Archive for category オーディオ評論

Date: 10月 28th, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その5)

その1)を書いたのが、五年半ほど前。
(その4)は三年半ほど前。

思い出して続きを書き始めたのは、菅野先生が亡くなられたからでもある。
facebookにオーディオ関係のグループはいくつもある。
そのなかのいくつかは、おそらく菅野先生が亡くなられたことについて、
書いている人がいると思う(見てないので知らない)。

ブログで書いている人もいるはずだ(こちらも見ていない)。
SNSもブログも、あえて検索しなかった。

しなかったけれど、
「オーディオの一つの時代が終った」的なことを書かれている人がいるとは思っている。
どのくらい、そう思っている人がいるのかも私にはわからない。

でも、ほんとうに「オーディオの一つの時代が終った」のだろうか。
ここでのオーディオは、何を指すのか。

オーディオ評論ということでも、一つの時代が終ったようには感じていない。
1977年に岩崎先生、1980年に五味先生、そして1981年に瀬川先生が亡くなられて、
私は、オーディオ評論の一つの時代が終った、と感じていたからだ。

もうとっくの昔に終りを迎えていた。

一つの時代が終りを迎えたら、新しい時代が始まるのだろうか。
少なくともオーディオ評論の世界では、そういうことは起らなかった。

でも変化は起こるはず、といわれるかもしれない。
けれど、その変化にしても、瀬川先生が亡くなられたことで始まっていた。
それは決していい変化とはいえなかった。

「オーディオの一つの時代が終った」と感じ、
新しいオーディオの時代が始まる──、
そう感じ、そう信じれる人は信じればいい。

私はそうでないだけ、の話だ。

Date: 9月 15th, 2018
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か・その5)

商品と製品。
この二つを、何気なく使い分けているし、
場合によっては、ただおもいつくままにどちらかを選択していることだってあろう。

商品と製品。
二つの違いを考えていると、
ある製品がレッテル貼りをされると、商品となっていくような感じを受ける。
そして、貼られたレッテルによって売られていく。

商品すべてにレッテル貼りがなされているわけではない。
それでも、日本においては、レッテルが貼られているかいないのか、
その貼られたレッテルによってあれこれ語られていることが、
ずっと以前から続いているのではないのか──、
商品と製品について考えていると、そんなことを感じていた。

たとえばブランドも、一つのレッテルといえば、そうなる。
型番にしても、一つのレッテルになる。
価格すら、レッテルとも思えてくる。

これらのレッテルは、メーカー側によって製品に貼られる。
レッテルは、メーカー側によるものばかりではない。

オーディオ雑誌によるレッテルもあれば、
オーディオ店によるレッテルもある。
いまではSNSによるレッテルも出てきている、ともいえる。

その商品を見ている人すべては共通のレッテルは、メーカー側によるものだけである。
ブランド、型番、価格というレッテルは、すべての人が目にする。

それ以外のレッテルとなると、どのオーディオ雑誌を読んでいるのか、
行きつけのオーディオ店はあるのか、
インターネットにどれだけ接続し情報を得ているのか、などによって違ってくる。

Date: 9月 13th, 2018
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その24)

前回(その23)を書いたのは、一年半前。
そこでも、「今日facebookを見ていたら」と書いている。

今日も、そう書く。
今日facebookを見ていたら、やっぱりそうなんだ、と強く確信したことがある。

この項のタイトルは「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか」である。
ここまで読まれた方の中には、すでに気づかれている人もいよう。

「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか」は、はっきりと読み手である。
「ミソモクソモイッショにしたのは読み手である」。

オーディオ雑誌、オーディオ評論をここまでダメにしたのは、
もちろんオーディオ雑誌の編集者、オーディオ評論家を名乗っている書き手も含まれるのだが、
もっともミソモクソモイッショにしているのは、実のところ、読み手である──、
ともうずっと以前から感じていた。

