Archive for category ベートーヴェン

Date: 1月 14th, 2017
Cate: ベートーヴェン

パウル・クレー「造形思考」

パウル・クレーの「造形思考」のことは、
川崎先生のブログで知った。

ちくま学芸文庫から上下二巻で出ている。

目次のあとに、あった。
     *
アングルは静止を秩序づけたといわれる。
わたしはパストを越えて
運動を秩序づけたいと思う。

パウル・クレー 1914年9月
     *
ベートーヴェンを理解するためにも読むべき本だと思った。

Date: 12月 30th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その18)

《人は幸せになるために生まれてきたのではない。自らの運命を成就するために生まれてきたのだ》

ロマン・ロランがベートーヴェンをモデルとしたといわれている「ジャン・クリストフ」に出てくる。

「歓喜の歌」の歓喜とは、そういうことなのか、とも思う。

Date: 12月 14th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その17)

これからなされていく「第九」の録音で、私が聴きたいと思う演奏(指揮者)は、
もう現れてこないかもしれない──、そんな予感とともに、
パブロ・カザルス指揮のベートーヴェンの「第九」は聴きたい。
どうしても聴きたい。

録音は残っている、という話は聞いている。
ほんとうなのかどうかはわからない。
残っているのであれば、たとえひどい録音であろうと、カザルスの「第九」はぜひとも聴きたい。

カザルスの第七交響曲を聴いて、打ちのめされた。
第八交響曲もよく聴く。

第七、第八と続けて聴くこともある。
続けて聴くと「第九」を聴きたいという気持は高まる。
どうしようもなく高まっていく。

それはカザルスの演奏だから、いっそうそうなるともいえる。

カザルスのベートーヴェンの交響曲を聴いていると、
「細部に神は宿る」とは、このことだと確信できる。

カザルスとマールボロ管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲は、
細部まで磨き抜かれたという演奏ではない。
むしろ逆の演奏でもある。

なのに「細部に神は宿る」は心底からそう思うのは、
細部までカザルスゆえの「意志」が貫かれているからだ。
細部まで熱いからだ、ともいえる。

音が停滞することがない。
すべての音が、次の音を生み出す力をもっている、と感じるから、
カザルスのベートーヴェンを聴いて、
「細部に神は宿る」とはまさしくこの演奏のことだと自分自身にいいきかせている。

Date: 12月 11th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その16)

ジュリーニ/ベルリンフィルハーモニーのあとも、「第九」の新譜は聴いてきた。
すべてを聴いていたわけではない。
聴きたいと思った指揮者の「第九」は聴いてきた。

けれど2011年のリッカルド・シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、
2012年になって輸入盤が入ってきたクリスティアン・ティーレマン/ウィーンフィルハーモニー、
これ以降なされた録音の「第九」を聴いていない。

ベートーヴェンの「第九」を聴いてみたいという指揮者がいないというのが、
シャイー、ティーレマンで留っている理由である。

聴いてみたい、と心が動かない。
そうなってしまったのは、老化なのだろうか、とも思う。

このまま、新しく録音された「第九」を聴かずに、
いままで聴いてきた「第九」をくり返し聴いていくのだろうか。

Date: 11月 30th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その15)

(その9)で引用した五味先生の文章を、もう一度読んでほしい。
     *
ベートーヴェンのやさしさは、再生音を優美にしないと断じてわからぬ性質のものだと今は言える。以前にも多少そんな感じは抱いたが、更めて知った。ベートーヴェンに飽きが来るならそれは再生装置が至らぬからだ。ベートーヴェンはシューベルトなんかよりずっと、かなしい位やさしい人である。後期の作品はそうである。ゲーテの言う、粗暴で荒々しいベートーヴェンしか聴こえて来ないなら、断言する、演奏か、装置がわるい。
(「エリートのための音楽」より)
     *
ソニーのポーダブルCDの音は、決して優美な音ではなかった。
安っぽい音といってはいいすぎだが、価格相当の音でしかなかった。

それでもジュリーニの「第九」に涙した。
ソニーのポータブルCDの音は、優美な再生音ではなかったけれど、
それまでの私は、優美な再生音を出そう、優美な再生音でベートーヴェンを聴きたい、
その一心でオーディオをやってきた。

優美な再生音が出せていたのかよりも、
出そうとつとめてきた日々があったからこそ、といえる。

だから音楽を聴いてきてよかった、
ベートーヴェンを聴いてきてよかった、とともに、
オーディオをやってきてよかった、ともおもっていた。

Date: 11月 29th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その14)

