必要とされる音(その16)
別項で書いているアルテックのA4の音は、必要とされる音なのか、と自問するのだが、必要となっていく音とはいえるだろう、とは思っている。
別項で書いているアルテックのA4の音は、必要とされる音なのか、と自問するのだが、必要となっていく音とはいえるだろう、とは思っている。
四十年以上、オーディオをやってきていると、ここに来て感じているのは、
オーディオをやり続けていることそのものが幸福なんだ、ということ。
若いころに憧れたスピーカーやアンプを手に入れた、
手に入れたけど、なんらかの事情で手離した、
憧れは憧れのままで終ってしまった、
人それぞれだし、すべての憧れを手に入れた人はわずかなのだろうから、一人の中にもこれらが同居していることだろう。
昔はすごいオーディオ機器、人に自慢できるシステムで聴いていたのに、
いまでは、どんなシステムなのか、誰にも言えない──、
そういうことになっていても、オーディオを続けていることこそが幸福ということに、
いつか気づくはずだ。
好きな音楽を、いまの環境でひとり静かに聴いていけるのであれば、
そこに幸福を感じないのは、オーディオマニアではないのかもしれない。
オーディオをながくやってきて、幸福を求めてなのか、快感を求めてだったか。
若いころは快感を求めてきた人も、自然と幸福を求めるようになってくるように思う。
それでもずっと快感を追い求める人も少なくないようだ。
ソーシャルメディアを眺めていると、そう思う。
幸福を噛みしめることができない人が、世の中にはいる。
今日、ソーシャルメディアを眺めていたら、
roonをやめてAudirvānaに移行する、という投稿があった。
それはそれでいいのだが、roonにケチをつけての移行を、
あえてソーシャルメディアに書いて何になるのか、と思う。
移行したい人は黙ってすればいいのに、なぜ公の場で一方を腐してまで、をするのか。
私はroon、Audirvāna、両方使えばいいじゃないかと考える方だ。
ストリーミングサービスも、TIDALがいい、とか、
いやQobuzがいい、とか、
なにかと白黒つけたがる人がいる。
日本人に多いのか思っていたけれど、
ソーシャルメディアを眺めていると、どうもそうではなさそう。
これらを使うにあたっての料金が相当に高価であれば、
どちらがいいか、いいと判断した方だけに絞るのもありだが、
サービス内容からすれば、むしろ安価と感じるのだから、
両方使えばいいのに──と思う。
両方使うのは優柔不断でカッコ悪いことと、こういう人たちは考えるのか。
(その1)は、このブログを書き始めたころに書いている。
2008年9月に書いているわけだから、ずいぶん経つ。
ここまで書いてきて、ちいさな結論として書いてしまえば、
快感は耳に近い(遠い)か、
幸福は心に近い(遠い)か、だと思うようになった。
耳に近い音を、だからといって否定するつもりはまったくない。
耳に近い音を追い求めてこなかった人が、
すんなり心に近い音を見つけられるとは、私は思っていない。
貪欲に耳に近い音を追い求めて、
それが叶った時の快感を存分に味わっておくべきとも思っている。
けれど快感はいつしか刺戟へと変化していくことだってある。
より強い刺戟を求めるようになっていくかもしれない。
結局、ここでもグレン・グールドのことばを引用しておく。
*
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。
*
自分自身の神性の創造へとつながっていく音こそが、心に近い音なのだろう。
六年前の(その1)で、あるオーディオ業界の人から、
ステレオサウンドから去ったことについて、「負け組だね」といわれたことを書いた。
言った人のことをとやかくいいたいわけでもなし、
悪気があったとも受け止めていない。
その人はステレオサウンドにいまも関っているのだから、
その人的に勝ち組ということなのだろうし、私は負け組ということになる。
勝ち組だと思っている人はどう思うかわからないけれど、
世間一般の評価では「負け組だね」といわれる側の私だけど、
ネルソン・マンデラの、この言葉は、勝ち組と思っていては理解できなかっただろう。
“I never lose. I either win or learn.”
