Archive for category 長島達夫

Date: 5月 30th, 2015
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(図説・MC型カートリッジの研究)

ステレオサウンドから「MCカートリッジ徹底研究」というムックが発売になっている。

この本の後半は、長島先生の「図説・MC型カートリッジの研究」の再録したものである。
ただ完全な再録ではなく、「ほぼ全ページ」ということらしい。

それでも「図説・MC型カートリッジの研究」の復刊は素直に喜びたい。
でも表紙は「図説・MC型カートリッジの研究」の方が文句なしに素晴らしい。

ラックスのPD121にオルトフォンのMC20、
ヘッドシェルはフィデリティ・リサーチのFR-S/4。
撮影は亀井良雄氏。

まだ読んでいない本についてあれこれいいたくはないが、
「図説・MC型カートリッジの研究」のそのままの復刊であってほしかった。

もっとも「図説・MC型カートリッジの研究」には広告もはいっているから、
そのままの復刊が無理なことは理解しているのだけれど……。

とにかく「MCカートリッジ徹底研究」の価値は、「図説・MC型カートリッジの研究」である。
これだけは古くならない。

Date: 3月 20th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その9)

長島先生による「2016年オーディオの旅」「オーディオ真夏の夜の夢」、
どちらもCD登場以前に書かれている。

「2016年オーディオの旅」が掲載されているステレオサウンド 50号には、
岡先生による、オーディオのこれまでの歩みと、これからの歩み的な記事があり、
そこでDAD(Digital Audio Disc)のことにふれられている。

アナログディスク全盛の時代はしばらく続いていくものだというふうに、
私は勝手に思っていたし、デジタル化されたディスクが登場するのは、
なにかまだ先のことのようにも思っていた。

これは私だけではなかった、とおもう。
ステレオサウンドの読者の多くが、デジタル化されたディスク(CD)が登場して、
プログラムソースのメインとなっていくのは、もう少し先、
短くても5年、もしかすると10年くらいかかるものだと漠然と思われていたのではないだろうか。

実際には、そんな根拠のない予想よりもずっとはやかった。
ステレオサウンド 50号は1979年3月に出ているから、
3年半後にCDは世に出てきた。
このはやさも、CD登場に対して、
ある種のアレルギー的な反応を示された方が少なくなかったことにも関係しているのではないだろうか。
単に音だけのことではなかったようにも、いまは思う。

まだまだそんな時代だったときに、長島先生はCDによるデジタル化の先を書かれている。
当然、長島先生も、あと数年でCDが登場することはわかっていたうえで、
CDの次を予測されていたことになる。

その予測が固体メモリーであり、光ファイバーによる配信は、さらにその次の段階ともいえよう。

そして、電子書籍についても書かれている。

Date: 1月 28th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(余談)

スイングジャーナルの「オーディオ真夏の夜の夢」は長島先生だけでなく、及川公生氏も書かれている。
長島先生の文章だけを読んで、ほかの方の書かれたものに関しては、今日読んだところ。

及川氏が書かれている──、
「オーディオ評論はちっとも進歩しないであい変らず試聴というのをくり返している」と。

もっとも及川氏は、この先がいまの試聴とは異っている未来を予測されている。
自宅のマイコン(この記事が載った1981年はパソコンではなくマイコンという言葉が一般的だった)の子機を使う。
いわば自宅にMacがあって、iPadを試聴室で取り出して使うようなものだ。
それでマイコンの子機に試聴するオーディオ機器の特性を入力、
さらに試聴室のアクースティック特性も入力後、その日の自分の体調も要素として加えて……、というふうに続く。

そういえば長島先生がステレオサウンド 50号に書かれた「2016年オーディオの旅」で、
未来の本についての記述はあったものの、2016年のオーディオの本がどうなっているかについては、
なにも書かれていなかった。

長島先生も、おそらくいつの時代になってもオーディオ機器の試聴は、
人が試聴室まで出向き、そこで鳴っている音を聴いて判断する、という昔からのやり方はまったく変らない、
と思われていたのだろう。

優秀なマイクロフォンが登場し、高速のデータ通信網があって、
試聴室で鳴っている音をマイクロフォンでピックアップして、
試聴する人たちのリスニングルームへ伝搬し、それぞれのシステムの特性も補正して試聴してもらう、
こんなことは技術的には決して不可能ではないけれど、
これからも先も試聴風景は変っていかない、とおもう。

変っていかないのであれば、あえて未来の予測に書くこともない。
長島先生が「2016年オーディオの旅」「オーディオ真夏の夜の夢」で、
未来のオーディオ雑誌についてふれられなかったのは、だから当然のことといえよう。

