Archive for category ナロウレンジ

Date: 8月 17th, 2015
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その18)

歌に関することで、菅野先生から聞いた話を思いだす。
同じことを「物理特性と音楽的感動」でも書かれているので、そこから引用しておく。
     *
久しぶりに森進一のLPを買った。これは二枚組みで、いままでのヒットを全部集めたレコードなのだが、歌謡曲のレコードということで、気楽に弟の部屋へ持っていった。私の弟も森進一が好きなものだから、一緒に聴いたのだ。弟の部屋には、値段にすれば大体二〇万円台のコンポーネント・システムがあり、そこで二枚のLPを全部聴いたが、それなりにたいへん楽しく、森進一の歌のあるものには感動さえしたのだが、弟が「これは兄貴の部屋のあの再生装置で聴いてみたいな」と言いだしたのであった。私はそのときには「いや、こういうものはむしろこの再生装置でもよすぎるぐらいで、カセットにでもダビングして、車の中で聴くぐらいがちょうどいいんじゃないか」なんていう悪口をたたいたわけだが、まあ、とにかく一度聴いてみようということで私の部屋へ行き、大きなハイファイ・システムでそのレコードを聴いたところ、驚いた事に、弟の部屋で聴いた時とまったく違った音楽的印象を受けたのである。
 まずどういうふうに違ったか。過去五、六年の間に森進一が録音したほかのヒット集も聴いてみたが、私の装置で聴いてみたら、はっきりと録音の新旧がわかった。弟の部屋では、よくこれだけ音色が、古い録音も新しい録音もそろっているなと、思うくらい音の変化はなかったわけだが、私の装置で聴いたときにはもうこれがガラガラと変化をする。そして録音のいいものはよりよく聴こえて、非常に素晴らしい音楽的な盛り上がりを感じたのだが、もっと重要な発見をしたのである。それは森進一の才能の豊かさを証明することにもなると思うが、彼は声のビブラートを伴奏に合わせて、バックのオーケストラの中にあるリズム・セクションがシャッフルをきざむときにはそのように、ちゃんとリズムに合わせてビブラートを変えているということ。例えば、マラカスのきざむリズムにピタッと合わせたビブラートがつくりだすその感動の素晴らしさ、盛り上がりというのはたいへんなもので、そういうものが装置が違ってより効果的に大きく聴こえたという体験をして、やはり再生装置というものは非常に重要なものなんだなということをあらためて考えさせられたわけだ。
     *
森進一の歌のうまさを、菅野先生は力説されていた。
上の文章にも書かれてあるように、ヴィブラートを伴奏に合せて変えている。
いわゆるシスコンと呼ばれる装置で聴いていたときには気づかなかったことを、
自身のシステムで聴かれて発見されている。

シスコンよりも手軽なラジカセやラジオ、テレビで聴いても森進一の歌のうまさはわかる。
それでも、よりよいシステムで聴けば、さらに森進一の歌のうまさのすごさがわかってくる。

美空ひばりがアルテックのA7を指して、
「このスピーカーから私の声がしている」といったのは、こういうことなのではないのか。

Date: 8月 9th, 2015
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その17)

