Archive for category モーツァルト

Date: 9月 2nd, 2014
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その3)

50をこえて、これから先どこまで執拗になれるのか、と考えるようになってきた。
齢を重ねることで淡泊になる、枯れてくるかと思っていたら、
どうも執拗になっていくようだ。

だから、そういう音を望むようになってきている。

20代前半、ステレオサウンドで働いていたころ、
菅野先生がよくいわれていた──、
「ネクラ(根暗)重厚ではなく、ネアカ(根明)重厚でなければ」と。

菅野先生は1932年生れだから、そのころの菅野先生の年齢にほとんど同じぐらいになっている。

どこまで執拗になれるのか、と思うようになり、
菅野先生の、この「ネアカ重厚」を思い出している。

ネクラ執拗ではなく、ネアカ執拗でありたい。

Date: 10月 19th, 2012
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その2)

バーンスタインの晩年の演奏にある執拗さは、
バーンスタインの愛なんだろう、と思える。
それも、あの年齢になってこその愛なんだ、とも思う。

手に入れること、自分のものとすることが愛ではなくて、
自分の全てを捧げる、そういう愛だからこそ、
それまでの人生によって培われてきた自身の全てをささげるのだから、執拗にもなるだろう。

同じひとりの人間でも、颯爽としていた身体をもっていた若い頃と、
醜く弛んだ肉体になってしまった老人とでは、愛のかたちも変ってきて当然である。

バーンスタインのトリスタンとイゾルデ、
マーラーの新録音、モーツァルトのレクィエムをはじめて聴いたとき,
私はまだ20代だった。

だから、いま書いている、こんなことはまったく思いもしなかった。
それでも、強い衝撃を受けた。
バーンスタインの演奏に強く魅了された。

それから約四半世紀が経った。
まだ、トリスタンとイゾルデ、マーラー、
モーツァルトのレクィエムを振ったときのバーンスタインの年齢には達していないが、
ずいぶん近づいてきている。

いまもバーンスタインの演奏を聴く。
そして、より深く知りたいと思うから、
若い頃には関心の持てなかったコロムビア時代のバーンスタインも、すべてではないが聴いている。

コロムビア時代のバースタインのマーラーと、
ドイツ・グラモフォン時代のバースタインのマーラー、
やはり私は後者をとる。

コロムビア時代のマーラーも、いま聴くと、若い頃には感じ難かった良さを感じている。
それでも私は、ドイツ・グラモフォン時代のマーラーをとる。
老人の、執拗な愛によるマーラーを。

Date: 10月 11th, 2012
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その1)

中島みゆきの「愛だけを残せ」を聴いていておもう。

いまも私は、五味先生、岩崎先生、瀬川先生、黒田先生の文章を読み返す。
オーディオ、音楽について書いている文章は、世の中にあふれかえっている。
書店にいけば、世の中にはどれだけの雑誌が出ているのか、
書籍にしても頻繁に書店に足を運ばなければ存在すら知らずに書店から消えてしまう本も、
きっと少なくないぐらい……。

インターネットにおいては、もっともっとあふれている。

にも関わらず、相変らずくり返し読むのは、なぜか? と自問していた。
いくつかの理由は頭に浮びはするものの、自問していく。

中島みゆきの「愛だけを残せ」を聴いて、やっとわかった。

五味先生、岩崎先生、瀬川先生、黒田先生が残してくれたものは、
オーディオへの愛、音楽への愛だ、ということに。
そのことに、「愛だけを残せ」を聴いて、いま気がついた。

「天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合わせても天才はできない。
 愛、愛、愛……それこそが天才の魂である」
モーツァルトの、この言葉を思い出しながら、やっと気がついた。

Date: 5月 21st, 2012
Cate: モーツァルト

モーツァルトの言葉を思い返しながら……(その2)

Twitterには140文字という制約がある。
だから「モツレク」と表記するんだ、という人もいよう。
でも、私はTwitterでも「モーツァルトのレクィエム」と書く。

「モツレク」と書くのも口にするのも、はっきり嫌いだからである。

以前Twitterで、「モツレク」について書いた。
数日前も書いた。
今回、それに対して「なにがいけないんですか」という返信をもらった。

だから「美しくないからです。オーディオは美を求めるものだと、私は信じているからです。」と返事した。
それに対して「モーツァルトにそんなことを言ったら笑われるんじゃないかなあ。」と。

笑われるであろうか。

「モツレク」という表記には、美がない、と言い切ろう。
そして、「モツレク」を平気で使う人は、「モーツァルトのレクィエム」への愛がないんだ、ともいおう。

またきっと、「モーツァルトに笑われるんじゃないかなあ」と、「モツレク」の人は言うに違いない。

モーツァルトは
「天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合せても天才はできない。
愛、愛、愛……それこそが天才の塊である」といった男である。

そういうモーツァルトの音楽を聴く聴き手に求められるのも、愛のはず。
モーツァルトの音楽についての知識ではなく、愛、愛、愛であろう。他に何がいるのか。

思うのは、音楽を愛するということは、そこに美を見出すこと、そして生み出すこと、ということだ。

Date: 5月 21st, 2012
Cate: モーツァルト

モーツァルトの言葉を思い返しながら……(その1)

ブログに限らずウェブサイトでも、インターネットでは文字数の制限はない、といっていい。
だからできるだけ固有名詞は略することなく書くようにしている。

例えばスピーカーといってしまわずに、スピーカーシステム、スピーカーユニットと分けるようにしているし、
スピーカーと書くときは、あえてそうしている。

インターネットはそうできるわけだが、雑誌だと文字数の制限が厳しいこともある。
写真の説明文などはきっちりと文字数が決っていて、
その制約の中でどれだけの情報を伝えることができるかは書き手の能力によるわけだが、
だからといって安易に固有名詞を、しかも勝手に略することはしない。

だから他の箇所を削って、なんとか文字数を合せていく。
ときには文字の間隔を詰めて、という手段もとることもある。
いまはパソコンの画面上で文字詰めも行えるが、
私がステレオサウンドにいたころは写植の切貼りもやった。
そんなことまでしても、とにかく固有名詞の省略はまずしなかった。
それが当り前のことだったからだ。

不思議なことに、ここ数年、なぜかインターネットで、安易で勝手な、固有名詞の省略を目にすることが増えてきた。
代表的なものが、モーツァルトのレクィエムを「モツレク」と、
ベートーヴェンの交響曲第七番を「ベト7」とかである。

モツレク──、
これを最初目にしたときは、唖然とした。
なぜんこんなふうに省略しなければならないのか。
「モーツァルトのレクィエム」だと12文字、「モツレク」だと4文字。8文字分稼げる。

100文字、200文字の制限であれば8文字分の余裕は、正直助かる。
でも、「モツレク」とは絶対にしない。

Date: 9月 6th, 2008
Cate: モーツァルト

モーツァルトの言葉

「天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合わせても天才はできない。
愛、愛、愛……それこそが天才の魂である。」 

モーツァルトの言葉。 
いい音を生み出すのも、愛、愛、愛であろう。他に何があろう。