Date: 1月 19th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その8)

「オーディオ真夏の夜の夢」もステレオサウンド 50号の「2016年オーディオの旅」同様、
未来の世界にタイムスリップした現代のオーディオマニアの視線から描かれている。

こんな書き出しではじまっている。
     *
あるオーディオ・ファイルという人の家に行き、そこで一番驚いたのは、オーディオ・システムらしきものはあるものの、レコードが1枚も無いことでした。多少スタイルが違っているとは思っていたのですが、1枚も無いとは。そこでその彼に聞くと次のように言うのです。「君達はレコードを買っていただろうけど、それはレコードの中味、つまり音楽を買っていたはずだ。だから聴きたいときに聴きたい音楽が聴ければ何も生活空間を犠牲にしてまで膨大なレコードを持ち込む必要はない。
     *
長島先生が書かれている、このことがどういうことなのかは、
続きを書かなくても、いま(2013年)のオーディオマニアならば容易に想像がつくことだ。

長島先生はレコード会社がマスターとなるソースを所有していて、
それを聴き手のリクエストに応じて、
光ファイバーの利用して提供するというシステムを、1981年の時点ですでに予測されている。
そのためには家庭にコンピューターが当然のモノとしてある、ということもについても、同じである。

「2016年オーディオの旅」では、レコードはLPやCDのようなディスクではなく、
固体メモリーを利用したレコードパックと呼ばれるものを、
タイプライター状のプレーヤーにセットするというものだった。
これが2年後には、光ファイバーによるインターネットという予測の変更をされている。

これに、私は驚いたわけである。

Date: 1月 17th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その7)

「2016年オーディオの旅」的な文章を、長島先生が書かれたのは、
他にはない、とずっと思っていた。
すくなくともステレオサウンドには載っていなかった。
だから、ないものと思い込んでいた。

けれどスイングジャーナルの1981年9月号にも載っていたことを、つい先日知った。
なにもスイングジャーナル1981年9月号を手に入れたのが、つい先日というわけでもない。
1年以上前から手もとにはあった。
あったけれど、読み返していたのは岩崎先生、瀬川先生の文章が読めるスイングジャーナルであって、
そうでないスイングジャーナルは積んだままになっていた。

いま、もうひとつのブログ、the Review (in the past)の作業を行っている最中で、
数ヵ月先に大きく更新する予定なのだが、
そのための作業中に1981年9月号を手にして、ぱらぱらとめくっていて気がついたわけである。

「オーディオ真夏の夜の夢」という記事で、
長島先生のほかにも石田善之、及川公生、斎藤広嗣、落合萠の四氏も書かれている。

ページ数はひとりあたり見開き2ページ。
ステレオサウンド 50号の「2016年オーディオの旅」は扉をふくめて16ページ。
読みごたえということでは、ステレオサウンドのほうが上である。
でも、スイングジャーナル1981年9月号の「オーディオ真夏の夜の夢」に書かれていることは、
いまのオーディオ、これからのオーディオをかなり正確に描かれているだけに、驚きは大きい。

もっとも「2016年オーディオの旅」を読んだときと「オーディオ真夏の夢」を読むまでには、
30年以上が経っている。だから感じ方も違って当然なのだが、
それでも「オーディオ真夏の夜の夢」は、じつにおもしろい。

Date: 1月 17th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その6)

ステレオサウンド 50号は、創刊50号記念特集号だった。

巻頭特別座談会として「ステレオサウンド誌50年の歩みからオーディオの世界をふりかえる」と題して、
井上卓也、岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹、山中敬三の五氏による座談会を筆頭に、
旧製品のState of the Art賞など、いくつもの記念特集が載っている。

そのなかに「オーディオファンタジー 2016年オーディオの旅」という記事がある。
副題には、本誌創刊200号、とついている。
長島先生が書かれている。

小説仕立てのこの記事は、長島先生による未来のオーディオの予測でもあり、
長島先生によるオーディオへの、こうあってほしいという希望でもある、この記事では、
主人公がある朝目覚めると2016年にタイムスリップしているところから始まる。

ステレオサウンド 50号は1979年3月に出ている。
37年後の世界を描かれている。
いまは2013年、もう3年後に迫っている。

ここに書かれたことで、現実のほうが進んでいることもあるし、
そうでないこと、まったくそうでないことがある。

当時高校生だった私は、2016年は遠い未来のことにおもえていた。
だから2016年に自分がいくつになっているかなんて、想像もしなかった。
けれど長島先生の「2016年オーディオの旅」は何度か読み返した。
おもしろかったし、あれこれ刺戟されるものも多かった。

