Archive for category 快感か幸福か

Date: 5月 15th, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その4)

四年前の2013年、ヴァイタヴォックスのスピーカーがふたたび輸入されるようになった。
その時点では情報がほとんどなくて、なぜ? いまになって、と思った。

その後の情報では真空管アンプで知られるドイツのオクターヴが、
ヴァイタヴォックスのコンシューマー用部門を買収して、ということだった。

なぜオクターヴが……、ということまでは知らない。

オクターヴは、懐古趣味的な真空管アンプをつくっているメーカーではない。
現代アンプとして通用する真空管アンプをつくっている。

そのメーカーがヴァイタヴォックスを、である。

オクターヴのオーナーの個人的な趣味でなのか。
そうかもしれないし、それだけではないとも思う。

オクターヴのサイトには、MODERN CLASSICとある。
なるほどな、と思う。
そういうメーカーが、ヴァイタヴォックスを選択したわけである。

Date: 2月 14th, 2017
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(改めて……)

この項の(その1)を書いたのは2008年9月。
かなり時間をかけて書いている。

時間をかけているからといって、書きたい結論に変りはないことのほうが多い。
でも、「快感か幸福か」については、少し迷っている、といえるところが出てきた。

《人は幸せになるために生まれてきたのではない。自らの運命を成就するために生まれてきたのだ》

この言葉を噛みしめていると、
自らの運命を成就したと思える時が来たならば、
そのでの歓喜は、快感なのかと思いはじめたからである。

《神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出》という快感とは別の次元の快感。
それがあるのではないか、と考えた時、結論に迷いが生じている。

Date: 11月 12th, 2016
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その3)

アルテックのイギリス版といえるヴァイタヴォックス。
CN191、Bitone Majorがよく知られていた。

1970年代では、アルテックのA5、A7の音と同じで、
いくぶん古めかしいが、響きの豊かで暖かい音だ。

Bitone Majorは、システム構成からしてアルテックのMagnificentと同じといえる。

ヴァイタヴォックスの名も、1980年代以降あまりきかなくなった。
そしてカタログからも消えていった。

ヴァイタヴォックスという会社は、
軍需用を含めた業務用スピーカーメーカーとしてもいまも健在だが、
いわゆるトーキー用、コンシューマー用といわれる部門からは撤退していた。

ヴァイタヴォックスの製品ラインナップは、アルテックよりも少なかった。
ユニットの数も少ないし、スピーカーシステムの数はさらに少ない。
新製品はずっと登場していなかった。

しかもイギリスのオーディオ関係者からも存在を忘れられている──、
そんなことを瀬川先生が、ステレオサウンド 49号に書かれている。

そんなヴァイタヴォックスのスピーカーが消えてしまったのは、
会社がなくなったわけではなく、収支があわなくなった故の、その分野からの撤退なのだろう。

そうなっていったのは、新製品が発表されないから、でもあろうし、
時代にそぐわないから、なのかもしれない。

時代にそぐわない音、といえば、そうかもしれない。
だが必要とされない音ではないと思う。

Date: 11月 12th, 2016
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その2)

1980年前後は、スピーカーのマグネットが、
アルニコからフェライトへと全面的と移行せざるをえなかった時期と重なる。

アルテックもユニットをフェライト化していった。
同軸型ユニットの604-8Hは604-8KSになっていった。
ウーファー、ドライバーもフェライトになった。

タンノイもそうだが、同軸型ユニットはアルニコとフェライトの違いは、
ユニットの設計を全体でやり直すことが必要となる。

マグネットの磁気特性の違いから、アルニコとフェライトでは最適な形状が異り、
そのためフェライトにすることでユニットの奥行きはアルニコよりも短くなる。
そうなると同軸型ユニットの場合、中高域のホーン長が短くなるということに直結する。

604シリーズ中、フェライトになった604-8KSを傑作と評価する人がいるのは知っている。
その人が、アルテックに精通している人であることも知っている。

その評価を疑うわけではないが、アルテック全体として見た場合、
JBLがフェライト化に成功したのに、アルテックはお世辞にもそうとはいえない。
むしろ失敗したように映った。

