Archive for category 正しいもの

Date: 1月 31st, 2017
Cate: 正しいもの

正しい音と正しい聴き方(その2)

そういえば、と気づく。
正視はあるが、正聴はない。
あるのは静聴と清聴である。

正視とは、まっすぐに見つめること。対象を正面から見つめること。
静聴は、静かにきくこと。心を落ちつけやすらかにしてよく聞くこと。
辞書には、そう書いてある。

静聴が、正視に相当する、ということなのか。
でも微妙に違うだろう、といいたくなる。

なぜ正聴がないのか。

Date: 12月 28th, 2016
Cate: 正しいもの

正しい聴き方と自由自在な聴き方(self reliance)

マルチアンプのすすめ(その27)」で書いたことを、
もういちどここでも書いておこう。
     *
仏教学者の鈴木大拙氏は、「自由」の英訳を、
辞書に載っているfreedomやlibertyではなく、self relianceとした、ときいている。
     *
ここでいっている聴き方にかかってくる自由とは、freedomではない。
self relianceであるからこそ、そのためにも正しい聴き方を身につけたいのだ。

Date: 12月 28th, 2016
Cate: 正しいもの

正しい聴き方と自由自在な聴き方

好きな音と嫌いな音があるだけだ、という人は、いわば好きな聴き方をしている。
私も好きな聴き方をするし、好きな聴き方よりも正しい聴き方を上位の聴き方とは考えていない。

むしろ好きな聴き方を、正しい聴き方よりも上位の聴き方だと考えている。

ここでの好きな聴き方は、
私が考える好きな聴き方と、
好きな音と嫌いな音があるだけだ、という人の好きな聴き方は、同じとはいえない。

同じである場合もあるだろうが、
好きな音と嫌いな音があるだけだ、という人の好きな聴き方は、
手前勝手な、ひとりよがりな聴き方が多いように感じている。

私は、そんな聴き方を好きな聴き方とは考えていない。
好きな聴き方とは、正しい聴き方を身につけての聴き方であるからだ。

正しい聴き方を身につけずにの好きな聴き方と、
正しい聴き方を身につけての好きな聴き方を同じに捉える人はいないはずだ。
私ははっきりと分けている。

ふたつの好きな聴き方だとごっちゃに受けとめられやすい。
だから、正しい聴き方を身につけての好きな聴き方は、自由自在な聴き方としたい。

Date: 12月 27th, 2016
Cate: 正しいもの

正しい音と正しい聴き方(蛇足とわかっていても)

ここでのタイトルは「正しい聴き方」でもなく「正しい聴き方とは何か」でもなく、
「正しい音と正しい聴き方」にしている。

Date: 12月 27th, 2016
Cate: 正しいもの

正しい音と正しい聴き方(その1)

正しい音と正確な音が同じとは考えていない。
間違っている音があると考えている。
正しい音があると考えている。

そう考えない人がいることは知っている。
好きな音と嫌いな音があるだけだ、と、そういう人はいう。

正しい聴き方がある。
正しい聴き方をしていなければ、正しい音は聴きわけられない。

正しい音を聴こうとしなければ、正しい聴き方は身につけられない。

正しい音と正しい聴き方。
常に考えていかなければならないことだと思っている。

Date: 8月 31st, 2016
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(チェックディスクのこと)

アナログディスク全盛の時代から、オーディオチェックディスクと呼ばれるものが、
レコード会社各社から出ていた。
CDになってからも、各社から出ている。

最近思うのは、逆の意味のオーディオチェックディスクが必要なのではないかだ。
たいていのオーディオチェックディスクに収録されているのは、音の良さを誇る録音である。

私が必要かも……、と考えるのは、
間違っている録音手法を収めたディスクである。

別項「耳はふたつある」の(その4)で書いたマイクロフォン・セッティングによる録音。
ワンポイント録音でも、左右のマイクロフォンを水平ではなく斜めもしくは垂直にしたら、
いったいどういう音になるのか。

マルチマイクロフォンで、一本もしくはいくつかのマイクロフォンを逆相にしたら、
いったいどういう変化が現れるのか。

不安定なマイクロフォンをスタンドを使うと、どうなるのか。

他にもいくつかあるが、
とにかくダメな録音の見本といえるディスクを、どこか制作してくれないだろうか。

ワンポイント録音なのに、
マイクロフォンの水平をまったく気にしない人がいるのは、
ダメな録音手法による音を意識的に聴く機会(確認する機会)がないことも関係していよう。

Date: 1月 10th, 2016
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(続デザインのこと)

