Archive for category Glenn Gould

Date: 8月 24th, 2015
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(2020年東京オリンピック)

私はアーティストには用はない
彼らは岩山に群がる猿だ。
彼らはなるべく高い地位、高い階層を目指そうとする。
     *
グレン・グールドがこういっている。

2020年東京オリンピックのエンブレムに関する騒動。
盗用なのかそうでないのか、他のデザインはどうなのか──、といったことよりも、
佐野研二郎氏を擁護している人たちの発言を目にするたびに、
このグレン・グールドの「アーティストには用はない」を思い浮べてしまう。

先日も、ある人が発表したエンブレムに対しての、この人たちの発言を目にした。
この人たちの多くは、アートディレクターもしくはアーティストと自称しているし、
まわりからもそう呼ばれているようだ。

グレン・グールドがいっている「岩山に群がる猿」、
「高い地位、高い階層を目指そうとする」猿そのもののように、どうしても映ってしまう。

この人たちも、グレン・グールドを聴いていることだろう。
そして、この人たちはグレン・グールドのことをアーティストと呼ぶのだろう。

だがグレン・グールドは「アーティストには用はない」といっているのだから、
自身のことをアーティストだとは思っていなかったはず。

グレン・グールドはピアニストではあった。
けれど指揮も作曲もしていたし、ラジオ番組の制作もやっていた。

ピアニストという枠内に留まっていなかった。
音楽家という枠内にも留まっていなかった。

グレン・グールドが行っていたのは、
スタジオでのレコーディングであり、それはスタジオ・プロダクトであり、
グレン・グールドはスタジオ・プロダクト・デザイナーであった。

グレン・グールドは、アーティストとデザイナーの違いをはっきりとわかっていた。
だから「アーティストには用はない」。

Date: 11月 24th, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その4)

1992年に「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」を書いた。
グールドの没後10年目だから書いた。

22年が経って、1992年の「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」には欠けているものに気づいた。

録音、それもグレン・グールドが認めるところのスタジオ録音(studio productとはっきりといえる録音)、
それをデザインの観点からとらえていなかったことに気づいた。

そのことをふまえてもう一度「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」を書けるのではないか、
そう思いはじめている。

いつ書き始めようとか、そんなことはまだ何も決めていない。
それに、この項もまだまだ書いていく。
ただ、書けるという予感があるだけだ。

Date: 11月 22nd, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その3)

studio productとはっきりといえる録音は、デザインである。
このことに気づいて、グレン・グールドがコンサートをドロップアウトした理由が完全に納得がいった。

グレン・グールド自身がコンサート・ドロップアウトについては書いているし語ってもいる。
それらを読んでも、はっきりとした理由があるといえばあるけれど……、という感じがつきまっとていた。

グレン・グールドが録音=デザインと考えていたのかどうかは、活字からははっきりとはつかめない。
けれどグールドには、そういう意識があったはず、といまは思える。
だからこそ、デザインのいる場所のないコンサートからドロップアウトした、としか思えない。

確かグールドはなにかのインタヴューで、
コンサートでの演奏は一瞬一瞬をつなぎあわせている、といったことを発言している。

それが聴衆と演奏者が一体になって築くもの、つまりは芸術(アート)だとするならば、
スタジオでの録音は、それもグレン・グールドのようなスタジオ・アーティストによるものは、
アートと呼ぶよりもデザインと呼ぶべきではないのか。

グールドは、こうもいっていた。
     *
私はアーティストには用はない。
彼らは岩山に群がる猿だ。
彼らはなるべく高い地位、高い階層を目指そうとする。
     *
グールド以外のすべての演奏者がそうだといいたいのではない。
ただグレン・グールド自身はアーティストとは思っていなかったのかもしれないし、
呼ばれたくもなかったのだろう。

それはなぜなのか。
デザインということだ、と私は思う。

Date: 11月 22nd, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その2)

