Archive for category 快感か幸福か

Date: 2月 8th, 2022
Cate: ちいさな結論, 快感か幸福か

快感か幸福か(ちいさな結論)

その1)は、このブログを書き始めたころに書いている。
2008年9月に書いているわけだから、ずいぶん経つ。

ここまで書いてきて、ちいさな結論として書いてしまえば、
快感は耳に近い(遠い)か、
幸福は心に近い(遠い)か、だと思うようになった。

耳に近い音を、だからといって否定するつもりはまったくない。
耳に近い音を追い求めてこなかった人が、
すんなり心に近い音を見つけられるとは、私は思っていない。

貪欲に耳に近い音を追い求めて、
それが叶った時の快感を存分に味わっておくべきとも思っている。

けれど快感はいつしか刺戟へと変化していくことだってある。
より強い刺戟を求めるようになっていくかもしれない。

結局、ここでもグレン・グールドのことばを引用しておく。
     *
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。
     *
自分自身の神性の創造へとつながっていく音こそが、心に近い音なのだろう。

Date: 12月 2nd, 2021
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(夢の中で……・その2)

六年前の(その1)で、あるオーディオ業界の人から、
ステレオサウンドから去ったことについて、「負け組だね」といわれたことを書いた。

言った人のことをとやかくいいたいわけでもなし、
悪気があったとも受け止めていない。

その人はステレオサウンドにいまも関っているのだから、
その人的に勝ち組ということなのだろうし、私は負け組ということになる。

勝ち組だと思っている人はどう思うかわからないけれど、
世間一般の評価では「負け組だね」といわれる側の私だけど、
ネルソン・マンデラの、この言葉は、勝ち組と思っていては理解できなかっただろう。

“I never lose. I either win or learn.”
「私は決して負けない。勝つか、学ぶかどちらかだ」

Date: 5月 8th, 2021
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(白黒つけたがる人たち・その2)

MQAを全否定する人は、きっと白黒つけたがる人なのだろう。
MQAのことだけではない、
何に関しても白黒つけたがる人は、そのことでひとり納得するのだろうか。

納得するほうが、ずっとラクである。
けれど、多くはひとり納得なのではないだろうか。

白黒つけることは、区別をはっきりとつけることであるだけでなく、
片方を全否定することにもつながっていく。
その結果、生じるのが摩擦であり、さらには対立へと変っていく。

摩擦、対立が何を生むと、白黒つけたがる人たちは考えているのだろうか。

考えたくない、考え続けたくない──、
そういう人こそが白黒つけたがる人のように思えてならない。

Date: 3月 13th, 2021
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その15)

「必要とされる音」について書いている。

いまの時代に必要とされる音であったり、
いつの時代においても必要とされる音でもある。
そのことについて考えているわけだ。

「音は人なり」と何度も書いている。
そのことをテーマにもしている。

ということは、必要とされる音を出すということは、
必要とされる人でなければならない、ということでもある。

Date: 8月 30th, 2020
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その14)

9月のaudio wednesdayでも、タンノイ・コーネッタを鳴らす。
コーネッタが、喫茶茶会記のアルテックよりもいいスピーカーだから、というよりも、
鳴らしたいから、というのが、理由にならない理由である。

喫茶茶会記のアルテックも、古いタイプのスピーカーといえる。
コーネッタもそうだ。
コーナー型で、フロントショートホーン付き。

アルテックよりも、古いといえば、いえなくもない。
そういうスピーカーを、今回もまた鳴らす。

7月に鳴らして、8月も鳴らした。
9月も鳴らすわけだから、三ヵ月続けてのコーネッタである。

鳴らしたいから、は、聴きたいから、でもある。
そして聴きたいから、は、聴いてほしい、ということでもある。

コーネッタの音を、聴いてほしい、と思うのは、
どこか、コーネッタの音を、必要とされる音と感じているからなのかもしれない。

Date: 5月 30th, 2020
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その9)

トロフィー屋としか呼べないようなオーディオ店で、
オーディオ機器を購入する──。

そこで扱っているオーディオ機器は、ひじょうに高価なモノばかりで、
ケーブルにしてもひじょうに高価なモノばかりで、
ケーブルなどのアクセサリーを含めたシステム・トータルの価格は、
数千万円はあたりまえで、ときには一億円前後にもなる。

そういう、まさしくトロフィー屋でオーディオ機器を買う、
買える、ということは、優越感を満たしてくれるはず。

まして、そこの常連ともなれば、まさしく優越感がそうとうに満たされることだろう。
そのこと自体を否定するつもりは、さらさらない。

買える人は、どんどん買えばいい。
けれど、どれだけ優越感をえられたとしても、それは幸福とはいえないはずだ。
どこまでいっても、優越感は幸福にはつながらず、快感でしかない。