今日、ほんとうにそうなんだなぁ、とダメ出しを喰らったような感じである。
もうどうしようもないくらいに、そうなんだなぁ、と感じていた。

私は、はっきりといまのステレオサウンドに否定的・批判的である。
けれど、多少は同情もしている。

そんな読み手なんだから……、という気持が編集者にあるのかどうかはわからないけれど、
あってもおかしくない、と思うほどに、今日は強烈なダメ出し的なことを目にした。

私が、そんな読み手と思う人たちは少数派なのかもしれないが、多数派なのかもしれない。
どちらなのかはなんともいえないが、少なくないようにも感じている。
そんな人たちは目立つ(目立ちがり屋なのだろう、きっと)からだ。

だからこそ「ミソモクソモイッショにしたのは何なのか」を考えていかなければならない。

Date: 8月 6th, 2018
Cate: オーディオ評論

はっきりと書いておく

オーディオは楽しい。
いくつになっても楽しい。
けれど、オーディオ雑誌がつまらなくなって、もうどのくらい経つか。
オーディオ評論が色褪てしまって、ずいぶん経つ。

オーディオはいまも楽しい。
これから楽しいはずだ。
オーディオ雑誌は、今後も期待できそうにない。
オーディオ評論に関してもそうだ。

オーディオは楽しいのに、なぜそうなってしまったのか、
さらにそうなっていくのか。

その理由は、はっきりとしている。
瀬川先生がもういないからだ。

何をバカなことを書いている、と思う人には、
どれだけ言葉を費やして説明しても無駄だ。

オーディオは楽しい。
なのにオーディオ雑誌、オーディオ評論が……、と感じている人は、
その理由を考えてみればいい。
いくつか思いつくだろう。

そのいくつか思いついた理由を、さらにどうしてそうなったのか、と考えてみればいい。

瀬川冬樹がいなくなった。
オーディオ雑誌は、そこからつまらなくなっていった。
オーディオ評論は色褪るだけである。

このことがわからない人に、
おもしろいオーディオ雑誌はつくれない、
オーディオ評論は書けない。
はっきりしていることだ。

Date: 8月 3rd, 2018
Cate: オーディオ評論

「商品」としてのオーディオ評論・考(その9)

その5)から少しそれてしまったが、本題に戻ろう。

その4)の最後に、
出版社が直接関係しない試聴が、オーディオ評論家にはある、と書いた。

オーディオ評論家は、オーディオ雑誌の試聴室でしか試聴しないわけではない。
メーカー、輸入元の試聴室ですることもあれば、
自身のリスニングルームで試聴することもある。

オーディオ雑誌の編集部からの依頼で、そういうところでの試聴もあれば、
そうでない場合もある。

これが悪いこととは考えない。
オーディオ評論家の仕事は、何もオーディオ雑誌に原稿を書くだけではない。

ただ考えたいのは、ここでも試聴料という名の対価を得ていることに関係してくる。
対価を得ること自体が悪いことではない。
その金額が高いとか、そんなことも問題にはしない。

そこでの試聴が、そのオーディオ評論家が書くものに関係してきた場合を考えたいだけである。
その2)で、オーディオ評論家という書き手の商取引の相手は、誰かというと出版社である、と書いた。
読み手ではない。

オーディオ評論家と出版社との商取引のあいだに、
メーカー、輸入元との商取引が関係してくることになる。

その3)で、
季刊誌ステレオサウンドという商品は、読み手とのあいだの商取引、
広告主とのあいだの商取引、このふたつの商取引をもつ。
これが雑誌という商品の特徴でもある、と書いた。

オーディオ評論という商品も、雑誌という商品と同じで、
ここではふたつの商取引をもつ。

Date: 6月 10th, 2018
Cate: オーディオ評論

テクニクス SP10R、SL1000Rとオーディオ評論家

5月発売の管球王国、
6月になってからステレオサウンド、無線と実験、
すべて表紙はテクニクスのSL1000Rだった。
おそらく今週発売のanalogの表紙も、そうであろう。

