Archive for 3月, 2014
程々の音(平均的な音について)
程々の音をテーマにして書いていて、ふと思ったのは、平均的な音という表現に関して、である。
「平均的な音」。
たとえば、あるスピーカーシステムについて、
この価格帯の、この構成のスピーカーシステムとしては平均的な音がする、といった使われ方が以前はされていた。
スピーカーシステムに限らず、
価格や方式、構成などから推測される音としての「平均的な音」だったのかもしれない。
「平均的な音」。
便利な表現のようでもある。
一見わかりやすい。
なんとなくわかるところがある。
だからそれ以上深く追求せずに読み、受けとり、そのまま使ってしまう。
それもなんとなく使ってしまう、はずだ。
そうやって「平均的な音」が意味するところが、
話しているふたりのあいだになんとなく形成されていくのだろうか。
私がここで書いていて、これからも書いていく「程々の音」は、「平均的な音」のことではない。
けれど、「平均的な音」をなんとなく受けとりなんとなく使っている人には、
もしかすると「程々の音」と「平均的な音」は同じか、そこまでいかなくとも似ている類の音かもしれない。
そう思えなくもない。
「平均的な音」。
いまのところ、これをテーマにして書く予定はないけれど、
これから先あれこれ書いていく途中で、面白いテーマにつながっていきそうな気がしないでもない。
瀬川冬樹という変奏曲(その5)
ステレオサウンド 3号の瀬川先生のアンプの試聴記は、すべてthe Review (in the past)で公開している。
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の「いま、いい音のアンプがほしい」も公開しているし、
2010年11月7日に公開したePUBにも収めている。
ひとつは試聴記という短い文章の集合体、
もうひとつはエッセイというかたちのながい文章。
この違いも、こじつけといわれようと、
グールドの最初のゴールドベルグ変奏曲と1981年再録のゴールドベルグ変奏曲との違いに近いものを感じる。
ステレオサウンド 3号の試聴記を読んでわかること、
「いま、いい音のアンプがほしい」を読んでわかること、
それは瀬川先生がどういう音のアンプを理想のアンプとして求められているかであり、
実のところ、ここに関しては、
ステレオサウンド 3号の1967年と「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の1981年、
ここには14年の歳月があるけれど、なにも変っていないことがわかる。
変ったのは、1967年の瀬川先生は「私はぜひ自分の手で作ってみたい気がする」と書かれているのが、
1981年の瀬川先生は「そんな音のアンプを、果して今後、いつになったら聴くことができるのだろうか」
と書かれていることだ。
想像つかないこともある、ということ(その7)
「コンポーネントステレオの世界 ’79」で井上先生が、アルテックの604-8を、
25mm厚の三尺×三尺の合板を二枚に切り90cm×90cmの平面バッフルに取り付けた組合せ、
これは1979年の3月に出たステレオサウンド 50号のマイ・ハンディクラフトと関係しているものだと、
その時は思ってしまった。
50号は「コンポーネントステレオの世界 ’79」の約三ヵ月後に出ている。
さらに「コンポーネントステレオの世界 ’79」と50号のあいだには、HIGH-TECNIC SERIES-4も出ている。
ここでは国内外のフルレンジユニットを2m四方の平面バッフルに取り付けての試聴を行っている。
だから、「コンポーネントステレオの世界 ’79」での井上先生の平面バッフルも、
この流れの中のひとつだと捉えてしまったわけだ。
このころは私はスイングジャーナルのバックナンバーを読むことはなかった。
その機会もなかったし、特に読みたいとも思ってもいなかった。
けれどこの二年、スイングジャーナルのバックナンバー、それも70年代のものを集中して読んでみると、
岩崎先生の組合せに、たびたび平面バッフルが登場していることを知った。
岩崎先生自身も、「またか」といわれそうだが、
とことわりながらも平面バッフルにスピーカーユニットを取り付けた組合せを、1976年においてもつくられていた。
そのことをいまは知っている。
知った上で、「コンポーネントステレオの世界」での井上先生の組合せをみていくと、
当時では見えていなかったことに気づく。
気づくと「コンポーネントステレオの世界 ’78」での組合せも、そうなのだ、とおもえるわけだ。
想像つかないこともある、ということ(書いていて気づいたこと)
「コンポーネントステレオの世界 ’79」から架空の読者は登場しなくなった。
記事の構成も筆者ごととなり、組合せの予算がまず決められている。
「コンポーネントステレオの世界 ’79」は1978年暮にでた別冊だ。
このころステレオサウンドのベストバイは6月発売の夏号でやっていた。
1978年のベストバイを特集していた51号では、
それまでの47号、43号、35号のベストバイと異っている点がひとつあった。
