Archive for category オーディオ評論

Date: 3月 16th, 2021
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その10)

ステレオサウンド 218号の特集に黛 健司氏が登場されてないことを嘆いたところで、
瀬川冬樹なんて過去の人でしょ、
瀬川冬樹の音の聴き方を知りたい人なんて、ごくごく少数だろうから、
そんなことステレオサウンド編集部は考えもしない──、
おそらくそうなのだろう。

けれど、ほんとうに瀬川冬樹に、ステレオサウンドの読者の大半は無関心といえるのか。

いま書店に並んでいる瀬川先生の著作集「良い音とは 良いスピーカーとは?」、
その奥付をみると、2020年9月(だったはずだ)で四刷となっている。

2013年に出た「良い音とは 良いスピーカーとは?」が、
七年経っても売れ続けているわけだ。

このことを知っているはずである、ステレオサウンドの編集部は。

そして今年は2021年である。
瀬川冬樹没後40年である。

一年前のステレオサウンド 214号には、
五月女 実氏の「五味康祐先生 没後40年に寄せて」という記事が載った。

今年は「瀬川冬樹 没後40年に寄せて」が載るのだろうか。

Date: 3月 11th, 2021
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その9)

黛 健司氏には、黛氏自身の音の聴き方があって、
瀬川先生には瀬川先生の音の聴き方がある。

同じ聴き方ではないことはわかっていても、
瀬川先生の音の聴き方の影響は、きっとあると私は勝手に思っている。

黛 健司氏の文章は、
瀬川先生の書かれたものをよく読んでいる人のものだ。
瀬川先生の影響を、ふと感じる箇所があったりする。

そういう人だからこそ、どこまで意識されているのかはなんともいえないが、
瀬川先生の聴き方から何も学んでいないということは絶対にないはずだ。

そこを私は読みたかった。

なのに今回の特集で黛 健司氏が登場しない。
編集部はなにを考えての、今回の特集の筆者なのだろうか。

はっきり書けば、ステレオサウンド編集部は黛 健司氏を冷遇している。
そんなことはない、と編集部はいうだろう。

そんな意識はないのかもしれない。
それでも黛 健司氏はステレオサウンド・グランプリの選考委員になれていない。
なぜだろう、と思っている人は私以外にもいる。

山之内 正氏が、そう遠くないうちに、
ステレオサウンド・グランプリの選考委員になることはあるだろう。
そうなっても黛 健司氏は選考委員ではなかったりするのではないか。

Date: 3月 11th, 2021
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その8)

ステレオサウンド 218号の特集の企画に興味をもちながらも、
発売されてから一週間、まだ読んでいないのには、小さな理由がある。

特集「リファレンスディスクから紐解く評論家の音の聴き方」の登場するのは、
小野寺弘滋、傅 信幸、三浦孝仁、柳沢功力、山之内 正、和田博巳の六氏。
そこに黛 健司氏の名前がないからだ。

以前から感じていることなのだが、
ステレオサウンドの黛氏の扱いには、疑問がつきまとう。
私だけが感じているのではなく、
私の周りのオーディオマニア、きちんとステレオサウンドを買っている人たちも、
なぜ、もっと黛さんを登場させないのだろうか、といっている。

いろんな事情があるのだろう。
それでも218号の特集で黛 健司氏を外す理由が、私には理解できない。

山之内 正氏よりも黛 健司氏が古くからのステレオサウンドの書き手である。
しかも黛氏は、ステレオサウンドの編集者だったころ、瀬川番だった人だ。

だからこそ黛 健司氏に、今回の特集で書いてほしかった、
黛 健司氏の書いたものを読みたかった。

こういういい方を本人は嫌がられるかもしれないが、
黛 健司氏は瀬川先生の一番弟子だった、と私は思っている。

学生のころから瀬川先生の追っかけで、
編集捨として瀬川番だった人なのだから、
瀬川先生からいろんなことをきかれているはずだ。

そこには音の聴き方に関することだってあったはずだ。

Date: 3月 10th, 2021
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その7)

二年前の(その19)で、
オーディオ評論家(職能家)の書く文章を読むことは、
そのオーディオ評論家(職能家)の聴き方を知り、学ぶ行為である、と書いた。

いま書店にステレオサウンド 218号が並んでいる。
特集は「リファレンスディスクから紐解く評論家の音の聴き方」である。

まだ読んでいない。手にもとっていなので、
どういうレベルの内容にしあがっているのかは、まったく知らない。

それでも、こういう企画をやるようになったのか、と思っている。
出来のいい記事であってほしいと思っているが、
出来のいい記事であったとして、
(その19)で書いている「オーディオ評論から何も学ぶものはない」と豪語する人は、
そのままなのだろう。