ステレオサウンドにはいり実感したのは、
「2016年オーディオの旅」を書けるのは、長島先生だからこそ、ということだった。
長島先生の「豊富で貴重な雑学」があればこその記事である。

Date: 1月 13th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その5)

長島先生は1998年6月5日に心不全で亡くなられている。
その約1週間後にステレオサウンド 127号で出ている。
この127号に掲載されている菅野先生の「レコード演奏家訪問」に、長島先生は登場されている。

128号に「長島達夫先生の悼む」が載っている。
菅野先生と柳沢氏が書かれている。

読み返していた。
いろんなことをおもいだしていた。
おふたりの追悼文は、当時読んだ時いじょうに胸に沁みる。

柳沢氏が中島先生の人柄を示すエピソードとして、このようなことを書かれている。
     *
長島さんとの付き合いは長い。ぼくがまだデザイン学生だったころ、グループ制作で小型の魚群探知機をテーマにしたとき、学校にはあまり来なかったがまだ籍だけあった、故・瀬川冬樹氏が「エレキとメカの雑学に強い奴がいる」と言って紹介してくれたのが長島さんだった。その付き合いから山中敬三さんとも知り合うことになるのだが、みな他界されてしまった。
瀬川さんが「エレキとメカに強い奴」と言わず「……の雑学に」と言ったのは当を得ていて、結局、魚群探知機でも長島さんから具体的な知識は得られなかったが、やたら何でも知っているおもしろい人だと感心した。
     *
ほんとうにそのとおりであって、柳沢氏はさらに
「何事にも旺盛な興味を示す人」
「長島さんの豊富で貴重な雑学が、試聴方法や測定方法に斬新なアイデアを生み、本誌のアイデンティティの確立をバックアップした」
「長島さんの貴重な雑学が、急成長期の日本のオーディオにさまざまな形で貢献してきた」
とも書かれている。

長島先生と付き合いのあった方ならば、誰しも頷かれることである。

Date: 1月 9th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(CDプレーヤーのサーボのこと)

CDプレーヤーはサーボ回路を停止させてしまうと、
まったく機能しなくなる。音の出なくなる。
このへんが同じデジタル機器でもDATとの違いがある。

DATではサーボ回路を停止しても、すぐには音が出なくなるわけではない。
CDとDATでは16ビットというところは同じだが、サンプリング周波数は44.1kHzと48kHzという違いがある。
この違いが、CDとDATの音の違いに大きく影響している、というよりも、
サーボ回路なしでもほんのわずかとはいえ音を出すことが可能なDATと
サーボ回路なしではまったく音を出すことのできないCDでは、
信号読みとりの安定度に根本的な違いがある、ともいえる。

そんなCDプレーヤーだから、
サーボ回路とその電源部(アースを含めて)が重要となることは容易に想像がつくわけだが、
CDプレーヤーが登場したころ、よくいわれたいわゆるデジタル臭さがどこに起因しているのか、
それを音楽信号と相関性のないサーボ回路電流の変動によるノイズの発生にある、と指摘されたのは、
1980年代後半、ラジオ技術誌において、富田嘉和氏であった。

ここで見落してならないのは、音楽信号と「相関性がない」ノイズが発生している、ということである。
慧眼とは、こういことをいうのだと思ったことを、いまでも憶えている。

Date: 1月 9th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その4)

つまりはディスクの偏芯の問題である。
CDだけでなく、アナログディスクでも偏芯の問題はあり、
ナカミチのTX1000は、この偏芯の度合いを検知して補正するメカニズムを搭載していた。

CDでもアナログディスクでもディスクの中心とスピンドルの中心がぴったり一致していれば、
こんな問題は発生しないわけだが、実際にはどちらにも誤差があって、
そのわずかな誤差があるからこそすっとディスクの中心穴をスピンドルにいれることができるわけだが、
この誤差が音質上問題になることがある。

アナログディスクであれば、偏芯が多いな、と感じたら、すぐにカートリッジを持ち上げて、
ディスクをセットし直せる。
使い馴れたアナログプレーヤーであれば、
自然と偏芯がそれほど大きくならないようにディスクをセットできるようになるものである。
また、そういうふうになれるプレーヤーは、よく出来たプレーヤーともいえる。

ところがCDプレーヤー、それもトレイ式ではトレイにCDを置くまでしか管理できない。
トレイとともにCDがCDプレーヤーに取り込まれてからは手をくだすことはできないわけである。
だからトレイを一度引き出して、もう一度、ということをやることになってしまう。

