Archive for category オーディオ評論

Date: 9月 23rd, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(先生という呼称・その4)

来週末(9月29日、30日、10月1日)は、インターナショナルオーディオショウ。
インターナショナルオーディオショウ協議会のサイトでは、
各ブースで行われるプレゼンテーションのスケジュールがPDFで公開されている。

上記リンクページの下部には、
「TIAS2017イベントスケジュール」とある。
いつからイベントスケジュールになったのだろうか。

昨年はどうだったのだろうか。
講演スケジュールのようだった気もするが、
いまとなっては確認できない。
それともイベントスケジュールだったのか。

ダウンロードできるPDFは、今年も講演スケジュールとなっている。
おそらくこれまで使ってきているテンプレートを流用しているからなのかもしれない。

スケジュール表をみてわかるように、
オーディオ評論家を呼ばないブースも多い。
そこに講演スケジュールとひと括りにするのは、そぐわない。

それに何度も書いてきているように、
オーディオ評論家が話すことは、
いまや講演と呼べない内容のものばかりになってきている。

来年以降、PDFのタイトルも講演スケジュールからイベントスケジュールへと変更されるのだろうか。

Date: 8月 26th, 2017
Cate: オーディオ評論

「商品」としてのオーディオ評論・考(その7)

そういえばこんなことがあった。

ある国内メーカーがCDプレーヤーの新製品を出した。
けれど完成品(量産品)は、新製品の試聴には間に合わない。
だから試作品で試聴してほしい、という依頼が、広告代理店からあった。

広告代理店といっても、電通や博報堂といった大手のそれではなく、
オーディオだけの広告代理店が、当時はいくつかあった。

取材(試聴)で製品の貸し出しをお願いする際に、
メーカー、輸入元に直接電話することもあれば、
広告代理店を通じて、というのもあった。

国内メーカーのいくつかは広告代理店を通じて、だった。
そのメーカーの、20万円ほどのCDプレーヤーの新製品である。

ステレオサウンドは季刊だから、最新号の掲載を逃せば、
次は三ヵ月後になる。
それでは商戦に間に合わない。
だから試作品にも関わらず、新製品で取り上げてほしい、という強い押しだった。

試作品ということで、内部写真も撮らないでほしい、という制約が、
広告代理店からあった。
しかも1ページの扱いではなく、2ページでやってほしい、という。

かなりずうずうしい依頼である。
当時のステレオサウンドの新製品の紹介ページでは、
1ページの場合は、製品写真のみ、2ページは内部写真の他に、部分にスポットをあてたカットも入れていた。
そういう写真はやめてほしい、写真はこちらで用意する、という。

確かに写真は用意してくれたが、
ステレオサウンドの新製品紹介のページのフォーマットに使えないものばかりだった。

結局どうしたか、というと、内部写真をとって掲載した。
D/AコンバーターのLSIの近くには、ブチルゴムが貼ってあった。
ブチルゴムは、ここだけでなく、何個所に使われていた。
その部分もしっかり撮ってもらい、ブチルゴムが使われていることを説明文にも入れた。

量産機では絶対にしないことを、試作品ではやっていた。
だからこそ、誌面にはそのことをしっかりと掲載した。

本が出て、その広告代理店からクレームが来た。
予想通りにクレームをいってきた。

Date: 8月 26th, 2017
Cate: オーディオ評論

「商品」としてのオーディオ評論・考(その6)

私が編集部にいた時も、書き直しを頼んだことはある。
けれど、それはメーカー、輸入元に忖度しての書き直しではなく、
でき上ってきた原稿が、あまりにもひどいためである。

時間的に余裕があるときはそういうことができる。
けれど、〆切をすぎて渡された原稿がそうであったときは、
多少は手直ししてもどうにもならないときは、そのまま掲載してしまったこともある。