ベートーヴェンの前に出ていた、ウィーンフィルハーモニーとのブラームスも素晴らしかった。
だからベルリンフィルハーモニーとのベートーヴェンも期待していた。
期待していたからこそ、無理をしてでもCDと聴くためのポータブルCDを購った。

ソニーのポータブルCDだった。
質屋にあったくらいだから最新機種でもなく、普及クラスの型落ちモデルである。
どんな音なのかはまったく期待していなかったし、その通りの音しかしてこなかった。
それでも、聴いていて涙がとまらなかった。

男は成人したら、涙を流していいのは感動したときだけだ、と決めていた。
つらかろうが、くやしかろうが、涙は流さないのが大人の男だと思っていた。

こんなにも涙は出るものか、と思うほどだった。
一楽章がおわり、二楽章、三楽章と聴いて、四楽章。
バリトンの独唱がはじまると、もっと涙が出た。

大切なもの、大事にしてきたものがほとんどなくなってしまった狭い部屋で、
ひとりでいた。ひとりできいていた。

音楽を聴いてきてよかった、と思った。
ベートーヴェンを聴いてきてよかった、とも思っていた。

Date: 11月 27th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その13)

1990年8月に左膝を骨折した。
一ヵ月半ほど入院していた。

真夏に入院して、退院するころは秋だった。
退院したからといって病院と縁が切れるわけではなく、
リハビリテーションがあるから毎日通院していた。

骨折して脚が一時的ではあるが不自由になると、
健康なころには気づかないことが多々在ることを知らされる。

普段何気なく歩いていのはどこにも故障がないからである。
片膝が曲らないだけで、歩き難さを感じる。

道の断面が平らではないから、端を歩くのが大変だし、
歩道に電柱があったりする。
そういう歩道に限って狭いのだから、電柱をよけるのもいやになる。

階段もそうだ。
昇るのが大変だと思われがちだが、昇りはゆっくり進めばいいだけで、
怖いのは降りである。

昇りのエスカレーターはあっても、降りのエスカレーターはない駅が大半だった。
なぜ? と思う。

リハビリに通い始めのころは歩くのも遅かった。
高齢の方に追い越されもした。

そんな日々が一ヵ月以上続いた。
リハビリから戻ってきても、部屋には何もなかった。
音楽を鳴らすシステムが何もなかった。

それでもリハビリからの帰り道、ジュリーニ/ベルリンフィルハーモニーの「第九」の新譜をみかけた。
聴きたい、と思った。
といっても聴くシステムがないから、
当時住んでいた西荻窪駅近くの質屋でポータブルCDがあったのを買った。

(その6)で書いたことを、また書いているのは、
この時のジュリーニの「第九」は不意打ちだったからだ。

ジュリーニの「第九」だから買った。
期待して聴いた。
それでも不意打ちのような感動におそわれた。

そのときの私は、仕事をしていなかった。
ひとりでいた。
リハビリだけの日々。

日常生活を送っていた、
とはいえ、みじめな生活といえばそうである。
どことなく社会から取り残され隔離されているように感じていたのかもしれない。

ポータブルCDだから付属のイヤフォンで聴いた。
少し大きめの音で聴いた。

Date: 3月 9th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェン(とオーディオ)

今年の秋で、「五味オーディオ教室」と出逢って40年になる。
40年のうちに、いろんな変化があった。

そのひとつに、ベートーヴェン交響曲全集がある、と思う。
レコード会社にとって、全集モノは、いわゆる金のかかる企画である。
時間もふくめて、金のかかる企画である。

そうである以上、ある程度、もしくは十分に採算のとれる見込みがなければ、
レコード会社も手を出さない、といえる。

まして全集モノの再録音となると、それをやれる演奏家はごく一部に限られる。
カラヤンがそういう存在だった。

ベートーヴェン全集を再録音している。
その全集はレコード雑誌だけでなく、オーディオ雑誌でもとりあげられていた。

演奏の変化とともに録音の変化について語られることがあった。

Date: 8月 12th, 2015
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その12)

隔離された場所での、不意打ちのように流れてきた音楽に接した聴き手と、
クラシック音楽が好きで、自分でレコードを買い、オーディオを介して接する聴き手とで、
演奏家に対しても違いがある。

レコードを買って聴く聴き手は、
レコードを棚から取り出すときすでに、曲とともに演奏家を意識している。
ベートーヴェンの「第九」をカラヤンで聴きたい、とか、トスカニーニで聴きたい、といったように。

隔離された場所で「第九」、「フィガロの結婚」に接して聴き手は、
流れてきた曲が誰が作曲したのかもわからない人が多いかもしれないし、
たとえ曲名は知っていても、誰が演奏しているかどうかまでは知らずに聴く(聴かされる)ことになる。