アルテックは没落していく。

アルテックもJBLも元を辿ればウェスターン・エレクトリックに行き着く。
このふたつのスピーカーメーカーは浅からぬ縁もある。
JBLは生き残り、アルテックは消失した(といっていいだろう)。

アルテックが没落した理由について書きたいわけではない。
その理由は、ステレオサウンド別冊「JBL 60th Anniversary」を読めばわかる。

アルテックという会社が消失したことで、アルテック・サウンドと呼べる音も消えつつある。

Date: 11月 12th, 2016
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その1)

1970年代後半くらいまではアルテックは健在だった、といえる。
私がオーディオに興味をもちはじめてステレオサウンドを読みはじめたころ、
A7、A5といった古典的なモデルの他に、Model 15、Model 19といった、
コンシューマー用モデルも登場したばかりで、Model 19の評価は高かった。

Model 15は写真で見ても、いい恰好とはいえず興味をもてなかったが、
Model 19はずんぐりむっくりしたプロポーションが、
安定感を感じさせるとともに、そのことがアルテックの音を表しているようにも思えた。

数年前、中古を扱うオーディオ店にModel 19があった。
ひさしぶりに見たな、と思いながら、
やっぱり、このカタチは好きだな、と思い出していた。

Model 19のころ、アルテックは2ウェイでありながら、高域のレンジを延ばそうとしていた。
専用トゥイーターに比べればまだまだといえても、
従来のアルテックよりはワイドレンジになって、成功している、といわれていた。

実は私が最初に聴いたアルテックはModel 19だった。
A5、A7も現役モデルだったし、より有名ではあっても、
オーディオ店に置いてあるかどうかによって、
歴史の長いブランドにおいては、最初に聴いたモデルは、
世代によっても、どこに住んでいるのかによっても、違ってくる。

私はModel 19であり、好感をその時からもっていた。
その後、604-8Gが604-8Hになる。
620Aも620Bとなる。
そして604-8Hを中心に4ウェイ・モデル6041が登場した。

JBLの新製品の数からすればアルテックは少なかったが、
アルテック健在と思わせてくれた。

けれど1980年代にはいると、あやしくなってくる。
9861、9862のころからである。

それ以前にもA7にスーパートゥイーターを加えて3ウェイ化したA7XSを出していた。
音は聴いたことがないけれど、成功作とは決していえない。
すこし迷走しはじめた感じもあったけれど、6041の登場がそれを吹き消していた。

私は9861、9862にA7XSと同じにおいを感じていた。

Date: 8月 20th, 2015
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(夢の中で……)

数年前にある人からいわれたことがある。
ステレオサウンドから去ったことについて、「負け組だね」と。

その人に悪気があったとは感じなかったし、
オーディオマニアにとって、
ステレオサウンド編集部という仕事場、いい環境といえる(そうでないともいえるけれど)。

オーディオ好きにとって、ステレオサウンドという仕事場は、おもしろくおかしくやっていけるところである。
そういうところから去って、生活的にもしんどくなった時期があるわけだから、
その人が「負け組だね」というのも、私が反対の立場だったら……、と考えると、腹も立たない。

たしかにステレオサウンドにいたほうが、おもしろおかしくオーディオをやっていけるのだから、
それは快感である。
快感が持続できる生活を幸福と思える人にとっては、幸福なことなのかもしれない。

けれど、あのままステレオサウンドにいたとして、
瀬川先生に何を報告できただろうか、とおもうのだ。

実際の生活にはなんら影響しない夢の中で瀬川先生に会えたところで、
何になるの? と思う人にとっては、
たとえ夢の中でも、瀬川先生になんら報告することがない生き方をなんとも感じないのだろう。

あのままステレオサウンドにいて、いま瀬川先生が夢の中にあらわれてくれたとして、
胸を張って報告できることがなかったら、それはどんなにオーディオをおもしろくおかしくやっていけてても、
私は幸福だとは思わない。