表紙だけでなく、話題の新製品としても取り上げられている。
絶賛されている、といっていいだろう。

ダイレクトドライヴの代名詞といえるSP10の復活なのだから、
表紙になるのもわからないわけではないし、
それぞれのオーディオ雑誌の取り上げ方も、
少しばかり勘ぐりたくなる面もあるけれど、まぁ当然だろう、とは思う。

書く人みなが絶賛というオーディオ機器は、以前にもいくつもあった。
テクニクスのSP10R、SL1000Rが、初めてというわけでもないし、
いまのオーディオ評論家の世代からすれば、SP10の存在の大きさというものもある。

でも読んでいて、なんだか、いままでの絶賛ばかりの記事とは違う感触があるように思っていた。
これまでも絶賛ばかりの評価記事を読んでいると、妙に白けてしまうことはあった。
そんな感じとは少し違う感触をあるように感じていた。

なんだろうか……、笑いたくなるような感じであった。
オーディオ評論家(商売屋)の提灯芸を競い合わせているんだ──、
そう思えたからだった。

Date: 5月 27th, 2018
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その7)

メーカーの人の中には、
オーディオ評論家を徹底的に軽蔑している人がいる。

古くからのメーカーで゛オーディオ評論家とのつきあいがながいところよりも、
新しいメーカーのほうに、そういう人はより多いように感じている。

確かに軽蔑されても仕方ない──、と私だって思う。
軽蔑されても、そのメーカーに利用価値があれば、
心の奥底ではどう思っていようが、オーディオ評論家とつきあっていくのかもしれない。

けれど、そういうメーカーのなかには、利用価値すらないと思っている人たちがいる。
だからオーディオ評論家には、まったく頼らない。

そういうメーカーが日本でも登場してきている。
そういうメーカーは、いまオーディオ評論家と名乗っている人たちにはまったく連絡をとらないので、
そういうメーカーが登場していることに、
いまのオーディオ評論家たちは気づいていないのかもしれない。

オーディオ評論家を軽蔑する人たちは、なにもメーカーだけにいるわけではない。
オーディオマニアのなかにも、昔からいる。

オーディオ評論家のいうことなんてあてにならない。
そんなのをあてにするようなオーディオマニアは、
自分の耳、感性に自信がないから、他人の耳、感性に頼ろうとする──、
そんなことも、昔からいわれ続けている。

オーディオ評論家には、オーディオ評論家(職能家)とオーディオ評論家(商売屋)がいる。
私は、ここにはしっかりと線を引いているが、
オーディオ評論家を軽蔑する人のなかには、
どちらもいっしょと受け止めている人もいるように感じているし、
オーディオ評論家(職能家)のいうことを信じているオーディオマニアも、
軽蔑・侮蔑の対象なのだろう。

おそらく私も、そう見られている、であろう。
そう思われようがまったく気にならないのだが、
ひとついっておきたいのは、人に憧れることはないのか、である。

Date: 2月 25th, 2018
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の才能と資質(その6)

スピーカーをうまく鳴らせるのは誰なのか。
そのスピーカーを設計・開発した人でしょう、という人がいる。

本気でそんなことをいう人が意外にいる。
どうして、そういう考えになるのか、不思議に思う。

例えばカメラ。
カメラメーカーの技術者が、もっともいい写真を撮れるのか、というとそうではない。
プロのカメラマン、写真家がいる。

写真家よりも、そのカメラについては開発した人のほうがずっと詳しい。
だからといって、写真家よりいい写真が撮れるわけではない。
そんなことはほとんどの人がわかっている。