快感はどれだけ重ねようと、
どれだけエスカレートさせようと、快感でしかない。

快感を幸福と思える人ならば、それでいい。
けれど、そういう人はオーディオマニアではない。

少なくとも五味先生と同じオーディオマニアではない。
まるで別種のオーディオマニアなのかもしれない。

Date: 11月 17th, 2019
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(白黒つけたがる人たち・その1)

日本人は、特にそうなのかもしれない。
何事にも白黒つけたがる人たちがいる。

こっちがいいに決っている、
あれはダメに決っているだろう、
そんなことにとらわれている人たちである。

最近ではMQAはダメ、と全否定する人がいる。
ここでも白黒つけたがっている、というか、白黒つけている。

なぜ、こうまでも白黒つけたがるのか。
白黒つけることに、快感をおぼえるからではないのか。

自分の下した白黒に賛同してくれる人がいれば、それも快感につながっていく。
賛同者が多いほど、快感は増していくことだろう。

でも、それはどこまでいっても快感でしかない。
快感は慣れてしまうのかもしれない。

だから、より強い快感を求めることになる。
そのために、より過激な白黒をつけていく──。

Date: 7月 1st, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その8)

秋葉原にあるテレオンが、まだテレビ音響だった時代なのか、
それともすでにテレオンになっていたのか、そのへんのところははっきりしないが、
テレオンが、いまのビルではなく、ラジオ会館がどこかのビルで営業していたころの話だ。

当然、そのころ私はまだオーディオマニアではなかったし、
東京に住んでもいなかった。
人から聞いた話だ。

彼も、もちろんオーディオマニアだ。
彼が学生のころに、テレオンのその店にカートリッジを買いに行った。
そのテレオンは、創業者の奥さんと思われる人が仕切っていた。
ショーケースの中には、市販されている大半のカートリッジが並んでいる。

シュアーのV15が欲しい、というと、まず訊かれる。
いまどのカートリッジを使っているのか、
システムの構成、それからどういう音楽を好むのか、聴く音量、
オーディオの知識、キャリアなどを見透かす質問をしてくるそうだ。

それに合格しなければ、希望のカートリッジを売ってくれなかったりする。
「あなたにはまだV15は早すぎる」、
そんなことを言って売ってくれないんだそうだ。

そしてシュアーの安価な、けれどしっかりしたカートリッジを薦めてくれる。
買いたいモノが買えるだけの余裕があって買いに行く。

なのに売ってくれない。
理不尽だ、と思う人もいるけれど、私はそうは思わない。
こういうオーディオ店が昔はあった。
トロフィー屋ではないオーディオ店があった。
いまのテレオンがそうなのかは知らないけれど、そうあってほしい。

ならば、他のオーディオ店に行けばいい、と思う人もいる。
けれど彼は、テレオンでカートリッジを買っている。

Date: 3月 6th, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その7)

「オーディオの対岸にあるもの」とつけた別項がある。
まだ本題に入っていない、タイトルだけともいえる別項なのだが、
私がトロフィー屋としてしか認識できない店も、
オーディオの対岸にあるものだ、と思う。

まだ私自身、オーディオの対岸にあるものが、はっきりと見えているわけではない。
なんとなく感じている──、そういうところで考えをめぐらせているわけだが、
いくつかの、これもオーディオの対岸にあるものなのか、と思うのがある。

私にとってのオーディオということに限れば、
確かに、あのトロフィー(オーディオ)屋は、オーディオの対岸にある。

Date: 2月 18th, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その6)

私は、音も音楽も所有できない、と何度も書いてきている。
一方で、音も音楽も所有できる、と思っている人たちがいる。

私はどこまでもいっても所有できないと考える人間だから、
秋葉原にある、とあるオーディオ店をトロフィー屋としてしか認識できない。

けれど音も音楽も所有できる、と思っている人にとっては、
あそこもオーディオ店であり、中には自分にふさわしいオーディオ店と思う人もいよう。

音も音楽も所有できる、と思っている人たちに、
どれだけ言葉をつくしたところで、
あそこがトロフィー屋だとは納得させることはできない。

Date: 2月 18th, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その5)

2月16日も秋葉原に行っていた。
夕方、少し早い時間から男三人、秋葉原をふらついていた。

目的のパーツの購入をすませてから、いくつかの店に寄った。
ダイナミックオーディオトレードセンターにも行ってきた。

ここのビルの三階、売場には小さいけれど書棚がある。
そこにはオーディオ雑誌だけでなく、関連書籍も置いてある。

「オーディオ巡礼」、「西方の音」、「天の聲」はもちろんある。
「オーディオ彷徨」もある。

けれど私の目に留ったのは「人間の死にざま」と「編集者 齋藤十一」の二冊だ。

書棚のあるオーディオ店はここだけではない。
けれど、私の知っている範囲で、
「人間の死にざま」と「編集者 齋藤十一」があるオーディオ店は、他にない。

トロフィー屋としてしか呼べないオーディオ店と、なんと違うことか。

Date: 2月 11th, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その4)