Date: 4月 16th, 2015
Cate: 快感か幸福か, 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(ある映画の、あるシーン)

「復讐捜査線」という映画がある。
日本公開は2011年だった。メル・ギブソン、数年ぶりの主役の映画だった。

昨晩、(その11)を書いていて、この映画のあるシーンを思い出していた。
メル・ギブソン演じる刑事、トーマス・ブレイクンの髭剃りのシーンだ。
傍には愛娘が彼を眺めている。

これ以上はどんなシーンなのかは書かない。
興味のある方は、ぜひ見てほしいからだ。

このシーンを観ながら、これが幸福なんだろうな、と思ったことを思い出していた。

Date: 3月 13th, 2015
Cate: 快感か幸福か

オーディオレコード的という意味でのオーディオ機器(その4)

ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 1で、瀬川先生が書かれていることが、
この項を書いてみようと思ったきっかけになっている。
     *
音を聴き分ける……と書いたが、現実の問題として、スピーカーから出る「音」は、多くの場合「音楽」だ。その音楽の鳴り方の変化を聴き分ける、ということは、屁理屈を言うようだが「音」そのものの鳴り方の聴き分けではなく、その音で構成されている「音楽」の鳴り方がどう変化したか、を聴き分けることだ。
 もう何年も前の話になるが、ある大きなメーカーの研究所を訪問したときの話をさせて頂く。そこの所長から、音質の判断の方法についての説明を我々は聞いていた。専門の学術用語で「官能評価法」というが、ヒアリングテストの方法として、訓練された耳を持つ何人かの音質評価のクルーを養成して、その耳で機器のテストをくり返し、音質の向上と物理データとの関連を掴もうという話であった。その中で、彼(所長)がおどろくべき発言をした。
「いま、たとえばベートーヴェンの『運命』を鳴らしているとします。曲を突然とめて、クルーの一人に、いまの曲は何か? と質問する。彼がもし曲名を答えられたらそれは失格です。なぜかといえば、音質の変化を判断している最中には、音楽そのものを聴いてはいけない。音そのものを聴き分けているあいだは、それが何の曲かなど気づかないのが本ものです。曲を突然とめて、いまの曲は? と質問されてキョトンとする、そういうクルーが本ものなんですナ」
 なるほど、と感心する人もあったが、私はあまりのショックでしばしぼう然としていた。音を判断するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを判断することだ。その音楽が、心にどう響き、どう訴えかけてくるかを判断することだ、と信じているわたくしにとっては、その話はまるで宇宙人の言葉のように遠く冷たく響いた。
 たしかに、ひとつの研究機関としての組織的な研究の目的によっては、人間の耳を一種の測定器のように──というより測定装置の一部のように──使うことも必要かもしれない。いま紹介した某研究所長の発言は、そういう条件での話、であるのだろう。あるいはまた、もしかするとあれはひどく強烈な逆説あるいは皮肉だったのかもしれないと今にして思うが、ともかく研究者は別として私たちアマチュアは、せめて自分の装置の音の判断ぐらいは、血の通った人間として、音楽に心を躍らせながら、胸をときめかしながら、調整してゆきたいものだ。
 そのためには、いま音質判定の対象としている音楽の内容を、よく理解していることが必要になる。少なくともテストに使っている音楽のその部分が、どういう音で、どう鳴り、どう響き、どう聴こえるか、についてひとつの確信を持っていることが必要だ。
     *
まったくそのとおりであり、
音の聴き分けの判断で大事なのは、音楽の鳴り方がどう変化したのかを聴き分けることである。

けれど50をこえて思うのは、音楽をまったく聴き手に感じさせない音もあってもいいじゃないか、だ。
以前から、そしていまもオーディオマニアは音楽ではなく音を聴いている、といわれる。

