Archive for 9月, 2009

Date: 9月 30th, 2009
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その4)

(その3)を書いてから思い出したのは、フルトヴェングラーの「指環」は、
昼休みに、食事の時間ももったいないから抜きで、六本木から銀座まで出かけて買ってきたこと。1983年のことだ。

当時は、六本木には輸入盤を扱うレコード店はなかった。
六本木ヒルズの場所には、WAVEがあったが、
開店したのはもうすこしあとで、同年11月18日だ。

WAVEができるまでは、試聴レコードの買い出しには、銀座か秋葉原まで出かけていたのが、
ステレオサウンドから歩いていけるところは、大型のレコード店ができたものだから、よく通った。

銀座の山野楽器から会社にもどり、机の上、目の前にどんと置き、仕事中眺めていた。
こんなことを楽しんでいた。

LPでの「指環」のセットを買って帰ったことのない人にとってはどうでもいい話だろうが、
これを思い出していたら、ネット通販でのCD購入と、ネット配信での音楽データ購入との差は、
どれだけあるのだろうかと思う。

Date: 9月 30th, 2009
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その3)

ショルティの「指環」が、発売当時、ものすごく話題になっていたことは、
知識としては知っていたものの、学生のときには、これだけのセットものを買うことは無理だったし、
他に、優先的に欲しいレコードばかりだったこともあり、ショルティの「指環」を聴いたのは、
じつはCDになってからである。

私が最初に買って聴いた「ニーベルングの指環」は、イタリア・チェトラから出た、
フルトヴェングラーが、スカラ座オーケストラを振ったライヴ録音のものだ。
もちろんLPである。

発売の数ヵ月前から、フルトヴェングラー初のステレオ録音という謳い文句で宣伝されていたディスクだ。
結局、モノーラル盤だったが、銀座の山野楽器で、このセットをレジで手渡されたときは、
想像以上に重かったことが、はじめての「指環」であることを実感させてくれたし、
これからこれを聴くのかと思うと、わくわくという期待と、
シンドイだろうなぁ、という気持がないまぜとなって、さらに重さがましたように感じていた。

いまなら、インターネットで注文して、宅急便で届くのを待つだけであろうが、
当時は、これを両手で抱えるようにして、夕方の満員電車に乗って帰宅するのも、
とにかく気を使い、大変だったことを思い出す。

Date: 9月 29th, 2009
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その2)

岡俊雄先生は、「マイクログルーヴからデジタルへ」(ラジオ技術社刊)のなかで、
ショルティ/カルショウによる「指環」の「ラインの黄金」について、こう書かれている。
     *
《ラインの黄金》は一九五九年のというより、レコード史上でもっとも大きな話題を集めたレコードのひとつであったことはたしかである。(中略)
このレコードの数多い聴きどころのなかでも最大のものは、第六面の神々のワルハラ入場のための雷神ドンナーが虹の橋をかけるところだ。低域の上昇音型がクレシェンドして、その頂点がハンマーの強烈な一撃が入る。ここの部分は当時のステレオ・レコードとしては信じがたいほどのハイ・レベルでカッティングされていて、うまくトレースするカートリッジが少なかった。
     *
「ラインの黄金」が衝撃だったことは、ステレオサウンドにいたころ、Tさんからも聞いている。
Tさんは、五味先生の友人で、もとレーダー技術者という人だ。

根っからの技術者らしいTさんは、どちらかといえば淡々と話される方だったが、
「ラインの黄金」については、すこし興奮された口調で、当時の衝撃を思い出しながら語られた。

Date: 9月 28th, 2009
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(余談)

「のだめカンタービレ」の主人公の野田恵は、実在のピアニストで言うならば、
誰に近いのだろうか、とは、読んだ方ならば、いちどは思うだろう。
どんな音を、ピアノから抽き出すか、も空想してしまう。

そんな空想をもっと楽しませてくれそうなピアノが、
ベーゼンドルファーから7月7日に発表された “Audi Design Grand” である。
名称が示すように、自動車メーカーのアウディによるベーゼンドルファーのスペシャルモデルである。

ベーゼンドルファーのサイトに行くと、”Designed Models” というページがある。
アウディのを含め、12モデルについて、アクセスできるようになっている。

そのなかでも、”Audi Design Grand” は、とびぬけて素晴らしい。

なぜアウディなのか、といえば、アウディの地元インゴルシュタットで、
2001年から開催されているジャズコンサートを行なっている縁、ということ、
すでに270回ものコンサートが行なわれ、参加したジャズ・ピアニストの多くが、
ベーゼンドルファーのピアノを好んで演奏したからだそうだ。