声(歌)について思い出すことは、もうひとつある。
これもここに引用しておきたいことである。
     *
 D130が私に残してくれたものは、ジャズを聴く心の窓を開いてくれたことであった。特にそれも、歌とソロとを楽しめるようになったことだ。
 もともと、アルテック・ランシングとして44年から4年間、アルテックにあってスピーカーを設計したジェイムズ・B・ランシングは、映画音響の基本的な目的たる「会話」つまり「声」の再現性を重視したに違いないし、その特長は、目的は変わっても自ら始めた家庭用高級システムとハイファイ・スピーカーの根本に確立されていたのだろう。
 JBLの、特にD130や130Aのサウンドはバランス的にいって200Hzから900Hzにいたるなだらかな盛り上がりによって象徴され予測されるように、特に声の再現性という点では抜群で、充実していた。
 ビリー・ホリディの最初のアルバムを中心とした「レディ・ディ」はSP特有の極端なナロウ・レンジだが、その歌の間近に迫る点で、JBL以外では例え英国製品でもまったく歌にならなかったといえる。
 JBLによって、ビリー・ホリディは、私の、ただ一枚のレコードとなり得た、そして、そのあとの、自分自身の空白な一期間において、折にふれビリー・ホリディは、というより「レディ・ディ」は、私の深く果てしなく落ち込む心を、ほんのひとときでも引き戻してくれたのだった。
 AR−2は、確かに、小さい箱からは想像できないほどに低音を響かせたし、二つの10cmの高音用は輝かしく、現在のAR−2から考えられぬくらいに力強いが、歌は奥に引込んで前には出てこず、もどかしく、「レディ・ディ」のビリーは雑音にうずもれてしまった。JBLを失なってその翌々年、幸運にも山水がJBLを売り出した。
     *
D130の文字から、誰の書かれたものか、すぐにわかるはずだ。
岩崎先生の「私とJBLの物語」からの引用である。

D130は15インチ口径のフルレンジユニットである。
センターキャップをアルミドームとすることで高域の延びを改善しようとしたところで、
それほど延びているわけではない。

「私とJBLの物語」で岩崎先生も指摘されているように、
D130の高域は5kHzぐらいまでで、8kHz以上ではさらに大きく減衰している。
低域に関しても口径の大きさの割に下のほうまで延びているわけではない。
はっきりとナロウレンジのスピーカーである。

でもそのナロウレンジのスピーカーが、上も下も周波数レンジ的には延びているAR2よりも、
ビリー・ホリディの歌を、間近に迫る点でD130がはるかに優っている。

この「間近に迫る」は歌が奥に引き込まず前に出てくるという意味だけではないようにも受けとれる。
聴き手の心の間近に迫ってくるように鳴ってくれたようにも、私には読める。

Date: 8月 3rd, 2015
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その16)

アルテックと美空ひばりということで思い出すのことがひとつある。
ステレオサウンド 60号。瀬川先生がアルテックのA4について語られている。
     *
 ぼくは、幸いなことに、もうずいぶん昔のことですが、東京・銀座のヤマハホールで、池田圭先生が解説されて、このA4を聴く会というのがあって、たまたまそれに参加できたんです。
 これも、まったく偶然なんだけれども、それに先だって、池田圭先生がステレオ装置の売場で調整されている現場に行きあわせまして、あの銀座のヤマハの店全体に、朗々と、美空ひばりが突如、ひびきわたって……。たしか15年か20年ちかくまえのことだと思うけれども。
 たまたま中2階の売場に、輸入クラシック・レコードを買いにいってたところですから、ギョッとしたわけですが、しかし、ギョッとしながらも、いまだに耳のなかにあのとき店内いっぱいにひびきわたった、このA4の音というのは、忘れがたく、焼きついているんですよ。
 ぼくの耳のなかでは、やっぱり、突如、鳴った美空ひばりの声が、印象的にのこっているわけですよ。時とともに非常に美化されてのこっている。あれだけリッチな朗々とした、なんとも言えないひびきのいい音というのは、ぼくはあとにも先にも聴いたことがなかった。
     *
瀬川先生にとって美空ひばりは、昔は、《鳥肌の立つほど嫌いな存在》だったと書かれている。
     *
 もう二十年近くも昔、われわれの大先輩の一人である池田圭先生が、さかんに美空ひばりを聴けと言われたことがあった。
「きみ、美空ひばりを聴きたまえ。難しい音楽ばかり聴いていたって音はわからないよ。美空ひばりを聴いた方が、ずっと音のよしあしがよくわかるよ」
 当時の私には、美空ひばりは鳥肌の立つほど嫌いな存在で、音楽の方はバロック以前と現代と、若さのポーズもあってひねったところばかり聴いていた時期だから歌謡曲そのものさえバカにしていて、池田圭氏の言われる真意が汲みとれなかった。池田氏は若いころ、外国の文学や音楽に深く親しんだ方である。その氏が言われる日本の歌謡曲説が、私にもどうやら、いまごろわかりかけてきたようだ。
     *
この文章は「虚構世界の狩人」の「聴感だけを頼りに……」の中に出てくる。
「聴感だけを頼りに……(初出題名「聴感的オーディオ論」) 」は、
ステレオ別冊「ステレオコンポーネントカタログ」に、1976年に掲載されている。
20年近く昔ということは、池田圭氏に美空ひばりを聴けといわれたのは1950年代後半のころなのか。