そういう人もいるけれど、そういう人でさえ、
100%音だけを聴いているとはいえないはずだ。
どこかで音楽を聴いているのではないか。

純粋に音を聴くという行為は、オーディオマニアとはいえ、可能なのだろか。

もちろん、それは音楽をおさめたLPなりCDを再生してのことである。
戦車やジェット機、蒸気機関車などの音をおさめたディスクを再生してのことではない。

「音楽は聴いていない」と言い切れるのだろうか。
そうでなければ、音楽を聴いている、ともいえないのではないか。

Date: 3月 8th, 2015
Cate: 快感か幸福か

オーディオレコード的という意味でのオーディオ機器(その3)

はっきりとドンシャリ型といえる音は、下品である。
けれど、ドンシャリすれすれといえる音を出すオーディオ機器(特にスピーカーにおいては)が、
魅力的に聴こえることがあるのも事実である。

たとえばイギリスのスピーカー、フェログラフのS1。
     *
 聴きようによっては、いわゆるドンシャリすれすれのような特異なバランスだが、音像定位のシャープさ、音色の独特の魅力、デザインの美しさ、ともかく捨てがたい製品。
(ステレオサウンド 35号)
     *
瀬川先生が書かれたものだ。
S1は初期のモノと後期のモノとでは音のバランスに違いがあるといわれている。
ドンシャリすれすれなのは、おそらく初期のS1のことだろう。

人によっては、S1の音のバランスはあきらかにドンシャリだと感じるかもしれない。
けれど瀬川先生にとっては、あくまでもドンシャリすれすれであり、ドンシャリではない。

それはやはり下品な音かそうでないかによって、その境界線は決ってくるからである。
総じてフェログラフのS1と同時代のイギリスのスピーカーシステムの音のバランスは、
ドンシャリすれすれまでいかなくとも、ドンシャリ的傾向のモノがいくつかあった。

ステレオサウンド 36号「実感的スピーカー論 現代スピーカーを展望する」の中で、
瀬川先生は書かれている。
     *
数年前からイギリスの新しい世代のスピーカー、KEFやB&Wやスペンドールやフェログラフなどの新顔が少しずつ入ってきた。その新顔たちにまず顕著だったのが、先にも書いたハイの強調である。B&WのDM2など、13キロヘルツから上にスーパートゥイーターをつけて、あくまでも高域のレインジを延ばす作り方をしている。この方法論はスペンドールにも受け継がれている。ハイを延ばすことの割合に好きなはずの日本でも、12~13キロヘルツ以上にトゥイーターのユニットを一個おごるという作り方は、かつてなかった。
 しかしレインジを延ばしたことが珍しいのであるよりも、その帯域をむしろ我々には少しアンバランスと思えるくらい強調した鳴り方におどろかされ、あるいは首をかしげさせられる。イギリス人の耳は、よっぽど高音の感度が悪いんじゃないかと冗談でも言いたくなるほど、それは日本人の耳にさえ強調しすぎに聴こえる。同じたとえでいえば、イギリス人は中音域を張らすことをしない。弦や声に少しでもやかましさや圧迫感の出ることを嫌うようだ。そして低音域は多くの場合、最低音を一ヵ所だけふくらませて作る。日本にも古い一時期、ドンシャリという悪口があったように、低音をドンドン、高音をシャリシャリ鳴らして、中音の抜けた音を鳴らしたスピーカーがあったが、イギリスのは、低音のファンダメンタルは日本のそれより低く、高音は日本より高い周波数で、それぞれ強調する。むろん中域が〝抜けて〟いたりはしない。音楽をよく知っている彼等が、中音を無視したりはしない。けれど、徹底的におさえこむ。その結果、ピアノの音が薄っぺらにキャラキャラ鳴ったり、サックスの太さやスネアドラムのスキンの張った感じが出にくかったり、男声が細く上ずる傾向さえ生じるが、反面、弦合奏や女声の一種独特の艶を麻薬的に聴かせるし、楽器すべてをやや遠くで鳴らす傾向のある代りにスピーカーの向う側に広い演奏会場が展開したような、奥行きをともなって爽やかに広がる音場を現出する。
     *
ドンシャリといっても、
ドンとシャリとがどれだけ離れているのか、
そして中音域が抜けていないこと、
これらによって、ドンシャリとドンシャリすれすれの境界線ができてくるのではないだろうか。