記事は原稿だけででき上るわけではなく、写真や図も入る。
その説明文は編集者が書く。
そこのところで少しでも、記事としてのクォリティを上げようとする。

一度あったのは、スピーカーのエンクロージュアについて、
ある筆者に依頼した原稿があまりにも酷すぎた。
私の担当ではなかったけれど、担当から「どうにかならないか」と頼まれたので、
写真の説明文において、原稿とは180度違う主張をしたことがあった。

別の編集者が、原稿本文と写真の説明文がまるで違うんですね、ときいていたけれど、
ステレオサウンドが、いままで主張してきたこと、
それにステレオサウンドの読者のレベル、そういったことに対して、
その筆者はまるで認識していなかったから生じたものだった。

それからしばらくその筆者はステレオサウンドには書いていない。

書き直しを依頼したときも、再度上ってきた原稿がたいして変っていなかったこともある。
そのときは、全面的にこちらで書き直した。

そんなことはあったけれど、
くり返すが、メーカー、輸入元に悪い意味での忖度してのそれでは決してなかった。
あくまでも原稿がつまらなかったからである。

けれど現在の忖度は、そうでないことを、
ステレオサウンドの書き手(ひとりではない)から、直接聞いている。

Date: 8月 24th, 2017
Cate: オーディオ評論

「商品」としてのオーディオ評論・考(その5)

ここ(つまりその5)で書こうと考えていたことと、少し違うことを書くことにする。

別項で、商売屋と職能家、と書いた。
川崎先生は、どこも同じで、商売屋と職能家がいる、といわれる。
そうなのだろう。

けれど職能家よりも商売屋が目立つ業界は衰退に向っている、といえる。
オーディオ業界がそうなのかどうかは、あえて書かない。

ここを読まれている方がひとりひとり考えてほしいことだからだ。

今年は、忖度という言葉が、流行語のひとつになるのは間違いないだろう。
忖度(そんたく)とは、他人の気持ちをおしはかること、という意味なのに、
今年における使われ方は、いい意味ではないところである。

悪い意味での忖度。
オーディオ評論家は忖度の権化のように捉える人もいよう。
昔からオーディオ評論家がやってきたことは、悪い意味での忖度。

ここまでいわれると、必ずしもそうではない、と私は否定するが、
そう思われても仕方ないところがあるのも……、と思わないわけでもない。

ただそれでもいいたいのは、オーディオ評論家が忖度を進んでやってきた、と捉えるのは、
若干の事実誤認があるといえる。

悪い意味での忖度を行ってきたのは、
オーディオ評論家よりもオーディオ雑誌の編集者であるし、
先だともいえるからだ。

オーディオ雑誌の編集者が、
クライアント(メーカー、輸入元)に対して忖度する。
そのことによって原稿が、編集者によって手直しされたり、
手直しを求められたりする。

そんなことが続けば、オーディオ評論家がオーディオ雑誌の編集者に対して忖度する。
こんなふうに書いては、また編集者から手直しされるか書き直しか、と思えば、
最初から編集者が「よし」とするものを書こうとするはずだ。

Date: 8月 11th, 2017
Cate: オーディオ評論

「商品」としてのオーディオ評論・考(その4)

その2)で、オーディオ評論家という書き手の商取引の相手は出版社だと書いた。
オーディオ評論家という書き手は、原稿を出版社に売って対価を得ている。
原稿とは、いわゆるオーディオ評論という商品である。

それは商品足り得なかったりしているわけだが、
それでも出版社から原稿料をもらっている以上、それは商品ということになる。

その商品を書くため(作るため)に、
オーディオ評論家は試聴を行う必要がある。

どんないいかげんなオーディオ評論家といえども、試聴せずに試聴記を書くようなはしないはず。
そんなことをしてバレてしまったら、オーディオ評論家としてやっていけなくなる。

別項「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その10)」で書いているような、
あんないいかげんな聴き方をしていて、
それはもう試聴とは呼べないものであっても、形の上では試聴を行っている。