豪語することが自慢なのだろうから。
自分の耳、聴き方が絶対なのだと思い込める人なのだから。

記事のタイトルには紐解くとある。
繙くではなく、紐解く、である。
解く、である。

それは解答へとつながっている「紐解く」であってほしい。

こういうことを書いていると、
お前はオーディオ評論家(職能家)の聴き方を知り……、といってるじゃないか。
そんな声がきこえてきそうである。

何度も書いているように、
いまのステレオサウンドにオーディオ評論家(職能家)はいないが、
私の捉え方・考え方である。

それは変らない。
そうであっても今回の特集では、
オーディオ機器はあまり登場しないのではないだろうか。

おそらくだが試聴を行っていないはすである。
今回の特集は、緊急事態宣言ということもあっての試聴なしの企画なのだろう。

だとしたらオーディオ評論家(職能家)でなくとも、
商売屋のところが抑えられているのではないだろうか。

Date: 12月 14th, 2020
Cate: オーディオ評論

二つの記事にみるオーディオ評論家の変遷(その9)

(その7)へのfacebookへのコメントがあった。
《オーディオ評論家の批評は「読まず」にできるんですね。》というものだった。

facebookで返信しようと思ったけれど、
コメントの人のように勘違いされている方が他にもいるかもしれない。
そう思ったので、こちらに書くことにした。

コメントには、オーディオ評論家とある。
コメントをされた方は、傅 信幸氏をオーディオ評論家と認識されているのだろう。
傅 信幸氏のファンなのかどうかまではわからない。

私は、このブログで、
オーディオ評論家(職能家)、オーディオ評論家(商売屋)と表現している。

わかってもらえていたと思っていたので、あえて書かなかったけれど、
私がオーディオ評論家と思っているのは、
オーディオ評論家(職能家)の人たちだけであり、
オーディオ評論家(商売屋)の人たちのことは、オーディオ評論家とは思っていない。

それでも便宜上、オーディオ評論家と書いたりはするが、
菅野先生が亡くなられて、オーディオ評論家(職能家)はいなくなった、
残っているのはオーディオ評論家(商売屋)だという認識である。

はっきり書けば、オーディオ評論家と呼ばれている人たちはいる。
自分で名乗っている人たちはいる。
けれど、私は、オーディオ評論家はいない、という認識である。

つまり、この項では(その1)、(その2)で書きたかったのは、
管球王国の担当編集者のことだった。

けれど、予定は変った。

Date: 12月 14th, 2020
Cate: オーディオ評論

二つの記事にみるオーディオ評論家の変遷(その8)

管球王国Vol.98の「魅惑の音像定位──最新・同軸スピーカーの真価」を眺めて、
まずおもったのは、担当編集者はステレオサウンドのバックナンバーをあまり読んでいないだった。

どんな人が担当編集者なのかは、全く知らない。
たぶん男の人だろうぐらい、である。
年齢も名前も、どんな音楽を好んで聴くのか、
どんなオーディオ遍歴なのか、そういったことは何ひとつ知らない。

でも、ステレオサウンド 94号も、それから51号も、
「HIGH-TECHNIC SERIES-4」も読んでいない、とはいえる。

担当編集者は、いや、しっかり読んでいる、というかもしれない。
けれど、私からすれば読んでいないに等しい読み方していない。

しっかり読んでいれば「魅惑の音像定位──最新・同軸スピーカーの真価」は、
構成からして別物になっているはず。

94号に《よくコアキシャルは定位がいいとはいうが、それは設計図から想像したまぼろしだ》、
そう書いている傅 信幸氏に依頼するのだから、
きちんとバックナンバーを読んでいる編集者ならば、
そうとうにおもしろい記事にすることができたはずだ。

なのにできあがったのは、月並な記事でしかない。

私が担当だったら、やはり傅 信幸氏に依頼しただろう。
そして事前の打合せをしっかりやる。
94号のことを念頭においた上で、やる。

でも、そういうことを担当編集者はやっていないはずだ。
もったいないことである。

ここまでのことを、(その2)に書く予定でいたし、
(その2)で終りの予定でもあった。

それがfacebookのコメントを読んで、変更し、まだ続く。

Date: 12月 8th, 2020
Cate: オーディオ評論

二つの記事にみるオーディオ評論家の変遷(その7)

