Archive for category Glenn Gould

Date: 1月 1st, 2023
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その6)

大晦日の夜おそくに、グールドの平均律クラヴィーア曲集を聴いていた。
第一集を、TIDALでMQA Studioで聴いた。

今日の朝、やはりグールドを聴いた。
第二集ではなく、モーツァルトのピアノ・ソナタを聴いていた。
Vol.1、2、4を聴いた。
もちろんTIDALでMQA Studioだ。

最新のピアノ録音を聴きなれた耳には、
グールドの残した録音は、どれも古く聴こえる。

バッハとモーツァルトはアナログ録音だし、もう五十年ほど前のことだ。
聴いていると、そんなに経つのか──、とおもうこともある。

たしかに音は古さを感じさせるところがある。
けれど、それは音だけであって、しばらく聴いていると、そのことさえさほど気にならなくなる。

「録音は未来だ」ということだ。

Date: 9月 25th, 2022
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その5)

日付が変って、今日は9月25日。
グレン・グールドの誕生日であり、グールドが生きていれば九十歳なのだが、
九十歳のグールドというのはなかなか想像がつかない。

今年はグレン・グールド生誕九十年、没後四十年ということで、
ソニー・クラシカルからいくつかの企画モノが発売になる。

いちばんの話題は、
1981年録音のゴールドベルグ変奏曲の未発表レコーディング・セッション・全テイク。
もちろん予約しているが、発売日が変更になり10月だ。

もう少し待つことになるわけだが、
今回の生誕九十年でひとつ期待していることがある。

別項で書いている“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”。
今夏、ようやく発売になった。
TIDALでの配信も始まった。

同時に“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”も新たに配信しなおされた。
TIDALでは、これまでMQA Studio(44.1kHz)だったのが、
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の配信が始まったら、
MQA Studio(176.4kHz)に変更されていた。

TIDALではグレン・グールドのアルバムもMQA Studio(44.1kHz)で配信されている。
これらがもしかすると、
MQA Studio(88.2kHz)かMQA Studio(176.4kHz)かになるかも──、
という儚い期待である。

グールドのアルバムは、以前CDボックスが発売された時に、
すべてDSDマスタリングされている。
だから88.1kHz、176.4kHzに期待したくなる。

同時に七年前のことも思い出す。
CDボックスだけでなく、USBメモリー版も発売になった。

この時、amazon、HMV、タワーレコードなどのサイトでは、
24bit/44.1kHz FLACとなっていたが、
ソニー・クラシカルのサイトでは、USBメモリー版はハイレゾ 24bit/96kHz FLACと書いてあった。
結局、ソニー・クラシカルのサイトも44.1kHzになっていた。

このこともあるから、もしかする今回こそ──、と期待してしまう。

Date: 7月 18th, 2022
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その4)

アレクシス・ワイセンベルクも、ゴールドベルグ変奏曲を二回録音している。
しかも二回目はグレン・グールドと同じ1981年である。

グールドの1981年録音のゴールドベルグ変奏曲は、1982年秋に出た。
ワイセンベルクのゴールドベルグ変奏曲は、いつ出たのだろうか。
記憶にない、というのではなく、まったく気づいていなかった。

私がワイセンベルクのゴールドベルグ変奏曲を聴いたのは、
別項「アレクシス・ワイセンベルク」で書いているように昨夏から、
TIDALに、ワイセンベルクのアルバムがかなりの数あるからだ。

グールドがワイセンベルクのことを高く評価していたのは知っていた。
それでもこれまでほとんどといってくらいにワイセンベルクを聴いてこなかった。
それがいまでは聴くようになった。

グールドのゴールドベルグ変奏曲の未発表レコーディング・セッション・全テイク、
これが出るというニュースをきいてからもワイセンベルクのゴールドベルグ変奏曲を聴いた。

聴いていて、ワイセンベルクはグールドに似ている、というよりも、
グールドに近い、と感じていた。
そしてグールドの未発表のテイクのなかには、
ワイセンベルクの演奏に近い変奏曲があっても不思議ではない──、
そんなことをおもうようにもなっていた。

近い演奏がまったくない、と思っていない。
といっても、まだ聴いていないのだから、なんともいえない。
まったくないのかも知れない。

あと二ヵ月ちょっと経てば、グールドの未発表テイクは発売になる。
その時またワイセンベルクのゴールドベルグ変奏曲を聴いている。

Date: 7月 16th, 2022
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その3)