片チャンネルが逆相で鳴っていた音を聴いて、試聴記を書いて、
それが商品として通用するわけだから、むしろ聴かないほうがいいのではと思うこともある。

それでもオーディオ評論家と呼ばれる人たちは、試聴を行う。
試聴をやることで対価が得られる、というのも理由のひとつである。

オーディオ評論家が出版社からもらうのは、原稿料だけではない。
試聴という取材に対しても、貰っている。

これを否定はしない。
オーディオ評論家の原稿は、試聴を必要とする場合もあれば、そうでない場合もある。
あるテーマを与えられた原稿などは試聴する必要はないわけだ。

オーディオ評論家が試聴する場は、出版社の試聴室だけではない。
自身のリスニングルームも試聴の場となる。
そしてメーカーの試聴室、輸入代理店の試聴室も、そうだ。

出版社が直接関係しない試聴が、オーディオ評論家にはある。

Date: 8月 10th, 2017
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その16)

私が買った「名曲名盤300」は、
二ページ見開きに三曲が紹介されていた。

評を投ずるのは七人の音楽評論家。
十点の点数を、三点以内に振り分けるというものだった。
評論家によっては、一点に十点をつけている場合もあった。

そして200字ちょっとのコメントをすべての評論家が書いていた。
ステレオサウンド 43号のベストバイのやり方とほぼ同じである。
コメントの中に出てくる演奏者名はゴシックにしてあった。

編集という仕事を経験していると、
200字程度のコメントを、少ない人(評論家)でも数十本、
多い人では二百本くらいは書くことになり、これはたいへんな労力を必要とする作業である。

もう少し文字数が多ければ楽になるだろう。
演奏者名だけでも、少なからぬ文字数をとられる。
残った文字数で、選考理由や演奏の特徴などについてふれていく。

選ぶ作業でも大変なうえに、コメントを書く作業が待っている。
人気のある企画とはいえ、同じやり方で継続していくとなると、
評論家からのクレーム的なものが出てきたであろう。

誰かひとりが代表して書けばいいじゃないか、
そうすることで文字数は増えるし、書く本数もずいぶんと減る。

書き手(評論家)の負担はそうとうに小さくなる。
それでも選ぶだけでもたいへんとは思うけれど。

でも、これは作り手側、書き手側の事情でしかない。
読み手側にしてみれば、なぜ以前のやり方を変えてしまったのか、と思ってしまう。

私もステレオサウンドの読み手だったころ、
なぜ43考のやり方を変えてしまったのか、と不思議に思ったものだ。

作り手側、書き手側の負担を減らすということは、
誌面から伝わってくる熱量の変化としてあらわれる。

編集経験があろうとなかろうと、読み手は敏感に反応する。
熱っぽく読めるのか、そうではないのか、のところで。

Date: 8月 10th, 2017
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その15)

レコード芸術別冊「名曲名盤500」。

レコード芸術がいつごろから、この企画をやりはじめたのかはっきりとは知らないが、
私がまだ熱心に読んでいた1980年代には、すでにあった。
そのころは500ではなく200曲少ない300だった。

レコード芸術で数カ月にわたって特集記事で、しばらくすると一冊の本として発売されていた。
もう手元にはないが、あのころ一冊買っている。

持っているレコードにはマーカーで色付けして、
持っているけれど選ばれていないディスクをそこに書きこんだり、
買いたい(聴きたい)ディスクには別の色のマーカーでチェックしたりした。

一年ほどでボロボロになってしまった。

いま書店に並んでいる最新の「名曲名盤500」を買おうとは思わない。
書店で手にとってみた。
いまは、こういうやり方なのか、とがっかりした。

ステレオサウンドのベストバイと同じ道をたどっている、とも思った。
何度も書いているように、ステレオサウンドのベストバイで、
私がいちばん熱心に読んだのは43号である。