中原中也の「音楽と世態」に、こんなことが書かれている。
《それあまあ、昔だつて一般世人は美術家より装飾美術家の方をリアリスティクだと思つてゐたものであるらしい。》

1930年に書かれている。
1930年より昔とは、いつのころなのか。

まだ続くのか……。

Date: 5月 8th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(続々・正確な音との違い)

小林秀雄講演【第六巻】 音楽について」についてくる小冊子の最後に但し書きがある。
     *
この小冊子に活字で所載した小林秀雄氏の談話要旨は、あくまでも誌の談話内容を聴き取るうえでの参考資料です。生前、氏は、自らの講演・対談・講義・スピーチ、それらの活字化を求められた際には必ず速記に全面加筆を施し、自らの加筆を経ない速記の好評は厳しく禁じていました。今回ここに所載した要旨は、編集部の手による文字化に留まるもので氏の加筆を経ておりません。したがって、この要旨を論文、エッセイ等に引用することはご遠慮下さるようお願いいたします。
     *
こう書いてあっては、引用もしづらい。
それに「小林秀雄講演【第六巻】 音楽について」は、いまも入手できるものだから、
読みたい方は買えば読めるのだから、ここでは簡単にどの箇所なのかについて簡単にふれるだけにする。

ステレオサウンドの「音楽談義」では「温泉場のショパン」とつけられている箇所、
「小林秀雄講演【第六巻】 音楽について」では二枚目のCDの11トラックである。
ステレオサウンド 2号、「直観を磨くもの」では、
ラジオからショパンのマズルカが流れてきたときのことを語られている箇所である。

ここのところに、関心をもった人は小林秀雄氏の語られているものをきいてほしい、と思う。
私はここをきいていて、「目に遠く、心に近い」を思い出していた。

Date: 5月 8th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(続・正確な音との違い)

正しい音と正確な音の違い。
「音楽談義」をきいていて思い出したことがある。

インドネシアのことわざらしいのだが、「目に遠く、心に近い」、これを思い出していた。
オーディオではさしづめ「耳に遠く、心に近い」となる。

正しい音と正確な音──、
「耳に遠く、心に近い」音と「耳に近く、心に遠い」音となるのではないのか。

Date: 5月 6th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(正確な音との違い)

正しい音と正確な音の違い。
同じではないか、といわれそうだが、私はこのふたつは似ているようにみえて違うと考えている。
とはいえ、正しい音と正確な音の違いについて、明快で簡潔に述べることができるかといえば、
いまのところまだ無理といわざるをえない。

ここで思い出すのが、ふたりのピアニストのことである。
ひとりはアルフレッド・コルトー、もうひとりはアレクシス・ワイセンベルグ。
コルトーは代りとなる人の名前がすぐに思い浮ばないが、
ワイセンベルグに特に彼である必要性はそれほどなく、他の同じタイプのピアニストであれば、
代りのピアニストでもかまわない。

たまたまワイセンベルグの名前を出したのは、記憶にあっただけである。
それは菅野先生が、ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」マッキントッシュ号での発言である。

マランツの管球式アンプとマッキントッシュの管球式アンプ、
それもモノーラル時代のそれらを集めて、
スピーカーもアナログプレーヤーも同時代のJBLのハークネスとトーレンスのTD124、
記事のタイトルは《マランツ対マッキントッシュ》、
さらにサブタイトルとして
《〈タイムトンネル〉もし20年前に「ステレオサウンド」誌があったら……、》とついている。

そこに《コルトーのミスタッチは気にならないけど、
ワイセンベルグのミスタッチは気になるみたいなところがある。》という発言をされている。

なぜそう感じるのか。
確かにコルトーのミスタッチは気にならない。
気になるという人もいるとは思うけれど、私は気にならないし、
このマッキントッシュ号の取材に参加された岡先生、菅野先生、瀬川先生のお三方も、
座談会を読む限りは、そうだと思われる。

ワイセンベルグのミスタッチは、なぜ気になるのか。
それはコルトーの演奏は「正しい演奏」であり、
ワイセンベルグの演奏は「正確な演奏」ということにつきるような気がする。

クラシックを聴かない人からは、よけいにわからないといわれそうだし、
説明不足なのは承知していても、
正しい音と正確な音の違いもまたそうだ、と思う。

Date: 4月 26th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(続・映画「セッション」を観て)

映画「セッション」の最後10分間の演奏。
この演奏は、作られたものなのか生れてきたものなのか。
作られたものならば、誰によって、何によって作られたのか、
生れてきたものであれば、誰によって、何によって生れてきたのか。

