ちいさな結論(その4)
「本物のエネルギーを注入してくれる」ものは、人によって違っていて当然である。
ひとと同じことなんて、なにひとつないのだから、
音楽から「本物のエネルギー」を受け取るのだって、
ある人はクラシック、またある人はジャズ、ロックからだという人だっているわけだ。
同じクラシックでも、フルトヴェングラーの演奏を大切にする人もいれば、
カラヤンでなければならない人がいてこそ、自然であるといえる。
マーラーの交響曲第5番にしてもそうだ。
長島先生と私は、バーンスタイン/ウィーン・フィルの演奏をとったが、
一方でインバルの演奏をとる人がいる。
どちらが音楽がよくわかっているとか、高尚だとか、そういう問題ではない。
生れも育ちもひとりひとり違うのだから、必要とするものだって違うというだけのはなしである。
ただし、あくまでも、音楽(音)と真剣に対決する瞬間をもてる人にかぎる。
タンノイ・オートグラフでフルトヴェングラーをきき、
カラヤンのベートーヴェンには精神性がない、といってみたところで、
「ろくでなし」のささやきに翻弄されていることにすら気づかないのであれば、
五味先生の劣悪なマネにすらなっていない。
REPLY))
その通りですね(音楽の世界に限らず)何が正しいか・・・数学じゃないんだから答えは無いと思います。人それぞれの‘正しい’と思うことを信じれば、それでいいじゃないですか。
ある人が絶賛しているものに対して‘不味い’‘格好悪い’‘変’等々・・・言ってはいけないと思うのです。