車にしてもそうだ。
車の開発者が、いちばん速く走らせられるか、というとそんなことはない。
このことだって、ほとんどの人がわかっている。

そんなわかりきったことが、なぜかオーディオでは通用しなかったりすることがある、
通用しない人がいる。

その1)で、オーディオ評論家はスピーカーをうまく鳴らすことが求められる、
と書いた。
その5)では、どんなに耳がよくても、
スピーカーをうまく鳴らせなければ、それはオーディオ評論ではなくサウンド批評だ、とも書いた。

車の評論家を考えてみてほしい。
車の評論家で、運転できない人がいるだろうか。
助手席に座っているだけで車の評論ができると思っている人が、
スピーカーがうまく鳴らせなくとも、オーディオ評論家というのだろう。

Date: 12月 20th, 2017
Cate: オーディオ評論

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その7)

今年の春、新宿の東宝シネマズで「GHOST IN THE SHELL」を、IMAXで観た。
IMAXのスクリーンのある空間に入った。

まだ観客はそう多くはなかった。
ぽつんぽつんと坐っているくらいだった時に入った。
BGMも鳴っていなかった。

席について、3D上映用のメガネを取り出そうとした。
ビニール袋を破ろうとして気づいたのは、S/N比の高さだった。
とにかく静かである。
ビニール袋を破ろうとする音が、こんなにも大きく耳障りなのかと感じるほどに、
静かな空間だった。

ここまで遮音性が高く、しかもデッドな空間は、そうそうないだろう。
なにか物音をたててはいけない気持になるほどの静かさだった。

でも、それは心地よい静かさとは違う。
物理的にS/N比の高い空間であることは確かだが、
とにかく自分が立てる物音が気になるのだから、心地よい静かさなわけがない。

人が大勢入ってくれば、暗騒音のレベルが上ってくるから、
そんなことも薄らいでくるが、観客が少ないときの静かさは、
オーディオマニアならば一度は体験してみてほしい。

IMAXで3Dで、マルチチャンネル再生。
そのために必要な条件としての静かさなのだろう。

B&Wの800シリーズは、S/N比のよいスピーカーといわれている。
現在測定できる物理特性としてのS/N比は優秀であろう。

だからといって、そこに静寂さの深さがあるのかというと、
それは別問題であり、
IMAXスクリーンの空間にも、それはいえることである。

Date: 12月 20th, 2017
Cate: オーディオ評論, 選択

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その6)

そういえばと思い出すと、
私が知っているオーディオマニアでマルチチャンネルをやっていた人も、
その時はB&Wの800シリーズだった。

2チャンネル再生だったころは、B&Wとは性格の違うスピーカーだった。
彼の鳴らすマルチチャンネルの音を聴いていない。
だからいえることはあまりないのだが、
それまでの鳴らしていたスピーカーと同じモノを、
チャンネル数だけそろえるのではなく、
スピーカーを全面的に換えてのマルチチャンネル再生であるのを考えると、
B&Wの800シリーズは、マルチチャンネルには最適といえる性格のスピーカーなのかもしれない。

けれど私はこれまでも、これからもマルチチャンネル再生をやろうとは考えていない。
それに、いまステレオサウンドに執筆している人たちで、
マルチチャンネル再生に取り組んでいる人は、誰がいるのか。
ほとんどが2チャンネル再生のはずだ。

「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」、
こう言ってくる人も、マルチチャンネル再生はやっていない。
2チャンネル再生のオーディオマニアの人ばかりである。