「私は決して負けない。勝つか、学ぶかどちらかだ」
MQAを全否定する人は、きっと白黒つけたがる人なのだろう。
MQAのことだけではない、
何に関しても白黒つけたがる人は、そのことでひとり納得するのだろうか。
納得するほうが、ずっとラクである。
けれど、多くはひとり納得なのではないだろうか。
白黒つけることは、区別をはっきりとつけることであるだけでなく、
片方を全否定することにもつながっていく。
その結果、生じるのが摩擦であり、さらには対立へと変っていく。
摩擦、対立が何を生むと、白黒つけたがる人たちは考えているのだろうか。
考えたくない、考え続けたくない──、
そういう人こそが白黒つけたがる人のように思えてならない。
「必要とされる音」について書いている。
いまの時代に必要とされる音であったり、
いつの時代においても必要とされる音でもある。
そのことについて考えているわけだ。
「音は人なり」と何度も書いている。
そのことをテーマにもしている。
ということは、必要とされる音を出すということは、
必要とされる人でなければならない、ということでもある。
9月のaudio wednesdayでも、タンノイ・コーネッタを鳴らす。
コーネッタが、喫茶茶会記のアルテックよりもいいスピーカーだから、というよりも、
鳴らしたいから、というのが、理由にならない理由である。
喫茶茶会記のアルテックも、古いタイプのスピーカーといえる。
コーネッタもそうだ。
コーナー型で、フロントショートホーン付き。
アルテックよりも、古いといえば、いえなくもない。
そういうスピーカーを、今回もまた鳴らす。
7月に鳴らして、8月も鳴らした。
9月も鳴らすわけだから、三ヵ月続けてのコーネッタである。
鳴らしたいから、は、聴きたいから、でもある。
そして聴きたいから、は、聴いてほしい、ということでもある。
コーネッタの音を、聴いてほしい、と思うのは、
どこか、コーネッタの音を、必要とされる音と感じているからなのかもしれない。
トロフィー屋としか呼べないようなオーディオ店で、
オーディオ機器を購入する──。
そこで扱っているオーディオ機器は、ひじょうに高価なモノばかりで、
ケーブルにしてもひじょうに高価なモノばかりで、
ケーブルなどのアクセサリーを含めたシステム・トータルの価格は、
数千万円はあたりまえで、ときには一億円前後にもなる。
そういう、まさしくトロフィー屋でオーディオ機器を買う、
買える、ということは、優越感を満たしてくれるはず。
まして、そこの常連ともなれば、まさしく優越感がそうとうに満たされることだろう。
そのこと自体を否定するつもりは、さらさらない。
買える人は、どんどん買えばいい。
けれど、どれだけ優越感をえられたとしても、それは幸福とはいえないはずだ。
どこまでいっても、優越感は幸福にはつながらず、快感でしかない。
快感はどれだけ重ねようと、
どれだけエスカレートさせようと、快感でしかない。
快感を幸福と思える人ならば、それでいい。
けれど、そういう人はオーディオマニアではない。
少なくとも五味先生と同じオーディオマニアではない。
まるで別種のオーディオマニアなのかもしれない。
日本人は、特にそうなのかもしれない。
何事にも白黒つけたがる人たちがいる。
こっちがいいに決っている、
あれはダメに決っているだろう、
そんなことにとらわれている人たちである。
最近ではMQAはダメ、と全否定する人がいる。
ここでも白黒つけたがっている、というか、白黒つけている。
なぜ、こうまでも白黒つけたがるのか。
白黒つけることに、快感をおぼえるからではないのか。
自分の下した白黒に賛同してくれる人がいれば、それも快感につながっていく。
賛同者が多いほど、快感は増していくことだろう。
でも、それはどこまでいっても快感でしかない。
快感は慣れてしまうのかもしれない。
だから、より強い快感を求めることになる。
そのために、より過激な白黒をつけていく──。