瀬川先生がアルテックA4で美空ひばりを聴かれたのは、このころなのだろうか。

Date: 7月 31st, 2015
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その15)

昨夜書いた(その14)に、facebookにコメントをいただいた。

そこにこうあった。
美空ひばりがアルテックのA7を指して、
「このスピーカーから私の声がしている」という記事を何かで読んだことがある、というものだった。

「このスピーカーから私の声がしている」が、その記事からの正確な引用なのかははっきりとしない。
美空ひばりがいった「私の声」は「私の歌」という意味も含まれているような気もする。

自分の声は、まわりの人が聞いて認識している声とその声を発している本人が認識している声とでは、
少なからぬ違いがあることは、一度でも自分の声を録音再生したことのある人ならばわかっている。

美空ひばりが「私の声がしている」といったのは、
美空ひばり自身が聞いている本人の声と同じ声がしてきた、という意味ではないはずだ。

アナウンサーは自分の声を録音して、話し方を訓練する、ときいたことがある。
そうやって自分の声を聞くことで、まわりの人が聞いている自分の声というものを確認している。

アナウンサーがそうならば、歌手もまたそうだ。
美空ひばりほどの歌手であるならば、
自分自身で聞いている自分の声とまわりの人が聞いている美空ひばりの声の印象の差は、
はっきりと認識していても不思議ではない。

そういう美空ひばりがA7から「このスピーカーから私の声がしている」は、
「このスピーカーから私の歌がしている」と受け取っていいのではないか。

私はコメントを読んで、そう思った。

Date: 7月 30th, 2015
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その14)

アルテックのA5、A7は劇場用のスピーカーシステムとして開発されたモノだ。
劇場といっても数千人規模の大劇場ではなく数百人規模の中規模(小規模か)の劇場用としてである。
     *
 会議室や中程度のホール、またはそれ以上の広い会場で、できるだけ無理せずに楽しめる音を鳴らしたいというような条件があれば、アルテックを必ずしも好きでない私でも、A5あたりを第一にあげる。以前これを使ってコンサートツアーを組んで大成功を収めたことがある。私自身は家庭用とは考えていない。
     *
ステレオサウンド 43号で、アルテックのA5のことを瀬川先生がこう書かれていた。
いまではどのメーカーもやらなくなったけれど、
昔はレコードコンサートがよく行われていた。
メーカーの広告にもレコードコンサートの告知があったりした。
有名なところではグレースとLo-Dの共同コンサートが定期的に行われていた。

当時のレコードコンサートではA5(もしくはA7)がよく使われていた、という話をきいたことがある。
“Voice of the Theater”の面目躍如たる活躍であったと思う。

人の声をうまく伝えてくれるスピーカー(ラッパ)であることは、
今も昔も多くの人が認めるところだ。

そういえば……、とまた瀬川先生の書かれたものを思い出す。
ステレオサウンド 56号の「いま、私がいちばん妥当と思うコンポーネント組合せ法、あるいはグレードアップ法」。
     *
 日本の、ということになると、歌謡曲や演歌・艶歌を、よく聴かせるスピーカーを探しておかなくてはならない。ここではやはりアルテック系が第一に浮かんでくる。620Bモニター。もう少しこってりした音のA7X……。タンノイのスーパーレッド・モニターは、三つのレベルコントロールをうまく合わせこむと、案外、艶歌をよく鳴らしてくれる。
     *
A5、A7はアメリカのスピーカーだからといって英語でうたわれる歌(声)だけをうまく鳴らすのではない。
日本語の歌もよく鳴らしてくれるのは、
人の声を再生するに最も大切な中音域がしっかりしていることの理由のひとつである。