価格帯の設定である。
それまでのベストバイは、スピーカーシステムのベストバイ、プリメインアンプのベストバイ……、といったように、
価格帯の設定はなかった。
たまたまの偶然なのかもしれない。
けれど1978年のステレオサウンドにおいて、価格(予算)ということが、
ベストバイと組合せの両方に登場しているのだ。
想像つかないこともある、ということ(その6)
これを読まれた方のなかには、それでも実際の読者を使わなかったことに納得がいかない人もいることだろう。
なぜ、架空の読者なんて、安易な手段をとるのか、と。
だが「コンポーネントステレオの世界」の実際の編集作業を、
編集部側にたって考えてみれば、実際の読者を呼び取材を行った方が、手間はかからない。
架空の読者の方が、手間も時間もかかる。
まずどういう読者をつくりあげるのか。
どういう音楽を聴いてきて、どういう環境で聴いているのか。
そのうえで、なぜステレオサウンド編集部に手紙をよこしてまで相談するのか。
まずこれが重要となる。
そのあとに、架空の読者像の年齢、職業、名前、イラストの雰囲気など、
細かなことも決めていかなければならない。
ここで手を抜いてしまうと、すべて嘘っぽくなってしまう。
ステレオサウンドが、架空の読者を登場させるスタイルを二冊でやめてしまったのは、
どういう読者像をつくりあげるかということの大変さがあったのだと思う。
そして架空の読者ででなければ、できあがらない組合せもある。
そのひとつが、井上先生のJBLのK151、2440、2355を使った組合せである。
井上先生は、この組合せの中で、次のことを語られている。
*
こういったキャラクターの音はいわゆるオーディオとは無関係だという方が、現在は一般的だと思いますが、ぼくはそう考えません。これもまた立派なオーディオのはずです。
*
この組合せだけではない。
「コンポーネントステレオの世界 ’79」では、
アルテックの604-8Gを平面バッフルに取り付けた組合せをつくられている。
続・ちいさな結論(その7)
いい音を求めるのは、オーディオマニアならば皆同じであっても、
そこに答を求めているのか、問いを求めているのかの違いがあるのではないか。
答だけを求めた方が、ずっと合理的なのかもしれない。
理論だけでオーディオを追求した方が、やはりずっと合理的である。
けれどオーディオの世界には、そういった合理主義だけではすくえない美があるはずだ。
すくえないは、掬えないでもあり、救えないでもある。
想像つかないこともある、ということ(その5)
そう言われてみると、「コンポーネントステレオの世界」’77年度版に試聴風景の写真があるが、
そこには読者は写っていない。
読者の手紙を見開きで紹介しているわけだが、
そこには名前と年齢と職業、それにイラストがあるだけだ。
「読者はいないんだよ」といわれてみて、
たしかに読者が存在していないことは、
見る人がみれば、もしかすると……とわかることだったのかもしれない。
でも当時の私はそんなことはまったく想像していなかった。
そんな私が「読者はいなかったんだよ」をきいて思ったのは、
騙されていた、ではなかった。すごいな、だった。
実在の読者ではなく架空の読者だったことを知った上で読み返してみても、
「コンポーネントステレオの世界」の’77年度版と’78年度版は、
いいスタイルの本に仕上っている、と感じた。
ここに書いたことを読み実在の読者ではなかったことを知り、
騙された、と思う人は、見事に騙されたことに、
騙し方のうまさと、そのために編集部がどれだけのことを考え用意したのかについて考えてもらいたい。
実在の読者が登場して、つまらない記事になるよりも、
架空の読者が登場しておもしろい記事になることを、私だったら望む。
架空の読者を登場されることは、読者を欺いたことにならないのか。
ならない、と私は考える。
実在の読者か架空の読者かといったことは私にとっては、この場合はさほど重要ではない。
重要なのは、架空の読者を登場させてそこでつくられた組合せそのものが、
読者を欺いていないかということだ。
想像つかないこともある、ということ(その4)
「コンポーネントステレオの世界 ’78」は1977年12月にでたステレオサウンドの別冊である。
つまりはこの別冊の取材は9月下旬ごろから10月にかけて行われていたはずだ。
岩崎先生が亡くなられて半年ほど経った時期にあたる。
ああ、だから井上先生はコントロールアンプにクワドエイトのLM6200Rを選ばれたんだな、とやっと気がついた。
これから書くことはずっと黙っておくか、
書くとしてもずいぶん先にするつもりでいた。
けれど、ここで書きたいことのためには、書かざるを得ない。
なので書く。
「コンポーネントステレオの世界」は’77年度版と’78年度版が、
読者からの手紙をまず紹介して、読者本人にステレオサウンド試聴室まで来てもらい、
組合せがつくられていく過程を聴いてもらう、というスタイルをとっている。
