Archive for category オーディオ評論

ブラインドフォールドテストとオーディオ評論(その2)

明日(3月5日)発売のステレオサウンド 230号の特集は、
小型スピーカーシステムのブラインドフォールドテストである。

オーディオマニアのなかには、ブラインドフォールドテストこそが絶対で、
それ以外の試聴結果を絶対に認めない人がいる。
そういう人は、ブラインドフォールドテストをやらないオーディオ評論家も信用しない、らしい。

それはそれでかまわないけど、
ブラインドフォールドテストは、決して絶対的なものではない。

その1)ですでに書いているように、
ブラインドフォールドテストで試されているのは、鳴らし手の技倆である。

ブラインドフォールドテストは試聴を行う側のオーディオの力量・技倆が、徹底して問われる。
つまりステレオサウンドにおいては、ステレオサウンド編集部の力量が問われるわけで、
試聴者の力量と同等か、それ以上でなければ、厳密な意味でのブラインドフォールドテストは成立しない。

そのことを理解せずに、ブラインドフォールドテストを絶対視している人は、
それこそ強烈なバイアスを自分にかけていることにもなる。

ブラインドフォールドテストで聴いているのは、何か。
ここのところをはっきりと読み手に伝えなければ、
ブラインドフォールドテストは、あるところ編集部、評論家の自己満足なところがあるし、
一部の読者に媚びているともいえよう。

だからといってブランドフォールドテストを全面的に否定はしない。
正しく、厳密にやれればであるが、これが非常に難しく、
その難しさを理解していない人のほうが、ブランドフォールドテストこそが……、といっている。

そして別項「オーディオ評論家の才能と資質(その6)」で、
助手席に座っているだけで車の評論ができるわけがない、と書いた。

ブラインドフォールドテストは、それに近い性質も持っている。

Date: 10月 15th, 2023
Cate: オーディオ評論

音の轍(その3)

録音は未来。
グレン・グールドの言葉だ。

録音は過去だ。
そんなふうに捉えている人もいる。

録音が未来なわけがない。
そう捉える人の方が多いのかもしれない。

けれど、音の轍について考えるならば、
録音は未来ということが見えてくるはずだ。

Date: 10月 3rd, 2023
Cate: オーディオ評論

音の轍(その2)

音は発せられた次の瞬間には消えていく。
けれどスピーカーから発せられた音は、どこかへと向っていく。

音の方向性といえるものがあってのオーディオの音であり、
方向性があるからこそ音の轍ができるはずだ。

Date: 9月 23rd, 2023
Cate: オーディオ評論

音の轍(その1)

音は発せられた次の瞬間には消えていく。
目で捉えることもできない。
手で触れることもできない。

オーディオ評論とは、そういう音の轍なのではないだろうか。

Date: 4月 15th, 2023
Cate: High Resolution, オーディオ評論

MQAのこれから(とオーディオ評論家)

MQA破綻のニュースが流れた。
MQA推しのオーディオ評論家は、ソーシャルメディアでなにか発言しているのか。

はっきりとした情報は得られていない状況だから、
オーディオ業界の人間としては、書きにくい面もあるだろうことは了解している。

それでもこれまでMQAを積極的に評価して、
メリディアンのULTRA DACを自身のシステムに導入している人ならば、
なにかを書いているだろうと思って、その人のtwitterをチェックした。

MQA破綻のニュースのあとにもいくつか投稿されている。
けれどそれらはMQAにはまったく関係ないことばかりで、
MQA破綻については、一言もない。

その人とは、ほとんどの人が誰だかすぐにわかると思うが、麻倉怜士氏だ。
オーディオ・ヴィジュアル評論家なのだそうだ。

ずっと以前から、麻倉怜士氏はオーディオ・ヴィジュアル評論家(商売屋)だと認識している。
他の人たちも商売屋だと思っているけれども、
この人のすごさは、その徹底ぶりであって、プロの商売屋といってもいいだろう。

麻倉怜士氏のマネは、無理だ。
ここまでやれる人は、オーディオ評論家(商売屋)の人たちのなかにもいないだろう。

それでも麻倉怜士氏がMQA、ULTRA DACについて書いているものを読むと、
この人の良心が顕れているともおもっていた。

だから、麻倉怜士氏がMQA破綻のニュースのあとに、何を書くのかが気になっていた。
先ほどの時点でも、何もMQAに関することはない。

このことも、ある意味、見事なプロの商売屋っぷりからなのだろうか。

Date: 2月 15th, 2023
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その11)

