Archive for category 快感か幸福か

Date: 11月 17th, 2019
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(白黒つけたがる人たち)

日本人は、特にそうなのかもしれない。
何事にも白黒つけたがる人たちがいる。

こっちがいいに決っている、
あれはダメに決っているだろう、
そんなことにとらわれている人たちである。

最近ではMQAはダメ、と全否定する人がいる。
ここでも白黒つけたがっている、というか、白黒つけている。

なぜ、こうまでも白黒つけたがるのか。
白黒つけることに、快感をおぼえるからではないのか。

自分の下した白黒に賛同してくれる人がいれば、それも快感につながっていく。
賛同者が多いほど、快感は増していくことだろう。

でも、それはどこまでいっても快感でしかない。
快感は慣れてしまうのかもしれない。

だから、より強い快感を求めることになる。
そのために、より過激な白黒をつけていく──。

Date: 7月 1st, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その8)

秋葉原にあるテレオンが、まだテレビ音響だった時代なのか、
それともすでにテレオンになっていたのか、そのへんのところははっきりしないが、
テレオンが、いまのビルではなく、ラジオ会館がどこかのビルで営業していたころの話だ。

当然、そのころ私はまだオーディオマニアではなかったし、
東京に住んでもいなかった。
人から聞いた話だ。

彼も、もちろんオーディオマニアだ。
彼が学生のころに、テレオンのその店にカートリッジを買いに行った。
そのテレオンは、創業者の奥さんと思われる人が仕切っていた。
ショーケースの中には、市販されている大半のカートリッジが並んでいる。

シュアーのV15が欲しい、というと、まず訊かれる。
いまどのカートリッジを使っているのか、
システムの構成、それからどういう音楽を好むのか、聴く音量、
オーディオの知識、キャリアなどを見透かす質問をしてくるそうだ。

それに合格しなければ、希望のカートリッジを売ってくれなかったりする。
「あなたにはまだV15は早すぎる」、
そんなことを言って売ってくれないんだそうだ。

そしてシュアーの安価な、けれどしっかりしたカートリッジを薦めてくれる。
買いたいモノが買えるだけの余裕があって買いに行く。

なのに売ってくれない。
理不尽だ、と思う人もいるけれど、私はそうは思わない。
こういうオーディオ店が昔はあった。
トロフィー屋ではないオーディオ店があった。
いまのテレオンがそうなのかは知らないけれど、そうあってほしい。

ならば、他のオーディオ店に行けばいい、と思う人もいる。
けれど彼は、テレオンでカートリッジを買っている。

Date: 3月 6th, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その7)

「オーディオの対岸にあるもの」とつけた別項がある。
まだ本題に入っていない、タイトルだけともいえる別項なのだが、
私がトロフィー屋としてしか認識できない店も、
オーディオの対岸にあるものだ、と思う。

まだ私自身、オーディオの対岸にあるものが、はっきりと見えているわけではない。
なんとなく感じている──、そういうところで考えをめぐらせているわけだが、
いくつかの、これもオーディオの対岸にあるものなのか、と思うのがある。

私にとってのオーディオということに限れば、
確かに、あのトロフィー(オーディオ)屋は、オーディオの対岸にある。

Date: 2月 18th, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その6)

私は、音も音楽も所有できない、と何度も書いてきている。
一方で、音も音楽も所有できる、と思っている人たちがいる。

私はどこまでもいっても所有できないと考える人間だから、
秋葉原にある、とあるオーディオ店をトロフィー屋としてしか認識できない。

けれど音も音楽も所有できる、と思っている人にとっては、
あそこもオーディオ店であり、中には自分にふさわしいオーディオ店と思う人もいよう。

音も音楽も所有できる、と思っている人たちに、
どれだけ言葉をつくしたところで、
あそこがトロフィー屋だとは納得させることはできない。

Date: 2月 18th, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その5)

2月16日も秋葉原に行っていた。
夕方、少し早い時間から男三人、秋葉原をふらついていた。

目的のパーツの購入をすませてから、いくつかの店に寄った。
ダイナミックオーディオトレードセンターにも行ってきた。

ここのビルの三階、売場には小さいけれど書棚がある。
そこにはオーディオ雑誌だけでなく、関連書籍も置いてある。

「オーディオ巡礼」、「西方の音」、「天の聲」はもちろんある。
「オーディオ彷徨」もある。

けれど私の目に留ったのは「人間の死にざま」と「編集者 齋藤十一」の二冊だ。

書棚のあるオーディオ店はここだけではない。
けれど、私の知っている範囲で、
「人間の死にざま」と「編集者 齋藤十一」があるオーディオ店は、他にない。

トロフィー屋としてしか呼べないオーディオ店と、なんと違うことか。

Date: 2月 11th, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その4)