オーディオ評論家を名乗っている以上、
スピーカーシステムをうまく鳴らせることができなければならない。

三年に、別項「オーディオ評論家の才能と資質」でも、そのことを書いている。
でも、世の中には、そうは考えない人もいる。

耳がよくて、音を適確に表現できれば、オーディオ評論家と呼べる、と。
そうだろうか。
オーディオマニアの何割がそう思っているのだろうか。

それが多数になったら、オーディオ雑誌もオーディオ評論もラクな仕事になるな、と思う。
「オーディオ評論家の才能と資質」の(その6)で触れたが、
車の評論家で、運転できない人はいないはずだ。
助手席に座って、誰かが運転する車に乗っているだけで、車の評論ができる、と思う人は、
スピーカーをうまく鳴らせなくても、耳が良ければオーディオ評論ができる、と思うのだろう。

それはサウンド批評であって、オーディオ評論と呼べない、と私は考えている。

管球王国Vol.98の「魅惑の音像定位──最新・同軸スピーカーの真価」は、
三年前に書いたことをくり返したくなる。

その1)で、
「魅惑の音像定位──最新・同軸スピーカーの真価」をまだ読んでいない、と書いた。
読んでいない、といえば、確かに読んでいない。

細部まで記憶できるような読み方はしていなかった。
書店で見かけて、手にとってパラパラと目は通している。
時間にして二、三分程度しか目を通していなかったから、読んでいない、と書いた。

なので、(その1)で、ステレオサウンド 94号で傅 信幸氏が書かれていることを思い出した。
《よくコアキシャルは定位がいいとはいうが、それは設計図から想像したまぼろしだとぼくは思う。》

このことについて何か書かれていたであろうか。
私が、この管球王国の記事に目を通したのは10月30日の一回だけである。
書かれていなかった、と記憶している。

だから(その1)を書いたし、(その2)では管球宇国の編集者について書こうと、
最初は考えていた。
それを変更したのは、(その1)へのfacebookでのコメント数件を読んだからである。

Date: 12月 2nd, 2020
Cate: オーディオ評論

二つの記事にみるオーディオ評論家の変遷(その6)

ステレオサウンド 51号に「♯4343研究」が載っている。
JBLのゲーリー・マルゴリスとブルース・スクローガンが、
ステレオサウンドの試聴室で4343のチューニングを行う、という記事である。

この記事中、ゲーリー・マルゴリスは、
4343はユニットの配置の関係から、音のバランスがとれる最低の距離は2mだ、と語っている。
つまり2m以上離れた位置で聴いて、
音のバランスがとれるようにネットワークのレベルコントロールを調整してほしい、ということだ。

2mよりも短い距離では、個々のユニットの音をバラバラに聴くことになり、
最適なバランスが掴めない、とのことだ。

マルチウェイ・マルチスピーカーの場合、ひとつの目安として、
最も離れているスピーカーユニットの中心と中心との距離の三倍以上離れて聴くこと。

4343の場合、ウーファー2231Aとトゥイーターの2405、
それぞれの中心の距離の三倍が約2mということである。
4343よりも大型の4350の場合、約2.5m離れることになるわけだ。

同軸型ユニットの場合はというと、トゥイーターとウーファーの中心は一致している。
理屈のうえでは、ぐっと近づいてもいいことになるわけだ。

51号は1979年夏に、「HIGH-TECHNIC SERIES-4」は1979年春に出ている。
だからこそ、どちらの記事も記憶にはっきりと残っている。

KEFのModel 105を聴いたのも、このころである。
Model 105は30cm口径ウーファーで、38cm口径の4343よりも、
ウーファーとトゥイーターの距離は近い。
2mも離れる必要はない。

それに中高域ユニットのエンクロージュアを聴き手に向けて調整できる。
熊本のオーディオ店で聴いたときも、三倍程度は離れていた。

どんなにきちんと調整されたとしても、
Model 105にぐっと近づいて聴いていたら、どうなっていただろうか。

マルチウェイ・マルチスピーカーユニットでも、Model 105のような例はある。
同軸型ユニットが、すべての条件において音像定位が優れているわけではない。

このことがごっそり抜け落ちたままで、単に音を聴いての、
《よくコアキシャルは定位がいいとはいうが、それは設計図から想像したまぼろしだ》
という感想のような気もする。