ステレオ時代が、いま発売のVol.22から書店売りではなくなってしまっている。

ラジオ技術もずいぶん前から書店売りではなくなってしまっている。
しかも月刊から隔月刊になっている。

休刊(廃刊)ではないから、いいといえばそうなのだが、
何度も書いてきているように、すでにラジオ技術、ステレオ時代の読者だった人は、
そう困らないだろうが、
これからオーディオに興味・関心をもってくる人の目には、
ラジオ技術もステレオ時代も留まらないわけだ。

いまは書店売りしているオーディオ雑誌も、
そう遠くないうちに、同じことになるかもしれない。

Date: 2月 9th, 2023
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その22)

別項で、「老いとオーディオ(とステレオサウンド)」というテーマで書いている。
ステレオサウンドそのものが老いていっている、と感じているわけなのだが、
誌面に登場する人たちも老いていっている一方だ。

特に試聴テストを行っている人たちは60より下の人はいない。
このことについては、「老いとオーディオ(とステレオサウンド)」の項で書こうかな──、
と最初は思っていたけれど、ここにしたのは「オーディオ評論家は読者の代表なのか」、
このテーマこそが試聴テストのメンバーの若返りをはからない編集部の意図がある、
そんなふうに考えることもできるからだ。

別項で取り上げているstereosound_mediaguideというPDFがある。
ステレオサウンドの媒体資料である。

それによるとステレオサウンドの読者の年齢構成(2020年時点)は、
 19才未満 2%
 20〜29才 3%
 30 〜39才 11%
 40〜49才 21%
 50〜59 才 26%
 60 〜61才 28%
 70〜79 才 7%
 80 才以上 2%
となっている。

読者も高齢化しているわけで、
それだからこそオーディオ評論家も高齢化のままでいい、ということなのかもしれない。
そんなことないと信じたいのだが、でもそんなことがありそうなくらいに、
そして心配になるくらいに試聴メンバーの高齢化は放っておかれている。

オーディオ評論家は読者の代表なのだから、若い読者が少ないステレオサウンドにおいては、
オーディオ評論家は読者と同じように高齢化していく方がいい──、
そういうことなのか。

Date: 1月 19th, 2023
Cate: オーディオ評論

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その18)

一週間前、「あるスピーカーの述懐(その41)」を書いていて思ったことがある。

なんとなく思っただけであって、確信といえるほどではないのだが、
ここでのテーマであることと、どこかでつながっていると感じた。

ここでのテーマは、あれほどB&Wの800シリーズを絶賛しながら、
なぜステレオサウンドの評論家は誰も買わないのか──、
このことに関して、B&Wの800シリーズは、
スピーカーの音を嫌いな人のためのスピーカーなのではないか。
そんなことをふとおもった。

二日前の「編集者の悪意とは(その25)」を書いたあとステレオサウンド 69号を眺めていて、
傅 信幸氏の文章が目に留った。

「いま、気になるハイエンドオーディオの世界」というタイトルの記事で、
最後の方に、こんなことを書かれている。
     *
 ぼく自身ふりかえってみて、レビンソンのML7Lを手にいれたのは、このプリは中味がカラでボリュウムがついているだけじゃないかとあきれるくらい普通の音だったからだ。自分と7Lとがグッドバイヴレーションした。
     *
《中味がカラでボリュウムがついているだけじゃないか》、
いま聴けば、ML7の音は、もうそう感じないのかもしれないが、
それでも約四十年ほど前、傅 信幸氏にとっては、そうだったわけだ。
だからこそ、ML7を購入されている。

Date: 12月 14th, 2022
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その13)

2021年3月の(その9)で、下記のことを書いた。

はっきり書けば、ステレオサウンド編集部は黛 健司氏を冷遇している。
そんなことはない、と編集部はいうだろう。

そんな意識はないのかもしれない。
それでも黛 健司氏はステレオサウンド・グランプリの選考委員になれていない。
なぜだろう、と思っている人は私以外にもいる。

山之内 正氏が、そう遠くないうちに、
ステレオサウンド・グランプリの選考委員になることはあるだろう。
そうなっても黛 健司氏は選考委員ではなかったりするのではないか。

これを書いたときから一年九ヵ月ほど経ち、
ステレオサウンド 225号が発売になった。

ステレオサウンドのウェブサイトをみると、
ステレオサウンドグランプリの選考委員に、山之内 正氏の名前がある。
黛 健司氏の名前はない。

225号のベストバイからは柳沢功力氏と和田博巳氏の名前が消え、
ここにも山之内 正氏の名前が今回加わっている。

Date: 11月 6th, 2022
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(とオーディオの殿堂)

ステレオサウンドが「オーディオの殿堂」を企画していることは、
誌面で発表されていたわけで、それをみた私は、あることに少しだけ期待していた。

それは古いオーディオ評論の総括としての「オーディオの殿堂」であり、
「オーディオの殿堂」が載る223号以降から、
「新しいオーディオ評論」への挑戦(試み)がはじまる──、と。