別項「耳の記憶の集積こそが……」で、
耳の記憶の集積こそが、オーディオである、と書いている。

「功成り名遂げた人に相応しいオーディオ」のどこに、
耳の記憶の集積があるのか。

だから、あの店のあのフロアーはオーディオ店ではなく、
トロフィー屋にすぎないのだ。

Date: 1月 26th, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その3)

トロフィーとはなにかの賞を受けた時に記念として贈られるモノだ。
名誉ある賞もあれば、地域のスポーツ大会の賞ということもある。

どちらにしても、賞を主宰している側から贈られるのがトロフィーである。

自分で、自分に贈るのがトロフィーであるわけがない。
よく頑張った自分! といって、自分にトロフィーを──、と考えるのだろうか。

「功成り名遂げた人に相応しいオーディオ」、
自分で自分に贈るトロフィーとしては、向いていると思えるところもある。

オーディオはコンポーネントである。
スピーカーシステム、コントロールアンプ、パワーアンプ、
それにプレーヤーが必要になり、
さらにケーブル、ラックなども要る。

デジタル信号処理のプロセッサーもつけ加えれば、
システムのヴァリエーションも、ほぼ無限にあるといっていい。

つまり「人と違うの僕」用のトロフィーが組める。
世界にひとつしかないトロフィーができあがる。

そういう視点でオーディオを商売にしているのであれば、
共感はまったくできないが、なかなかうまい商売だな、と思わないわけではない。

つまり、その店は、オーディオ店ではないのだ。
トロフィー屋なのだ。

功成り名遂げた人が、自分に自分で贈るトロフィーを、
あれこれセレクトして、世界にひとつだけのシステム(トロフィー)をつくってくれる。
しかも、他の人よりも、もっと高価なシステム(トロフィー)を提案してくれる。

「人と違うの僕」は、「人よりも高いの僕」へところんでしまう。

Date: 1月 25th, 2018
Cate: 快感か幸福か
1 msg

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その2)

その1)に、facebookにコメントがあった。

そのコメントにも、固有名詞はなかった。
私も(その1)でも固有名詞は出してないから、
コメントにあった人と私が書いた人とが同一人物なのか──。

いま秋葉原にオーディオ店はそれほど多くないし、
それほど高額なシステムを売っているところとなると、限定されてしまう。
同じ人であろう。

コメントには、
「功成り名遂げた人に相応しいオーディオ」といういいかたを、
非常に高額なシステムを売る人はしていたそうだ。

やっぱりそうだろうな、と思った。
そういう在り方のオーディオもありなんだなぁ……、と思う。

けれど「五味オーディオ教室」から始まった私のオーディオ、
そしてオーディオ観とはまったく別のことだ。

コメントには続きがある。
その高額なシステムを聴いていた人は幸せそうだった、と。
客を幸せにできるのだから、男冥利につきる仕事なんだろうと、思う、とあった。

聴いていた人は幸せそうだった、ようだ。
今回鳴っていた一億円近いステムまでいかなくとも、
数千万円のシステムであっても、その店の客として聴いている人にとっては、
トロフィーのようなものであり、
もっといえばトロフィーオーディオであり、
それはほんとうに幸せなのか、それとも快感をそう思っているだけなのか。

Date: 1月 24th, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その1)

先週末秋葉原に行っていた。
せっかく来たのだから、ということで、とあるオーディオ店に行った。

そのオーディオ店の上の階は、そうとうに高価なオーディオ機器ばかりが置いてある。
その時、鳴っていたシステムの総額は、ケーブルも含めて9,800万円を超えていた。

ほぼ一億円である。
スピーカーシステムだけで、四千万円を超えていた。

店主とおぼしき人が、ソファの中央でひとり聴いていた。
他に客はいなかった。

私など客とは思われていない。
それはそれでかまわない。
そんなシステムを買えるだけの財力はないのだから、
店主とおぼしき人の、こちらのふところ具合を見る目は、確かな商売人といえよう。

鳴っていた音について書くのは控える。
書きたいのは、一億円近いシステムの音ではなく、
その音を聴いていた店主とおぼしき人の表情である。

鳴っていたディスクは、店主とおぼしき人の愛聴盤なのか。
それもはっきりしない。
その人がどういう人なのかも、はっきりと知らない。

ただ、その人の表情をみていて、彼が感じていたのは快感だったのか。
そんなことを考えていた。

よく知らない人だから、その人が幸福そうに音楽を聴いている表情がどんなものかも知らない。
知らないけれど、そうは見えなかった。