった人たち(いまもそうである人たち)は、
果して長岡鉄男氏を常識人としてみているのだろうか。

書き手には熱心な読み手が、たいていはいる。
オーディオ評論家も同じで、長岡鉄男氏には、信者とよばれるほどの熱心な読み手がいた。

私も瀬川先生、五味先生の熱心な読み手であるが、
だからといって瀬川教の信者、五味教の信者とは思っていない。

けれど長岡鉄男氏の熱心な読み手は、そうでないようだ。
自他共に認める長岡教の信者であったりする。

私は、このことが長年不思議に思えていた。
なぜ、信者と呼ばれることに喜びを感じるほどの読み手がいるのか。

長岡鉄男氏がなくなられて20年近くが経つ。
いまだに中古市場で、長岡鉄男氏が絶賛されたオーディオ機器は人気がある、ときく。
長岡鉄男氏の本もいまだ人気がある、ともきいている。

これらのことも、私にとっては、なぜ? だった。

私の中での、このことについての結論は、
長岡鉄男氏は常識人だったから、である。

表現をかえれば、長岡鉄男氏は狂っていなかった、からだ。
狂っていない、という意味での、長岡鉄男氏は常識人なのである。

Date: 4月 16th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その4)

私が長岡鉄男という名前を知ったのは、電波科学でだった。
1976年ごろ、長岡鉄男氏は電波科学に二ページのコラムを連載されていた。

肩の凝らない、漫談的内容だった、と記憶している。
まだ中学生だった私は、けっこう楽しく読んでいた。
そのころは、まだ長岡鉄男氏のオーディオ機器の試聴記事、評論は読んでいなかった。

FM誌のはずだ、最初に長岡鉄男氏の試聴記事を読んだのは。
正直、あまり面白く感じなかった。
電波科学の連載コラムの面白さは、感じなかった、というか、
そこには微塵もなかった。

コラムと試聴記事という違いはあっても、
その落差にがっかりしたのかもしれない。

一本や二本くらいの試聴記事でそう感じたわけではなかった。
FM誌は、ほぼ毎号買っていたから、そこそこ読むことになる。
その他に、ステレオサウンドをはじめオーディオ雑誌はそこそこ講読していたから、
長岡鉄男氏の書かれたものは、読んでいた。

小遣いをやりくりして買った雑誌だから、すみずみまで読んでいた。
それでも長岡鉄男氏の書かれたものは、必ず読むというわけではなくなってきた。

ラジオ技術の1997年1月号では、
長岡鉄男氏は、自身のことを「常識人」と書かれている。

この「常識人」をどう受け取るかは、人によって違うのだろうか。
私は、すんなりそうだな、と受けとめた。

私が長岡鉄男氏の書かれたものを読まなくなってきたのは、
結局のところ、長岡鉄男氏は常識人だったから、といえる。

Date: 4月 15th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その35)

私の手元には、長岡鉄男氏の文章が載っているオーディオ雑誌はほとんどない。
それでも数冊はある。

その中の一冊、別冊FM fanの17号(1978年春号)、
特集記事は「プレイヤーはこうあるべきだ マイ・プレイヤーを語る」と
「最新カートリッジ26機種フルテスト」である。
つまりアナログプレーヤーの特集である。

巻頭の、カラーの見開きページには、
江川三郎、大木恵嗣、高城重躬、山中敬三、瀬川冬樹、飯島徹、長岡鉄男、石田善之、
八氏の愛用プレーヤーが紹介されている。

この記事で、長岡鉄男氏は、冒頭にこう書かれている。
     *
 プレイヤー・システムについての考え方も、プレイヤーそのものも、この十年間あまり変わってはいない。基本的には、動くものは丈夫で軽く、それを支えるものは丈夫で重く。そしてトータルバランスを重視するということである。
     *
トータルバランスという単語は、二ページの文章中四回登場する。
見出しにも、「トータルバランスを狙うこと」とある。