いまでも、このスタイルはいいと思う。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」は41号とともにはじめて買ったステレオサウンドでもあったし、
この企画にいつの日か出てみたい、とも思いながらくり返し読んでいた。
’79年度版以降、このスタイルはなくなった。
ステレオサウンドで働くようになって、いくつものことを編集部の先輩にきいた。
そのうちのひとつが、このことだった。
なぜ、読者が登場するスタイルをやめたんですか。
返ってきた答には、正直びっくりした。
そうだったのか、と思った。
「読者はいないんだよ」だったからだ。
瀬川冬樹という変奏曲(その4)
グレン・グールドはゴールドベルグ変奏曲の録音でデビューしている。
テンポのはやい、反復を省略したゴールドベルグ変奏曲だった。
グールドはゴールドベルグ変奏曲を1981年にふたたび録音している。
テンポはゆったりとなっている。
1981年のゴールドベルグ変奏曲が、グールドの最後の録音ではないけれど、
最晩年の録音のひとつである。
つまりはグールドの録音は、ゴールドベルグ変奏曲のアリアからはじまり、
1981年のゴールドベルグ変奏曲のアリアが終りをつげている、といえなくもない。
ゴールドベルグ変奏曲のアリアは、録音では始まりのアリアの録音をそのまま終りのアリアに使うこともできる。
こんなことは演奏会ではできない、録音だけが可能にしていることであるわけだが、
聴けばすぐにわかることだが、グールドはそういうことはしていない。
最初のアリアは最後のアリアは、まったく同じではない。
これは1981年の録音でもそうである。
グールドの最初のゴールドベルグ変奏曲のはじまりのアリアと、
1981年録音のゴールドベルグ変奏曲の終りのアリアが、瀬川先生の書かれたものと重なってくる。
ステレオサウンド 3号でのアンプの試聴記が最初のゴールドベルグ変奏曲のアリアと、
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」での「いま、いい音のアンプがほしい」が、
1981年録音のゴールドベルグ変奏曲の終りのアリアと。
想像つかないこともある、ということ(その3)
このブログであれこれ書いているわけだが、
どのテーマにしても最初にプロットを書いて……、ということはまったくやっていない。
テーマとタイトルだけを考えて、場合によっては最終的な結論を見つけていることに関しては、
ただひたすらそこに向って書いていくだけの作業であり、
結論を見つけるために書いていることもある。
とにかくプロットはまったくないのだから、
ある程度の時間をかけて書いていくうちに、
それに他のテーマを書いているうちに気づくことがある。
今回も、ひとつ気づいたことがあった。
ステレオサウンドが1977年12月に出した「コンポーネントステレオの世界 ’78」での、
井上先生によるある組合せのことについて、である。
この組合せはJBLの楽器用18インチ・ウーファーK151を二発、
中高域はJBLの2440と2355ホーンの組合せ。
キズだらけの大型エンクロージュアにK151が、やや離れてマウントされている姿は、
同じダブルウーファーでも4350のように二発のウーファー近接してマウントされているのを見慣れていると、
やや間が抜けたような感じも受けないわけではないが、
18インチのウーファーが小さく感じられる、その大きさはじんわりと迫力を感じる。
「コンポーネントステレオの世界 ’78」が出た時の感想は、凄いなぁ、だった。
それから30年以上が経って、感じ方もずいぶん変ってきたし、今回気づいたこともある。
そして思い出したこともある。
想像つかないこともある、ということ(その2)
岩崎先生の音の大きさについて、黛さんから先日非常に興味深いことをきけた。
こういうことだった。
ベイシーの菅原さんのところも音は大きい。
けれど、それはどこか抑制されたところも感じさせるけど、
岩崎先生の音の大きさには、そういったものがいっさいない。
私はベイシーの音は聴いたことがないから、
ベイシーの音の大きさについて具体的に知っているわけではない。
それでも、あれだけのシステムで、ベイシーに行ったことのある人、
それも何度も行っている人の話をきけば、そこでの音の大きさの凄さは伝わってくる。
にも関わらず黛さんは、岩崎先生の音の大きさは……、ということをいわれた。
岩崎先生の音を聴いたことがなければ、そういう発言は出てこない、と思う。
でも、一度でも岩崎先生の音を聴いたことがあるからこそ、そう感じるのではないのか。
それはもう、つき抜けている、としか表現しようのない音の大きさなのかもしれない。
おそらく音の大きさ、つまり音圧レベルだけなら、
岩崎先生よりも高いレベルで聴いている人もいるだろうし、
自宅ではそういう大きな音で聴けなくとも、コンサート会場やクラブにおいて、
岩崎先生のよりも高いレベルの音圧を体験している人もいると思う。
岩崎先生が生きていた時代よりも、パワーアンプの出力はそうとうに大きくなっている。
1kWを超えるパワーアンプもあるのだから、大きな音ということに関してなら、
いまのほうがたやすく大きな音は出せる。
