シフのベートーヴェン(その10)
アニー・フィッシャーを聴いたのはハタチの時だった。
来日したアニー・フィッシャーのコンサートに行ったのが最初だった。
それまでアニー・フィッシャーというピアニストを知らなかった。
コンサートに行けば、入口のところで、コンサートのチラシの束を配っている。
その一枚がアニー・フィッシャーのコンサートのもので、
それで、こういうピアニストがいるのか、と知った。
それでも大きな期待を持っていたわけではなく、
とにかくハタチのころ、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタを、
コンサートで聴きたかった。
それでたまたまアニー・フィッシャーのコンサートが、
料金も高くなくて、私にとってぴったりだった、というのが、
聴きに行った理由ともいえる。
チラシには、どのコンサートのものでもそうなのだが、
悪いことは一切書いてない。
いいことしか書いてない。
それを鵜呑みにして勝手に期待をふくらませて行けば、
がっかりすることもあろう。
アニー・フィッシャーのチラシになんて書いてあったのか、
まったくといっていいほど憶えていない。
音楽の感動は、意外と不意打ちでやってくるものだ。
アニー・フィッシャーの演奏がそうだった。
ハタチの私に、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタの真髄がわかっていたわけではない。
それでもアニー・フィッシャーのベートーヴェンは凄い、と感じていた。
そんな私の凄いはあてにならない、といわれれば、反論はしない。
アニー・フィッシャーのコンサートの前に、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタを、
じっくりと何度も聴いていたかというと、それほどではなかった。
それでもアニー・フィッシャーのベートーヴェンは、何か違う、とも感じていた。
初めてのコンサートでのベートーヴェンのピアノ・ソナタだから、そう感じたのかもしれない。
そう自問自答することが、何度かあった。
でもここ最近、TIDALでアニー・フィッシャーをよく聴いている。
ベートーヴェンだけでなく、
ほとんど聴かないシューマンのピアノ協奏曲なども聴いている。
アニー・フィッシャーを初めて聴いたときからほぼ四十年。
ハタチの私の耳は、けっこう確かだった、と自信をもって、いまはいえる。