どうもジャズのためにつくられたスペシャルモデルのようなのだが、
こんな素敵なピアノを、ジャズ・ピアニストだけに独占させるなんて、もったいない。

写真を見てもらえればわかるが、低音弦側の脚は、面で構成されている。
ここも響板になっているとみるべきだろう。
高音弦側の脚は、対照的な素材と印象を与える、金属によるフレームからなる。
モダーンという表現が、ここまでしっくりくるピアノは、これがはじめてであろう。

このピアノを見ていると、私の中の妄想アクセラレーターが、自動的にonになる。
この “Audi Designed Grand” をのだめが弾いたら……、と想ってしまう。

Audiのサイトにも、このピアノのページが設けられていて、
プレスキット(約40MB)がダウンロードできる。
その資料に、詳細が書かれているし、写真も数多く添付されている。

このピアノで録音されたディスクは、いつ出てくるのだろうか。

Date: 9月 27th, 2009
Cate: ちいさな結論, 複雑な幼稚性
1 msg

ちいさな結論(その4)

「本物のエネルギーを注入してくれる」ものは、人によって違っていて当然である。

ひとと同じことなんて、なにひとつないのだから、
音楽から「本物のエネルギー」を受け取るのだって、
ある人はクラシック、またある人はジャズ、ロックからだという人だっているわけだ。

同じクラシックでも、フルトヴェングラーの演奏を大切にする人もいれば、
カラヤンでなければならない人がいてこそ、自然であるといえる。

マーラーの交響曲第5番にしてもそうだ。
長島先生と私は、バーンスタイン/ウィーン・フィルの演奏をとったが、
一方でインバルの演奏をとる人がいる。

どちらが音楽がよくわかっているとか、高尚だとか、そういう問題ではない。

生れも育ちもひとりひとり違うのだから、必要とするものだって違うというだけのはなしである。

ただし、あくまでも、音楽(音)と真剣に対決する瞬間をもてる人にかぎる。

タンノイ・オートグラフでフルトヴェングラーをきき、
カラヤンのベートーヴェンには精神性がない、といってみたところで、
「ろくでなし」のささやきに翻弄されていることにすら気づかないのであれば、
五味先生の劣悪なマネにすらなっていない。

Date: 9月 27th, 2009
Cate: ちいさな結論, 複雑な幼稚性

ちいさな結論(その3)

「ろくでなし」を追いだせ、と言いたいのではない。
「ろくでなし」のささやくいいわけに耳を貸すな、と言いたいのである。

オーディオと向かい合い、音と向かい合い、音楽と向かい合っているときだけは、
ディスク1枚だけでいい、1曲だけでもいい、
そのあいだだけは「ろくでなし」を、しっかりと認識したい、それだけである。

「音楽においてのみ、首尾一貫し円満で調和がとれ」ていたフルトヴェングラーのようにありたい、のである。

先週、友人のYさんからのメールには、丸山健二氏の「新・作庭記」(文藝春秋刊)からの一節があった。

ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして生きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にないのだ。

Date: 9月 27th, 2009
Cate: ちいさな結論, 岩崎千明, 複雑な幼稚性

ちいさな結論(その2)

「矛盾した性格の持ち主だった。彼は名誉心があり嫉妬心も強く、高尚でみえっぱり、
卑怯者で英雄、強くて弱くて、子供であり博識の男、
また非常にドイツ的であり、一方で世界人でもあった」のは、
ウィルヘルム・フルトヴェングラーのことである。

フルトヴェングラーのもとでベルリン・フィルの首席チェロ奏者をつとめたことのある
グレゴール・ピアティゴルスキーが、「チェロとわたし」(白水社刊)のなかで語っている。

同じ書き出しで、1992年、ピーター・ガブリエルのことを書いた。
「ろくでなし」のことにふれた。

人の裡には、さまざまな「ろくでなし」がある。
嫉妬、みえ、弱さ、未熟さ、偏狭さ、愚かさ、狡さ……。

それらから目を逸らしても、音は、だまって語る。
音の未熟さは、畢竟、己に未熟さにほかならない。

音が語っていることに気がつくことが、誰にでもあるはずだ。
そのとき、対決せずにやりすごしてしまうこともできるだろう。

そうやって、ごまかしを増やしていけば、
「ろくでなし」はいいわけをかさね、耳を知らず知らずのうちに塞いでいっている。

この「複雑な幼稚性」から解放されるには、対決していくしかない。

ピアティゴルスキーは、つけ加えている。
「音楽においてのみ、彼(フルトヴェングラー)は首尾一貫し円満で調和がとれ、非凡であった」

ちいさな結論(その1)