もう一冊、ラジオ技術の1997年1月号、
アンケート特集「ケーブルについてこう考える」でも、
長岡鉄男氏はバランスということについて触れられている。
     *
 金があり、あまっている人は別として、一般のユーザーは装置とのバランスで適当なケーブルを使うべきだ。ちなみに筆者の使用ケーブルは、価格的には一般ユーザーの水準をはるかに下回るものである。
     *
まっとうなことを書かれている。
その33)で引用したところにも、
598のスピーカーのアンバランスであることを指摘されているのは、
その流れで考えれば、ごく当り前のことであるわけだが、
ならばなぜ、598のスピーカー全盛のころ、
スピーカーシステムもトータルバランスが重要である、と書かれなかったのか、
そして実際の598のスピーカーのアンバランスさを指摘されなかったのかが、
疑問として残る。

おそらくというか、間違いなく、
長岡鉄男氏はスピーカーシステムもトータルバランスが重要であると考えられていたはずだ。

Date: 4月 5th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その3)

思いついたこととは、オーディオ評論家がオーディオ店店主だったら……である。

オーディオの専門家であるオーディオ評論家。
オーディオ店店主としての知識、経験、知恵などは持ち合わせている。

商売の腕は、人によって違うだろう。
うまくやっていけそうな人、どうにも苦手とする人……、
勝手に想像してみる。

店に客が多く集まっても、モノが売れるとは必ずしもいえないし、
客があまり来ず閑散としているようでも繁盛していることだってある。

想像するに、長岡鉄男氏はオーディオ店店主であっても、繁盛させたのではなかろうか。

私が通っていた熊本市内のオーディオ店の店主が言っていた。
1980年のころだ。

オーディオ評論家でSクラスは長岡鉄男氏ひとり、
Aクラスが菅野沖彦氏と瀬川冬樹氏のふたり、
他の人たちはBクラス、Cクラスにランクされている、と。

このランクづけを行っているのは、そのオーディオ店店主ではなく、
オーディオ業界、もっといえば国内メーカーということだった。
さらにいえば、おそらく営業関係者によるランクづけであろう。

さらにランクによってギャラの違いにまで、具体的な数字を挙げていた。
どこまで事実なのかははっきりしないが、大きくはズレていないはずだ。

そのころの私にとって瀬川先生よりも長岡鉄男氏がランクが上ということがすぐには信じられなかった。
でも、国内メーカーの売れ筋の製品にどれだけの影響力を持っているかということならば、
確かに瀬川先生、菅野先生よりも長岡鉄男氏が上にランクされるのは理解できた。

Date: 4月 5th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その2)

(その1)、(その2)……、と書き続けていくつもりはなかったけれど、
ふと思いついたことがあって、(その2)としている。

以前、オーディオ関係者と話していた。
なぜ、こんなにオーディオ界がひどくなったのか、ということになった。
その人は、まず第一にオーディオ店が挙げられる、といわれた。

仕事柄、全国のオーディオ店のかなりの数、行かれている。
ユーザーのところにも訪問されている。
オーディオ店店主とユーザーとの関係も見てこられている。
音も聴かれている。

そのうえでの発言である。
もちろんすべてのオーディオ店が……、ということではない。
けれどひどいところが多い。

そのことは多くの人が薄々感じていることかもしれない。
私もそう感じていたから、その実感のこもったことばをしっかり受けとめた。

だからといって、ここでオーディオ店批判をしていこうとは考えていない。
オーディオ界を悪くしている販売店もあれば、そうでない販売店もあるし、
良くする方向にもっていこうとしている販売店だってあるに違いない。

それからそれぞれの地域にそれぞれの事情といえることはあろう。
東京の販売店と小さな地方の販売店とでは、ずいぶんと環境は違うし、
それによって事情も違ってくるはず。
一概には語れないところがあるし、ユーザー(客側)からみた評価は、また違う。

私が熊本にいたころ、よく通っていた熊本市内のオーディオ店は、
ここでも書いているように瀬川先生を定期的に招かれていた。

私にとっては、それだけで、いいオーディオ店だった。
けれどステレオサウンドで働くようになって、
そのオーディオ店の業界内での評価(というより評判)を聞いて驚いた。
ひどい評判だったからだ。

