Archive for category オーディオ評論

Date: 10月 7th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(あるオーディオ評論家のこと・その6)

ここまで書いてきて、五年前に別項に書いたことを思い出す。
菅野先生が、ステレオサウンド別冊「JBLモニター研究」で、次のように書かれている。
     *
 そしてその後、中高域にホーンドライバーを持つ4ウェイという大がかりなシステムでありながら、JBL4343というスピーカーシステムが、プロのモニターシステムとしてではなく、日本のコンシューマー市場で空前のベストセラーとなった現象は、わが国の20世紀後半のオーディオ文化を分析する、歴史的、文化的、そして商業的に重要な材料だと思っている。ここでは本論から外れるから詳しくは触れないが、この問題を多面的に正確に把握することは、現在から近未来にかけてのオーディオ界の分析と展望に大いに役立つはずである。
     *
1998年に書かれている。
4343に憧れてきたひとりとしても、そのとおりだと思う。

けれど残念なことに、いまのステレオサウンドの筆者の誰か一人でもいいから、
4343という材料(問題)を、多面的に正確に把握できる人はいるだろうか。

こういうことを書くと、柳沢功力氏がいるではないか、という人が出てくる。
私は柳沢功力氏には無理だ、と思う。

では、誰がいるか。
誰もいないのが、ステレオサウンドの現状だ。

傅 信幸氏も無理である。
傅 信幸氏よりも和田博巳氏のほうが年上だが、和田氏博巳氏はもっと無理である。

三浦孝仁氏は、
ずっと以前の記事「名作4343を現代に甦らせる」の試聴記を引き受けていることから、
絶対に無理。

別項で、月刊ステレオサウンドを出すべき、と書いている理由の一つが、
このことに関係してくる。

すべての筆者に、4343という材料(問題)をテーマに、
まとまった量の文章を書かせればいい、と思うからだ。

Date: 9月 10th, 2020
Cate: オーディオ評論,

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(賞について・その4)

一冊のオーディオ雑誌に、複数の記事が載る。
世の中には、複数のオーディオ雑誌がある。

一年間で、何本の記事がオーディオ雑誌に載ることになるのだろうか。
数えたことはないけれど、かなりの数であり、
いまではインターネットで公開される記事もあるから、そうとうな数になる。

いまもだが、昔も、掲載(公開)された記事を検証する記事はあっただろうか。
これまでさまざまな記事があったが、
オーディオ雑誌にないものとは、記事の検証記事ではないだろうか。

なにもすべての記事を検証すべきとは思っていない。
それでも、なかには検証したほうがいいのでは? とか、
検証すべきではないのか、と思う記事がある。

記事もだけれど、オーディオ機器の評価に関しても、
このオーディオ機器の評価は検証したほうがいいのでは?、
そう思うことがなかったわけではない。

賞は、実のところ、検証の意味あいを担っているのではないだろうか。

一年間に、けっこうな数の新製品が登場する。
それらが新製品紹介の記事や、特集記事で取り上げられる。

新製品の記事で、その新製品を紹介するのは、
ステレオサウンドの場合は一人である。

以前は、井上先生と山中先生が、新製品紹介の記事を担当されていて、
海外製品は山中先生、国内製品は井上先生という基本的な分け方はあっても、
注目を集めそうな新製品に関しては、対談による評価だった。

一年のあいだに、ある製品について何かを書いている人というのは、意外に少ない。
個人的に関心の高い新製品を、この人はこんな評価だったけれど、
あの人はどうなんだろうか、と知りたくても、載っていないものは読めない。

そういうもどかしさは、熱心に読めば読むほど募ってくる。

Date: 8月 2nd, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(あるオーディオ評論家のこと・その5)

いまのオーディオ業界にいる一流ぶったオーディオ評論家と、
私がオーディオ評論家(職能家)と思っている人たちとの大きな違いはなにか。

その一つは、意志共有できるどうか、だと思う。
一流ぶることなく「私は二流のオーディオ評論家ですから」という人は、どうか。

意志共有できていた、ようにも思うところもある。
そうだからこそ、「私は二流のオーディオ評論家ですから」といえるのではないのか。

そこまでの才能がないことを自覚している。
そのうえで、オーディオ評論家としての役目を考え、
そのうえで自分の役割を果たしていくことは、意志共有できていたからではないのか。