5年前だったはずだが、菅野先生に、「敵は己の裡(なか)にある。忘れるな」と、言われた。

胸に握りこぶしを当てながら、力強い口調で言われた。
この、もっともなことを、人はつい忘れてしまう。
この菅野先生の言葉を思い出したのは、岩崎先生がなぜ「対決」されていたのか、
なに(だれ)と対決されていたのか、について考えていたからだ。

「自分の耳が違った音(サウンド)を求めたら、さらに対決するのだ!」

岩崎先生の、この言葉にある「違った音(サウンド)」を求めるということは、どういうことなのか。

「複雑な幼稚性」(その3)で、「人は音なり」と書き、悪循環に陥ってしまうこともあると書いた。

悪循環というぬるま湯はつかっていると、案外気持ちよいものかもしれない。
けれど、人はなにかのきっかけで、そのぬるま湯が濁っていることに気がつく。
そのときが、岩崎先生の言われる「違った音(サウンド)」を求めるときである。

Date: 9月 25th, 2009
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹を想う

月を見ていた。

8日もすれば満月になる月が、新宿駅のビルの上に浮んでいたのを、信号待ちをしていたとき、
ぼんやり眺めていた。まわりに星は見えず、月だけがあった。
そして想った。

昨年2月2日、瀬川先生の墓参のとき、位牌をみせていただいた。
戒名に「紫音」とはいっていた。

最初は「弧月」とはいっていた、ときいた。

だからというわけでもないが、ふと、あの月は、瀬川冬樹だと想った。

東京の夜は明るい。夜の闇は、表面的にはなくなってしまったかのようだ。
「闇」「暗」という文字には、「音」が含まれている。
だからというわけではないが、オーディオで音楽を聴くという行為、音と向き合う行為には、
どこか、暗闇に何かを求め、何かをさがし旅立つ感覚に通じるものがあるように思う。

どこかしら夜の闇にひとりで踏み出すようなところがあるといえないだろうか。
闇の中に、気配を感じとる行為にも似ているかもしれない。

完全な闇では、一歩を踏み出せない。
月明かりがあれば、踏み出せる。足をとめず歩いていける。
月が、往く道を、ほのかとはいえ照らしてくれれば、歩いていける。

夜の闇を歩いていく者には、昼間の太陽ではなく、月こそ頼りである。
夜の闇を歩かない者には、月は関係ない。

だから、あの月を、瀬川冬樹だと想った。
そして、ときに月は美しい。

Date: 9月 25th, 2009
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(その2)

未完で終ってしまった「ルードウィヒ・B」だが、同じくクラシック音楽をテーマとした、
現在進行中の「のだめカンタービレ」が、いよいよ次号で最終回を迎えるようだ。

今日発売の「Kiss」最新号掲載の同作品の最終ページに「次号、グランドフィナーレ」の文字があった。
「Kiss」は月2回発行(10日と25日)だが、「のだめカンタービレ」の掲載は、基本的に月1回。
掲載誌で読み、単行本でまた読んできた。
なにか素晴らしい決着で終りそうな予感にみちた今回の話も、
読んでいて「じーん」とくる、ふたりの演奏シーンがある。

「ルードウィヒ・B」と「のだめカンタービレ」は、時代設定も、主人公が作曲家とピアニストかという違いがある。
それだけでなく、違いは、手塚治虫と「のだめカンタービレ」の作者、二ノ宮知子では、
音楽の表現手法にもある。

Date: 9月 24th, 2009
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その1)

午後、ずいぶんひさしぶりにショルティの「ワルキューレ」を聴いていた。
カルショウ・プロデュースの、この「指環」を聴くたびに、ここ数年思ってきたことは、
SACDで、なぜ出してくれないのか、だった。

今日も聴き終わって、「いつ出るんだろう……」、そんなあてのないことを思っていたら、
なんとエソテリックが、年末に、全曲盤をSACDで出してくれるとのこと。

11月には、フィストゥラーリのチャイコフスキーの「白鳥の湖」も出る。
これは、また渋い選曲である。
フィストゥラーリをご存じない方は、だまされたと思って、ぜひ聴いてほしい一枚である。

「指環」だが、いくらなのかはどうでもいい。
当時、この「指環」を聴いた人たちが味わった昂奮を、いま、新鮮なかたちで味わえるかもしれない。

「ラインの黄金」が録音されたのが、1958年、もう50年以上前のこと。
最後の録音の「ワルキューレ」からでも、45年経っている。
こう書くと、一部のマニアの人たちは、「マスターテープの劣化が……」とネガティヴなことを口にするだろう。

