想像つかないこともある、ということ(その2)
岩崎先生の音の大きさについて、黛さんから先日非常に興味深いことをきけた。
こういうことだった。
ベイシーの菅原さんのところも音は大きい。
けれど、それはどこか抑制されたところも感じさせるけど、
岩崎先生の音の大きさには、そういったものがいっさいない。
私はベイシーの音は聴いたことがないから、
ベイシーの音の大きさについて具体的に知っているわけではない。
それでも、あれだけのシステムで、ベイシーに行ったことのある人、
それも何度も行っている人の話をきけば、そこでの音の大きさの凄さは伝わってくる。
にも関わらず黛さんは、岩崎先生の音の大きさは……、ということをいわれた。
岩崎先生の音を聴いたことがなければ、そういう発言は出てこない、と思う。
でも、一度でも岩崎先生の音を聴いたことがあるからこそ、そう感じるのではないのか。
それはもう、つき抜けている、としか表現しようのない音の大きさなのかもしれない。
おそらく音の大きさ、つまり音圧レベルだけなら、
岩崎先生よりも高いレベルで聴いている人もいるだろうし、
自宅ではそういう大きな音で聴けなくとも、コンサート会場やクラブにおいて、
岩崎先生のよりも高いレベルの音圧を体験している人もいると思う。
岩崎先生が生きていた時代よりも、パワーアンプの出力はそうとうに大きくなっている。
1kWを超えるパワーアンプもあるのだから、大きな音ということに関してなら、
いまのほうがたやすく大きな音は出せる。
けれど、そういう大きな音では、つき抜けることはできないように思えてならない。
以前も書いているが、菅野先生は岩崎先生の音を聴いた時に、
「目から火花が出たんだ」といわれている。
岩崎先生の音の大きさは、そういう大きさなのである。
だから想像つかずにいる。