一流のオーディオ評論家がすべての役割をこなしていけるわけではない。
役割分担が必要になってくる。

一流ぶったオーディオ評論家も、二流のオーディオ評論家である。
同じ二流のオーディオ評論家でも、
「私は二流のオーディオ評論家ですから」といったうえで、自分の役割をはたしていく人、
一流ぶるだけの人たち。

一流ぶっているオーディオ評論家は、一流ぶっているうちに、
役割を忘れてしまった(見失ってしまった)のではないのか。

それでも一流ぶることに長けてしまった。
一流ぶっているだけ、と見抜いている人もいれば、そうでない人がいる。

そうでない人を相手に、オーディオ評論という商売をしていけば、
これから先も一流ぶって喰っていける。

一流ぶっている人のなかには、以前は、役割を自覚していた人もいるように思う。
なのに、自身の役割から目を背けてしまったのではないのか。

一流ぶることなく「私は二流のオーディオ評論家ですから」といい役割を忘れていない人、
一流ぶることに汲々として、役割を放棄した人、
そして見極められない読者がいる。

Date: 7月 21st, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(あるオーディオ評論家のこと・その4)

一流のオーディオ評論家は、いまや一人もいない。
だからこそ、オーディオ雑誌は年末の賞をやる、といえるところがある。

賞の選考委員は、一流のオーディオ評論家ですよ、とアピールしたいのだろう。
二流のオーディオ評論家が選考委員では、その賞そのものの意味がなくなる。
威厳もなくなってしまう。

どちらかというと、賞のもつ、そんな俗物的な面を守るために、
一流のオーディオ評論家が必要である。

それに賞の選考委員ということで、
オーディオ評論家は一流ぶることができる。
持ちつ持たれつの関係ともいえる。

いまのオーディオ業界にいるのは、一流ぶったオーディオ評論家だ。
でも、そんな彼らも、あるところでは一流なのかもしれない。

彼らはオーディオ評論家(商売屋)としては、一流なのだ。
オーディオ評論家(職能家)として一流である必要は、いまの時代ないのだろう。
そんなことオーディオ雑誌の編集者も求めていないように見受けられる。

読者ですら、そうなのかもしれない。

オーディオ業界で喰っていかなければならない、
家族を養っていかなければならない、
そんなことを彼らは言う。
実際に私に言った人がいる。

オーディオ評論家(商売屋)として一流であれば、
むしろそうであったほうが喰うには困らないのだろう。

そんな時代に、一流ぶることなく「私は二流のオーディオ評論家ですから」という人がいた。

Date: 7月 19th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(あるオーディオ評論家のこと・その3)

二流のオーディオ評論家が一流ぶるのは、本人だけのせいなのだろうか。
オーディオ雑誌の読者が、一流のオーディオ評論家を求めている──、
ということも考えられるような気がする。

名実ともに一流でなくてもいい、名ばかりの一流であってもいいから、
そういうオーディオ評論家を読者が欲している。
そんな空気があるから、オーディオ雑誌の編集者が、
二流のオーディオ評論家に一流ぶることを求める。

それだけではない、オーディオメーカーも輸入元も、それからオーディオ販売店も、
実はともなわなくてもいいから、一流といえそうなオーディオ評論家を必要としている。

私が勝手にそう思っているだけで、実際のところはわからない。
でも、ありそうな気はする。

誰も意識はしていないのかもしれない。
その意味では、そうでないともいえるだろうが、
それでもオーディオ業界の人たちは、
一流のオーディオ評論家による御墨付を意識するしないに関らず求めている──。

飾りでいいのかもしれない。
とにかく一流、とかいえる人たちがいなければかっこうがつかない。

このへんのことは、別項で書いているトロフィーオーディオとも関係してくるであろう。

一流のオーディオ評論家が執筆しているオーディオ雑誌は一流、という図式が成り立たない。
一流のオーディオ評論家が自宅で使っているオーディオ機器は一流品である──、
ということもいえなくなる。