グレン・グールドはコンサート・アーティスト、スタジオ・アーティストと言っていた。
無論グールドは後者である。

前者がコンサートホールでの演奏を録音したものと、
後者が、studio productを理解しているスタッフと録音したもの。

後者の録音は、デザインであるはずだ。

Date: 10月 9th, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その1)

別項「オーディオマニアとして」で、グレン・グールドの「感覚として、録音は未来で、演奏会の舞台は過去だった」について触れている。

ここでの録音、つまりグレン・グールドが指している録音とは、studio productである。

studio productといっても、何も録音場所がスタジオでなければならない、ということではもちろんない。
ホールで録音しても、教会で録音しようとも、studio productといえる録音もある。

スタジオで録音したから、すべてがstudio productというわけでもない。
studio productとは、録音によって解釈を組み上げる行為、その行為によってつくられるモノであり、
録音をstudio productと考えていたのはグレン・グールドだけでなく、
カラヤンもそうであるし、ショルティもそうだ。

studio productだから、生れてくる「モノ」がある。

Date: 8月 24th, 2014
Cate: Glenn Gould, オーディオマニア

オーディオマニアとして(グレン・グールドからの課題)

グレン・グールドの、この文章を引用するのは、これで三回目。
一回目は「快感か幸福か(その1)」、二回目は「ベートーヴェン(動的平衡・その4)」。
     *
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。
     *
濁った水がある。
水に混じってしまった不純物は、ゆっくりと水の底に沈殿していく。
水は透明度をとり戻していく、落ち着いた静けさの心的状態によって。

心も同じのはず。
落ち着いた静けさの心的状態では、まじってしまった不純物も底へと沈殿していく。

アドレナリンを瞬間的に射出してしまえば、不純物はまいあがり濁る。

わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくために、
オーディオの働きを借りるのがオーディオマニアではないのか。

グールドは、積極的な意味で使っている、とことわったうえで、
美的ナルシシズムの諸要素を評価するようになってきている、としている。

美的ナルシシズム、美的ナルシシズムの諸要素。
オーディオではナルシシズムは決していい意味では使われない。

ナルシシズム、ナルシシスト。
これらが音について語るとき使われるのは、いい意味であったことはない。

オーディオマニアとしての美的ナルシシズム、
自分自身の神性の創造、
グールドからのオーディオマニアへの課題だと私は受けとっている。

Date: 9月 25th, 2013
Cate: Glenn Gould

9月25日

9月25日は、グレン・グールドの誕生日である。

グレン・グールドが生きていれば81歳になるわけだが、
グールドの81歳の姿は想像できない。
70歳の姿も想像できない。

60歳の姿も想像し難い。

それは黒田先生が「音楽への礼状」で書かれていることと同じ理由である。
     *
 これは彼の悪戯にちがいない。
 あなたの急逝を知らせる新聞の記事を目にしたときに、まず、そう思いました。困ったもんだ、新聞までかつがれてしまって。あまりに急なことだったので、まさかという思いがありましたし、それに、いかになんでも、あなたは、亡くなるには、若すぎた。それだけではありません。そのとき、ぼくの頭を「グレン・グールド・ファンタジー」のことがかすめました。
 あの「グレン・グールド・ファンタジー」のような悪戯をぬけぬけとやってのけたあなたのことですから、周囲のひとたちすべてをだまして自分が死んだことにするぐらい、朝飯前でしょう。彼は、きっと、十年ほど姿を消していて、その間に、ベートーヴェンの録音しのこしたソナタとか、ぼくらがまさかと思っているショパンやシューマンの作品とか、あるいは新作のピアノ曲とか、あれこれレコーディングしておいて、突如、「グレン・グールドの冥土からの土産」などとタイトルのつけられたアルバムを発表するにちがいない。ぼくは、ひとりひそかに、そう確信していました。
 あなたが亡くなったのは一九八二年ですから、ぼくはまだあなたのよみがえりに対して希望を捨ててはいませんが、しかし、あなたの二度目の「ゴルトベルク変奏曲」のディスクにのっていた写真をみて、ぼくの確信は、ぐらっとよろけました。もし、あの椅子に腰かけているあなたの写真をみてから、あなたの訃報にふれたのであったら、ぼくは、あなたが悪戯で姿を消したなどとは考えなかったにちがいありません。あの写真は暗い予感を感じさせる、ぼくにとってはつらい写真でした。
     *
ゴールドベルグ変奏曲のジャケットのグールドの顔、なによりもその目は、そう思わせる。
ジャケットの撮影が行われたのは50歳の誕生日を迎える前だろうから、
まだグールド49歳のときのものであるはず。

