ちいさな結論(その3)
「ろくでなし」を追いだせ、と言いたいのではない。
「ろくでなし」のささやくいいわけに耳を貸すな、と言いたいのである。
オーディオと向かい合い、音と向かい合い、音楽と向かい合っているときだけは、
ディスク1枚だけでいい、1曲だけでもいい、
そのあいだだけは「ろくでなし」を、しっかりと認識したい、それだけである。
「音楽においてのみ、首尾一貫し円満で調和がとれ」ていたフルトヴェングラーのようにありたい、のである。
先週、友人のYさんからのメールには、丸山健二氏の「新・作庭記」(文藝春秋刊)からの一節があった。
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ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして生きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にないのだ。