正しいもの(その18)
そのうち、私は、レコード会社の人からきいた、一つのエピソードを思い出した。
もう大分前のことになるが、現代の最高のピアニストの一人、ルドルフ・ゼルキンが日本にきた時、その人の会社でレコードを作ることになった。ゼルキンはベートーヴェンのソナタを選び、会社は、そのために日本で最も優秀なエンジニアとして知られているスタッフを用意した。日本の機械が飛び切り上等なことはいうまでもない。約束の日、ゼルキンはスタジオにきて、素晴らしい演奏をした。そのあと彼は、誰でもする通り、録音室に入ってきて、みんなといっしょにテープをきいた。ところが、それをきくなり、ゼルキンは「これはだめだ。このまま市場に出すのに同意するわけにいかない」と言い出した。理由をきくと「これはまるでベートーヴェンの音になっちゃいない」という返事なので、スタッフ一同、あっけにとられてしまった。今の今まで、そんな文句をいわれた覚えがないのである。
ことわるまでもないかも知れないが、レコードというものは、音楽家が立てた音をそっくりそのまま再現するという装置ではない。どんなに超忠実度の精密なメカニズムであろうと、何かを再現するに当って、とにかく機械を通じて行う時は、そこにある種の変貌、加工が入ってこないわけにはいかないのである。そう、写真のカメラのことを考えて頂ければ良い。カメラは被写体をあるがままにとる機械のようであって、実はそうではない。カメラのもつ性能、レンズとかその他のもろもろの仕組みを通過して、像ができてくる時、その経過の中で、被写体は一つの素材でしかなくなる。あなたの鼻や目の大きさまで変ってみえることがあったり、まして顔色や表情や、そのほかのいろんなものが、カメラを通じることにより、あるいは見えなくなったり、より強度にあらわになったりする。そのように、音楽家が楽器から出した響きも、録音の過程で、音の高い部分、中央の部分、低い部分のそれぞれについて、あるいはより強調され、ふくらませられたり、あるいはしぼられ、背後にひっこめられたり等々の操作を通過してゆく間に、変貌してゆく。
その時、「本来の音」を素材に、そこから、「どういう美しさをもつ音」を作ってゆくかは、技師の考えにより、その腕前にかかっている。レコードの装置技師は、いわゆる音のコックさんなのだ。もちろん、それでも、いや、それだから、すぐれた技師は、発音体から得られた本来の音のもつ「美質」を裏切ることなしに、その人その人のもつ音の魅力をよく伝達できるような「音」を作るといってもいいのだろう。
だが、ゼルキンが「これはベートーヴェンの音じゃない」といった時、日本の最も優秀な技術者たちは、その意味を汲みかねた。「何をもってベートーヴェンの音というのか?」困ったことに、それをいくら訊きただしてみても、ゼルキン先生自身、それ以上言葉でもって具体的に説明することができず、ただ「これはちがう、ベートーヴェンじゃない」としかいえない。それで、せっかくの企画も実を結ばず、幻のレコードに終ってしまった──というのである。
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この後も、実に興味深い。
が、引用はここまでにしておく。
シャルランの「それはそうと、あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」、
ゼルキンの「これはまるでベートーヴェンの音になっちゃいない」、
同じことをいっているはずだ。
若林駿介氏録音の岩城宏之/NHK交響楽団のベートーヴェンの第五とシューベルトの未完成のレコード、
シャルランはおそらく「これはまるでベートーヴェンの音になっちゃいない」、
「これはまるでシューベルトの音になっちゃいない」といいたかったのではないか。