ほんとうは、こんなことで音が変るのはなくなってほしい、と思っている。
思っていても、現実にはこんなことで音が変化する。
それも使い手が管理てきないところで音が変るわけである。

このディスクの偏芯の問題は、
CDプレーヤーならばクランプの仕方(メカニズムの精度を含めて)と
サーボのかけ方(回路を含めて)を検討することで、そうとうなところまで解消できる。

でも、私がCDの内周と外周の音のニュアンスの違いに気づいた1980年代半ばすぎでは、
まだまだ問題点を残したままだった。

Date: 1月 9th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その3)

CDがCDプレーヤーのなかでどういうふうにクランプされているのか、
その状態、それも実際に回転している状態を把握していれば、
CDの内周と外周とで音のニュアンスに変化が生じる理由はすぐに推測できる。

CDプレーヤーのトレイにCDを乗せてPLAYボタンを押す。
音を聴く。そしていちどトレイを引き出す。
このときディスクには手を触れずに、またPLAYボタンを押せば、トレイは引っ込み再び音が出る。

最初の音と二度目の音には、少なからず違いが出ることが、以前は多かった。
こんなことを書くと、またオカルト的なことを書いている、と、
実際に自分のCDプレーヤーで確認すらせずに、いきなり否定する人がいよう。

このCDの問題点を真っ先に指摘されたのは井上先生だった。
かなり早い時期から指摘されていて、
最初何も言わずに、ステレオサウンドの試聴室でこれをやられた。

音が変るぞ、といったことは何も言われずに、
ただ「聴いてみろ」といって、この実験をされた。

たしかに音に違いが出る。たいていの場合二度目のほうが音の拡がりがスーッときれいに出ることが多い。
一度目がいいこともあり、その場合は二度目の音はむしろすこし悪くなる方向に変化する。

これはディスクのクランプの状態がその都度変化しているためであって、
それによるサーボの掛かり方に変化が生じ、音の変化となって聴きとれるわけである。

Date: 1月 6th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その2)

そのころよく聴いていた内田光子のCDで、そのことに気がついた。
内周ではこまかなニュアンスがよく再現されるのに、
外周(ディスクの終り)ではニュアンスの再現があまくなってしまう。
つるんとした表情のピアノの音になる。

ほかのディスクでも同じ傾向の音の変化をみせる。
こうなると、もう気のせいではなく、あきらかに音が変っているわけだ。

実はこのことをステレオサウンドにいたとき編集後記に書いた。
原稿には「内周のほうが、こまかいニュアンスがはっきりききとれる」と書いたけれど、
活字になったときには「はっきりききとれるような気がする」と書き換えられてしまった。

CDは内周でも外周でも音は変らない、ということがまだ信じられていたのだから、
はっきりと断言したかったのだが、
結局「はっきりききとれるような気がする」というおかしな表現のまま載ってしまった。

長島先生は、その私の編集後記を読んでくださっていた。
その編集後記が掲載された号が出てしばらくして長島先生がステレオサウンドに来られたときに、
「なぜ、CDは内周と外周で音が変る(内周のほうが音がいい)と思う?」ときかれた。

長島先生も、CDのその問題点に気づかれていていた。

Date: 1月 6th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その1)

CDが登場したときに期待したのは、
ディスクの内周と外周とで音の変化がない、ということだった。

LPだと角速度一定なため外周と内周とでは線速度に違いが出てきて、
しかもそればかりが原因ではないのだが、外周の溝のほうが内周よりも音がいい。
これは円盤状であるかぎり、LPでは解消できない問題点でもあった。

それがCDになれば線速度一定だからLPのような問題は原理的にも発生しない。
アナログからデジタルになったことへの問題を認識していてもなお、
外周と内周で音の違いが起り得るわけがない、
ということはCD(デジタル)ならではのメリットだと私は受けとめていた。

ディスクの最初から最後まで音質が変化しないで聴ける──、
そう期待していたし、そう思い込んでもいた。
けれど、自分のシステムでCDを聴いていると、
ステレオサウンドの試聴室では気づかなかったことがあることがわかった。

残念なことにCDでも内周と外周において音の違いが発生する、ということに気がついた。

ステレオサウンドの試聴ではCDを一枚最初から最後まで聴くと言うことは、まずない。
試聴ディスクのある一部分をくり返し聴くわけだ。
だからステレオサウンドの試聴室ではなく、自分のシステムで気がついたわけだ。

LPは外周から音楽が始まるのに対し、CDは内周から始まる。
LPでは外周、CDでは内周、どちらも音楽の始まりのほうが音がいい。
なんという皮肉なんだろう、と、そのことに気がついたときに思ったことだ。