どういうことかといえば、音楽における中音域のこまかいところまで表現してくれるし、
この帯域における音の変化に対しても、ことさら強調するような鳴り方ではないが敏感である。

このことが音楽を楽しんで聴くうえでどれだけ大事なことであるかは、
ずっと以前からいわれていたことだし、長島先生がよくいわれていたことを思い出す。

Date: 1月 28th, 2014
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その13)

ナロウレンジのスピーカーには、ふたつあるといってもいい。
いいナロウレンジのスピーカーと、そうではないナロウレンジのスピーカーであって、
いいナロウレンジのスピーカーでは、たとえば広帯域の録音、
つまり,そのナロウレンジのスピーカーがつくられた年代よりもずっとあとに登場した録音を鳴らしても、
そのナロウレンジのスピーカーなりの音(トーン)で、新しい録音を聴かせてくれる。

だから、広帯域の録音がナロウレンジで再生されたとしても、
それが現代の録音であることを聴き手にわからせてくれる。

ところがそうでないナロウレンジのスピーカーだと、そういった録音を鳴らした場合、
帯域の狭さをまず感じてしまう。
しかもナロウレンジのスピーカーの高域はあばれが耳につくものがあり、そういったことが露呈する。

ナロウレンジのスピーカーは低域に関してもそれほど延びていないから、
新しい録音では、特に最低域まで高レベルのものを鳴らしたすると、
現代のワイドレンジのスピーカーを聴きなれた耳には、ものたりなさが妙な感じであらわれたりする。

ようするにいいナロウレンジのスピーカーは、同時代の録音をもっともよく鳴らしてくれるわけだが、
それだけでなく新しい録音であっても、それなりに新しい録音であることを伝えてくれるし、
ナロウレンジという枠の中ではあっても、充分に楽しませてくれる。

そうでないナロウレンジのスピーカーでは、奇妙な音になってしまうことがある。

いいナロウレンジのスピーカーの代表といえば、
アルテックの劇場用のスピーカーシステム、つまりA5、A7がまずある。

Date: 9月 23rd, 2012
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その12)

リズム(rhythm)といえば、音楽を構成する要素のひとつであるわけだが、
私がここでいいたいリズムは、もちろんオーディオは音楽を再生するものであり、
しかもソプラノ歌手の声、とか、楽器の音色、とかいっているわけだから、それは音楽のことであり、
音楽のリズムのことでもあるのだけれど、
それだけではなく、歌手、演奏者の鼓動という意味でのリズムについても、である。

どのスピーカーシステムがそうだとは書かないけども、
スピーカーによってリズムのきざみ、打ち出される音の強さ、といったことは変化し、
まったく苦手としているのではないか、と思いたくなるスピーカーがないわけではない。

もちろんスピーカーシステムの責任ばかりなく、使いこなしにあったり、
アンプにも、そういう傾向のモノがやっぱりある。
とはいえスピーカーにあることが少なくないのも、やはり事実である。

そういうスピーカーでは、どんなに歪の少ない音が出てきても、
周波数特性(振幅特性)的にワイドレンジであっても、
音場感がきれいに左右に拡がってくれようとも、
音楽を聴いていてつまらなくなる、というか、
ボリュウムをしぼりたくなる。

同じレコードをかけてもスピーカーが変れば、そこでのリズムがまったく同じということは絶対にない。

リズムを打ち出す力、リズムをきざむ力は、一様ではない。
リズムは、やはり力だと感じる。
それゆえにスピーカーによって、この力の提示はさざまであり、
しなやかで軽やかにリズムを聴かせるスピーカーもあれば、
力強く、強靭とでもいいたくなるようなリズムを聴かせるスピーカーもある。

この力が、音楽の推進力を生んでいる。
オーディオで音楽を聴く、ということ、
つまりスピーカーを通して音楽を聴くという行為において、
この音楽の推進力が著しく損なわれると、そこで鳴っている音楽の印象は稀薄になり、
聴き手の心に刻まれなくなる。