Date: 3月 7th, 2015
Cate: 快感か幸福か

オーディオレコード的という意味でのオーディオ機器(その2)

ドンシャリ、という表現があった。
いまも使うようではあるが、以前からするとオーディオ雑誌で目にすることはかなり減ったし、
オーディオマニア同士の会話でも(少なくとも私の周りでは)、
ドンシャリという単語を耳にすることはほとんどない。

説明するまでもないと思うが、ドンシャリとは
低音がドンドン、高音がシャリシャリと表現されるような音のことだ。

日本の、ずっと以前のオーディオ機器(特にスピーカー)は、ドンシャリの傾向が強いといわれていた。
けれど、中音域が大事だという動き・考えが起ってきて、やがてドンシャリ型の音は消えていった。

いわばドンシャリ型とはナローレンジのカマボコ型とは正反対の特性の音ともいえ、
それは技術が進歩して低域も高域も、以前より延ばせるようになってきたから登場したといえるだろう。

私がオーディオに興味を持ち始めたころは、ドンシャリ型の音は消えはじめていた。
ところが、面白いことにアメリカからドンシャリ型のスピーカーシステムが登場するようになっていた。

ステレオサウンド 60号・特集の座談会で瀬川先生が、そのことについて語られている。
     *
彼らが挑戦しようとしている過去のアメリカの音というは、非常に乱暴な分類をしてしまうと、スピーカーでいえばカマボコ型の特性をしている。中域をたっぷりさせて、高域と低域はスローダウンさせる。それはアルテックだけに限らず、JBLだって初期のスピーカーはそうだし、エレクトロボイスにしても、ARにしてもいってみればカマボコ型だったそこで、それらの反動として、いまのアメリカ若い世代は、突然低域と高域を強調した「ドンシャリ」に目覚めたのではないかと思います。このドンシャリというのは、カマボコ特性に対するものとしていっているので、決して悪い意味でいっているわけではありません。これはぼくの勝手な思い込みではなくて、何人かの若いオーディオファイルやオーディオ関係者に会って、彼らの音を聴かせてもらってわかったことなのです。いままでのアメリカのスピーカーでは出なかったところのハイエンドやローエンドに、絶対彼らはびっくりしていると思う。このIRSというスピーカーにしても、そのドンシャリ型の音を彼らの現在の理論、方法論でどこまで煮詰めていけるかというような考え方の一つの現れではないかと思います。
 日本でもかつてドンシャリ時代がありましたよね。それに対して、中音も大事にしようという動きが起こってきて、そのうちにアメリカやイギリスのバランスのいいスピーカーがだんだん日本に入ってくるようになり、本当に低音から高音まできちんとエネルギーバランスのとれた音はどういう音かということを、ようやく日本人もここ数年来広く理解するようになってきた。ところが、アメリカというのは、その点もう一遍本卦還りしているんじゃないですか。つまり、菅野さんも言われたように、アメリカの過去のオーディオの黄金時代をつくった人間が齢をとってしまった、という思い込みから、しかもその良き伝統を受け継いでいないから、アメリカの若い世代のエンジニアというのはまったくのゼロからスタートしているのです。ゼロからスタートするとやはり、まずドンシャリにひっかかりますよね。これはいまの世代の人にかぎらないと思う。個人的には、少し幼いところがあるという感じがするのですが、こういうものを果敢につくる開拓精神というのはすごいものだと思います。
     *
「ゼロからスタートするとやはり、まずドンシャリにひっかかりますよね」とある。

Date: 1月 4th, 2015
Cate: 快感か幸福か

オーディオレコード的という意味でのオーディオ機器(その1)

昔は、はっきりとオーディオマニア向けを謳ったLPがいくつかのレコード会社から出ていた。
一部の例をのぞき、LP、CDをふくめてレコードにおさめられているのは音楽である。
音楽を伝える・届けるためのメディアとしてレコードはあり、
だからこそ音楽が主体のメディアといえた。