ほんとうに一流のオーディオ評論家を必要としているのではなく、
一流というレッテルだけが求められている。
といってはいいすぎだろうか。

Date: 7月 19th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(あるオーディオ評論家のこと・その2)

一流、二流というのは、いわば格付けでもある。
そして、それまで一流と呼ばれてきた人たちがみないなくなったからといって、
それまで二流と呼ばれてきた人たちが、一流になるものではない。

けれど、実際のところどうだろうか。
少なくともオーディオ評論の世界では、
一流と呼ばれていた人たちがみないなくなって、
それまで二流だった人たちが、自動的に一流に繰り上げになっている。

プロ野球の世界ならば、一軍の選手がなんらかの理由で全員いなくなれば、
二軍の選手が一軍にあがることになる。
でも、オーディオ評論の世界は、ほんらいそういうものではない。

なのに、私の目には、そう映ってしまう。
キャリアがながいから一流なわけではないし、
システム・トータルの金額が高価だから、といっても一流なわけでもない。

「私は二流のオーディオ評論家ですから」の人は、
くり返しになるが、一流ぶることをしない。

「私は二流のオーディオ評論家ですから」の人は、なぜ一流を目指さないのか──、
そう思う人もいるだろう。
その人も、最初の頃は、一流のオーディオ評論家を目指していたのかもしれない。
勉強し、努力してもなれない人はなれないものだ。

そのことを認めざるをえない日があったのかもしれない。
その人と面識があるわけではないし、あったとしても、そんなことを訊けるわけがない。

「私は二流のオーディオ評論家ですから」の人は、一流ぶることもできたはずだ。
けれど、その人はそんなことをしなかった、選ばなかった。

Date: 7月 17th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(あるオーディオ評論家のこと・その1)

ある人から、十年以上前にきいた話である。
オーディオ業界の人たちが集まっての、とある飲み会で、その評論家の方は言った、という。
「私は二流のオーディオ評論家ですから」と。

詳しく話をきくと、自分を卑下しての言い方ではなかったようである。
飲み会だから、酔った上での発言ではあろう。

それでも「私は二流のオーディオ評論家ですから」と、そう公言できる人はどのくらいいるだろうか。
いないのではないだろうか。

私は、いま生きているオーディオ評論家に一流はいない、と思っている。
そう断言してもいい。

それでも、いま生きているオーディオ評論家の人たちのなかで、
多くの業界関係者がいる場で、そういえる人がいるだろうか。

二流どまりと自覚している人(そんな人がいるのだろうか)であっても、
「私は二流のオーディオ評論家ですから」とはなかなかいえない、と思う。

なのに、この人は卑下することなく「私は二流のオーディオ評論家ですから」といったという。
二流の人ほど一流ぶるところがある。
オーディオの世界だけでなく、ほかの分野でもそんな人は大勢いる。

なのに、この人は「私は二流のオーディオ評論家ですから」といったのはなぜなのか。
この人が誰なのかは、書くつもりはない。

私は、この人が書くものを、その時までほとんど読んでいなかった。
名前はよく知っていた。顔も知っている。
まったく読まない、ということはなかった。

ステレオサウンドで仕事をしていると、オーディオ雑誌には目を通していた。
仕事としては読んでいたが、個人的に読んでいたわけではなかった。

私は、この人のことを二流のオーディオ評論家だ、と思っていたし、
「私は二流のオーディオ評論家ですから」をきいたあとでも、そう思っている。

それでも、ここで書いているのは、
この人は自分の役割をきちんと自覚している人だから、と思うからである。

決して一流ぶることのない二流のオーディオ評論家だからだ。

日本のオーディオ、これから(コロナ禍ではっきりすること・その1)