Date: 12月 1st, 2020
Cate: オーディオ評論

二つの記事にみるオーディオ評論家の変遷(その5)

なぜオーディオメーカーは、
やっかいともいえる同軸型ユニットに挑戦するのか、といえば、
それだけの音のうえでのメリットがあるからなのだろう。

その大きなメリットが音像定位に関することである。
そう昔から、同軸型ユニットは、音像定位に優れている、といわれ続けている。

ここで重要なのは、見逃してならないのは、
同軸型ユニットの音像定位の優位性は、至近距離で聴いた場合に発揮される、ということだ。

このことも昔からいわれていたことである。
1979年にステレオサウンド別冊「HIGH-TECHNIC SERIES-4」の巻頭鼎談のなかにも、
そのことは出てくる。
     *
 単純に考えれば、同軸型の良さは、一般のマルチウェイシステムのように各帯域専用のユニットをバッフル面に縦や横に並べることによって出てくる諸問題、特に指向特性のばらつきの問題が最も解決しやすいということですね。つまり、音像定位感を最もシンプルにとりやすいということです。
瀬川 それが第一でしょう。
 ですから、レコード会社によっては依然としてマルチウェイシステムを使わないで、周波数レンジが狭いとかバランスが理想的でないなどいろいろなことをいいながらも、同軸型を使い続けているのだろうと思うのです。
菅野 ぼくも実際にモニター用として同軸型を使っていますよ。
 しかし、同軸型は、薬と毒の両面を持っていると思います。つまり、何らかの形でネットワークを使って帯域分割をしているわけですが、そこに一つの問題点があるような気がするのです。薬の部分は、先ほど岡先生がおっしゃった定位の良さということが一つにはあるわけです。ところが、実際に一般のマルチウェイシステムで考えてみた場合、縦ないし横にそれぞれのユニットが配置されていると、至近距離で聴いた場合、ネットワークのクロスオーバー付近の音が変な音で出てくることに気がつきます。しかも低・中・高域の音が位置関係ではっきり別のところから出てくるという不自然さがあるわけです。同軸型はその辺の不自然さはありませんが、別の問題が生じてくるのです。それは先ほどもいったことですけれども、たとえばトゥイーターから出た音がウーファーによって音響的にモジュレートされたような歪み感を感じることなのです。
 ところが、その、いわば毒の部分が、一般のマルチウェイシステムのクロスオーバー付近の音をうまくマスキングし、しかも位置関係の不自然さを打ち消してくさぱるようなのですね。至近距離で聴いた場合、明らかに同軸型の方がアラは出にくいのです。そして、当然、音は同じポジションから点焦点的に出てくるので、定位も確かにつかみやすいということになります。
瀬川 いま論じられている2ウェイの同軸型の中で、製品としてはいくつかあっても、買うに値する、どうしてもこれでなければといえるくらいに価値あるものは、現在ではタンノイとアルテックぐらいしかないと思うのです。
 その中で、たとえはタンノイの場合、同軸型だからということでタンノイを選ぶという人は少ないだろうと思います。それよりもむしろ、タンノイの、あの総合的なタンノイトーンみたいなものに惚れ込んでいて、もしあれが一般のマルチウェイのように各帯域のユニットが単独に存在していたとしてもあのトーンが出れば、タンノイファンはやはり減らないでしょう。
菅野 それと同時に、同軸だという条件がタンノイトーンの一部分を作っているともいえますね。
瀬川 それはいえますね。ぼくがいまいっていることは荒唐無稽な説なのかもしれないですけれども、実際タンノイもスタジオでモニター用に使われています。その場合には、先ほど菅野さんがいわれた、至近距離で聴いても定位が乱れないということは大事な部分だと思いますね。
 ただ、タンノイをよく聴き込んだ人は音像定位がいいということをいいますが、それでは同軸型以外のマルチウェイでは定位感が悪いのかといえば、やはりそうではないわけです。ですから、同軸型だから定位がいいということは一律にはいえないような気がします。
 たとえば至近距離でという条件があれば、同軸型の良さはある面で絶対的なところがありますが、ある程度スピーカーから離れた場合は、音像が小さいからいいということはむしろ逆なことがいえると思うのです。いまのステレオ再生は左右の2点しか音を出さないだけに、よほどうまくやらないと音場が狭く感じられてしまうのですね。もとの音源は、スピーカーよりもはるかに大きな楽器がたくさんあるわけで、しかも多種楽器が一斉に鳴ったりする。そういう感じは、むしろ一般的なマルチウェイで、しかもウーファーとトゥイーターをうんと離して配置するという方法をとった方が、音像定位は悪くなりますけれども、全体的に広がった良さみたいなものが出てきます。
 ぼくは、同軸型ユニットというのは、帯域を広げたいということと、許容入力を大きくしたいという、この二つ以外の何物でせないと思うのです。ですから、結果的に、菅野さんが先ほどおっしゃったように異質なものを無理に一つにまとめたような〝木に竹を接ぐ〟という性格がどうしてもつきまとうのではないかと思うのです。
菅野 ただ、いまのアルテックとかタンノイの同軸型はよく出来ているので、木に竹ではなく、低域と高域がうまく合わさって一つのアルテックサウンド、タンノイサウンドの魅力にまで消化されていると思います。
 ですから、少し理屈っぽくいえば、どうせ低域と高域の二つに分けるのならば、何も無理して同軸型にすることはないと思うのです。同軸型にするためには、ユニットの形やある面での特性もかなり犠牲にしているわけですからね。逆にいえば、これだけのスピーカーメーカーがたくさんある中で、アルテックとタンノイしか現在は同軸型で成功していないということも成り立ち得るわけです。とにかく現在は、アルテックとタンノイが少しずば抜けて別格的に評価されていますね。
     *
同軸型ユニットの定位のよさは、至近距離において、であるということ、
そして同軸型ユニット、
特に基本設計の古いアルテック、タンノイは薬と毒の両面を持っている、ということ。