けれどオーディオレコードと呼ばれるものは、音楽よりもはっきりと音が主体であった。
だからこそオーディオレコードは、蔑みの意味も込められて使われることが多かった。

とはいえオーディオマニアであれば、音の快感を知っている。
音の快感をまったく知らなくてオーディオマニアとはいえない、ともいえる。

その音の快感のためだけに存在するレコード、
それがオーディオレコードといえた。

ここでのタイトルである「オーディオレコード的という意味でのオーディオ機器」とは、
そういうことである。

オーディオ機器はレコード(録音物)を再生するためのモノである。
音楽を聴くための機器である。
けれど、ここにも音の快感が無視できない存在として、オーディオマニアならば意識する。

そういうオーディオマニアとしての部分をしびれさせる音を特徴とするオーディオ機器がある。
そういうオーディオ機器を、オーディオレコード的と捉えている。

Date: 11月 16th, 2012
Cate: 価値か意味か, 快感か幸福か

快感か幸福か(価値か意味か)

オーディオという趣味には、価値と意味がある。
価値に傾く風潮が最近では強いように感じることがある。

価値といっても、オーディオにおける価値をどう定義するかは、
またどこかで書いていきたいと思えることだけれど、ここではあえて「価値」とだけしておく。

オーディオにおける価値は、大事なことである。
若いころは、その価値だけをただひたすら目指そうとしていた。

いまはというと、意味に重きをおきたい。
意味といっても、価値と同じようにオーディオにおける意味をどう定義するかは、
これについてもまたどこかで書いていきたいことであるけれど、ここではあえて「意味」とだけしておく。

快感か幸福か、が、価値か意味か、にそのままいいかえられるわけでないことはわかっていても、
快感か幸福か(価値か意味か)、にしておくことにした。

Date: 2月 7th, 2012
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(その13・余談)

ステレオサウンド別冊「JBLのすべて」に、
朝沼予史宏、井上卓也、倉持公一、菅野沖彦、柳沢功力、佐久間輝夫、
6氏による「私とJBL」というエッセーが載っている。

朝沼さんのところには、「岩崎さんのリスニングルームがJBL研究の場だった」とつけられている。
そこにはこうある。
     *
大学を出てからマイナーなジャズ専門誌の編集者になり岩崎さんと親しくお付き合いさせていただくようになったが、肝心のJBLに関してはずっと傍観者のままでいた。最初はジャズ喫茶だったのが、社会人になってからは岩崎さんのリスニングルームがJBL研究の場だった。そのジャズ雑誌は勤めて間もなく廃刊になり、編集者仲間が集まって新しいジャズ雑誌を創刊した。その関係で岩崎さんとは、益々親しくさせていただいた。しかし弱小雑誌の我々の原稿は常に後回しでなかなか原稿が上がらず、月末になると、よくお宅に泊まり込みになった。岩崎さんからは「待っている時は、遠慮なく音を聴いても構わない」というお墨付きをもらい、これ幸いに聴きまくった。岩崎さんの装置を身近で真剣に聴けたのは、たいへんな幸運だった。
     *
朝沼さんが岩崎先生のリスニングルームで聴かれていた時は、ひとりだったはず。
岩崎先生は別の部屋で原稿を書かれていたことだろう。
私が山中先生のリスニングルームで原稿が上がるのをもっているあいだ、音を聴いていたのと同じ体験を、
朝沼さんは岩崎先生のリスニングルームで何度も体験されていたわけだ。

これは編集者の、いわば特権かもしれない。
それもこの時代、つまりインターネットなどなかった時代、原稿は手書きで編集者は取りに行っていた。
だから、こういう体験がときに味わえたのである。

いまはパソコンで原稿を書き、そのままメールに添付して送信。
これが悪いこととは思わない。時間の節約になっているし、原稿をなくしてしまうこともなくなる。
でも、朝沼さんや私が体験できたこととは無縁になってしまった。