43号のやり方が理想的とはいわないが、これまでのベストバイ特集の中ではいちばんいい。
熱心に読んだ。

それは時期的なものも関係してのことではあるが、
いま読み返しても43号のやり方は、評論家の負担は大きくても、
一度43号を読んできた者にとっては、それ以降のベストバイはものたりないだけである。

同じことを最新の「名曲名盤500」にもいえる。
評論家(書き手)の負担を慮ってのやり方なのだろう、どちらのやり方も。

Date: 7月 26th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(書評のこと)

(その5)にfacebookでコメントがあった。
そこに書評の世界のことが書いてあった。

コメントの内容とは関係のないことだが、
書評は難しい、とステレオサウンドの編集をやっていたころから思っていた。

当時のステレオサウンドには、岡先生による書評のページがあった。
音楽、オーディオに関する本が取り上げられていた。

毎回岡先生の原稿を読むたびに、さすがだな、と感心していた。
大半が未読の本だったが、
中には岡先生の原稿の前に読んでいた本もあった。

そういうときは、ほんとうにかなわないな、と感じていた。
書評を書け、といわれても、こうは書けないどころか、
書評というものをどう書いたらいいのかもわかっていなかった(つかめていなかった)。

日本語で書かれた本を読んで、その本について日本語で書く。
いったい何を書いたらいいのだろうか、途方に暮れる。

書評を依頼されることはないけれど、
時々、この本を紹介するのに、どう書くかは考える。

ステレオサウンドを辞めて25年以上が経っているし、
こうやって毎日書いていても、書評はほんとうに難しい、とおもう。

Date: 7月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の才能と資質(その2)

ここでのテーマは、別項「評論家は何も生み出さないのか」と関係している。
「評論家は何も生み出さないのか」を書き始めたから、このテーマで書き始めたともいえる。

オーディオ評論家を名乗っているのに、
周りからもオーディオ評論家と呼ばれているのに、
スピーカーをうまく鳴らすのが不得手な人が多い。

いまオーディオ評論家と名乗っている人すべてを知っているわけではないから、
全員がそうだ、とは断言できないが、現在の多くのオーディオ評論家が、
スピーカーをうまく鳴らすことに長けているとはいいがたい。

もちろん、自分のリスニングルームにおいて、
自分の好きなスピーカーを鳴らすことに関しては、そうではないだろうけど、
オーディオ評論家は少なくともプロフェッショナルであるわけだから、
それだけではアマチュアと同じでしかない。

十年ほど前か、あるオーディオ評論家から聞いたことがある。
地方のオーディオ販売店に招かれる。
たいてい音が出るように準備されている。

けれど客に聴かせられるようなレベルではないことも少なくないそうだ。
そんなときFMアコースティックスのアンプが店にあると助かる、ということだった。

FMアコースティックスのアンプが置いてある店なわけだし、
オーディオ評論家を招いてイベントを行うくらいだから、
最初のアンプもそこそこの評価の高いモノのはすである。

それをさらに高価なFMアコースティックスにかえる。
そうするとたいていの場合、なんとかなる、ということだった。

この時はアンプについて話していたときであったから、
その流れで、この話をしてくれたのだろう。

そのことはわかったうえで、書いている。
それでも、オーディオ評論家を名乗っている以上、
アンプをFMアコースティックスにかえる前にやれることは、山のようにあるではないか、
そういいたくなる。

おそらく、これに対する返事は、時間がそんなにないから、なのだろう。
そういう事情もわからないわけではない。

それでも……、とやっぱり思ってしまう。

Date: 7月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その6)