サプリーム No.144(瀬川冬樹追悼号)の巻末に、
弔詞が載っている。

ジャーナリズム代表としては原田勲氏、
友人代表として柳沢功力氏、
メーカー代表として中野雄氏、
三氏の弔詞が載っている。

柳沢功力氏の弔詞の最後に、こうある。
     *
君にしても志半ば その無念さを想う時 言葉がありません しかし音楽とオーディオに托した君の志は津々浦々に根付き 萠芽は幹となり花を付けて実を結びつつあります
残された私達は必ずこれを大樹に育み 大地に大きな根をはらせます 疲れた者はその木陰に休み 渇いた者はその果実で潤い 繁茂する枝に小鳥達が宿る日も遠からずおとずれるでしょう
     *
瀬川先生の志は大樹になったといえるだろうか。
そういう人も、オーディオ業界には大勢いるような気がする。

見た目は大樹かもしれない。
でも、何度か書いているように、一見すると大樹のような、その木は、
実のところ「陽だまりの樹」なのではないか。

「陽だまりの樹」は、陽だまりという、恵まれた環境でぬくぬくと大きく茂っていくうちに、
幹は白蟻によって蝕まれ、堂々とした見た目とは対照的に、中は、すでにぼろぼろの木のことである。

真に大樹であるならば、コロナ禍の影響ははね返せるだろう。
「陽だまりの樹」だったならば……。

Date: 5月 1st, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その9)

長岡鉄男氏のファンは多かった、といっていいだろう。
こんなふうに書くのは、私の周りに、長岡鉄男氏のファンがいなかったからだ。

ステレオサウンドを辞めて十年ぐらい経ったぐらいのときに知りあった人が、
20代のころは長岡ファンでした、といっていたくらいである。

長岡鉄男氏のファンのことはよく知らないわけだが、
長岡鉄男氏の文章が載っていれば、そのオーディオ雑誌を買うのだろう。

私が中学、高校のころはFM誌全盛時代だった。
週刊FM、FMfan、FMレコパルがあった。

同級生にオーディオマニアはいなくても、FM誌を読んでいる者は何人かいた。
彼らはオーディオマニアではないから、長岡鉄男氏への関心もなかったはずだが、
彼らはどういう基準で、FM誌を選んでいたのだろうか。

オーディオマニアであれば、長岡鉄男氏の連載がある、ということが理由だっただろう。

私はFMfanがメインだった。
理由は単純だ。瀬川先生の連載が載っていたからだ。
週刊FMにも、1981年ごろか、巻頭のカラー見開きで瀬川先生の連載が始まった。
この時は週刊FMも買っていた。

私の知る限りでは、FMレコパルには書かれなかったはずだ。
その7)に書いたように、サウンドボーイにも一切書かれなかった。

そのころの私にとって、No.1のオーディオ雑誌はどれかという意識はあまりなかった。
とにかく瀬川先生の書かれたものを読みたかった。

Date: 3月 25th, 2020
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

青雲の志

あまり目にすることも耳にすることもなくなってきている「青雲の志」。

オーディオ評論家(職能家)とオーディオ評論家(商売屋)をわけるのは、
青雲の志をもっているかどうかだろうし、
オーディオ評論家(商売屋)にしかみえない人も、
以前は青雲の志をもっていたのかもしれない。

Date: 3月 12th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その8)

岩崎先生はどうだろうか。
ステレオサウンドがメインだったと思っている人も少なくないようだ。

岩崎先生の著作集「オーディオ彷徨」は、
ステレオサウンドから出ていることが関係してのことだと思うが、
岩崎先生が書かれていたころ、ステレオサウンドを読んでいた人ならば、
決して短くない期間、まったく書かれていないことに気づかれていたはずだ。

私は41号からの読者だから、そのことを知っていたわけではない。
それでもステレオサウンド 50号には、
巻末附録としてあった、創刊号から49号までの総目次があった。

高校生だった私は、読んでいないバックナンバーのほうが何倍もあった。
だから、総目次を創刊号から順に丹念にみていった。
すると、岩崎先生の名前がまったくない号が、けっこう続いていることに気づいた。

どうしてだったのか、いまではなんとなく知っている。
なんとなくこうだったのではないか、とも思っているが、
なんとなくでしかないので書いたりはしないが、そういう時期があったのだけは事実だ。

ジャズをあまり聴かずに、スイングジャーナルもあまり読んでこなかった人にとっては、
だから岩崎先生も、ステレオサウンドがメインだったと想いがちになるが、
どちらがメインかといえば、スイングジャーナルだった、と思う。