これを念頭において、ステレオサウンド 94号、150ページを読み返してほしい。

Date: 12月 1st, 2020
Cate: オーディオ評論

二つの記事にみるオーディオ評論家の変遷(その4)

KEFのUni-Q登場以前の同軸型スピーカーの代表的存在は、
タンノイとアルテックだった。

この二つ以外にも同軸型ユニットは、もちろんあった。
私が昔使っていたシーメンスのCoaxialもそうだし、
JBLの2145、イソフォンのOrchester2000、
パイオニアのPAX-A30などがあった。

とはいえ、やはり同軸型ときいて、オーディオマニアが頭に思い浮べるのは、
タンノイとアルテックだった。

この二つの同軸型ユニットは、中高域にホーン型を採用している。
JBLやシーメンスはトゥイーターはコーン型、
イソフォンはドーム型、パイオニアはホーン型だった。

トゥイーターがコーン型、ドーム型の同軸型ユニットは、
ウーファーの前面にトゥイーターが位置することになる。

ホーン型の場合は、ウーファーの奥にトゥイーターの振動板が位置する。
ウーファーとトゥイーターの位置合せは、構造上、かなり困難である。

特にホーン型の場合は、ウーファーとの距離が、
ドーム型、コーン型よりも離れることになる。

日本で平面振動板が流行り出したときに、パイオニアから、
平面振動板の4ウェイの同軸型ユニットが発表になり、
このユニットを採用したスピーカーシステムS-F1が登場した。

平面振動板だから、表からみれば、それぞれの振動板の位置は合っている。
けれど、ボイスコイルの位置までは一致していなかった。

Uni-Qが特徴的なのは、振動板の位置が合っている数少ない同軸型だったことにある。
実はホーン型トゥイーターの同軸型ユニットでも、
マクソニックのDS405は、ボイスコイルの位置を合せているし、
Uni-Qの約十年前に登場している。

同軸型ユニットは、それほど多くはなかった。
構造上複雑になるため、それにともない制約も生じるためであろうが、
それでも同軸型ユニットに挑戦するメーカーもあった。

手がけたものの、わりと早くやめてしまったメーカーもあれば、
タンノイのようにずっと長く続けているメーカーもあるし、
KEFも、もう三十年以上になる。

Date: 11月 28th, 2020
Cate: オーディオ評論

二つの記事にみるオーディオ評論家の変遷(その3)