Date: 2月 6th, 2012
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(その13)

山中先生のリスニングルームでの、この体験をこれまで何人かに話したことがある。
興味を持って聞いてくれる人もいれば、まったく無関心という人もいるのが世の常かと思っているが、
無関心な人は徹底して無関心なところが、私にとっては興味深いことでもある。

なぜ無関心なのか、は、その人なりの理由があってのことだろうし、
こういう経験はなかなかできないから、実際に経験してみないことには実感がつかみにくいことだろうとは思う。

だが、自分が経験していないことだからこそ、関心をもつ人もいる。もたない人もいる。
人さまざまだと思うし、すくなくとも関心をもってくれる人と私は、共通するところを聴いているといえるだろうし、
関心のまったくない人と私には、そういう共通するところは聴き方においてあまりないのかもしれない。

山中先生のリスニングルームでの体験は、
そこに招かれた者として聴いていたときには、先に書いているように山中先生の音とは思えなかった。
けれど前のめりになって、少なくとも気持のうえだけでも山中敬三になったつもりで聴き挑む姿勢になったとき、
音は、はっきりと変っていた。

関心のない人は、それはあなたの気のせい、思い込みだよ、とばっさり切り捨てるに違いない。
だが、そう単純に(というか、私には短絡的に、と思える)言い切れることとは、どうしても思えない。

いま手もとに1970年代のスイングジャーナルがけっこう冊数あって、
そこからジャズ・オーディオに関する文章を拾い出している。
facebookの「オーディオ彷徨」というページには、それらは公開している。

昨日、菅野先生による文章を見つけた。
「音楽とオーディオにかかわり合う心情的世界をかいまみて」というタイトルがつけられた、
スイングジャーナル1972年12月号に掲載されたものだ。
これも、facebookの〝ここ〟で公開している。

菅野先生が、ここに書かれていることが、また興味深い。

註:「音楽とオーディオにかかわり合う心情的世界をかいまみて」を読むには、facebookのアカウントと、
私がやっていますfacebookグループ「audio sharing」へ参加していただくことが必要となります。

Date: 1月 25th, 2012
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(その12)

とにかくグッと前のめりになって意識を集中していけば、
不思議なことに、ステレオサウンドの試聴室で感じていた山中先生の音のエッセンスと呼べるものが、
より濃密に、より高い次元で鳴っている、と感じられてくる。

このとき鳴っている音、私が聴いている音は、いったいなんなのか。

山中先生の音といえるし、そうでないともいえる。

音を聴かせてもらうことは、その音の持主といっしょに音を聴くということである。
けれど、その音の持主は、その音を実現するためにはひとりで音を聴き、調整し、その音を判断し……、
という行為のくり返しをたゆむことなく行っている。
ときにはオーディオの仲間に聴いてもらったり、家族に聴いてもらったりすることはあっても、
基本的には調整し音を判断するのは、ひとりである。

その音を聴かせてもらうときは、最低でもふたり。ときにはもっと多くなる。
そうなると、その時の音は、その音の持主がひとりで聴いている音とは、まったく同じというわけではない。
リスニングルームの広さや何人で聴くかによって程度の違いはあるものの、ひとりで聴く音とは違ってくる。
バランスを崩してしまうことさえある。
こんなふうに考えていくと、誰かの音を聴かせもらったとしても、
その音の持主がひとりで聴いている音を聴いているわけではない。

では、そこで音の持主にリスニングルームから出てもらって、ひとりで聴かせてもらうことが、
果して、その人の音を聴いた、といえるのであろうか。

私が山中先生のリスニングルームで体験したのと同じように、ひとりで聴いたとしても、
厳密には、物理的には同じにはならない。
人の体格によって音の吸収率はわずかとはいえ違ってくる。
体格差があれば、そのへんのところが微妙に変化しているはずだから、
ふたりで聴くよりはまだいいとはいうものの、それでも細かいことをいえば、
決してその音の持主がひとりで聴いているときの音と同じ条件とならないわけだ。

堂々巡りしてしまう。