Date: 3月 9th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その7)

私がオーディオ雑誌を読み始めた1970年代後半、
そのころ、各オーディオ雑誌の書き手は固定されていた面があった。

たとえば瀬川先生は、ステレオサウンドがメインだった。
その他はFM fanの連載があって、別冊FM fanにも書かれていたし、
スイングジャーナルにも、おもに別冊に登場されていた。

私がオーディオ雑誌を読み始める前は、ステレオでも書かれていた。
それ以前はラジオ技術の編集者であり、メイン筆者でもあった。

でも、私がオーディオ雑誌を読み始めたころは、そんな感じだった。

長岡鉄男氏は、いわゆる売れっ子のオーディオ評論家だったが、
ステレオサウンドには、そのころはまったく書かれていなかった。
それ以前は書かれていた時期がある。

長岡鉄男氏は出版社でいえば、共同通信社と音楽之友社がメインだった。

ようするに筆者(オーディオ評論家)によって、
メインとなる出版社は決っていた、といえる。

とはいえ瀬川先生は、はっきりとステレオサウンド社がメインであったが、
だからといって、サウンドボーイには一度も書かれていない。

サウンドボーイが創刊されたころ、なぜなのか、不思議だったのだし、
サウンドボーイにも書いてほしいと思っていた。
ステレオサウンドで働くようになって、その理由を知ったが書くつもりはない。

そういう瀬川先生だから、もし長生きされていたとして、
ステレオサウンド社から出ている管球王国にも登場されなかったはずだ。

Date: 2月 20th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その6)

オーディオ評論は、どうだろうか。
マンガと違い、オーディオ評論用のスマートフォンのアプリはいまのところない。

これから先もまずない、だろう。
なので、掲載誌という概念はまだ残っていくのか、といえば、
どうなのだろうか、と考え込むところもある。

一冊の書籍でも書き下ろしでなければ、巻末に初出誌一覧がある。
岩崎先生の「オーディオ彷徨」、瀬川先生の「虚構世界の狩人」、
菅野先生の「音の素描」などにも、初出一覧がある。

けれど初出一覧をじっくり見ている人はどのくらいいるのか。
意外と少ないようにも感じている。

「オーディオ彷徨」だとステレオサウンドとスウイングジャーナルで大半をしめ、
あとはレコード芸術、オーディオ・ジャーナル、ジャズ、ジャズランド、サプリーム、FMレコパル、
サウンド、レアリテなどがある。

私は「オーディオ彷徨」を最初に読んだ時、
読み終ってから初出一覧を見て、
あの文章はやはりスイングジャーナルに書かれたものなのか、
レアリテって、どういう雑誌? と思い、冒頭を読み返したりもした。

「虚構世界の狩人」でも同じことをやったし、
黒田先生の「レコード・トライアングル」、菅野先生の「音の素描」のときもそうだった。

おもしろいと感じた文章ほど、どこに書かれたなのなのかが気になる。
自分がそうだから、ほかの人も同じ、と思い込まない方がいいのはこの件でも同じで、
初出一覧なんて、まったく気にしない、という人がいるのも知っている。

そこに書かれた内容をしっかりと読んでいさえすれば、
初出がどの雑誌なのか、なんてことは気にする必要はない、
といいきれないところが私にはある。

この感覚は、性格的なものでもあろうし、マンガを読んできていたからなのか、とも思う。

Date: 2月 19th, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その5)

スマートフォンでマンガを読む人がけっこう多くなったように感じている。
電車に乗っていると、男の人だけでなく、女の人もスマートフォンで読んでいる。

女の人だから、女性向けのマンガを必ずしも読んでいるわけでもなく、
男性向けのマンガを読んでいる人も増えているようだ。

私もマンガ好きなので、iPhoneにはいくつかのマンガ用アプリを入れている。
一時期は、新しいマンガ用アプリが出ればインストールしていた。
けっこうな数使って、いまは四つだけに絞っている。