Date: 9月 23rd, 2012
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その11)

ソプラノ歌手の描き分けがうまく行えないスピーカーシステムが、現実にはある。
安い価格帯のスピーカーシステムにもあるし、
オーディオに関心のない人からするとバカげた値札のついたスピーカーシステムの中にも少ないながらも存在する。

別にソプラノ歌手に限らなくてもいい。
他の楽器についてでもいい。
楽器には楽器特有の音色があって、楽器の銘柄が変れば音色は違ってくるし、
同じ銘柄の楽器でも奏者によって音色は変化していく。

誰が歌っているのか、誰が吹いているのか、誰が弾いているのか、
このことが音だけで明確に聴きとれるためには、音色の再現性の高さがスピーカーには要求される。

その音色の再現性のためにはどういうことが必要なのか……。

物理的なことがいくつか頭に浮ぶ。
考えれば考えるほど、ワイドレンジであることが音色の再現性には重要というところに行き着く。
ワイドレンジとひと言でいっても、ただ単にサインウェーヴでの測定上の周波数特性、
それも振幅特性のみを延ばしただけのスピーカーシステムであっては、
ワイドレンジとは言い難い、ということは、別項の「ワイドレンジ項」でも書いている。

応答性、過渡毒性ということに関しても、ワイドレンジである方が優位である。
なのに、時として、何度書いているように、よくできた中口径のフルレンジユニットのほうが、
ソプラノ歌手の声の鳴らし分けを、その何十倍、何百倍もするスピーカーシステムよりも的確なことがあるのは、
物理的な過渡特性、応答性の優秀さのほかに、
いわば感覚的な応答性のよさがあるような気がしてならない。

過渡特性、応答性のもうひとつの側面──、
といっていいのかどうか迷うところもあるのだが、リズムへの対応力、再現性といったものを感じる。

Date: 9月 17th, 2012
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その10)

なぜ一部のワイドレンジ志向のスピーカーシステムよりも、
ずっとナロウレンジのフルレンジのスピーカーのほうが、ソプラノ歌手の鳴らし分けに長けているのか、
いいかえると聴き分けが容易なのか、について考えていくと、
岩崎先生が書かれていた、ある考察を思い出す。
     *
ジェームス・バロー・ランシングが目ざした高能率とは音圧のためのではなく、もっと他のための高能率ではなかったのだろうか。他の理由——つまり音の良さだ。
 周波数特性や歪以外に音の良いという要素を感じとっていたに違いない。その音の良さの一つの面が過渡特性であるにしろ、立ち上がり特性であるにしろ、それを獲得することは高能率化と相反するものではない。むしろ高能率イコール優れた過渡特性、高能率イコール優れた立ち上がり特性、あるいは高能率イコール音の良さということになるのではないだろうか。私にはジェームス・バロー・ランシングが当時において今日的な技術レベルをかなり見抜いていたとしか考えられない。そうでなければあれだけのスピーカーができるはずがない。
     *
これは、「オーディオ彷徨」にもおさめられている「ジェームズ・バロー・ランシングの死」の中に出てくる。
この文章が書かれたのは、1976年、雑誌ジャズランドの10月号のことである。

過渡特性の良さ──、
結局、このことに深く関係しているのは間違いない、と確信している。

だからサインウェーヴでの周波数特性が広い、一部のスピーカーシステムよりも、
ナロウレンジのフルレンジのほうが、時としてソプラノ歌手の声をきちんと鳴らし分けてくれるし、
サインウェーヴでの周波数特性では同じようなナロウレンジの周波数特性のスピーカーがあっても、
片方はナロウレンジであることが気になって長く聴き続けることができないのに、
もう片方は聴いているうちにそれほどナロウであることが気にならなくなる、ということも、
過渡特性の悪いナロウレンジ(前者)と良いナロウレンジ(後者)ということになる。

Date: 9月 14th, 2012
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その9)