別項「耳の記憶の集積こそが……」で、
耳の記憶の集積こそが、オーディオである、と書いている。

「功成り名遂げた人に相応しいオーディオ」のどこに、
耳の記憶の集積があるのか。

だから、あの店のあのフロアーはオーディオ店ではなく、
トロフィー屋にすぎないのだ。

Date: 1月 26th, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その3)

トロフィーとはなにかの賞を受けた時に記念として贈られるモノだ。
名誉ある賞もあれば、地域のスポーツ大会の賞ということもある。

どちらにしても、賞を主宰している側から贈られるのがトロフィーである。

自分で、自分に贈るのがトロフィーであるわけがない。
よく頑張った自分! といって、自分にトロフィーを──、と考えるのだろうか。

「功成り名遂げた人に相応しいオーディオ」、
自分で自分に贈るトロフィーとしては、向いていると思えるところもある。

オーディオはコンポーネントである。
スピーカーシステム、コントロールアンプ、パワーアンプ、
それにプレーヤーが必要になり、
さらにケーブル、ラックなども要る。

デジタル信号処理のプロセッサーもつけ加えれば、
システムのヴァリエーションも、ほぼ無限にあるといっていい。

つまり「人と違うの僕」用のトロフィーが組める。
世界にひとつしかないトロフィーができあがる。

そういう視点でオーディオを商売にしているのであれば、
共感はまったくできないが、なかなかうまい商売だな、と思わないわけではない。

つまり、その店は、オーディオ店ではないのだ。
トロフィー屋なのだ。

功成り名遂げた人が、自分に自分で贈るトロフィーを、
あれこれセレクトして、世界にひとつだけのシステム(トロフィー)をつくってくれる。
しかも、他の人よりも、もっと高価なシステム(トロフィー)を提案してくれる。

「人と違うの僕」は、「人よりも高いの僕」へところんでしまう。

Date: 1月 25th, 2018
Cate: 快感か幸福か
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快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その2)

その1)に、facebookにコメントがあった。

そのコメントにも、固有名詞はなかった。
私も(その1)でも固有名詞は出してないから、
コメントにあった人と私が書いた人とが同一人物なのか──。

いま秋葉原にオーディオ店はそれほど多くないし、
それほど高額なシステムを売っているところとなると、限定されてしまう。
同じ人であろう。

コメントには、
「功成り名遂げた人に相応しいオーディオ」といういいかたを、
非常に高額なシステムを売る人はしていたそうだ。

やっぱりそうだろうな、と思った。
そういう在り方のオーディオもありなんだなぁ……、と思う。

けれど「五味オーディオ教室」から始まった私のオーディオ、
そしてオーディオ観とはまったく別のことだ。

コメントには続きがある。
その高額なシステムを聴いていた人は幸せそうだった、と。
客を幸せにできるのだから、男冥利につきる仕事なんだろうと、思う、とあった。

聴いていた人は幸せそうだった、ようだ。
今回鳴っていた一億円近いステムまでいかなくとも、
数千万円のシステムであっても、その店の客として聴いている人にとっては、
トロフィーのようなものであり、
もっといえばトロフィーオーディオであり、
それはほんとうに幸せなのか、それとも快感をそう思っているだけなのか。

Date: 1月 24th, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その1)

先週末秋葉原に行っていた。
せっかく来たのだから、ということで、とあるオーディオ店に行った。

そのオーディオ店の上の階は、そうとうに高価なオーディオ機器ばかりが置いてある。
その時、鳴っていたシステムの総額は、ケーブルも含めて9,800万円を超えていた。

ほぼ一億円である。
スピーカーシステムだけで、四千万円を超えていた。

店主とおぼしき人が、ソファの中央でひとり聴いていた。
他に客はいなかった。

私など客とは思われていない。
それはそれでかまわない。
そんなシステムを買えるだけの財力はないのだから、
店主とおぼしき人の、こちらのふところ具合を見る目は、確かな商売人といえよう。

鳴っていた音について書くのは控える。
書きたいのは、一億円近いシステムの音ではなく、
その音を聴いていた店主とおぼしき人の表情である。

鳴っていたディスクは、店主とおぼしき人の愛聴盤なのか。
それもはっきりしない。
その人がどういう人なのかも、はっきりと知らない。

ただ、その人の表情をみていて、彼が感じていたのは快感だったのか。
そんなことを考えていた。

よく知らない人だから、その人が幸福そうに音楽を聴いている表情がどんなものかも知らない。
知らないけれど、そうは見えなかった。

Date: 12月 2nd, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その13)

ゲオルギー・グルジェフがいっていた「人間は眠っている人形のようなものだ」は、
生かされている状態ともいえるのではないか。

生きている、といえるわけではない。

ここでいっている「生かされている」は、
神によって生かされている、といった意味ではなく、
ネガティヴな意味での「生かされている」である。

生かされている人間の音楽と、
生きている人間の音楽。
同じなわけがない。

カザルスの音楽を聴きたい、とおもう人間もいれば、
思わない人間もいる。

Date: 11月 29th, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その12)