もうすこし向坂正久氏の文章から引用しておこう。
     *
 評論とはくり返し書くが、文学の領域の仕事である。そこでは筆者の主観が、あらゆる客観的な事実に勝るのである。たとえ資料が乏しくとも、あるいはそれが不確かでであっても、その筆者のいおうとすることによって、それは枝葉末節にすぎない。ほんとうの幹は筆者の肉体だからである。
 ここでもうひとつの例をあげよう。名高い小林秀雄の「モオツァルト」には今日偽作と断定されている手紙の引用がある。研究論文ならば、すでにそのことで、この評論の価値は減少しよう。しかし、このエッセイの価値はそんなことで微動だにしないのだ。その手紙は小林にとって、ひとつの動機になったにすぎないのだから、そこから織り出していく彼自身の芸術論に価値があるのであって、引用そのものは極端にいえば誰の手紙でも構わないとさえいえるのである。
 論文と評論の差はここにある。そしてまた音楽好きの読者が、ほんとうに求めているのは客観的なものではなくて、より主観的なものであり、その主観を表現し得る技術を磨くことこそ、評論家たちが骨身を削って体得しなければならないことなのである。音楽のジャーナリズムはそのことを忘れているだけでなく、当の評論家たちさえ、そのことに悩むことが少なすぎるのである。
     *
49年前の「音楽評論とは何か」は、
音楽雑誌、レコード雑誌ではなく、オーディオ雑誌のステレオサウンドに載っている。
当時の音楽雑誌、レコード雑誌に「音楽評論とは何か」が載ることはなかっただろう。

向坂正久氏の「音楽評論とは何か」は、
ほぼそのまま「オーディオ評論とは何か」でもある。

いまのオーディオ雑誌に「オーディオ評論とは何か」は載らないであろう。

上の文章を引用していて思い出していたのは、井上先生が岩崎先生について語られたことである。
視聴のあいまに、ぼそっといわれたことを思い出す。

岩崎さんがすごいのは、
たとえばタンノイは整流器の製造からスタートした会社だった、
たったこれだけの書き出しを与えられただけでも、一本のおもしろい文章を書き上げる。
途中から、タンノイは整流器……からはまったく外れてしまったことになるだろうけど、
岩崎さんにしか書けないことを書き上げる。

そんなことを話してくださった。
そのときの井上先生の表情は、どこか羨ましげでもあった。

向坂正久氏が書かれている
《ひとつの動機になったにすぎないのだから、そこから織り出していく彼自身の芸術論に価値があるのであって、引用そのものは極端にいえば誰の手紙でも構わないとさえいえるのである》、
井上先生は、これを話してくれていた、といえる。

Date: 7月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その5)

長島先生が、サプリームNo.144(瀬川先生の追悼号)に書かれたこと。
     *
オーディオ評論という仕事は、彼が始めたといっても過言ではない。彼は、それまでおこなわれていた単なる装置の解説や単なる印象記から離れ、オーディオを、「音楽」を再生する手段として捉え、文化として捉えることによってオーディオ評論を成立させていったのである。
     *
私もそう思っている。
オーディオ評論は、瀬川冬樹から始まった、といえる。
そして、それはステレオサウンドという場が与えられたからだ、とも思っている。

それ以前の、オーディオに関する文章は解説であったり、
研究発表といえるものがほとんどすべてといえる。

そのなかにあって、藝術新潮での五味先生の文章がひときわかがやいていた。
五味先生の文章があったからこそステレオサウンドが誕生し、
瀬川冬樹によるオーディオ評論が始まった。

オーディオ評論は、50年を超えた──、
と書けるのだろうか。

たしかにステレオサウンドが創刊50年なのだから、そうとはいえる。
けれど1977年に岩崎先生が、1980年に五味先生が、1981年には瀬川先生が亡くなられている。

ここでオーディオ評論は終った──、
そうもいえる。
終ったがいいすぎならば、
オーディオ評論が始まって15年目がピークだった、ともいおう。

そんなことはない、いまもオーディオ評論は……、と思う人は、
もういちど長島先生の文章を読みなおしてほしい。

瀬川先生によって、
《単なる装置の解説や単なる印象記》から離れていんて成立したものが、
《単なる装置の解説や単なる印象記》に戻ってしまっているとしか思えない現状。

ステレオサウンド以前の《単なる装置の解説や単なる印象記》とくらべると、
現在のそれは小手先のテクニックによって、表面的にはマシにみえないこともない。

けれど、そこには感動がまったくない。

Date: 7月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その4)