Date: 9月 25th, 2011
Cate: BBCモニター, LS3/5A, 長島達夫

BBCモニター考(LS3/5Aのこと・その25)

誤解のないようにもう一度書いておくが、
瀬川先生はQUADのESLを購入されている。シングルで鳴らすときのESLの音の世界に惚れ込まれていたことは、
それまで書かれてきたことからも、はっきりとわかる。
ただそれがダブルスタックになると、「きつい」と感じられる、ということだ。

おそらくESLは、ごく小音量で鳴らされていたのだろう。
そういう鳴らし方をしたときに、真価を発揮するESLが、ダブルスタックにすると一変する、というのは、
ダブルスタックの音に対して肯定的に受けとめられる人たちだ。

山中先生もそのひとりで、長島先生もそうだ。
長島先生はスイングジャーナルで、ダブルスタックの上をいくトリプルスタックを実現されている。

ESLのダブルスタックは香港のマニアの間ではじまった、といわれている。
その香港のマニアの人たちも、トリプルスタックをやった人はいないかもしれない。

しかも長島先生のトリプルスタックは、ただ単に3段重ねにしたわけではなく、
もともとの発想は平面波のESLから疑似的であっても球面波をつくり出したい、ということ。
そのため真横からみると3枚のESLは凹レンズ上に配置されている。

下部のESLは、ESLの通常のセッティングよりもぐっと傾斜をつけて斜め上を向き、
中央のESLはやや前屈みになり、下側のESLとで「く」の字を形成していて、
上部のESLは下部のESLよりさらに倒しこんで斜め下を向くように特註のスタンドは工夫されている。

聴取位置に対して、それぞれのESLの中心が等距離になるように、という意図もそこにはあったと考えられるが、
長島先生の意図は、疑似的球面波をつくり出すことによって、
平面波特有の音に対する長島先生が不満を感じていたところをなんとかしたい、という考えからであって、
このESLのトリプルスタックを実際に試された長島先生だからこそ、ESL63への評価がある、といえる。

Date: 5月 17th, 2010
Cate: 長島達夫
2 msgs

気づいたこと

ステレオサウンド 127号の「レコード演奏家訪問」の記事中の写真で気がついたことがある。
(ステレオサウンドのバックナンバーは、10冊程度しか手もとになかったけれど、
4月末、坂野さんから譲っていただき、目を通しているところ。127号のその中の1冊。)

長島先生が登場されている回で、マイクロのSX8000IIに、SMEの3012-Rがついていることだ。
SX8000IIを導入されたときに、SMEのSeries Vを取りつけておられた。
カートリッジはオルトフォンのSPU-A。
それがリンのArkivIIになっている。
それに合わせてSeries Vから、3012-Rに、トーンアームも変更されたのだろうか。

3012-Rもいいトーンアームだ。私も使っていた。
でも、Series Vは、トーンアームに関して、これ以上のモノは、その前もその後も登場していない、
あえて言うが、最高のトーンアームである。

長島先生の音楽の聴き方、望む音の方向からして、3012-RよりもSeries Vである。
Series Vが、ステレオサウンドの試聴室に届き、そのときの試聴は長島先生だった。

だからはっきりと憶えている、そのとき鳴ってきた音の素晴らしさ、長島先生の昂奮ぶりは。
なのに3012-Rへの変更。カートリッジが変っても、そのぐらいで、3012-Rにされるとも思えない。

なぜなのか。

Date: 9月 12th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その58)

絶対にあり得ないことと、はじめにことわっておくが、もし長島先生が、
バーンスタインよりもインバルのマーラーを高く評価される人だとしたら、
この項の(その50)(その51)に書いた国産パワーアンプを、高く評価されていただろう。

私にしても、インバルのを好む耳(感性)をもっていたとしたら、
その国産パワーアンプの欠点には気がつかずに、「いい音だ」と満足していただろう。

インバルの演奏(音といいかえてもいいと思う)と、その国産パワーアンプの音には共通するものがある。
先に、ピアニシモの音に力がない、と書いたが、これに通じることでは、
音の消え際をつるんとまるめてしまう、そんな印象をも受ける。
それに力がないから、だらっとしている。消えていくより、なくなっていく。

だから、ちょい聴きでは、「きれいな音」だと感じるが、決して「美しい音」とは、私は感じない。
長島先生も、「美しい」とは感じられないはずだ。

この手の音を、「ぬるい」「もどかしい」と感じるところが私には、どうもあるようだ。