秋葉原にあるテレオンが、まだテレビ音響だった時代なのか、
それともすでにテレオンになっていたのか、そのへんのところははっきりしないが、
テレオンが、いまのビルではなく、ラジオ会館がどこかのビルで営業していたころの話だ。
当然、そのころ私はまだオーディオマニアではなかったし、
東京に住んでもいなかった。
人から聞いた話だ。
彼も、もちろんオーディオマニアだ。
彼が学生のころに、テレオンのその店にカートリッジを買いに行った。
そのテレオンは、創業者の奥さんと思われる人が仕切っていた。
ショーケースの中には、市販されている大半のカートリッジが並んでいる。
シュアーのV15が欲しい、というと、まず訊かれる。
いまどのカートリッジを使っているのか、
システムの構成、それからどういう音楽を好むのか、聴く音量、
オーディオの知識、キャリアなどを見透かす質問をしてくるそうだ。
それに合格しなければ、希望のカートリッジを売ってくれなかったりする。
「あなたにはまだV15は早すぎる」、
そんなことを言って売ってくれないんだそうだ。
そしてシュアーの安価な、けれどしっかりしたカートリッジを薦めてくれる。
買いたいモノが買えるだけの余裕があって買いに行く。
なのに売ってくれない。
理不尽だ、と思う人もいるけれど、私はそうは思わない。
こういうオーディオ店が昔はあった。
トロフィー屋ではないオーディオ店があった。
いまのテレオンがそうなのかは知らないけれど、そうあってほしい。
ならば、他のオーディオ店に行けばいい、と思う人もいる。
けれど彼は、テレオンでカートリッジを買っている。
「オーディオの対岸にあるもの」とつけた別項がある。
まだ本題に入っていない、タイトルだけともいえる別項なのだが、
私がトロフィー屋としてしか認識できない店も、
オーディオの対岸にあるものだ、と思う。
まだ私自身、オーディオの対岸にあるものが、はっきりと見えているわけではない。
なんとなく感じている──、そういうところで考えをめぐらせているわけだが、
いくつかの、これもオーディオの対岸にあるものなのか、と思うのがある。
私にとってのオーディオということに限れば、
確かに、あのトロフィー(オーディオ)屋は、オーディオの対岸にある。
私は、音も音楽も所有できない、と何度も書いてきている。
一方で、音も音楽も所有できる、と思っている人たちがいる。
私はどこまでもいっても所有できないと考える人間だから、
秋葉原にある、とあるオーディオ店をトロフィー屋としてしか認識できない。
けれど音も音楽も所有できる、と思っている人にとっては、
あそこもオーディオ店であり、中には自分にふさわしいオーディオ店と思う人もいよう。
音も音楽も所有できる、と思っている人たちに、
どれだけ言葉をつくしたところで、
あそこがトロフィー屋だとは納得させることはできない。
2月16日も秋葉原に行っていた。
夕方、少し早い時間から男三人、秋葉原をふらついていた。
目的のパーツの購入をすませてから、いくつかの店に寄った。
ダイナミックオーディオトレードセンターにも行ってきた。
ここのビルの三階、売場には小さいけれど書棚がある。
そこにはオーディオ雑誌だけでなく、関連書籍も置いてある。
「オーディオ巡礼」、「西方の音」、「天の聲」はもちろんある。
「オーディオ彷徨」もある。
けれど私の目に留ったのは「人間の死にざま」と「編集者 齋藤十一」の二冊だ。
書棚のあるオーディオ店はここだけではない。
けれど、私の知っている範囲で、
「人間の死にざま」と「編集者 齋藤十一」があるオーディオ店は、他にない。
トロフィー屋としてしか呼べないオーディオ店と、なんと違うことか。
別項「耳の記憶の集積こそが……」で、
耳の記憶の集積こそが、オーディオである、と書いている。
「功成り名遂げた人に相応しいオーディオ」のどこに、
耳の記憶の集積があるのか。
だから、あの店のあのフロアーはオーディオ店ではなく、
トロフィー屋にすぎないのだ。