ステレオサウンド 8号には「音楽評論とは何か」という記事がある。
音楽評論家の向坂正久氏による文章である。

四つの見出しがつけられている。
 現在の音楽評論は何故つまらないか
 客観的論文と主観的評論
 批評の尺度にも原典主義
 新しい音楽評論のために

この四つの見出しにわずかでも興味をもった人は、
ぜひ全文を読んでほしい、と思う。

向坂正久氏は1931年生れなので、
1932年生れの菅野先生、山中先生、長島先生、1931年生れの井上先生たちと同世代であり、
ステレオサウンド 8号(1968年発売)は、36か37歳。

少し長くなるが、冒頭のところを引用しておく。
     *
 すすめられるままに、私は大きなテーマを選んで書く。前号の「ナマ・レコード・オーディオ」は全体の序章のようなものだが、そこでも、すでに私は音楽評論の現状について多少の批判を加えたつもりである。自らが住するジャンルを内部批判することは、ある居いは読者から見たら不可解なことに思われるかも知れないが、実は今までこうしたことがなされないために、そのつまらなさを助長させたといってもいい。
 文学畑の人から「音楽評論というのはほとんど解説ですね」といわれたことがあるが、全く演奏会やレコードの個評を除くと、知識の切り売りが圧倒的に多いのが現状である。知識が商品価値をもつのは当然だとしても、それは少くとも評論とはいえないだろう。全くの無知から出発していても、読者を感動させる文章というものがあると同時に、音楽知識をもちあわせぬ読者の心にさえ、ひびく文章というものがなくてはならぬ。評論とは文学の領域なのだから、それを基本に考えねばならないところを、音楽ジャーナリズムは知識から知識へ、言葉をかえれば頭脳から頭脳へという方向だけで、すべて事足れりとしている傾向が強い。実はこれが音楽評論をつまらなくさせている最大の原因なのである。
 音楽を素材にして、人生を語り、人間を論ずるということが、余りにも少なすぎはしないか、まるで音楽は人間が作ったものではなくて神が与えたものだといわんばかりの解説に接していては、愛好家がまともな聴き方ができなくなるのは当り前である。そしてこの五十年間に培ったそういう特殊な読者層だけを対象に音楽雑誌は毎月編集プランを組んでいるのだから、およそ評論らしい評論の載らないのは当然すぎることである。音楽評論家というレッテルをつけられている人が二百人ぐらいはいると思うが、「音楽」の二字をとって評論家として通用する人が、果たして何人いるだろう。力量はあっても音楽ジャーナリズムの要求で、習い性になった人もあり、本質的に学者であり、啓蒙家である人が多すぎる。彼らの仕事も重要だが、無地の読者をも吸収できる評論が、もっと書かれてしかるべきだろう。
 では一体、評論の望ましい型とはどんなものか具体的にあげてみよう。私はオーディオに関して全く無知であるが、本誌の「実感的オーディオ論」を毎号愉しみにして読んでいる。製品名などで、その表現のいわんとするところの幅がわからぬこともないではないが、そこには五味康祐という一人の人間が、オーディオの世界で夢み、苦闘している姿が生きている。ひと言でいえば体臭がある。この体臭とは頭脳だけからは決してしまれない。オーディオという無限の魅惑が、その肉体を通して語られることの、紛れもない証左である。なるほど彼は作家で表現力があるのは当然だ、だからおまえにも面白いのだろうという人があるかも知れない。しかしその論理は逆である。表現力があるから作家になれたのだ。およそ文章で飯を食おうと思う人間は、小説であれ、評論であれ、その基準の第一は文章で人を魅する力があるか、どうかにかかっている。知識や教養は第二の条件だ。それが音楽ジャーナリズムの世界では位置が逆転している。「学」があることが第一なのだが、これでは面白くなろう筈がない。
     *
全文引用したいくらいだが、そういうわけにもいかないので、このくらいしておく。

