Archive for category Herbert von Karajan

Date: 3月 16th, 2012
Cate: Herbert von Karajan

プロフェッショナルの姿をおもう(その5)

カラヤンは、帝王と呼ばれていたこともあった指揮者である。
クラシックの指揮者とは思えないほど知名度も高く、
おそらくクラシック界の中でもっとも商業的にも成功したひとりのいえるはず。

そのころのカラヤンと、1988年に来日したときのカラヤンは、
カラヤンという人物は世界に一人しかいないわけだから、その意味では同じカラヤンであっても、
プロフェッショナルとしてのカラヤンは、同じなのだろうか、と考えてしまう。

プロフェッショナルとは、どういう人のことをいうのだろうか。
プロフェッショナル(professional)には、それを職業としている人を指してもいるし、
それの専門家という意味も同時にある。
だが資本主義(いや商業主義)の世の中では、
そのことでお金を稼いでいる人、ということのほうが強いのではないか、と思うことが多い。

となると、ふたりの同じ分野のプロフェッショナルがいたとして、
どちらがよりプロフェッショナルかということになると、
どちらがより稼いでいるか、ということが、もっともわかりやすい判断基準となってしまう。

カラヤンも資本主義(商業主義)の中で生きてきた指揮者である。
カラヤンは、クラシック界の商業主義の頂点に一時期立っていたことはまちがいない。
だからこそ、帝王と呼ばれたのではないだろうか。

こういうプロフェッショナルの姿は、とにかくわかりやすい。
だからクラシックに興味のない人でも、カラヤンの名前は知っている。
それだけに、カラヤンの音楽とは関係のないところでの批判もときとして浴びることにもなっていた。

そんなカラヤンを、特に否定する気はない。
ただ、言いたいのは、そういうプロフェッショナルとしてのカラヤンがいたのは、
事実であるこということだけである。

1988年日本公演の、ひとりで歩けないカラヤンは、帝王と呼ばれていたころのカラヤンとは別人のようでもあった。
誰も──カラヤンに対して批判的な人であっても──
あのときのカラヤンの姿を見て、蔑称として帝王と呼ぶ人はいないと思う。
1988年の日本公演でのカラヤンは、
帝王と呼ばれていたころのカラヤンとは違う意味でのプロフェッショナルとしてのカラヤンであったように思う。

だから、いまオーディオのプロフェッショナルについておもうとき、
1988年日本公演でのカラヤンを思い出してしまうようだ。

Date: 2月 2nd, 2012
Cate: Herbert von Karajan

プロフェッショナルの姿をおもう(その4)

カラヤンは、脊椎の持病があって、何度も手術を受けていた、ときいている。
1988年の来日公演で、ひとりで歩けなかった理由も、この脊椎によるものだろう。
カラヤンの病状の詳しいことは知らないし、このときのカラヤンの体がどうであったのかもわからない。
ただ、カラヤンの姿を見て、勝手にあれこれ思っているだけのことにすぎないのだが、
おそらくそうとうな痛みもあったのではなかろうか。
カラヤンを見ていて、そう感じていた。

カラヤンは1978年に、リハーサル中に指揮台から落ちている。
そういったことのあったカラヤンが、ひとりで歩けない体で指揮台に立つことは、怖くなかったのか。
また指揮台から落ちてしまう危険性は、健康なときの何倍も高いものだし、
落ちたときの体が受けるダメージもずっと大きなものになることは容易に想像できる。

カラヤンがそういう状態・状況だということはベルリン・フィルのメンバーたちはよく知っていたはず。
「展覧会の絵」で音を外してしまったのも、理由として関係していると思う。

カラヤンとベルリン・フィルの関係は、1983年のザビーネ・マイヤーの入団をめぐって対立し、
この軋轢は日本でも報道されていた。ドイツではかなり報道されていたようだ。

そんな関係になってしまったカラヤンとベルリン・フィル。
それがその後、修復されていったのか、そうでなかったのか(結局ザビーネ・マイヤーは入団しなかった)。
ほんとうのところは当事者だけが知るところなのだが、
すくなくとも1988年の日本公演においては、両者の関係に関する問題はなかった、と思う。

むしろ、1981年の来日公演のときにはなかった、カラヤンとベルリン・フィルの関係があったような気もする。
だからこそ、ベートーヴェンの交響曲第4番と「展覧会の絵」とで、響きの音色が変えてしまえたのだろうし、
「展覧会の絵」冒頭でのミスが起ってしまった──、そうではないだろうか。

Date: 2月 1st, 2012
Cate: Herbert von Karajan

プロフェッショナルの姿をおもう(その3)

このときのカラヤン/ベルリン・フィルの公演はテレビでも放映されたようであるから、
ご覧になった方も多いと思う。
私が行った日もテレビで放映されたらしい。

「展覧会の絵」の出だしのトランペットが、音を外した。
ベルリン・フィルのトランペットが音を外した。
(この1988年の日本公演はすべて数年前にCDとして出ているが、この部分はデジタル処理で処理されている。)

唇が乾いていたりすると音を外しやすいのがトランペットだときいている。
そのせいだったのかもしれない。
けれど、そんなことはささいなことでトランペットにつづく響きを聴いて、心底驚いた。