グレン・グールドは、音楽のキット化を提唱していたことがある。
音楽のキット化は、クラシック音楽におけることであって、
ベートーヴェンの第九のことを思い浮べたことがある。
     *
 戦後のLP時代に入って、〝第九〟でもっとも印象にのこるのはトスカニーニ盤だろうか。
 はじめてこれを聴いたとき、そのテンポの速いのに驚いた。これはベートーヴェンを冒涜するものだとそれから腹を立てた。ワインガルトナーしかそれまで知らなかったのだからこの怒りは当然だったと今でもおもう。もともと、ヴェルディの〝レクイエム〟やオペラを指揮した場合を除いて、彼のチャップリン的風貌とともにトスカニーニをあまり私は好きではなかった。戦前の世評の高い、〝第五〟を聴いたときからそうである。のちに、トスカニーニがアメリカへ招聘されるにあたって、〝トリスタンとイゾルデ〟を指揮することを条件に出した話を、マーラー夫人の回想記で読み、トスカニーニにワグナーが振れてたまるかとマーラーと同様、いきどおりをおぼえたが、いずれにせよ、イタ公トスカニーニにベートーヴェンは不向きと私はさめていた。だからその〝第九〟をはじめて聴いたとき、先ずテンポの速さにあきれ、何とアメリカナイズされたベートーヴェンかと心で舌打ちしたのである。
 それが、幾度か、くりかえして聴くうちに速さが気にならなくなったから《馴れる》というのはこわいものだ。むしろその第三楽章アダージォなど、他に比肩するもののない名演と今では思っている。
「何と美しいアダージォだ……」
 トスカニーニー自身が、プレイバックでこの楽章を聴きながら涙を流した話を、後年、彼の秘書をつとめた人の回想録〝ザ・マエストロ〟で読んだときも、だからさもありなんと思ったくらいで、いかなフルトヴェングラーの〝第九〟——第二次大戦後のバイロイト音楽祭復活に際し、そのオープニングに演奏されたもの。ちなみに、フルトヴェングラーは生前この〝第九〟のレコードプレスを許さなかった——でさえ、アダージォはトスカニーニにくらべやや冗長で、緻密な美しさにおとる印象を私はうけた。フルトヴェングラーがこれをプレスさせなかったのも当然とおもえた。それくらい、第三楽章のトスカニーニは完ぺきだった。ベートーヴェンの〝第九〟では古くはビーチャム卿、ピエール・モントゥ、ワルター、カラヤン、クリュイタンス、ベームと聴いてきたが、ついに決定盤ともいうべき演奏・録音に優れたレコードを私は知らない。
     *
五味先生の「《第九交響曲》からの引用だ。
グレン・グールドのいう音楽のキット化は、こういうことである。

《決定盤ともいうべき演奏・録音に優れたレコード》が、
第九にはなかったと感じたらどうするか。

第三楽章はトスカニーニで聴いて、
第一楽章、第二楽章、第四楽章は、
《他に比肩するもののない名演》と感じている指揮者の演奏をそれぞれ選択する。

それをひとつにまとめて聴く、という行為が音楽のキット化だった。
グールドの音楽のキット化を読んだ時、
おもしろいと感じながらも、実際の問題点としてあれこれ思ったものだ。

けれど、今回のゴールドベルグ変奏曲の未発表レコーディング・セッション・全テイクは、
まさにグールドが提唱した音楽のキット化のための理想的な素材ととらえることができる。

そして、一つおもうことがある。
アレクシス・ワイセンベルクのゴールドベルグ変奏曲のことである。

Date: 7月 13th, 2022
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その2)

グレン・グールドの生誕90年で、没後40年の今年、
ソニー・クラシカルは、なにを出してくるのだろうか──、
といったことを(その1)で書いた。

数日前に、やっと判明した。
1981年録音のゴールドベルグ変奏曲の未発表レコーディング・セッション・全テイク。
全アルバムのSACDでの発売はなかったけれど、
これはこれでなかなかに嬉しい企画である。

もちろんすぐに予約した。
予約した、予約するつもり、という人はけっこういると思う。
ものすごい数が売れるとは思わないけれど、
とりあえず買っておこう、という人は少なくないと思うからだ。