映画「セッション」を観て、オーディオマニアならば、
この点について考えてもらいたい、と思っている。

そして「好きな音」、「正しい音」はどうなのか。
「好きな音」は作られるものなのか、生れてくるものなのか、
「正しい音」は作られるものなのか、生れてくるものなのか。

それぞれは何によって、誰によって作られるのか、生れてくるのか。

Date: 4月 24th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(映画「セッション」を観て)

昨日、映画「セッション」(原題:WHIPLASH)を観てきた。

インターネットで検索すると、賛否両論あることがわかる。
否定的な意見を読んで、観る気が失せた、という人もいるだろう。
けれど、予告編をみて、少なくとも何かを感じた人ならば、ぜひ映画館に足を運んで観てほしい、と思う。

予告編で、観たいと思った人もいれば、逆の人もいるだろう。
どちらにしても、なにかを感じたから、観たい、観たくない、ということになるわけで、
ならば観てほしい。そういう映画だった。

観たいと思った人が、良かったと思うかどうかは保証できないし、
観たくないと思った人が、観て良かったと思うかもしれない。
人それぞれだから、
この映画に対して否定的なことをいっている人が正しいとか間違っているとか、
絶賛している人がどうであるとか、そんなことは気にすることはない。

予告編でなにかを感じたなら、少なくともこのブログを読んでいる人は、
オーディオ、音楽に関心のある人なのだから、大きなスクリーンで観てほしい。

観れば、観た人同士で語りたくなる映画である(少なくとも私にとっては)。
だから、ここでもあれこれ書きたい気持はあるが、
そのためにはどうしてもストーリーについて触れざるを得ない。
公開されて一週間の映画だし、観ていない人の方が多いのだから、あえて書かない。

同じようにジャズをテーマとした映画に、日本の「スウィングガールズ」がある。
楽しい映画だった。けれど細かなストーリーはもう忘れてしまっているし、
この映画について観たもの同士で何かを語りたいとは特に思わなかった。
私にとって、「楽しかった」で済んだ映画だった。

「セッション」は語りたくなる。
いまもステレオサウンドの編集者だったら、
この映画で記事が一本つくれる、と思った。
8ページくらいの記事を、「正しい音とはなにか?」というテーマとあわせて構成できる。

そんなことを考えさせてくれる映画でもあった。

Date: 4月 21st, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その15)

(その14)で引用した五味先生の文章には、「あらためてこのことに私は気づいた。」とある。
何をあらためて気づかれたのか。
     *
 そもそも女房がおれば外に女を囲う必要はない、そういう不経済は性に合わぬと申せるご仁なら知らず、女房の有無にかかわりなく美女を見初めれば食指の動くのが男心である。十ヘルツから三万ヘルツまでゆがみなく鳴るカートリッジが発売されたと聞けば、少々、無理をしてでも、やっぱり一度は使ってみたい。オーディオの専門書でみると、ピアノのもっとも高い音で四千ヘルツ、これに倍音が伴うが、それでも一万五千ヘルツぐらいまでだろう。楽器でもっとも高音を出すのはピッコロやヴァイオリンではなく、じつはこのピアノなので、ピッコロやオーボエ、ヴァイオリンの場合はただ倍音が二万四千ヘルツくらいまでのびる。
 一番高い鍵を敲かねばならぬピアノ曲が果たして幾つあるだろう。そこばかり敲いている曲でも一万五千ヘルツのレンジがあれば鑑賞するには十分なわけで、かつ、人間の耳というのがせいぜい一万四、五千ヘルツ程度の音しか聴きとれないとなれば、三万ヘルツまでフラットに鳴る部分品がどうして必要か——と、したり顔に反駁した男がいたが、なにごとも理論的に割切れると思い込む一人である。
 世の中には男と女しかいない、その男と女が寝室でやることはしょせんきまっているのだから、汝は相手が女でさえあれば誰でもよいのか? そう私は言ってやった。女も畢竟楽器の一つという譬え通り、扱い方によってさまざまなネ色を出す。その微妙なネ色の違いを引き出したくてつぎつぎと別な女性を男は求める。同じことだ。たしかに四千ヘルツのピアノの音がAのカートリッジとBのとでは違うのだから、どうしようもない。
     *
実は、ここのところは引用するつもりは最初はなかった。
けれど(その14)を書いていて気づいたことがあった。

世の中には男と女しかいない、その男と女が寝室でやることはしょせんきまっている、とある。
寝室は、いわば密室である。
リスニングルームも、また密室であることが多い。