1990年に、BBCモニターのLS5/1を、
オーディオ雑誌の売買欄で見つけて購入した。

いまならばヤフオク!があり、カラー写真で状態をチェックできるが、
あの時代は、オーディオ雑誌の巻末にある文章のみが情報だった。

だいたい程度良好とか新品同様とあった。
私が買ったLS5/1も程度良好と書いてあった。

それを信じるしかない。
近場の人なら訪ねていって確認することもできるが、確か関西の人だった。

届いたLS5/1はかなりくたびれたモノだった。
これを程度良好というのか、と文句の一つでもいいたくなるほどだった。

しかも売買欄にはKEFのLS5/1Aとあったが、実際はLS5/1だった。
それでも音を聴いてみると、定位のよさはまず驚いた。

LS5/1Aの定位のよさについては、
ステレオサウンド 38号で井上先生が書かれていた。
     *
このシステムは比較的近い距離で聴くと、驚くほどのステレオフォニックな空間とシャープな定位感が得られる特徴があり、このシステムを選択したこと自体が、瀬川氏のオーディオのありかたを示すものと考えられる。
     *
LS5/1を聴いたのも、かなりの近い距離だった。
《驚くほどのステレオフォニックな空間とシャープな定位感》は、まさにそのとおりだった。

LS5/1を小改良したのがKEFのLS5/1Aであり、
LS5/1AがKEFの最初のモデルでもある。

つまりKEFのスピーカーシステムは、最初のモデルからシャープな定位感を特徴としていた。
LS5/1とModel 105を、同時比較試聴したことはない。
それでも印象のうえでの比較ならば、定位の精度感はModel 105が上といえる。

中高域のユニットを、ウーファーとは独立したエンクロージュアにおさめ、
しかもユニットの位置合せとともに、仰角と水平を調整できるようにしたスタイルは、
Model 107で完結している。
Model 107、それから105もSeries IIからは仰角調整はできなくなっている。

そのKEFがModel 107のあとに同軸型ユニットUni-Qを発表しているのだ。

Date: 11月 27th, 2020
Cate: オーディオ評論

二つの記事にみるオーディオ評論家の変遷(その2)

同軸型ユニットは定位がいい、とは、ずっと昔からいわれ続けていることだ。
私がオーディオに興味をもった1976年秋も、そうだった。

タンノイ、アルテックの同軸型ユニットは、ほとんどの人が定位がいい、といっていた。
とはいっても、そのころ、アルテックにしてもタンノイにしても、
聴く機会は、田舎に住んでいたころはなかった。

ビクターからもS3000というスピーカーシステムが登場した。
新規開発の同軸型ユニットである。
これも聴く機会はなかった。

定位の描写に優れている、という評価を得ているスピーカーで、
実際にその音を聴いて、定位のよさに驚いたのは、
私の場合、KEFのModel 105が最初である。

この時の音のことは、これまでに何度か書いてきている。
熊本のオーディオ店に瀬川先生が来られた時に、
女性ヴォーカルを、少しでもよく聴きたい(鳴らしたい)といったところ、
Model 105をセッティングされ、バルバラのレコードをかけながら、
スピーカーの振りの角度、中高域ユニットの角度などを手際よく調整されたあと、
椅子から立ち上られて、ここに座って聴いてごらん、といわれて聴いた音、
これこそが、まさに定位がいい、とはこういう音をいうのか、と実感した最初だった。

この時の衝撃は、意外にも大きかった。
東京に住むようになって、ステレオサウンドで働くようになってから、
同軸型スピーカーを聴く機会は、特別なことではなくなっていた。

確かに、同軸型スピーカーは定位がいい、と私も感じていた。
それでもKEFのModel 105の、あの時の定位の見事さ、
もっといえば精密さに較べると、同軸型ユニットがそれを超えているとは感じられなかった。

そのKEFから同軸型ユニット、Uni-Qが登場したのは、たしか1988年の終り近くになってのことだった。

Date: 10月 30th, 2020
Cate: オーディオ評論

二つの記事にみるオーディオ評論家の変遷(その1)

ステレオサウンド 94号、150ページに、こうある。
《よくコアキシャルは定位がいいとはいうが、それは設計図から想像したまぼろしだとぼくは思う。》

いま書店に並んでいる管球王国Vol.98に、
「魅惑の音像定位──最新・同軸スピーカーの真価」という記事が載っている。

94号(1990年春)で、コアキシャルが定位がいいというのはまぼろしだ、と書いた人が、
30年後、「魅惑の音像定位」という記事を執筆している。

節操がない、とは批判しない。
30年も経てば、人は変る。
考えも、いろんな意味で変ってくる。

だからこそ、なぜ変ったのかを、オーディオ評論家ならばきちんと説明してほしい。

「魅惑の音像定位──最新・同軸スピーカーの真価」は、まだ読んでいない。
30年前に、真逆のことを主張していた人が、なぜ、管球王国の記事を担当したのか。
そして、おそらく記事中では、同軸型スピーカーの定位のよさにふれているはず。