けれどだけれど、いったい買った人の何割がきちんと聴きとおすだろうか。
買い逃したくない、仕事をリタイアしたら、その時じっくりと聴く──、
そんなことを思っている人もまた少なくないだろうが、
はたして、ほんとうにじっくりと今回のこのCDボックスのすべてを聴きとおすか──、
そう問われれば、私はたぶんやらないだろう、と答える。

三十ある変奏曲のいくつかに関しては、じっくりと聴き比べだろうが、
すべてをそうすることはない、と思っている。

Date: 2月 27th, 2022
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その5)

別項で、鮮度の高い音について書いているところだ。
この「鮮度の高い音」を、
オーディオにおける金科玉条とする人はけっこう多い。

そうしたい気持はわかるし、ワルいとまではいわないけれど、
その「鮮度の高い音」は、ほんとうの意味での鮮度の高い音なのか──、
そのことについてとことん語られているのを、私は見たことがない。

私がみたことがないだけであって、
どこかで行われていたのかもしれないが、その可能性を否定しないけれど、
どうもそうとは思えない。

「鮮度の高い音」を金科玉条とする人たちは、
録音に関しても、同じ事を唱える。
シンプルな録音こそ最上だ、と。

具体的に書けば、マイクロフォンの数は二本。
つまりワンポイント録音である。

マルチマイクロフォンにすれば、ミキシングのための機器が必要となる。
そういう機器は、音の鮮度を落とすことになる。
同じ理由で、エフェクター類の使用は、まったく認めない。

ケーブルも吟味して、できるだけ短い距離で、各機器を接続する。
使用する器材はマイクロフォンと録音機器のみである。

これ以上、削ったら録音ができないまでに減らしての録音こそ、
鮮度の高い音が録れる、ということになる。

実際に、そういうコンセプトを売りにしているレーベルもある。
このことが悪いわけでもないし、可能性を感じないわけでもない。

たとえばプロプリウスから出ているカンターテ・ドミノ。
この録音こそ、まさにこういう録音である。

これまでにさんざん聴いてきたし、これからも昔ほどではないにしろ、
確認のために聴くことは間違いない。

でも、カンターテ・ドミノをstudio productと感じているかといえば、
そうではない。

Date: 2月 2nd, 2022
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その1)

今年は2022年。
グレン・グールドの生誕90年で、没後40年。

ソニー・クラシカルは、なにか出してくるのだろうか。
それとも2032年の生誕100年、没後50年までおあずけとなるのだろうか。

何も出てこないような気もするけれど、
それでもまぁいいや、と思えるのは、TIDALでMQA Studioで聴けるようになったからだ。

そのTIDALだが、第一四半期に日本でのサービス開始となる、らしい。

Date: 11月 13th, 2021
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

グレン・グールドのモーツァルトのピアノ・ソナタ

13歳の秋、「五味オーディオ教室」に、こうあった。
《モーツァルトの、たとえば〝トルコ行進曲〟の目をみはる清新さ》──、
グレン・グールドのことだ。

まだ、この時は、グールドのトルコ行進曲は聴いていなかった。

《目をみはる清新さ》、
この時は勝手に、こんな演奏なのかしら、と想像していた。

実際のグールドの演奏は、聴きなれていた演奏とは大きく違っていたし、
想像とも違っていた。

それからずいぶん月日が経った。
くり返し聴いた日々もあったし、
まったく聴かなくなったころもあった。

SACDでも出たので手に入れた。
SACDでも聴けるし、いまではTIDALでMQA Studioでも聴ける。

ついさっきまで聴いていた。MQA Studioで聴いていた。
聴いていて、いままで感じたことのないことを考えていた。

なにかものすごいつらい状況に追いやられた時、
音楽を聴く気力すらわいてこない時、
とにかく尋常ではない時に聴ける音楽は、こういう音楽なのではないか、と。

Date: 9月 25th, 2021
Cate: Glenn Gould

9月25日(その2)

1932年9月25日が、グレン・グールドの誕生日である。

グレン・グールドがもし生きていれば、89歳。
八年前にも、グールドの81歳の姿は想像できない、と書いているのだから、
89歳、そして来年の90歳の姿は、やはり想像できない。

それでも生きていてくれていれば──、と、
グレン・グールドの演奏を聴いてきた者ならば思うだろう。

私はベートーヴェンのピアノ・ソナタの最後の三曲を録音しなおしてほしかった。
ゴールドベルグ変奏曲の旧録と新録を聴いているわけだから、
再録音してくれていたら──、と。