何も知らずに、突然鳴ってきた音楽を聴く。
音楽との出逢いにおいて、この不意打ちのように聴こえてきた音楽は、
ときとして意識して聴く音楽以上に、聴き手の心に響くのかもしれない。

隔離された場所での不意打ちのように鳴ってきた音楽──。
その1)で書いた映画「いまを生きる」(原題はDead Poet Society)の中盤、
突然鳴ってきたベートーヴェンの「第九」は、私にとってまさに不意打ちであった。

あのシーンで「第九」が使われるとは、とも感じたけれど、
やはり、あのシーンでは「第九」だな、と思いながら、
誰の演奏なのかわからない「第九」を初めて聴いていた。

映画館も、いわば隔離された場所といえなくもない。
大きな映画館では千人以上の人が入り、暗がりの中、皆スクリーンを見つめている。

自分の意志で入場し、出ようと思えば映画の途中でも退場できる。
そんな隔離された場所は、刑務所という出入りが自由にはできないところとは、
隔離の意味合いがずいぶんと違うのはわかっている。

私は映画館というある種隔離された場所・時間の中で、ライナーの「第九」と出逢った。

Date: 6月 12th, 2014
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その11)

隔離された場所での音楽ということで思い出すのは、映画「ショーシャンクの空に」だ。
主人公(アンディ・デュフレーン)が、無実の罪で投獄される。

20年前の映画だ。
いまでも評価の高い映画だから観ている人も少なくないだろう。
あらすじは省く。

映画の中盤、アンディ・デュフレーンが投獄されているショーシャンク刑務所に本とレコードが寄贈される。
その中にモーツァルトの「フィガロの結婚」のレコードを見つける。
卓上型のレコードプレーヤーで聴きはじめたアンディ・デュフレーンは、
ひとりで聴くのではなく、管内の放送設備を使い、刑務所中に響きわたらせる。

そのシーンを思い出す。

「第九」の話も、「ショーシャンクの空に」も隔離された場所での、
そこに似つかわしくない、といえる音楽が鳴る。

実際の話と映画(フィクション)をいっしょくたにしているわけだが、
こういう世間と隔離された場所で、
おそらく「第九」も「フィガロの結婚」もはじめて耳にする人たちが大勢いる、ということでは共通している。

どちらの聴き手にも、音楽の聴き手としての積極性はない。
自ら、この曲(第九にしてもフィガロの結婚にしても)を選んで聴いているわけではない。
いわば不意打ちのようにして聴こえてきた音楽である。

Date: 6月 12th, 2014
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その10)

思い出したことがある。
なにかきっかけがあって思い出した、ともいえない感じで、あっそうだった、という感じで思い出した。

いつだったのかは精確にもう憶えていないくらい、以前のことだ。
おそらく1970年代終りから1980年ごろにかけてだった。

朝日新聞の天声人語(だったと思う、これも記憶違いかもしれない)に、
ベートーヴェンの「第九」に関することが書かれていたことがあった。

とある刑務所で、
受刑者に年末ということでベートーヴェンの「第九」を聴かせた、という話だった。
受刑者のひとりが「第九」を聴いて、号泣した、と。

「第九」を聴いていたら、罪を犯しはしなかっただろう……、と。

日本では年末に「第九」がいたるところで演奏される。
いつごろからそうなったのかは知らない。
私が「第九」を意識するようになったころには、すでにそうだった。

「第九」に涙した受刑者が、どれだけそこにいるのかはわからないし、いくつなのかも知らない。
彼がそこに入る前から「第九」は年末に演奏されていたようにも思える。

断片は耳にしたことはあったのだろう。
でも、それはベートーヴェンの交響曲第九番の断片としてではなく、
彼の耳に入っていたのかもしれない。音楽として意識されることなく消え去ったのかもしれない。

すくなくとも世間から隔離された場所で、彼ははじめて「第九」を聴いた。
街をあるけば、いたるところでBGMとして「第九」は流れているのに、だ。

Date: 12月 27th, 2013
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その9)

五味先生が書かれている。
     *
ベートーヴェンのやさしさは、再生音を優美にしないと断じてわからぬ性質のものだと今は言える。以前にも多少そんな感じは抱いたが、更めて知った。ベートーヴェンに飽きが来るならそれは再生装置が至らぬからだ。ベートーヴェンはシューベルトなんかよりずっと、かなしい位やさしい人である。後期の作品はそうである。ゲーテの言う、粗暴で荒々しいベートーヴェンしか聴こえて来ないなら、断言する、演奏か、装置がわるい。
(「エリートのための音楽」より)
     *
これは、ほんとうにそうである。
20代よりも30代、30代よりも40代、
そして50になってみると、「今は言える」と書かれた五味先生の気持がわかってくる。