224号を読んでも、そんな気配は微塵も感じないのだが、
それでもステレオサウンド編集長の染谷一氏の編集後記を読むと、おもうところがある。

別項でもすでに引用しているが、
《自分の好みをただ押し付けただけの感想の羅列を試聴記として読まされると、いったい何の目的を持って誰のために書かれた文章なのかと理解に苦しむ》
《プロ意識が欠けたまま書かれた試聴記には何の価値もないと思う。自戒の念を強く込めて。》
とある。

これはオーディオ評論に対して、というよりも試聴記に対してのものであっても、
試聴記はオーディオ評論の大事なところである。

染谷編集長がどういう意図で、224号の編集後記を書かれたのかはまったくわからない。
変化の兆しなのだろうか、と期待するところもないわけではないが、
次号(225号)の特集は、ステレオサウンド・グランプリとベストバイ。

225号もまったく期待できない、そう捉えるがちだけど、
そんなステレオサウンド・グランプリとベストバイだからこそ、
変化の兆しを示すかっこうの機会と捉えることもできる。

Date: 11月 4th, 2022
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(批評と評論・その5)

オーディオ評論とオーディオ批評の違いはあるのか。
あるとしたら、どう違うのか。

その4)を書いたのが2011年11月だから、十一年、続きを書かずにいた。
何も考えてこなかったわけではないが、
批評と評論の違いについて、何がはっきりといえるのか。
意外にも難しい。

ここにきて思うようになったのは、
批評は意見である。レベルが低い場合には感想レベルであっても、
それを言う人が、私の意見だ、と主張すれば、それは意見であり、
それがオーディオについて述べられたのであれば、
レベルの低い高いは別として、オーディオ批評となる──、
少なくとも私はそう考えている。

オーディオ評論も同じではないのか。
そう思われるかもしれないが、
評論は系譜とか歴史とか、物語があってのものである。

Date: 10月 25th, 2022
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その12)

「オーディオ評論をどう読むか」というタイトルをつけている。
この項というより、このブログが、
私が十年以上毎日書いてきたことは、
「オーディオ評論をどう読んできたか」である。

Date: 10月 20th, 2022
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その10)

普通に生きていく上で、
そして普通に好きな音楽を聴いて行く上で、
特に必要と思われない想いを抱いていて、
その想いを伝えようとされていたから、
瀬川先生は辻説法をしたい、といわれたのだろう。

Date: 10月 19th, 2022
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その9)

2010年1月1日に、「オーディオにおけるジャーナリズム(特別編)」を公開している。
ここで公開しているのは、
瀬川先生が(おそらく)1977年に書かれたメモである。

このメモは、新しいオーディオ雑誌の創刊のためのメモと読める。
いわば企画書である。

このころ、なぜ瀬川先生は、こういうものを書かれたのだろうか。
そのことを考えてみてほしい。

そこから、また引用しておきたい。
     *
◎昨今のオーディオライターが、多忙にかまけて、本当の使命である「書く」ことの重要性を忘れかけている。談話筆記、討論、座談会は、その必然性のある最小限の範囲にとどめること。原則として、「書く」ことを重視する。「読ませ」そして「考えさせる」本にする。ただし、それが四角四面の、固くるしい、もってまわった難解さ、であってはならず、常に簡潔であること。ひとつの主張、姿勢を簡潔に読者に伝え、説得する真のオピニオンリーダーであること。

◎しかしライターもまた、読者、ユーザーと共に喜び、悩み、考えるナマ身の人間であること。小利巧な傍観者に堕落しないこと。冷悧かつ熱烈なアジティターであること。
     *
《小利巧な傍観者に堕落しないこと》とある。
小利巧な傍観者に堕落してしまっては、何も生み出せないはずだ。

Date: 10月 16th, 2022
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その8)

ここでのテーマである、
「評論家は何も生み出せないのか」について考える際に、
「評論家はどうしても何も生み出せないのか」もあわせて考えると、
小林秀雄の批評についての文章を思い出す。
     *
人々は批評という言葉をきくと、すぐ判断とか理性とか冷眼とかいうことを考えるが、これと同時に、愛情だとか感動だとかいうものを、批評から大へん遠い処にあるものの様に考える、そういう風に考える人々は、批評というものに就いて何一つ知らない人々である。
(「批評に就いて」より)
     *
オーディオ評論家と、いま呼ばれている人たちも(書き手側)、
オーディオ評論家と、いま呼んでいる人たちも(読み手側)、
小林秀雄が指摘しているように、根本のところで《そういう風に考える人々》なのではないのか。

結局、愛のないところには、何も生れない、
このことにつきる。