リビングルームで家族とともに音楽を聴くのが楽しみという人もいるけれど、
私にとってのリスニングルームとは、そういう意味での「密室」である。

この密室であることが、
オーディオを介して音楽を聴くという行為は密室での行為であるがゆえに、問題となってくるからだ。

Date: 4月 21st, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その14)

五味先生の「五味オーディオ教室」からも思い出す文章がある。
     *
 EMTのプレーヤーで再生する音を聴いて、あらためてこのことに私は気づいた。以前にもEMTのカートリッジを、オルトフォンやサテンや、ノイマンのトランスに接続して聴いた。同じカートリッジが、そのたびに異なる音の響かせ方をした。国産品の悪口を言いたくはないが、トランス一つでも国産の“音づくり”は未だしだった。
 ところが、EMTのプレーヤーに内蔵されたイクォライザーによる音を聴いてアッと思ったわけだ。わかりやすく言うなら、昔の蓄音機の音がしたのである。最新のステレオ盤が。
 いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
 私の家のスピーカー・エンクロージァやアンプのせいもあろうかとは思うが、とにかく同じアンプ、同じスピーカーで鳴らしても人数は増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉しなみに再生するのを意味するのだろうが、レンジはのびていないのだ。近ごろオーディオ批評家の言う意味ではハイ・ファイ的でないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードをかけたおもしろさはシュアーに劣る。
 そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。あまりそれがあざやかなのでチクオンキ的と私は言ったのだが、つまりは、「音楽として美しく」鳴らすのこそは、オーディオの唯一無二のあり方ではなかったか? そう反省して、あらためてEMTに私は感心した。
 極言すれば、レンジなどくそくらえ!
     *
ここで書かれているシュアーV15のニュータイプとは、V15 TypeIIのことだろう。
V15 TypeIIの評価は、かなり高かったようだ。
私が聴いているシュアーのV15シリーズはTypeIII以降で、残念ながらV15 TypeIIは聴く機会がなかった。

ステレオサウンド 50号の巻頭座談会でも、V15 TypeIIのことが語られている。
     *
菅野 シュアーのV15のタイプIIが出はじめたころで、たまたまぼくは少し前に、渡米した父親に買ってきてもらって、すでに使っていたのです。そして、たしかオルトフォンのS15MTと比較して、V15/IIの方が断然優れていると書いたりしていた。そのV15/IIを、瀬川さんが手に入れた日に、たまたまぼくは瀬川さんの家に行ったんですよ。それで、ふたりして、もうMCカートリッジはいらないんじゃあないか、と話したことを覚えている(笑い)。
瀬川 そんなことがありましたか(笑い)。
菅野 あったんですよ。つまりね、ぼくたちはそのとき、カートリッジはこれで到着すべきところまできた、ひとつの完成をみたのであって、もうこれ以上はどうなるものでもないのではないか、ということを話しこんだわけです。たしかにそのときは、そういう実感があったんですね。
     *
当時におけるシュアーのV15 TypeIIの優秀性が伝わってくる。
五味先生もEMTのTSD15よりも「レンジ(周波数特性)ののびている」意味では優秀と書かれている。
そうだと思う。
おそらくトラッキングアビリティもシュアーの方が良かったであろう。
セパレーションも、EMTはシュアーに及ばない、とある。

ならば、あくまでも、この時点ということに限っては、
EMTのTSD15よりもシュアーのV15 TypeIIが「正しい音」を出している、
より「正しい音」といえるのか。

私はそうは思わない。

Date: 4月 21st, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(デザインのこと)

「正しいデザイン」と、前に書いた。
書いておきながら、「正しい音はなにか?」を書いていると、
「正しいデザイン」と書いていることのおかしさのようなものに気づく。

デザインとデコレーションは違う。
デザインとアートも、また違う。
その区別をはっきりとさせようとしていくと、
本来、デザインとは正しいモノ・コトであることに気づいたからである。

正しいモノ・コトの頭に、「正しい」とつけることのおかしさがある。
にもかかわず「やはり「正しいデザイン」と書いていかなければならないとも感じている。

あまりにも「間違っているデザイン」(それはもはやデザインとは呼べないけれど)、
「正しくないデザイン」も「正しいデザイン」と一緒くたに語られている。

デザインは正しいモノ・コトなのだから、あえて「正しい」とつける必要はないはずなのだ。
けれど、現実・現状としてはつけざるをえない。

デザインを好き嫌いで語ることが氾濫している。
これがなくならないかぎり、「正しいデザイン」といっていかなければならないのだろうか。

そしておもう、「正しい音」も、じつのところ同じだ、と。