ソプラノ歌手の再生といっても、基音だけでいえばそれほど広い音域を必要とするわけではない。
声楽の音域は、バスが82.4〜261.6Hz、バリトンが97.9〜349.2Hz、テノールが130.8〜391.9Hz、
アルトが196.0〜587.3Hz、メゾ・ソプラノが261.6〜783.9Hz、
そしてソプラノが329.6〜1046.5Hzとなっているから、
バスの最低音からソプラノの最高音までほぼ4オクターヴは、
1kHzよりも低いところにあり、意外にも、というべきか、それほど高い音は出ていないように思える。

これはあくまでも基音であって、楽器も人の声も倍音が発生する。
この倍音を含めて、周波数レンジはどの程度必要なのか、を楽器別にまとめた、
W.B.スノウによる実験データがある。

このスノウの実験データは、周波数レンジをどこまで狭めていくと、
もとの楽器、もしくは人の声の音色が損なわれるかを表しているもので、
女性言語は200Hzよりも少しひくいところから10kHzまで、となっている。

スノウの、この実験データは、たしか1931年に発表されたものであるから、
ずいぶんと古いデータであり、現代のシステムで実験をすれば、多少値に変動が出てくるかもしれないけれど、
目安としては、それほどの変化はないように思う。

女性の声に関しては、10kHzまできちんと再生されていれば、
音色の再現に支障をきたすわけではない、ということになる。

10kHzまでなら、
いま市販されているスピーカーのうち、
オーディオマニアを対象としたスピーカーシステムの大半(ほぼすべてといってもいいだろう)は、
楽々クリアーしている数字である。
さらに10kHzよりも周波数レンジが延びていれば、もっと音色の再現性は精確になっていくはずなのに、
一部のワイドレンジ型であり、音場型とも呼ばれているスピーカーシステムの中には、
くり返すが、ソプラノ歌手を正体不明にしてくれるモノがある。

そして、このこともまたくり返すが、レンジの狭いフルレンジのスピーカーのほうが、
ずっとはっきりとソプラノ歌手が誰なのかをはっきりとさせてくれることがある。

Date: 3月 9th, 2012
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その8)

周波数特性を拡げていくことは、単純に考えれば情報量が増していくことになるわけだが、
情報量が増していくことによって、本来ならば音楽の微妙な表情や、その変化をより明瞭に鳴らし分けてくれる──、
そのはずにもかかわらず、いま市販されているスピーカーシステムの中には、
しかもそれらのいくつかは世評の高いスピーカーシステムも含まれているにもかかわらず、
例えば比較的新しい録音の、ソプラノ歌手を数人聴かされた時、
誰が歌っているのか、まったく判別がつかなくなるモノがある。

耳馴染んでいる歌手の歌を聴いても、誰なのかがわからない。
わからないだけだったらまだいいのだが、ときには違いすら判然としなくなる。
誇張していえば、似たような声に聞こえてしまうスピーカーシステムがある。

そういうスピーカーシステムは、いわゆるワイドレンジ型で音場型とも呼ばれているスピーカーだったりする。
しかも高価だったりする。

私がそういうスピーカーシステムでソプラノ歌手が誰だかわからなくなってしまうのは、
私の方に原因があるともいえるだろうし、スピーカーシステム側に何か問題点があるともいえるだろうし、
私とそういったスピーカーシステムとの相性が決定的に悪い、ともいえるだろう。

この歳になって、いくつものスピーカーシステムを聴いてきたうえでいえば、
はっきりと誰が歌っているのか容易に聴き分けられるスピーカーシステムが存在しているわけだから、
スピーカーシステム側に問題点がある、はずだ。

それにしても、なぜこういうことになってしまうのか。
高域の周波数レスポンスをよくしていけば、ソプラノ歌手の声の再現性は良くなる、
良くなれば、それだけ声の聴き分けは容易になる。
言葉を変えれば、ソプラノ歌手一人一人の特徴をより精確に描き出してくれるはずなのに、
そういうスピーカーシステムとそうではないスピーカーシステムに分れてしまう。