《五十年間に培ったそういう特殊な読者層だけを対象に音楽雑誌は毎月編集プランを組んでいるのだから、およそ評論らしい評論の載らないのは当然すぎることである》
向坂正久氏は、そう書かれている。

音楽評論はオーディオ評論よりも古くからある。
そのオーディオ評論も、昨秋、ステレオサウンドが創刊50年を迎えた。

Date: 7月 20th, 2017
Cate: オーディオ評論, 選択

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その5)

B&Wの800シリーズについて書いていて、ふと思ったことがある。
マルチチャンネル再生をやるとしたら、
意外にもB&Wの800シリーズは候補に挙がってくるかも……、ということだった。

モノーラル時代はスピーカーシステムの数は一本、
ステレオ時代になって二本になった。

モノーラル時代には大型のホーン型スピーカーシステムがいくつも存在していた。
JBLのハーツフィールド、エレクトロボイスのPatrician、
タンノイのオートグラフ、ヴァイタヴォックスのCN191、
これらの他にも、いくつものモデルがあった。

これらのスピーカーシステムで、ステレオ再生(2チャンネル再生)を行う。
そのことに否定的なことをいう人ももちろんいたけれど、
これらのスピーカーシステムによるステレオ再生は、独自の世界を築いていたこともあって、
いまだその世界に憧れつづける者もいる。

でも、このことはステレオ再生が二本のスピーカーシステムだったこともあるように、
最近では考えている。

もしステレオ再生が2チャンネルではなく、
センターチャンネルを加えた3チャンネル、
リアチャンネルを加えた4チャンネル、
センターとリアの両方の5チャンネル、
そういうシステムであったなら、
モノーラル時代のスピーカーシステムで……、というやり方はうまくいかなかったかもしれない。

モノーラル時代の、これらのスピーカーシステムは大型で、しかも高価だった。
そういうスピーカーを三本、四本、五本揃えるのは、それだけでたいへんなことだが、
問題はそこではなく、スピーカーのもつキャラクターの濃さについてである。

いかなるスピーカーであっても、キャラクター(個性)がある。
そのスピーカー固有の音色がある。

そのキャラクターが、スピーカーの数が二本よりも多くなっていくときに、
問題として顕在化していくのではないだろうか。

私は4チャンネル再生の経験がない。
聴いたことがないわけではないが、オーディオに関心をもつ前であったし、
単にきいた、というだけでしかない。

4チャンネル再生の問題点は頭ではわかっているし、
定着しなかった理由は、知識として知っている。

それでも、ふとおもうのは、
当時B&Wの800シリーズのようなスピーカーシステムが存在していたら、
フォーマットの制定も行われていたら、
違う展開を見せていた可能性について、だ。

B&Wの800シリーズを鳴らしていたオーディオ評論家として、
小林悟朗さんがそうだったことを思い出した。

小林悟朗さんは800シリーズでマルチチャンネル再生を行われていた。

Date: 7月 10th, 2017
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の才能と資質(その1)