他にもグールドの解釈で聴きたかった作曲家、曲はある。
それでもベートーヴェンの三曲だけは、再録音で残してほしかった。

グールドが亡くなった1982年にも、そう思った。
このおもいは、強くなっていくばかりだ。

Date: 4月 28th, 2020
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(「コンサートは死んだ」のか・その3)

グレン・グールドが語った「コンサートは死んだ」。
新型コロナ禍のいま改めて「コンサートは死んだ」を考えると、
「コンサート(ホール)は死んだ」なのかもしれない。

グレン・グールドはコンサート・ドロップアウト後も、テレビ用に演奏している。
カメラの向う側、テレビの向う側に聴き手に向けてのコンサートである。

それにゴールドベルグ変奏曲もDVDが出ているくらいだ。
その他にも、グールドの映像は、
ホールでの演奏会を頻繁に行っている演奏家よりも、ずっと多い。

そんなグールドがいうところの「コンサートは死んだ」は、
コンサートホールは死んだ、ということかもしれない。

しかもコンサートホールそのものが消滅するということではなく、
そこに大勢の観客が集まってのライヴ演奏が死んだ、ということなのか。

グールドのいうように「コンサートが死んだ」としても、
コンサートホールは、特にクラシックの録音に関しては、録音の場として残っていくだろう。

だとすれば、ライヴ会場としての「コンサート(ホール)は死んだ」なのか。

グールドは指揮者としての活動も始めていた。
ワーグナーのジークフリート牧歌の録音が残っている。

それにグールドは別の場所にいて、テレビカメラでオーケストラがいる場と中継して、
離れた場所から指揮するという試みも行っている。
いまから40年ほど前のことだ。

コロナ禍により、STAY HOMEである。
クラシックの演奏家に限らず、いろんなジャンルの音楽家(演奏家)が、
自宅からインターネットのストリーミングを里余しての演奏を公開しいてる。

さらには離れた場所にいる数人がインターネットを介して、いっしょに演奏している。

昔、グールドがやっていたこととほぼ同じことをやっている、とも見える。
もしいまグールドが生きていたら、まっさきに演奏を公開していたのではないだろうか。

Date: 3月 30th, 2020
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(「コンサートは死んだ」のか・その2)

(その1)へのコメントがfacebookにあった。
録り直しを気が済むまでできる演奏と、
やり直しがきかない演奏とでは、
そこにマイクロフォンがたてられていても違うのではないか……、
という趣旨のことだった。

録音は確かに何度でも録れる。
グレン・グールドは、“non-take-two-ness”(テイク2がない)と言っている。
それにテープ編集での新たな創造についても、具体例を語っている。

録音の歴史をふりかえってみれば、
録音も、そう簡単に何度もやり直せるわけではなかった。

エジソンの時代、
いわゆるダイレクトカッティングで録音れさていた。
ちょっとでもミスがあったら、最初からやり直すしかない。

蝋管の時代から円盤の時代に移行しても、変らない。
ドイツがテープ録音を発明し、
アメリカで第二次大戦以降に実用化されて、録り直しが当り前のとこになってきたし、
テープ編集も生れてきた。

それでも1970年代には、音を追求してのダイレクトカッティングが、
いくつかのレコード会社で行われてきた。

最近では、2014年に、ドイツ・グラモフォンが、
サイモン・ラトル/ベルリン・フィルハーモニーによるブラームス交響曲全集を、
ダイレクトカッティングで録音している。

いまはテープ録音からハードディスクへの記録に変っている。
編集は、テープよりもより簡単に、正確に行える時代になってきているのは確かだ。

だからといって、演奏家はいいかげんな気持で録音に臨んでいるわけではないはずだ。

Date: 3月 22nd, 2020
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(「コンサートは死んだ」のか・その1)

コンサート・ドロップアウトを宣言し、
「コンサートは死んだ」と語ったグレン・グールド。

グールドの死後、コンサートは廃れるどころか、その真逆である。
グールドの予言は外れた、ともいえる。

コンサート(ライヴ会場)には行くけれど、
レコード(録音メディア)はあまり購入しない、という人が増えている、ときく。

人気のある歌手の、近年のコンサートの様子は、大型テーマパークのようでもある。
このままますます肥大化していくようにも思えた。

そこに新型コロナである。
音楽コンサートだけでなく、大型イベントが中止もしくは延期になっている。

私が好きな自転車レースも、そうとうに影響を受けている。
不謹慎といわれるだろうが、グールドの予言が現実のものになりつつある。

とはいえグールドの予言そのままというわけではない。
電子メディアの発達によってコンサートが廃れていっているわけではない。

新型コロナが今後どうなっていくのか、私にはわからない。
早くに収束していくのかもしれないし、ずっと長引くのかもしれない。

そのため、ある試みがなされている。
無観客で演奏会、
その様子をストリーミング中継する。

これこそ電子メディアの発達による音楽鑑賞のひとつである。
そうなると、クラシックの演奏会では、基本的に無縁の存在であるマイクロフォンが、
ステージの上に立つことになる。