ここまで書いて、五味先生が4チャンネルについて書かれていたことをおもいだす。
     *
 いろいろなレコードを、自家製テープやら市販テープを、私は聴いた。ずいぶん聴いた。そして大変なことを発見した。疑似でも交響曲は予想以上に音に厚みを増して鳴った。逆に濁ったり、ぼけてきこえるオーケストラもあったが、ピアノは2チャンネルのときより一層グランド・ピアノの音色を響かせたように思う。バイロイトの録音テープなども2チャンネルの場合より明らかに聴衆のざわめきをリアルに聞かせる。でも、肝心のステージのジークフリートやミーメの声は張りを失う。
 試みに、ふたたびオートグラフだけに戻した。私は、いきをのんだ。その音声の清澄さ、輝き、音そのものが持つ気品、陰影の深さ。まるで比較にならない。なんというオートグラフの(2チャンネルの)素晴らしさだろう。
 私は茫然とし、あらためてピアノやオーケストラを2チャンネルで聴き直して、悟ったのである。4チャンネルの騒々しさや音の厚みとは、ふと音が歇んだときの静寂の深さが違うことを。言うなら、無音の清澄感にそれはまさっているし、音の鳴らない静けさに気品がある。
 ふつう、無音から鳴り出す音の大きさの比を、SN比であらわすそうだが、言えばSN比が違うのだ。そして高級な装置ほどこのSN比は大となる。再生装置をグレード・アップすればするほど、鳴る音より音の歇んだ沈黙が美しい。この意味でも明らかに2チャンネルは、4チャンネルより高級らしい。
     *
五味先生のころのマルチチャンネル(4チャンネル)は、アナログがプログラムソースだった。
しかも、いわゆる疑似4チャンネルであるから、
現在のデジタルを¥プログラムソースとするマルチチャンネルと同一視できないけれど、
マルチチャンネル再生における重要なことは、静寂さの深さであることは同じのはずだ。

Date: 12月 17th, 2017
Cate: オーディオ評論

「商品」としてのオーディオ評論・考(その8)

その7)に書いている広告代理店とメーカーの、かなりずうずうしいといえる依頼。
こんなことを平気でいってくる広告代理店は、
つまり、それが当り前のように通るものだ、と思っているからだろう。

もちつもたれつなのはわかっている。
完成品でなくとも、プリプロダクツ(量産直前の生産モデル)ならば、まだわかる。
けれど、その時のCDプレーヤーはプリプロダクツともいえない段階だった。

そういうモノを試聴用として持って来ていて、
文句をいれてくる。

オーディオ評論家(商売屋)とオーディオ評論家(職能家)がいる。
オーディオ雑誌の編集者も同じだ。
編集者(商売屋)と編集者(職能家)がいる。

その時の私が、編集者(職能家)だった、とはいわない。
だが編集者(商売屋)ではなかった、とはっきりと言い切れる。

広告代理店の人も同じだ。
商売屋と職能家がいよう。

試作品のCDプレーヤーが、どういう段階のモノなのか、
それすらも理解せずに、ごり押しすれば……、と考えていたのだろうか。
はっきりと商売屋でしかない。

編集者、広告代理店の他にも、いえる。
出版社の営業部の人たちだ。

Date: 12月 10th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(余談)

オーディオ評論というテーマで、150本以上書いてきている。

書きながら、思い出したことがある。
(じろん)である。

小学生のころだった、初めて(じろん)という言葉を聞いた時、自論だ、と思った。
幸い、作文などで(じろん)を使うことはなかったから、間違いはバレなかった。
中学生になって、持論なんだ、と知った。

(じせつ)には、自説と持説がある。
けれど(じろん)には、持論だけで、自論はない。

オーディオ評論について考えることは、評論について考えることでもある。
評論には「論」がついている。
自論ではなく、持論の「論」がついている。

Date: 11月 27th, 2017
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その18)

編集者は、つねに読者の代弁者であるべき──、とは考えていない。
ただ必要な時は、強く代弁者であるべきだ、と思う。
そして書き手に対して、代弁者として伝えることがある、と考えている。

このことは反省を含めて書いている。

オーディオ雑誌の編集は、オーディオ好きの者にとっては、
これ以上ない職場といえよう。

けれど、そのことが錯覚を生み出していないだろうか。

本人たちは熱っぽくやっている、と思っている。
そのことは否定しない。

けれど、その熱っぽさが、誌面から伝わる熱量へと変換されていなければ、
それは編集者の、というより、オーディオ好きの自己満足でしかない。

読み手は、雑誌の作り手の事情なんて知らないし、関係ない。
ただただ誌面からの熱量こそが、雑誌をおもしろく感じさせるものであり、
読み手のオーディオを刺戟していくはずだ。