休憩前に聴いたベートーヴェンとは、響きそのものが変っていた。
それこそ、休憩時間の間にベルリン・フィルのメンバーがまるごと入れ替ってしまったかのような、
それほどの響きの変化であった。
同じカラヤンの指揮で、同じベルリン・フィルなのに、20分ほど前に聴いた響きとは違う響きが鳴っていた。

こんな芸当はベルリン・フィルだからこそ、できるのだろう。
ウィーン・フィルではウィーン・フィルの音色が濃いから、こうはいかない、と思う。
ほかの指揮者でも、こうはいかない、と思う。
(だから、この日のCDは、ベートーヴェンの4番と「展覧会の絵」とでは、
響きが驚くほど違ってい鳴り響かなければ十全な再生とはいえないのだが……)

「展覧会の絵」のときも、ベートーヴェンのときと同じで、カラヤンはひとりでは歩けない。
なのに指揮台の上では、そんなことは微塵も感じさせない。
音楽にも、当り前のことだが、まったく感じさせない。

このとき、カラヤンを凄い、と思っていた。
五味先生の影響から、カラヤンに対しては幾分否定的なところがないわけではない。
それでも、この日のカラヤンは、そんなことは関係ない。
この日感じた凄さは、もっとずっと後になってきて、その重さが増してきている。

Date: 1月 31st, 2012
Cate: Herbert von Karajan

プロフェッショナルの姿をおもう(その2)

ひとりで歩けないカラヤンをみていると、どうしてもひとりで立っていられるようには思えない。
立てたとしても指揮台後方のパイプにもたれかからないと無理なのではないか……、
そんなことを考えながらカラヤンが指揮台にたどり着くのを見ていた。

カラヤンは立っていた。ひとりで立っていた。何の助けもなく指揮をはじめた。
ついさきほどまでの、あの姿はいったい何だったのだろうか、
もしかして芝居だったのか……、カラヤンのことだからそんなことはない。

椅子に坐って指揮、という選択もあったのかもしれない。
カラヤンの歩き方をみていると、立っているのが不思議でしかない。
なのに指揮ぶりは、指揮しているカラヤンだけを見た人は、
指揮台にたどり着くまでのカラヤンの姿は絶対に想像できない。

ベートーヴェンの交響曲第4番だから、演奏時間はそれほど長くはない。
それでも、このときのカラヤンの体調からしたら、第4交響曲を演奏しおえる時間は、
そうとうにしんどい時間ではなかったのだろうか。

響いてきたベートーヴェンの第4番は、
7年前に同じ東京文化会館で聴いたベートーヴェンの第5番とははっきりと違っていた。
同じベルリン・フィルであっても響きそのものが違うように感じた。
7年のあいだにベルリン・フィルの楽団員の入れ替えの多少はあったのかもしれないけれど、
ベルリン・フィルはベルリン・フィルである。そのことによって大きく変化することはない。

なのにカラヤンの指揮するベルリン・フィルは、
こんな響きだったのか、と──7年前とは坐っている席は違う、今回はS席だったが──、そんな違いではない。
ベルリン・フィルが、というよりも、カラヤンが変っていたように感じていた。

演奏がおわり引き上げるときも、ひとりでは無理でおつきの人が支えて、だった。
休憩時間がすぎ、「展覧会の絵」がはじまる。

Date: 1月 30th, 2012
Cate: Herbert von Karajan

プロフェッショナルの姿をおもう(その1)

最近、なぜかよくカラヤンの姿を思い出す。
1988年、カラヤン最後の来日となった公演でのカラヤンの姿を、今年になって何度も思い返している。

カラヤンの助言も参考にされたサントリーホールが完成したのは1986年。
こけら落としはカラヤンだったが、結局は小澤征爾が代役となった。
そんなことがあったので、
1988年、ベルリン・フィルとの来日は、これがカラヤンを見れる最後の機会かもしれない、と思い、
音楽評論家の諸石幸生さんに無理をいってチケットを一枚譲っていただいた。
東京文化会館での公演だった。

カラヤンの公演に行くのは、このときが2回目だった。
最初は1981年の、やはりベルリン・フィルとの来日のときだった。
まだ学生でふところにまったく余裕がなかったから、なんとかA席かB席のチケットを買って行った。
ベートーヴェンの交響曲第5番とヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリンはアンネ=ゾフィー・ムター)。
このときのカラヤンは颯爽としていた。

1988年は、ベートーヴェンの交響曲第4番とムソルグスキーの「展覧会の絵」。
1986年の来日をキャンセルにしたカラヤンだから、それに最後の来日なるかもしれない、と思っていたから、
1981年のカラヤンとは変っていることは承知しているつもりだったが、
ステージ脇から出てきたカラヤンの姿は、その予想をこえる衰えぶりだった。

ひとりで歩けない。
横のおつきの人がカラヤンを支えながら、いまにも倒れそうな足どりでカラヤンが表われた。
これで指揮ができるのか、とそのとき誰もが思っていたのではなかろうか。

プライドの高いはずのカラヤンのことだから、こんな姿を聴衆の前にさらしたくないはずだろうに……、
と思うとともに、
プライドの高いカラヤンだからこそ、人の助けを借りながらも自分の足で登場してきたのかもしれない。

指揮台に目を移すと、そこには一般的な指揮台しかない。
指揮者が後に落ちないようにコの字に曲げたパイプがつけられている、よく見る指揮台で、
そこには椅子はなかった。