Date: 9月 24th, 2009
Cate: 黒田恭一

黒田恭一氏のこと(その15)

いまにして想えば、黒田先生は、アクースタットの試聴の最中に、ほぼ決心されていたのではないだろうか。

こう語られている。
「静電型のスピーカーということで、ぼくの先入観からパーカッシヴな音は不得意であろうとたかをくくっていたのですが、ほとんど不満のない反応を聴かせてくれたことも意外でした。
たとえば『トスカ』の第一幕の幕切れのところで鐘が鳴ります。これが甘い響きになるかと思ったんですけど、非常に硬質な音がしたでしょう。」

「トスカ」の硬質な鐘の音が鳴らなかったら、
「スーパー・ギター・トリオ」のレコードをリクエストされることはなかったのではないか。

不得意であろうと思われていたパーカッシヴな音が、しっかり響いてきたことで、
最後の駄目押し的な確認の意味をこめての「スーパー・ギター・トリオ」だったような気がする。

その「スーパー・ギター・トリオ」を、アクースタットは期待と予想を上廻る音で提示してきた。
これで、黒田先生は決心されたはずだ。

Date: 9月 24th, 2009
Cate: 黒田恭一

黒田恭一氏のこと(その14)

アクースタットのモデル3で聴く「スーパー・ギター・トリオ」のレコードは、すさまじかった。
黒田先生が、「このレコードを」、と言われた理由が、見事に音になってあらわれていた。

「ギターの音が弾丸のことく」と黒田先生の発言にあるように、飛び交っていた。

なんてすごいスピーカーだろうと思い、なんてすごいレコード、ということ以上に、
なんてすごいギターの名手たちだろう、と思った。

この「一度のめりこんでしまうと自閉症になって」しまいそうなスピーカーを、
黒田先生は、JBLの4343の後釜として導入される。
そして一緒に試聴に参加していたステレオサウンドの原田勲編集長(当時)も、
ヴァイタヴォックスのCN191を追いだし、アクースタットを導入されたのだから、
サウンドコニサーの取材・試聴に参加した者に、アクースタットのモデル3は、強烈な印象をのこした。

試聴後、みな、静かな興奮状態にあった。

Date: 9月 23rd, 2009
Cate: 電源

電源に関する疑問(その2)

真空管アンプには、いくつか採用例があったチョークインプット方式だが、
トランジスターアンプになってからは、1987年に登場したチェロのパフォーマンスまで採用例はなかった(はず)。

チョークインプット方式の真空管アンプをつくられた方なら、おわかりになるだろうが、
チョークインプット方式では、チョークがうなりやすい。
このうなりは耳につく。

チェロのパフォーマンスでは、パワーアンプにも関わらず外部電源とし、
電源トランス、整流ダイオード、チョークコイルまでを、別筐体にまとめている。
しかもチョークの下にはかなり厚いゴムをはさみ、
チョークの振動がシャーシーに伝わらないよう配慮されていた。

もしアンプと同一筐体に仕上げられていたら、
もともと振動源が、コントロールアンプよりも多いパワーアンプにとって、
よけいに、それももっとも大きな振動源が増えることになる。

井上先生は、電源トランスがうなっていてはだめだ。
うなりがあると、音場感がいともたやすくくずれてしまう、とよく言われていた。
電源トランスよりもうなるチョークがあっては、台無しである。

Date: 9月 23rd, 2009
Cate: 電源

電源に関する疑問(その1)

チョークことについて、すこしふれたので、つづけて電源について書いていこうと思う。

チョークを採用した電源には、コンデンサーインプット方式とチョークインプット方式がある。
簡単に説明すると、コンデンサーインプット方式は、
整流回路(整流管、整流ダイオードで構成される)のすぐあとに平滑用のコンデンサーがあり、
そのあとにチョークが直列に挿入される。
チョークインプットは、整流回路のすぐあとにチョークが直列にはいり、その出力にコンデンサーがある。

つまりチョークに入る位置が異るともいえるし、最初にはいるコンデンサーの位置が異るともいえる。

どちらがオーディオ用として優れているかといえば、チョークインプット方式だと思う。
電圧波形を見るかぎり、コンデンサーの容量が充分にあれば、リップルはほぼ抑えられる。
けれど、電圧波形ではなく、電流波形をみると、
チョークを使った電源でも、コンデンサーインプット方式とチョークインプット方式では、
大きな違いがある。電流供給能力が高く要求されるパワーアンプにおいては、
チョークインプット方式に分があるいえる。