十牛図と「ゴドーを待ちながら」
「ゴドーを待ちながら」の作家、
サミュエル・ベケットは、十牛図を知っていたのか。
十牛図と「ゴドーを待ちながら」の共通する点を、
強引に見つけながら、関連づけていこう──、なんてことはいまは考えていない。
けれども、まったく関係がない、とも思えないでいる。
「ゴドーを待ちながら」の作家、
サミュエル・ベケットは、十牛図を知っていたのか。
十牛図と「ゴドーを待ちながら」の共通する点を、
強引に見つけながら、関連づけていこう──、なんてことはいまは考えていない。
けれども、まったく関係がない、とも思えないでいる。
オーディオマニアである以上、十牛図の牛を「音」として、
それが無理なことであっても、そうとらえてみる。
「音」であるとすれば、
その音は、それまでの人生で得たものによる「音」なのか、
失ってきたものによる「音」なのか、
得たものと失ってきたものとが均衡している「音」なのか。
どれがしあわせなことなのか、どれがいい音なのかはわからない。
ふりかえり、自分の音が、どの「音」なのかがわかる日はくればいい、と思う。
十牛図についての川崎先生の話を聴き終ったあと、
東京への新幹線の中で思いついたことが、マーラーは十牛図のことを知っていたのかどうか、だった。
マーラーによる交響曲は9曲に「大地の歌」を加えると、10曲になる。
強引にこじつけることができるような気もするけれど、かなり無理のあることだとも思っている。
それでも、マーラーは十牛図を知っていたのか──、
このことが頭から離れないままになっている。
2010年9月22日、京都に川崎先生の講演をききに行った。
十牛図についての講演だった、から、USTREAMでの中継があるにもかかわらず、京都に出かけていった。
十牛図の牛が、何を表わしているのか。それを深く考えさせてくれる内容の、川崎先生の話だった。
牛を悟り、だとか、人の心の象徴だ、という意見もあるようだが、
川崎先生の話をきいて約1ヵ月経ったころ、牛は「死」だと思った。
そこから半年ほどたった今年の夏、やはり十牛図の牛は、「死」であると強く感じていた。
さらに半年経ち2011年が終ろうとしている──、牛は「死」である。