しかも不思議なことに(というよりも面白いことに)、
良く出来たフルレンジスピーカーを鳴らした時のほうが、
実のところ、ソプラノ歌手の声の聴き分けは容易かったりする。

いうまでもなく周波数特性はフルレンジの方が狭い(高域はあまり伸びていないナロウレンジだ)。

Date: 9月 20th, 2011
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その7)

BBCの研究所が提唱したことがはじまりであるインパルスを使ったスピーカーの測定方法だが、
発表当時はコンピューターの処理能力の関係で実際に測定することは不可能だったと聞いている。
これを実用化したのは、KEFのフィンチャムを中心としたグループで、
インパルスを複数回スピーカーに加え、ノイズの位相成分がランダムであるという性質を利用することで、
測定結果をコンピューターで加算することによってノイズの打消しをおこなわれ、
信号成分のみを取り出せるようになったからである。

ステレオサウンドでも47号ではじめてインパルスによるスピーカーシステムの測定結果が掲載された。
47号では、サインウェーヴによる従来のアナログ計測では周波数特性、高次高調波歪率、混変調歪率など、
インパルスによるデジタル計測ではインパルスレスポンス、群遅延特性、エネルギータイムレスポンス、
累積スペクトラム、混変調歪など、である。

47号の測定で使われたインパルス信号は、幅10μsec、高さがピークで50Vのものである。
理論的には幅がゼロで高さが無限大の信号が理想的なインパルスということになるが、
現実にそういう信号を作り出すことは不可能だし、
スピーカーシステムの測定に理想のインパルス信号が必要とは思えない。

47号で使われたパルス幅10μsecは、0.7Hzから50kHzまでの周波数成分をフラットにもっている。
高さ50Vということは、8Ω負荷では312.5Wのパワーとなる。
これだけの大きなパワーを、
しかも0.7Hzから50kHzまでフラットな周波数特性で加えたらスピーカーシステムが壊れないのか、
ということになるのだが、パルス幅が10μsecと狭いため、
パルス1波あたりのエネルギー量としてはごくわずかということになり、スピーカーの動作上の問題は発生しない。
これだけパルス幅が狭いと、パワーアンプの出力をショートしていても、アンプには異常が発生しないとのことだ。

このインパルスによる測定を、
80Hz〜5kHzのバンドパスフィルターを通したスピーカーシステムで行ったら、どんな結果が得られるのだろうか。

Date: 9月 6th, 2011
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その6)

80Hzから5kHzのバンドパスフィルターを通して、
国産の、ウーファーが30cm口径のブックシェルフ型スピーカーシステムを鳴らしたとしよう。

高域を5kHzでカットしているから、どのスピーカーシステムの音も、高域が伸びていないと、まず感じるだろう。
そしてしばらく、といっても数分間ではなく数十秒ほどそのまま聴いてみると、
高域が5kHzでカットしてあることをずっと意識させられる音を出すスピーカーシステムと、
意外にも耳が馴れてしまうのか、最初に聴いたときほど意識しない音を出すスピーカーシステムとに分れるはず。

高域の伸びが足りないことをずっと意識させられる音のスピーカーシステムでは、
そのまま音楽を聴きつづけていくことはしんどく感じられるようになる。
もう一方の、それほどナロウレンジになったことを意識させない音のスピーカーシステムでは、
そのまま音楽を聴きつづけていくことはできる。

なぜ、このようなことがおこるのか(前回書いたように実際に試したわけではないが、ほぼこうなるはず)。
それはスピーカーシステムそのものの音の質に関係している、と言われるだろう。
では、その音の質は、スピーカーシステムのどういうところと関係しているのか。

国産の30cm口径のウーファーをもつ3ウェイのブックシェルフであるなら、
どのメーカーのスピーカーシステムをもってきても、その周波数特性は80Hz〜5kHzは余裕でカヴァーしており、
ほぼフラットな特性でもある。
つまりこのことは80Hz〜5kHzのバンドパスフィルターを通して状態では、
周波数特性的には同じになるといっていい。
多少この帯域内において凹凸があっても、それすらもレベル的には小さい。