このことはよくあることだ。
ユーザーからの評価と業界内での評価は、大きく違っていることが意外に多い、ということだ。
ここでのユーザーとは、販売店の客だけではない、
オーディオ雑誌を読んでいる人も含めてのことだ。

Date: 4月 4th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その1)

598のスピーカーについて書くことは、
長岡鉄男氏についても書くことになっていく。

昨年末にpost-truthについて、少しだけ書いた。
客観的な事実や真実が重視されない時代を意味する形容詞「ポスト真実」ということだ。

長岡鉄男氏の1980年代のやりかた、
つまりスピーカー、アンプを構成するパーツの重量をはかることは、
客観的な事実を書いているわけである。

音の表現。
長岡鉄男氏が、反応の速い音と感じたとしても、
すべての人が反応が速い音と感じると限らない。
感覚量であるからだ。

それは冷たい音、暖かい音といった音の温度感についてもいえる。
ある人が冷たい音と感じても、別の人はそうは感じないことはたびたびある。

こんな例は挙げきれないほどある。
一方、アンプのツマミの重量、ウーファーユニットのマグネットの重量は、
すべての人に対して客観的事実である。
重い、軽いは人によって違ってこようが、
ツマミの重量がこれだけ、マグネットの重量はこれだけ、というのは、
すべての人にとって同じであり、人によって500gが600gになるということは絶対にない。

オーディオにおける客観的な事実といえることといえば、
実のところ、こういったことぐらいである。

客観的な事実の提示、といえば、確かに長岡鉄男氏はそういうことになる。
その意味では、客観的な事実や真実が重視されない時代を意味する形容詞「ポスト真実」ではない。
けれど……、と考えてしまう。

ツマミやマグネットの重量、
他の個所に関しても重量が、音は無関係だとはいわない。
確かに関係はある。

しかも何度も書くが、重量は誰にとっても同じであり、客観的な事実ではある。
が、それは重視されること、それも他の要素よりも重視されることだろうか。

飛躍しているといわれそうだが、
長岡鉄男氏の、このやり方は、本人は意識されていなかったであろうが、
post-truthの先どりだったのではないだろうか。
そんな気がしている。

Date: 4月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その34)

ここで何度か、長岡鉄男氏の書かれたものはほとんど読んでない、と書いている。
たしかに「ほとんど」読んでいない、といえる。

けれどまったく読んでいなかったわけではない。
ステレオサウンド編集部には、当時は別冊FM fan、FM fanは送られてきた。
他のFM誌、オーディオ雑誌はどうだったかは、よく憶えていないが、
編集部が書店で購入していたのは無線と実験とラジオ技術くらいだった。
ステレオも届いていたようには記憶している。

編集部に新刊が届けば、やはり読む。
すべての記事をじっくり読むわけではないが、ページを開かない、ということはない。
開けば目を通す。

長岡鉄男氏の文章を、じっくりとは読んでいない。

つまり長岡鉄男氏は、こういうことを書かれていたはずだけど、
どの雑誌の、どの号に書かれていたか、
それらを記憶するほどには読んでいなかった。

その意味で、私は「ほとんど」読んでいない、としている。

そんな読み方しかしてこなかった私の記憶では、
598のスピーカーの重量が増していった一因は、長岡鉄男氏が煽られていたからだ、という印象があった。

とはいえ、そんな読み方しかしてこなかったから、
どこに書かれていたかまでは、どんな書き方をされていたかまでははっきりとしなかった。

facebookに、当時の598のスピーカーの、長岡鉄男氏の紹介記事をアップしてくれた人がいる。
デンオンのSC-R88とパイオニアのS701で、どちらも1986年のFM fanに載っている。

Date: 3月 28th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その33)

598のスピーカーの重量が増していったのは、
それもバランスを崩してまで増していったのには、
長岡鉄男氏の影響があったためだ、と私は受けとめている。

長岡鉄男氏は、ある時期から重量を量られていた。
そのこと自体には、長岡鉄男氏なりの考えが背景にあったためだろうが、
このことが598のスピーカーの重量化をエスカレートさせていったのは間違いない。