Date: 11月 27th, 2017
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その17)

誌面から伝わってくる熱量の減少は、
オーディオ雑誌だけの現象ではなく、他の雑誌でも感じることがある。

書き手が高齢化すればするほど、
43号のようなやりかたのベストバイ特集は、ますます無理になってくる。

43号は1977年夏に出ている。
菅野先生、山中先生は44歳、瀬川先生は42歳と、
岡先生以外は40代(上杉先生は30代)だった。

いま、ステレオサウンドのベストバイの筆者の年齢は……、というと、
はっきりと高齢化している。

そのことと熱量の減少は、無関係ではない。
書き手の「少しは楽をさせてくれよ」という声がきこえてきそうである。

しかも昔はベストバイは夏の号だった。
それを12月発売の号に変更したのは、
夏のボーナスよりも冬のボーナス、ということも関係している。

しかも賞も同じ時期に行う。
オーディオショウも同じである。

そんなことが関係しての熱量の減少ともいえる。

こうやって書いていて思うのは、編集者は読者の代弁者なのか、である。

Date: 11月 22nd, 2017
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の才能と資質(その5)

坂東清三氏が書かれている。
(坂清也の名で、主にステレオサウンドの音楽欄に登場されていた)
     *
 瀬川さんを評して、〈使いこなしの名手〉という言葉がある。たぶん岡俊雄さんの評言ではなかったかと思うけれど、たしかに一緒に仕事をしたりしていると、その〈名手〉ぶりには瞠目させられることしばしばだった。ほんの3センチか5センチ、スピーカーの高さを変える、あるいは間隔を、角度を変える。アンプのTREBLEなりBASSのツマミを、ひと目盛り変える。といったことを、何時間もかけて丹念にやっているうちに、とつぜん素晴らしい音で鳴り出す。こういった〈使いこなし〉にかけては、瀬川さんの右にでるひとはいない、といってもいいだろう。
 その〈名手〉ぶりを仕事で目の当りにみせつけられたある夜更け、例によって酒場のカウンターでからんでいた。瀬川さん、理想のオーディオ装置って、ポンと置いたら、そのままでいい音が鳴るものじゃないのかなあ──。理想をいえばそうなのかもしれないけど、そんな装置、出来っこないよ、と穏やかに答える。じゃあさ、そういう装置にできるだけ近づくべきだというのが、瀬川さんの仕事じゃあないのかなあ、と暴論を吐いたら、なんどもブゼンとした表情だけが返ってきたのだった。その表情には、オーディオ趣味の真髄がちっとも分かってないなあ、という気配が多分にあったことはまちがいない。
     *
坂東清三氏がいわんとされていることは、そのとおりだ、と思う。
ポンと置いて、きちんと鳴るオーディオ機器があれば──、と思ったことはある。
でも、それはオーディオと呼べるだろうか、と考える。

坂東清三氏は、続けて書かれているが、いい音で聴きたい気持は強くても、
それはひとりの音楽愛好家としてのものであって、オーディオマニアのそれとは少し違うともいえる。

オーディオ評論家に求められる才能とは、
音を聴き分ける能力、音を言葉で表現する能力──、
これらも必要ではあるのはわかっているが、
それ以上に、そしてそれ以前に必要な才能とは、
スピーカーをうまく鳴らすことである才能である、と(その1)で書いた。

そうだろうかと思う人もいた。
うまくスピーカーを鳴らせなくとも、
耳がよくて、言葉で表現し伝える能力があれば、オーディオ評論の仕事はできるはず──、
果してそうだろうか。

それではオーディオ評論家ではなく、サウンド批評家である。