なのに高域が常に足りないと意識させる音と、そうでない音とに分れるということは、
聴感上の周波数特性的に差が出るということは、ほぼ間違いなく応答性・過渡特性に密接に関係しているはずだ。

Date: 8月 30th, 2011
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その5)

こんな実験をしてみたら、どうだろうか。
たとえば国産のブックシェルフ型スピーカーシステムを用意する。
ウーファーは30cm口径、スコーカー、トゥイーターはドーム型の構成だと、
カタログに掲載されている再生周波数帯域は、
低域は30Hzから40Hzのあいだ、高域はほとんどのものが20kHz以上になっている。
十分なレンジの広さを実現している、と、カタログ上の数値では、そういえる。

これらのスピーカーシステムの低域と高域をバンドパスフィルターでカットして鳴らしてみたら、
いったいどんな結果になるであろうか。
低域も高域も、40万の法則にしたがってカットするとしよう。
低域は100Hz、高域は4kHz、もしくは低域は80Hzで高域は5kHz。
どちらも低域と高域の積は40万になる。高域よりでもないし、低域よりでもない帯域幅だ。

国産の、上記のようなブックシェルフ型スピーカーシステムのクロスオーバー周波数は、
ウーファーとスコーカー間は400Hzから500Hzあたり、
スコーカーとトゥイーター間は4kHzから6kHzあたりに、たいていのものはある。
80Hzから5kHzのバンドパスフィルターを通したとしたら、
スコーカーだけでなくウーファーは確実に鳴っているし、トゥイーターも大半は鳴っている。
クロスオーバー周波数が高いものだとトゥイーターは関係ないように思われるかもしれないが、
ネットワークの遮断特性が12dB/oct.ならば、
6kHzのクロスオーバー周波数でもトゥイーターはレベルは下るものの鳴っている。

できれば、この実験は数機種用意してやりたい。
実際に、この実験をやったわけではないから、推測にしかすぎないが、
おそらく、そういう状態(つまりバンドパスフィルターを通した状態)で、聴き通せるスピーカーシステムと、
そうでないスピーカーシステムに分かれるのではないだろうか。

Date: 8月 30th, 2011
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その4)

アルテックの755Eの音も、ウェスターン・エレクトリックの100Fの音も、
多くの人は、高域があまり伸びていない、とまず感じ、ナロウレンジの音だと判断されることだろう。

たしかにサインウェーヴで測定するかぎり、どちらも高域は伸びていない。
けれど、ここで考えたいのは、サインウェーヴでその測定結果と聴感上のレンジ感は一致することもあれば、
そうでないこともある、ということ。

よく聞く話に、こんなことがある。
テストレコード(テストCD)、もしくは発振器を使ってサインウェーヴを聞いてみたら、
年齢のせいか、もう20kHzなんてもちろん聞こえない。15kHzも無理で、12kHzあたりがどうにかこうにかで、
聴力が衰えることは頭ではわかっていても、その結果に愕然として、
もうこれからはスーパートゥイーターなてん不要で、ナロウレンジでいい、と。

こう語られる年輩の方がおられ、
若い人の中には、高域が聞こえにくくなっている年輩者の音の評価なんて当てにならない、という者もいる。

確かに高域に関しては若いときの方がよく聞こえるけれど、それはあくまでもサインウェーヴに関してのこと。
われわれがオーディオを介して聴くのは、サインウェーヴではなく、音楽であること。
音楽の波形とサインウェーヴの波形は、似て非なるものであること。

つまりサインウェーヴの高域が聞こえなくなったから、高音域まで再生できなくてもいい、
サインウェーヴの高域が聞こえなくなった聴覚は当てにならない、
このふたつは実に短絡的で、誤解でしかない。

サインウェーヴで捉えてしまうと、こんなふうに考えてしまうのも無理もないこととはいえ、
サインウェーヴの呪縛から解放されなければ、ワイドレンジについてもナロウレンジについても、
いつまでも誤解が解消されないままになってしまう。