いま、1980年代の598のスピーカーのことを書いていて、
やはり気になるのは、長岡鉄男氏が、当時をふり返って何か書かれているのだろうか、である。

私は長岡鉄男氏の文章は、ほとんどといって読んでいない。
本も持っていない。

大きな図書館に行き、昔のFM誌、オーディオ雑誌を丹念に調べていけばいいこなのだが、
どこかめんどうだなと思う気持が強かった。

すこし前に、長岡鉄男氏の文章の一部をコピーして送ってくださった方がいた。
1993年に音楽之友社から出た「長岡鉄男の日本オーディオ史 1950〜82」掲載の一文である。
     *
 80年代に入って59800円のハイCP機が続々登場、世にいう「598戦争」である。当初20kgぐらいからスタートした598スピーカーはやがて重量競争に入り、最終的には鉛や人造石まで入って35kgに達した。鉛や人造石といってもコストはユニット一本ぐらいかかってしまうのでコストアップは免れない。ウーファーも30cmからスタートして、30・5cm、31cm、31・5cm、32cm、33cmと少しずつ大型化、また素材競争で高剛性化が進んだため、こーんの思い大口径ウーファーをドライブするには144φ×20mmもの大型マグネットが必要になり、これを支えるフレームは10mm厚、15mm厚、20mm厚と強力になり、正気の沙汰とは思えない無茶苦茶な競争になった。十万円のものを六万円で売るような激安合戦、新宿のカメラ屋なみである。これで音がよければいうことはなしだが、大口径化、高剛性化でバランスを失い、低音不足、ハイ上がりの硬質な音になってしまった。容積からすると25cmウーファー向きのキャビネットに30cm以上のウーファーを取付けたので理論的にも低音は出にくいのである。コスト面では完全な赤字、音質面ではユーザーの好みから離れ、87年を頂点に多くのメーカーは598スピーカーから手を引く。終わってみれば勝者なき戦いだったのだ。僕はビクターSX−511(¥59800)のユニットを使って大型フロアタイプを作ったことがあるが、ユニットだけ買っても六万円はする程の豪華なものだった。
     *
見出しには、熾烈な「598」戦争、とある。
書き写していて、意外な感じがした。

598のスピーカーのアンバランスさを、指摘されていることにだ。
1980年代後半の598のスピーカーのアンバランスぶりは,すごかった(というよりひどかった)。

確かに当時の598のスピーカーにかけられたコストは、もっと上のランクと同等だった。
その意味ではハイコストパフォーマンスとはいえるのかもしれないが、
オーディオ機器は、スピーカーに限らず、音である。

肝心の音までもがアンバランスで、ハイCP機といえるだろうか。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その32)

私がいたころのステレオサウンドは、598のスピーカーに対して、肯定的とはいえなかった。
そのことはいまでも間違っていなかったと思うが、それだけではだめだったという反省が、いまはある。

598のスピーカーの新製品が出れば、試聴室で鳴らす。
そこで鳴らすのは、当時リファレンス機器として使っていたアキュフェーズのセパレートアンプ、
CDプレーヤーはソニーであったりアキュフェーズであったりしたが、
アンプにしてもCDプレーヤーにしても、スピーカー単体の価格の軽く十倍以上するモノばかり。

新製品紹介の記事は、その製品のお披露目の場であるわけだから、
可能な限り良く鳴らした状態で、ということがあった。
これはいまでも間違っていない、と思う。

だがこれだけでは定期刊行物のオーディオ雑誌としては、不十分である。
598のスピーカーに肯定的でなかったステレオサウンドだから、
実際に598のスピーカーがユーザーのところにおさまったとき、
どう鳴らされているのかを取材しておくべきだった、と、この項を書きながら反省している。

ステレオサウンド試聴室と598のスピーカーのユーザーのリスニングルームとでは、
ずいぶん条件は違っているはず。
アンプもCDプレーヤーも、セッティング、チューニングのレベルも、それから鳴らす音量も違う。