定位がいいのは、まぼろし、とまで書いた人が、真逆のことを認めるようになったのには、
いったい何があったのか。

執筆者の傅 信幸氏は、書かれているのか。
94号のことを憶えていない人は、
「魅惑の音像定位──最新・同軸スピーカーの真価」をすんなり読むだけだろう。

でも、中には、私と同じように94号のことをしっかりと記憶している人もいる。
その人たちは、なぜ? とおもう。

その「なぜ?」に答えるのが、オーディオ評論家のはずだ、という時代は過ぎ去っていて、
いまでは答えないのが、オーディオ評論家なのだろう。

Date: 10月 7th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(あるオーディオ評論家のこと・その6)

ここまで書いてきて、五年前に別項に書いたことを思い出す。
菅野先生が、ステレオサウンド別冊「JBLモニター研究」で、次のように書かれている。
     *
 そしてその後、中高域にホーンドライバーを持つ4ウェイという大がかりなシステムでありながら、JBL4343というスピーカーシステムが、プロのモニターシステムとしてではなく、日本のコンシューマー市場で空前のベストセラーとなった現象は、わが国の20世紀後半のオーディオ文化を分析する、歴史的、文化的、そして商業的に重要な材料だと思っている。ここでは本論から外れるから詳しくは触れないが、この問題を多面的に正確に把握することは、現在から近未来にかけてのオーディオ界の分析と展望に大いに役立つはずである。
     *
1998年に書かれている。
4343に憧れてきたひとりとしても、そのとおりだと思う。

けれど残念なことに、いまのステレオサウンドの筆者の誰か一人でもいいから、
4343という材料(問題)を、多面的に正確に把握できる人はいるだろうか。

こういうことを書くと、柳沢功力氏がいるではないか、という人が出てくる。
私は柳沢功力氏には無理だ、と思う。

では、誰がいるか。
誰もいないのが、ステレオサウンドの現状だ。

傅 信幸氏も無理である。
傅 信幸氏よりも和田博巳氏のほうが年上だが、和田氏博巳氏はもっと無理である。

三浦孝仁氏は、
ずっと以前の記事「名作4343を現代に甦らせる」の試聴記を引き受けていることから、
絶対に無理。

別項で、月刊ステレオサウンドを出すべき、と書いている理由の一つが、
このことに関係してくる。

すべての筆者に、4343という材料(問題)をテーマに、
まとまった量の文章を書かせればいい、と思うからだ。

Date: 9月 10th, 2020
Cate: オーディオ評論,

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(賞について・その4)

一冊のオーディオ雑誌に、複数の記事が載る。
世の中には、複数のオーディオ雑誌がある。

一年間で、何本の記事がオーディオ雑誌に載ることになるのだろうか。
数えたことはないけれど、かなりの数であり、
いまではインターネットで公開される記事もあるから、そうとうな数になる。

いまもだが、昔も、掲載(公開)された記事を検証する記事はあっただろうか。
これまでさまざまな記事があったが、
オーディオ雑誌にないものとは、記事の検証記事ではないだろうか。

なにもすべての記事を検証すべきとは思っていない。
それでも、なかには検証したほうがいいのでは? とか、
検証すべきではないのか、と思う記事がある。

記事もだけれど、オーディオ機器の評価に関しても、
このオーディオ機器の評価は検証したほうがいいのでは?、
そう思うことがなかったわけではない。

賞は、実のところ、検証の意味あいを担っているのではないだろうか。

一年間に、けっこうな数の新製品が登場する。
それらが新製品紹介の記事や、特集記事で取り上げられる。

新製品の記事で、その新製品を紹介するのは、
ステレオサウンドの場合は一人である。

以前は、井上先生と山中先生が、新製品紹介の記事を担当されていて、
海外製品は山中先生、国内製品は井上先生という基本的な分け方はあっても、
注目を集めそうな新製品に関しては、対談による評価だった。

一年のあいだに、ある製品について何かを書いている人というのは、意外に少ない。
個人的に関心の高い新製品を、この人はこんな評価だったけれど、
あの人はどうなんだろうか、と知りたくても、載っていないものは読めない。

そういうもどかしさは、熱心に読めば読むほど募ってくる。