けれど、そういう大きな音では、つき抜けることはできないように思えてならない。
以前も書いているが、菅野先生は岩崎先生の音を聴いた時に、
「目から火花が出たんだ」といわれている。
岩崎先生の音の大きさは、そういう大きさなのである。
だから想像つかずにいる。
plus(その12)
分割でプラスされてきたもののなかで、もっとも象徴的ともいえるのが、
ステレオ化といえるのではないだろうか。
モノーラルからステレオへは、それまで1チャンネルしかなかった伝送系に、
もう1チャンネルをプラスして2チャンネルとしたものだから、
その考えでいえばあくまでもプラスであり、分割でプラスされたものとはいえない。
けれどそういえるのか、とも考えられる。
モノーラルでスピーカーが一本しかないときには、すべての音源はスピーカーの位置にあった。
ステレオになりスピーカーが左右に設置されることで、音は左右に拡がっていった。
ここで考えたいのは、センター定位の音について、である。
歌のレコードだと、ほとんどセンターに歌手が定位しているように聴こえる。
けれど2チャンネルのステレオ再生には、スピーカーはあくまでも左右の二本であり、
センターにはスピーカーは存在しない。
モノーラルでの歌は一本のスピーカーからのみ、である。
それがステレオでは二本のスピーカーから、ということになる。
つまりこれはセンター定位する音を、左右のチャンネルに分割しているわけで、
左右のスピーカーから同じ音を出すことによって、
われわれ聴き手はあたかもセンターに歌手がいるように錯覚できる。
なにもセンター定位の音だけではない。
たとえば左側に定位する音に関しても、左側のスピーカーからしか音が出ていないわけではない。
右側のスピーカーからも左側に定位する音の一部は出ていたりする。
センター定位の音では左右に等しく分割していたのが、
片側のチャンネルに寄って定位する音の場合は、分割が等しいわけではない。
こんなふうに考えていくと、ステレオも分割というプラスという見方が可能になる。
豊かになっているのか(その2)
1970年代後半は、50万円をこえていれば、そのオーディオ機器は高級機であり、
100万円をこえているモノは超高級機という認識だった。
これはこの時代のオーディオを体験してきた人ならば、同じはずだ。
1980年代にはいり、200万円をこえるモノ、300万円をこえるモノが登場してきた。
トーレンスのリファレンスが350万円をこえていた。
スレッショルドのSTASIS1も350万円をこえていた。
瀬川先生はステレオサウンド 56号のリファレンスの記事の最後に書かれている。
*
であるにしても、アーム2本、それに2個のカートリッジがついてくるにしても、これで〆めて358万円、と聞くと、やっぱり考え込むか、唸るか。それとも、俺には無縁、とへらへら笑うことになるのか。EMT927までは、値上げになる以前にどうやら買えたが、「リファレンス」、あるいはスレッショルドの「ステイシス1」あたりになると、近ごろの私はもう、ため息も出ない、という状態だ。おそろしいことになったものだ。
*
時代が30年以上前のことではあるけれど、オーディオ機器ひとつの価格が350万円というと、
とんでもない価格であり、「おそろしいことになった」と私も感じながらも、
それでもいつの日か、リファレンスを買える日が来るのではないか、とも思えていた。
リファレンスは買えなかったけれど、927Dst(すでに製造中止になっていたので中古だったが)は買える日が来た。
このころは350万円がオーディオ機器の最高価格といえたし、
1980年代も350万円あたりで落ち着いていた。
EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その7)
たしかに松田聖子の声の質感はガラードとオルトフォンによる音のほうが、滑らかだった。
それでも気になるのは、松田聖子の歌手としての力量をどちらのプレーヤーがより正確に伝えてくれるか、
正確に再現してくれるか、という視点に立てば、私には930stのほうが、より正確に感じられる。
ガラードでの声の滑らかさはよかった。
それでもガラードでの松田聖子は、EMTでの松田聖子ほど歌手として堂々としているようには感じられなかった。
このへんは松田聖子に対する思い入れによっても評価は分れるかもしれない。
松田聖子の声・歌に何を求めたいのか。
松田聖子の熱心な聴き手であれば、親密感を求めるのかもしれない。
930stでの松田聖子は、人によっては立派すぎると感じるかもしれないところもある。
その意味では、親密感は稀薄ともいえよう。
それでもひとりのプロの歌手として松田聖子を聴きたいのであれば、やはり930stを私はとる。
私は松田聖子のレコードをかけたときに、そこに親密感を求めてはいないからである。
ガラードとオルトフォンでの松田聖子は声の質感だけでなく、
930stほど、各演奏者の距離感が適切には表現されていない。
そのため、こじんまりとしたスタジオで録音している雰囲気が漂う。
これもまた親密感ということではうまく働いてくれるのかもしれない。