当時の598のスピーカーを選んだ人たちが、どういう理由で選んだのか、
それすらも知らなかったし、知ろうともしなかった。

別のオーディオ雑誌(別冊FM fanなど)にまかせておけばいい、という空気があった。
いま考えているのは、なぜそういう空気がうまれたのか、を含めて、
どうするのが正しい編集だったのか、である。

Date: 4月 23rd, 2016
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(性能の重複だったのか)

1980年代の中頃からの、598と呼ばれる国産スピーカーシステムは、
性能の重複化であったように捉えることができる。

Date: 5月 24th, 2015
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その31)

ステレオサウンド 52号にJBL#4343研究の第二回が載っている。
瀬川先生による、プリメインアンプで4343はどこまで実力を発揮できる、という内容だ。

52号は1979年9月に出ているから、
598のスピーカー・ブームの数年前である。

この記事では、八機種のプリメインアンプが用意されている。
もっとも高価なモデルはマランツのPm8で250000円、
いちばん安いモデルはテクニクスのSU-V6で59800円。
1979年当時、4343WXは一本58万円だった。

598のスピーカーの約10倍であるから、
ここでのスピーカー対プリメインアンプの価格比をそのまま598のスピーカーにあてはめれば、
6000円から25000円ほどのプリメインアンプということになる。
現実には、2万円台のプリメインアンプはいくつかあったが、1万円を切るモデルは存在しなかったし、
価格比をすべての価格帯にあてはめることには無理がある。

ステレオサウンド 52号の記事中に瀬川先生は、こう書かれている。
     *
 これだけ日本国中にひろがった♯4343ではあるが、いろいろな場所で聴いてみて、それぞれに少なくとも最低水準の音は鳴っている。従来のこのタイプのスピーカーからみると、よほど間違った鳴らし方さえしなければ、それほどひどい音は出さない。これは後述することだが、アンプその他のパーツがかなりローコストのものでも、それらのクォリティの低さをスピーカーの方でカバーしてくれる包容力が大きいからだろう。
     *
4343には包容力がある。
ここがブームになった598のスピーカーシステムと大きく違うところである。

価格が違う、ユニット構成が違う、大きさが違う、国が違う……、
そういった違い以上に、包容力の違いは、組合せ(特にアンプの選択)において重要なこととなる。

Date: 5月 24th, 2015
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その30)

いまはどうなのかは知らないが、
昔は価格的にバランスのとれた組合せということは、次のようなものだった。

スピーカーシステムの価格が一本59800円だとする。
約60000円だとして、アンプ(ここではプリメインアンプ)にもほぼ同額、
アナログプレーヤーにもほぼ同額ということだった。

つまりスピーカーは二本必要だから、60000×4=240000円が、
価格的にバランスのとれたといえる、ひとつの基準であった。

これがセパレートアンプを使うようなスピーカーシステムのグレードになってくると、すこし違ってくる。
スピーカーシステムの価格が一本50万円であれば、
コントロールアンプに50万円、パワーアンプに50万円、
アナログプレーヤー(カートリッジも含めて)に50万円、
つまりトータルで250万円くらいまでは、価格的にバランスがとれているとみなされていた。

もちろんここでもアンプにかける費用をスピーカーシステムと同額、
つまりコントロールアンプ、パワーアンプの合計が50万円というのもあった。

実際にはあくまでも目安であり、
予算的にはつねに制限があるものだから、
スピーカーに比重がおかれたり、
アナログプレーヤーが少し犠牲になったり、
予算内でのやりくりはもちろんあるわけだが、
59800円のスピーカーシステムを鳴らすのに、ペアで数十万円のセパレートアンプをもってくるのは、
あきらかに価格的にアンバランスな組合せとなる。

スピーカーシステムよりもアンプ、アナログプレーヤーのクォリティが高ければ、
それだけスピーカーはよく鳴ってくれる。
それでも59800円のスピーカーに対しては、
59800円から10万円くらいまでのプリメインアンプが選択肢となる。

だが1980年代半ば以降ブームとなった598のスピーカーシステムは、
同価格帯のプリメインアンプでうまく鳴ったという記憶がない。