Vitavoxがvitae vox(生命の音)から来ているのであれば、
Vitavoxで、カザルスを聴きたい、無性に聴きたい。

チェリスト・カザルス、
それ以上に指揮者カザルスの演奏を、Vitavoxで聴きたい、と思うのは、
聴くということは、生きているからできることなのだ、という、
当り前すぎることを、実感させてくれる。

演奏も、生きているから(生きていたから)こそ、
その演奏が録音として残されたわけだ。

故人の演奏であっても、録音の時は生きていた。
生きていたから、演奏がなされたし、残っている。

これも当り前すぎることだ。

でも当り前すぎることゆえに、実感しにくいのではないか。

Date: 11月 27th, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その11)

ヴァイタヴォックスはVitavox。

ラテン語でvitaeは生命、voxは声を意味する。
Vitavoxのブランドが、 vitae voxから来ているかどうかは知らないが、
そうなのかもしれない。

だとすれば、Vitavoxは、生命の声ということになる。

Date: 11月 1st, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その10)

ヴァイタヴォックスについて書いてきていて、やっと気づくことがあった。

瀬川先生がステレオサウンド 47号に書かれていることだ。
47号(1978年夏)だから、40年ほど前のことの真意が、やっとわかったような気がした。
     *
コーナー型オールホーン唯一の、懐古趣味ではなく大切に残したい製品。
     *
短い文章だ。
ほんとうにそうだ、と首肯きながら読める。

Date: 7月 24th, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その9)

ステレオサウンド 9号は1968年12月発売なので、
ステレオサウンドで働いている時に読んだ。

《楽器をいじる人にきいてもらうと、演奏のテクニックがいちばんよくわかるという》
という表現は、瀬川先生自身、楽器をいじる人の感想をきいて気づかれたのだろう。

このことは実際に楽器を演奏する人にアルテックのスピーカーを含めて、
他のスピーカーも聴いてもらい確認したい、と思いつつもその機会はなかった。

9号を読んでから何年か経ったころ、
グレン・グールドの録音風景のビデオをみた。

録音スタジオにはふたつのスピーカーがある。
ひとつはミキシングエンジニアが聴くモノで、いわゆるスタジオモニターと呼ばれる。
もうひとつは演奏家が、演奏しているブースで聴くためのププレイバックモニターである。

コロムビアのプレイバックモニターは、アルテックのA7だった。
少し意外な感じがした。

それからしばらくしてマイルス・デイヴィスの録音風景のビデオもみる機会があった。
当然だけれども、そこでもプレイバックモニターはアルテックのA7だった。

A7はいうまでもなく劇場用のスピーカーシステムである。
これをプレイバックモニターとして使うのか、という疑問があった。

グールドとマイルスのビデオを見てから、また月日が経った。
二年前の夏、「ナロウレンジ考(その15)」で、
美空ひばりとアルテックのA7のことについて書いた。

美空ひばりがアルテックのA7を指して、
「このスピーカーから私の声がしている」という記事を何かで読んだことがある、ということだった。

ステレオサウンド 9号を読んだのは1980年代なかごろだった。
それから30年ほどして、ようやく納得がいった。

Date: 7月 23rd, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その8)

ヴァイタヴォックスの名を出したあたりから、
本来書こうと考えていたところからすこし外れてきてしまっていると思いながらも、
もうすこしヴァイタヴォックスのことを書きたい、という気持がある。

ステレオサウンド 9号で、
《JBL、タンノイとくらべると、アルテックは相当変った傾向の音といえる。楽器をいじる人にきいてもらうと、演奏のテクニックがいちばんよくわかるという》
と瀬川先生が書かれている。

このころの瀬川先生はJBLの自作3ウェイの他に、
タンノイのGRF Rectangular、
アルテックの604Eを最初はラワン単板の小型エンクロージュア、
その後612Aのオリジナル・エンクロージュアに変更されているモノを鳴らされていた。

9号で、JBLとタンノイについて、
《音の傾向はむろん違うが、どちらも控え目な渋い音質で(私の場合JBLもそういう音に調整した)》
と書かれている。

瀬川先生の好まれる音の傾向からすると、
アルテックだけが毛色が違うんだろうな、と納得しつつも、
《楽器をいじる人にきいてもらうと、演奏のテクニックがいちばんよくわかるという》、
この部分は、そうなのか、と思った。

アルテックのすべてのスピーカーがそうであるといえないまでも、
少なくとも、ここでのアルテックとは604Eのことのはず。

604が、JBLよりも演奏のテクニックがよくわかる──、
ということは、このときから常に頭の片隅にいつづけていた。

ここでの演奏のテクニックとは、どの楽器のことなのだろうか、
アルテックの他のスピーカー、たとえばA7、A5もそうなのか、
さらにヴァイタヴォックスも、アルテックとは違う楽器については、
演奏のテクニックがいちばんよくわかるのか、
こんなことを漠然とおもっていた。