ステレオサウンド 56号に、瀬川先生がこんなことを書かれていた。
     *
 JBLの音を嫌い、という人が相当数に上がることは理解できる。ただ、それにしても♯4343の音は相当に誤解されている。たとえば次のように。
 第一に低音がよくない。中低域に妙にこもった感じがする。あるいは逆に中低域が薄い。そして最低音域が出ない。重低音の量感がない。少なくとも中低音から低音にかけて、ひどいクセがある……。これが、割合に多い誤解のひとつだ。たしかに、不用意に設置され、鳴らされている♯4343の音は、そのとおりだ。私も、何回いや何十回となく、あちこちでそういう音を聴いている。だがそれは♯4343の本当の姿ではない。♯4343の低音は、ふつう信じられているよりもずっと下までよく延びている。また、中低域から低音域にかけての音のクセ、あるいはエネルギーのバランスの過不足は、多くの場合、設置の方法、あるいは部屋の音響特性が原因している。♯4343自体は、完全なフラットでもないし、ノンカラーレイションでもないにしても、しかし広く信じられているよりも、はるかに自然な低音を鳴らすことができる。だが、私の聴いたかぎり、そういう音を鳴らすのに成功している人は意外に少ない。いまや国内の各メーカーでさえ、比較参考用に♯4343をたいてい持っているが、スピーカーを鳴らすことでは専門家であるべきはずの人が、私の家で♯4343の鳴っているのを聴いて、「これは特製品ですか」と質問するという有様なのだ。どういたしまして、特製品どころか、ウーファーの前面を凹ませてしまい、途中で一度ユニットを交換したような♯4343なのだ。
     *
まだ高校生だった私は、そういうものなのか、と思っただけだった。
スピーカーメーカーの人でも、スピーカーをうまく鳴らせるわけではないのか、と。

ステレオサウンドで働くうちに、このことは少しずつ実感をともなってきた。
スピーカーを開発・製造することと、
スピーカーをうまく鳴らすことは、同じ才能ではない、ということを実感していた。

そのころから感じていたのは、オーディオ評論家に求められる才能とは、
音を聴き分ける能力、音を言葉で表現する能力──、
これらも必要ではあるのはわかっているが、
それ以上に、そしてそれ以前に必要な才能とは、
スピーカーをうまく鳴らすことである、と。

どんなに耳がよくて、音を巧みに言葉で表現できたとしても、
誰かが鳴らした音を聴いてのものであれば、
その人はオーディオ評論家であろうか、
せいぜいがオーディオ批評家ではないのか。

いまオーディオ評論家と呼ばれている人も、
自身のリスニングルームで鳴らしているスピーカーに関しては、
うまく鳴らしているであろう。

でも、それはオーディオ評論家ではないオーディオマニアもそうだ。
自身のリスニングルームという特定の空間において、
愛用しているスピーカーをうまく鳴らすことは、
オーディオのプロフェッショナルであろうと、アマチュアであろうと同じである。

スピーカーが置かれている環境が違ってきても、
どんなスピーカーをもってこられたとしても(もちろん基本性能がしっかりしているモノ)、
オーディオ評論家を名乗るのであれば、うまく鳴らすことができること、
これがオーディオ評論家としての大事な才能であるとともに、
むしろ資質といえるような気もしている。

Date: 7月 1st, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その3)

オーディオ評論と呼ばれる仕事もしていた知人は、なぜ小説を書き始めたのか。
芥川賞が欲しいから、書き始めたのかもしれない、
書くことが好きだったから、自然と書き始めたのかもしれない、
そのへんのはっきりとしたことは私にはわからないが、
おそらく当人もよくわかっていないのではないか。

作家(小説家、画家、彫刻家、作曲家などをふくめて)は、
なぜ何かをつくるのか──、といえば、
表現したいものがあるからだろう、という答が返ってきそうだ。

表現したいもの、ということでは、
オーディオ評論家も、少なくとも私が先生と呼ぶオーディオ評論家の人たちは、
音というかたちがなく抽象的で、すぐに消滅してしまう物理現象を表現しよう、としていた。

音は言葉や絵や写真などで直接伝えることはできない。
測定結果も、どんなに多項目にわたって測定をしたとしても、まったく伝えられない。

言葉(文章)で伝えるしかない。
この行為は手を抜こうと思えば、どれだけでも手を抜ける。
文章のテクニックがあれば、体裁は整えられる。

でも、そこからは何も伝わってこない。
よく、ある特定ディスクの、この部分がこんなふうに鳴った、
別のディスクの、この部分はこう鳴った、
そんなふうにことこまかに書く人がいる。

そんな試聴記をわかりやすい、親切だ、具体的だと思っている読み手もいる。
この手の試聴記は、実は何も伝えていない。
それだけでは、なにひとつ伝えていない。