優美な再生音を、だからといって勘違いしないでほしい。
軟弱な、なよなよとした音が優美であるわけがない。

優美な再生音で「第九」を聴いてほしい。
ただそれだけだ。

Date: 8月 24th, 2013
Cate: ベートーヴェン

待ち遠しい(アニー・フィッシャーのこと・余談)

アニー・フィッシャーに関する情報は、昔は少なかった。
いまではインターネットのおかげで、
私がアニー・フィッシャーをはじめて聴いた時に比べればずっと多くの情報が得られるとはいえ、
それでもほかのピアニストと比べれば、情報はそれほど多くはない。

それでもアニー・フィッシャーが素晴らしいピアニストであることにはなんら影響を与えることはないのだが、
それでもアニー・フィッシャーの人となりは、少しは知りたい気持は、いまもある。

twitterには、Botとよばれる、著名人の発言をツイートするアカウントがある。
私もそんなBotをいくつかフォローしていて、そのなかのひとつにRichterBotがある。

ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルに関するものだ。
今日ツイートされた中に、リヒテルがアニー・フィッシャーについて語っているものがあった。
     *
(アニー・フィッシャーは)実に率直な人物で、私の見るところ外交辞令など一切抜きである。だから言うことが信じられる。何でも包み隠さず、こちらの目を見ながら言ってくれる。私の弾いたバッハ『フランス組曲ハ短調』とモーツァルトの『ソナタへ長調』の演奏を的確に批判したことをよく覚えている。
     *
やはり、そういう人だったんだ、と思った。

Date: 7月 31st, 2013
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その5)

アンドラーシュ・シフのCDをはじめて聴いた時のことが思い出されてきた。
その時受けた印象が、まるっきり同じである。

だからといってシフが変っていないわけではない。
約20年の歳月、私もそれだけ歳をとっているし、シフだって同じに歳をとっている。
20年前に鳴らしていたオーディオ機器は、なにひとついまはない。
まったく違うオーディオ機器で鳴らしての印象が同じだった。

たとえ同じオーディオ機器を持っていて、住んでいるところも同じだったとしても、
20年前の音と2004年の音がおなじなわけはない。

まわりの環境も、ほぼすべてが変っている。
変っていないものといえば、
デッカ時代のシフゴールドベルグ変奏曲のCDに刻まれているピット(データ)だけしかない。

そのデッカ時代のゴールドベルグ変奏曲のCDを、2004年に聴いたところで、
20年前と同じ印象を受けることは、まずない。
そういうもののはずだ。

にも関わらず、シフの20年ぶりのゴールドベルグ変奏曲の新録を聴いて、
20年前にはじめてシフの演奏を聴いた時と同じ印象を受けている──、
つまり変っていないものを聴いて変化に気付き、
変っているものをきいて、変っていない、と感じる。

このことが意味するところを考えると、
アンドラーシュ・シフの音楽家としての才能の豊かさとか素晴らしさ、といったことではなく、
シフというピアニストの特異性のようなものに気づく。

そして、それからシフのECMでの録音を集中的に聴くようになった。
20年前と同じことをくり返していた。

Date: 7月 30th, 2013
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その4)

アンドラーシュ・シフのゴールドベルグ変奏曲のECM盤をもらったのは、
2004年の1月か、そのあたりだったと記憶している。

シフのゴールドベルグ変奏曲は20年ぶりの再録音である。
デッカでの旧録はスタジオ、ECMの新録はライヴである。

最初,そのことに気づかずにCDプレーヤーにディスクをセットした。
ピアノ・ソロだから、だいたい音量はこのくらいかな、という位置にレベルコントロールをセットした。
すぐに音が出てくるものとかまえていたら、肩透かしをくらった。
演奏が始まるまで(最初の一音が鳴り出すまで)に、すこしばかり時間がかかる。

どうしたのかな、と思っていると、音が鳴り出す。

ライヴ録音だということをジャケットを聴く前に読んでいたら、
どうしたのかな、と思うことはなかったわけだが、
身構えていたのに肩透かしをくらったことは、よかったのかもしれない。

とにかくシフの音は美しかった。
1980年代に、デッカの旧録を聴いた時のことが思い出されてきた。
あの時と、まったく同じだ、と思っていた。

もちろんまったく同じだ、といっても、完全に同じというわけではない。
でも、1980年代にまだ20代のときにシフの演奏を聴いて受けたものと同じものを、
2004年、40代になっていた私は、感じていた。