ナロウレンジ考(その20)
黒田先生の「カザルス音楽祭の記録」(ステレオサウンド 24号)を思い出す。
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端折ったいい方になるが、音楽にきくのは、結局のところ「人間」でしかないということを、こんなになまなましく感じさせるレコードもめずらしいのではないか。それはむろん、カザルスのひいているのがチェロという弦楽器だということもあるだろうが、スターンにしても、シゲティにしても、ヘスにしても、カザルスと演奏できるということに無類のよろこびを感じているにちがいなく、それはきいていてわかる、というよりそこで光るものに、ぼくは心をうばわれてしまった。
集中度なんていういい方でいったら申しわけない、なんともいえぬほてりが、室内楽でもコンチェルトでも感じられて、それはカザルスの血の濃さを思わせる。どれもこれもアクセントが強く、くせがある演奏といえばいえなくもないだろうが、ぼくには不自然に感じられないし、音楽の流れはいささかもそこなわれていない。不注意にきいたらどうか知らないが、ここにおいては、耳をすますということがつまり、ブツブツとふっとうしながら流れる音楽の奔流に身をおどらせることであり、演奏技術に思いいたる前に、音楽をにぎりしめた実感をもてる。しかし、ひどく独善的ないい方をすれば、この演奏のすごさ、女の人にはわかりにくいんじゃないかと思ったりした。もし音楽においても男の感性の支配ということがあるとしたら、これはその裸形の提示といえよう。
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ウェスターン・エレクトリックの757Aの音を聴いてからというもの、
黒田先生の、この文章を思い出している。
《音楽にきくのは、結局のところ「人間」でしかないということを、こんなになまなましく感じさせる》、
そういう音を聴くと、ナロウレンジかワイドレンジかなんて、
どうでもいいことのように吹き飛んでいく。
けれど一方で、そんなふうに感じさせないナロウレンジの音もある。