にも関わらず、こういう目をグールドはしていた。
こういう目をしている者が、70、80歳まで生きていられるとは思えない。

Date: 4月 20th, 2012
Cate: Glenn Gould

グレン・グールド著作集(その1)

今年は2012年、グレン・グールド没後30年だから、ふたたび読みはじめたわけでもないけれど、
今日、ひさしぶりに(ほんとうにひさしぶりに)にグレン・グールド著作集を本棚からとり出した。

グレン・グールド著作集の翻訳本がみすず書房から出たのは1990年、I集、II集ともすぐに買って読んだ。
二冊あわせたボリュウムはけっこうなもので、一度読んだだけだった。
なので、二冊の著作集に書かれてあることがどの程度しっかり頭にはいっているかというと、いささか心もとない。
いつかは、じっくり読もう、と思いながら、
グールドの書いたものを読むのはけっこうなエネルギーを必要とするから、ついついそのままにしていた。

それが、今日、ふと目に留まり手を伸ばした。
すくなくとも一度は読んだ本だから、気になるところだけを読むということもできるわけだが、
22年ぶりの二度目だから、ほとんどはじめて読むに近いといえるところもあるから、
これはもう最初から読み進めていくしかない。

ティム・ペイジによるまえきががあり、
グールドによる文章(内容)は、
 プロローグ
 第一部 音楽
 第二部 パフォーマンス
 間奏曲
 第三部 メディア
 第四部 そのほかのこと
 コーダ
からなっていて、プロローグは、1964年11月にトロント大学王立音楽院の卒業生への祝辞である。

1964年だから、1932年生れのグールドは32歳。
ここで話している内容は──グールドが残した録音で我々は彼がどれだけすごい人かを知っているわけだが──
やはり驚く。

いくつか引用しておきたい。
     *
諸君がすでに学ばれたことやこれから学ばれることのあらゆる要素は、ネガティヴの存在、ありはしないもの、ありはしないように見えるものと関わり合っているから存在可能なのであり、諸君はそのことをもっと意識しつづけなければならないのです。人間についてもっとも感動的なこと、おそらくそれだけが人間の愚かさや野蛮さを免罪するものなのですが、それは存在しないものという概念を発明したことです。
     *
プロローグから、いきなり考え込まされる……。

Date: 11月 10th, 2008
Cate: Glenn Gould

グールドの椅子

グレン・グールドが、終生愛用した、父親製作の折畳み式の椅子。
2年前、そのレプリカが、フランスで作られ、現在購入できる。
990ユーロ+送料で、世界中に配送してくれる。
The Glenn Gould Chair

1991年だったか、カナダ大使館で開催された「グレン・グールド1988」展。

グールドが亡くなった翌年(1983年)に、カナダ国立図書館に寄贈された遺品は、
25万点以上あり、その整理に時間がかかり、カナダで最初に開かれたのが1988年。

日本での公開は3年後で、約200点が展示されていた。
平日とはいえ、会場はガラガラだった。
日本でのグールドの人気を考えると、信じられないくらいの人の少なさ。

椅子も展示されていた。

グールドの晩年、椅子の状態は相当にボロボロの状態だったと話はきいていたが、
実物は想像以上にひどかった。
「こんなのに座っていたの?」というぐらいに。

その椅子のレプリカ──。

グールドがその椅子に座り、ピアノ(音楽)と向き合ったように、
この椅子に坐ったからといって、グールド的リスナーになれるわけでもないけれど、
グールドの演奏を聴くときには、この椅子で、と思う。