マンガ用アプリで読んでいて気づくことは、
人気の高いマンガは、一つのアプリだけでなく、
複数のアプリで読むことができる、ということだ。

このことは紙の本では絶対に、といっていいくらいありえないことである。
どんなに人気があるマンガであっても、
掲載誌が複数ということはこれまでなかった(はずだ)。

だからこそ、このマンガを読みたいから、このマンガ誌(掲載誌)を買っていたわけだ。
つまりマンガという作品は、掲載誌とつねに関連づけられていた。

けれど、いまはどうだろうか。
スマートフォンでマンガを読む人が増えれば増えるほど、
掲載誌という概念はなくなりつつあるわけだ。

そうだから、女の人でも、いまでは男性向けのマンガを読む機会、接する機会が、
紙の本だけの時代よりもずっとずっと多くなっている。

おそらくマンガ雑誌の編集者の人たちは、
掲載誌という概念が希薄になっている、
すでに失われつつある──、ということを以前から感じとっていた、と思う。

Date: 12月 17th, 2019
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その19)

ステレオサウンド 50号といえば、1979年春号。
もう40年前のステレオサウンドということになる。

50号を記念しての巻頭座談会、
この最後に出てくる瀬川先生の発言は、別項でも引用している。
     *
瀬川 「ステレオサウンド」のこの十三年の歩みの、いわば評価ということで、プラス面ではいまお二方がおっしゃったことに、ぼくはほとんどつけたすことはないと思うんです。ただ、同時に、多少の反省が、そこにはあると思う。というのは「ステレオサウンド」をとおして、メーカーの製品作りの姿勢にわれわれなりの提示を行なってきたし、それをメーカー側が受け入れたということはいえるでしょう。ただし、それをあまり過大に考えてはいけないようにも想うんですよ。それほど直接的な影響は及ぼしていないのではないのか。
 それからもうひとつ、新製品をはじめとするオーディオの最新情報が、創刊号当時にくらべて、一般のオーディオファンのごく身近に氾濫していて、だれもがかんたんに入手できる時代になったということも、これからのオーディオ・ジャーナリズムのありかたを考えるうえで、忘れてはならないと思うんです。つまり初期の時代、あるいは、少し前までは、海外の新製品、そして国産の高級品などは、東京とか大阪のごく一部の場所でしか一般のユーザーは手にふれることができなかったわけで、したがって「ステレオサウンド」のテストリポートは、現実の製品知識を仕入れるニュースソースでもありえたわけです。
 ところが現在では、そういった新製品を置いている販売店が、各地に急激にふえたので、ほとんどだれもが、かんたんに目にしたり、手にふれてみたりすることができます。「ステレオサウンド」に紹介されるよりも前に、ユーザーが実際の音を耳にしているということは、けっして珍しくはないわですね。
 そういう状況になっているから、もちろんこれからは「ステレオサウンド」だけの問題ではなくて、オーディオ・ジャーナリズム全体の問題ですけれども、これからの試聴テスト、それから新製品紹介といったものは、より詳細な、より深い内容のものにしないと、読者つまりユーザーから、ソッポを向かれることになりかねないと思うんですよ。その意味で、今後の「ステレオサウンド」のテストは、いままでの実績にとどまらず、ますます内容を濃くしていってほしい、そう思います。
 オーディオ界は、ここ数年、予想ほどの伸長をみせていません。そのことを、いま業界は深刻に受け止めているわけだけれど、オーディオ・ジャーナリズムの世界にも、そろそろ同じような傾向がみられるのではないかという気がするんです。それだけに、ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには、これを機に、われわれを含めて、関係者は考えてみる必要があるのではないでしょうか。
     *
41号から読みはじめた私にとって、50号はちょうど10冊目のステレオサウンドにあたる。
二年半読んできて、熱っぽく読んでいた時期でもある。

だから瀬川先生の《ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには》に、
完全に同意できなかったことを憶えている。

《熱っぽく読んでもらう》とは、どういうことなのか。
なぜ、それまでのステレオサウンドを、読者は《熱っぽく読んで》いたのか。

いくつかの理由らしきことが考えられる。
その一つとして、不器用ゆえの熱があったからだ、と、いまは思っている。