Date: 8月 24th, 2015
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(2020年東京オリンピック)

私はアーティストには用はない
彼らは岩山に群がる猿だ。
彼らはなるべく高い地位、高い階層を目指そうとする。
     *
グレン・グールドがこういっている。

2020年東京オリンピックのエンブレムに関する騒動。
盗用なのかそうでないのか、他のデザインはどうなのか──、といったことよりも、
佐野研二郎氏を擁護している人たちの発言を目にするたびに、
このグレン・グールドの「アーティストには用はない」を思い浮べてしまう。

先日も、ある人が発表したエンブレムに対しての、この人たちの発言を目にした。
この人たちの多くは、アートディレクターもしくはアーティストと自称しているし、
まわりからもそう呼ばれているようだ。

グレン・グールドがいっている「岩山に群がる猿」、
「高い地位、高い階層を目指そうとする」猿そのもののように、どうしても映ってしまう。

この人たちも、グレン・グールドを聴いていることだろう。
そして、この人たちはグレン・グールドのことをアーティストと呼ぶのだろう。

だがグレン・グールドは「アーティストには用はない」といっているのだから、
自身のことをアーティストだとは思っていなかったはず。

グレン・グールドはピアニストではあった。
けれど指揮も作曲もしていたし、ラジオ番組の制作もやっていた。

ピアニストという枠内に留まっていなかった。
音楽家という枠内にも留まっていなかった。

グレン・グールドが行っていたのは、
スタジオでのレコーディングであり、それはスタジオ・プロダクトであり、
グレン・グールドはスタジオ・プロダクト・デザイナーであった。

グレン・グールドは、アーティストとデザイナーの違いをはっきりとわかっていた。
だから「アーティストには用はない」。

Date: 11月 24th, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その4)

1992年に「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」を書いた。
グールドの没後10年目だから書いた。

22年が経って、1992年の「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」には欠けているものに気づいた。

録音、それもグレン・グールドが認めるところのスタジオ録音(studio productとはっきりといえる録音)、
それをデザインの観点からとらえていなかったことに気づいた。

そのことをふまえてもう一度「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」を書けるのではないか、
そう思いはじめている。

いつ書き始めようとか、そんなことはまだ何も決めていない。
それに、この項もまだまだ書いていく。
ただ、書けるという予感があるだけだ。

Date: 11月 22nd, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その3)

studio productとはっきりといえる録音は、デザインである。
このことに気づいて、グレン・グールドがコンサートをドロップアウトした理由が完全に納得がいった。

グレン・グールド自身がコンサート・ドロップアウトについては書いているし語ってもいる。
それらを読んでも、はっきりとした理由があるといえばあるけれど……、という感じがつきまっとていた。

グレン・グールドが録音=デザインと考えていたのかどうかは、活字からははっきりとはつかめない。
けれどグールドには、そういう意識があったはず、といまは思える。
だからこそ、デザインのいる場所のないコンサートからドロップアウトした、としか思えない。

確かグールドはなにかのインタヴューで、
コンサートでの演奏は一瞬一瞬をつなぎあわせている、といったことを発言している。

それが聴衆と演奏者が一体になって築くもの、つまりは芸術(アート)だとするならば、
スタジオでの録音は、それもグレン・グールドのようなスタジオ・アーティストによるものは、
アートと呼ぶよりもデザインと呼ぶべきではないのか。

グールドは、こうもいっていた。
     *
私はアーティストには用はない。
彼らは岩山に群がる猿だ。
彼らはなるべく高い地位、高い階層を目指そうとする。
     *
グールド以外のすべての演奏者がそうだといいたいのではない。
ただグレン・グールド自身はアーティストとは思っていなかったのかもしれないし、
呼ばれたくもなかったのだろう。

それはなぜなのか。
デザインということだ、と私は思う。