Archive for category モーツァルト

Date: 2月 29th, 2024
Cate: 「オーディオ」考, モーツァルト

artificial mozart

2006年、金沢に向う電車の車内広告に、目的地であった21世紀美術館の広告があった。
そこには、artificial heartの文字があった。
artificialのart、heartのartのところにはアンダーラインがあった。

artificial heartは、artで始まりartで終ることを、この時の広告は提示していた。
この時の目的地であった21世紀美術館では川崎先生の個展が開かれようとしていた。

2015年12月に「eとhのあいだにあるもの(その5)」の冒頭に、そう書いている。

artificial heartを見て以来、artで始まりartで終るものには、
他に何があるのかを、あれこれ考えていた。

あるとき、これもartで始まりartで終ると気づいた。

artificial mozart。
アーティフィシャル・モーツァルト。

そのころはただ思いついただけだったけれど、
ここ数年、artificial mozartは私にとって、別の意味ももつようになってきている。

Date: 9月 6th, 2022
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その6)

その2)で、
バーンスタインの晩年の演奏にある執拗さは、
バーンスタインの愛なんだろう、と思える。
それも、あの年齢になってこその愛なんだ、とも思う、
と書いている。

老人の、執拗な愛によるマーラーを聴きたい──、
そう思う一方で、執着と愛は違うわけで、
執着と愛をごっちゃにしてしまうほど、こちらももう若くないわけだが、
では、執拗と執着は、どう違うのか、と考える。

執拗を辞書で引くと、
しつこいさま、とある。
それから、意地を張り、自分の意見を押し通そうとするさま、ともある。

しつこいを引くと、
一つのことに執着して離れようとしない,とある。
ここに執着が出てくるからといって、執拗と執着が同じとは思っていない。

辞書には、しつこいの意味として、もう一つある。
(味・香り・色などが)濃厚である。不快なほど強い、とある。

私がバーンスタインのマーラーを、
《老人の、執拗な愛によるマーラー》と感じたのは、まさにこれである。

執着とは、辞書には、
ある物事に強く心がひかれること、心がとらわれて、思いきれないこと、とある。

バーンスタインの晩年のマーラーを聴けば、わかる。
執着と愛は違う、ということが。

老人(バーンスタイン)の、執拗な愛によるマーラーは、
人によっては不快と感じるのであろう。

Date: 3月 19th, 2021
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その5)

ジェイムズ・レヴァインとメトロポリタン歌劇場管弦楽団とのワーグナー、
かなり期待して買って聴いたものだった。
もう三十年以上の前のことだ。

ひどくがっかりしたことだけを憶えている。
こちらの聴き方が悪いのか、と思い、聴き直しても印象は変らなかった。

特にケチをつけるような出来ではなかった。
だからといって、いいワーグナーを聴いた、という感触もなかった。

高く評価する人もいるのは知っている。
私の片寄った聴き方では、レヴァインとMETによるワーグナーはつまらなかった。

レヴァインの「ワルキューレ」にがっかりした私は、
そこでレヴァインを聴くのをやめてしまった。

熱心な人は、「ラインの黄金」、「ジークフリート」、「神々の黄昏」も聴いたのだろうが、
私はそこまでの情熱はもう持てなかった。

やめてしまったのに、ある理由がある。
ちょうどそのころ黒田先生が「最近のレヴァインはやっつけ仕事だ」といわれていた。
それは軽い感じで話されたのではなく、
怒りがこもった「最近のレヴァインはやっつけ仕事だ」だった。

「ワルキューレ」以前のレヴァインも、それほど熱心に聴いていたわけではなかったから、
黒田先生のいわれる《最近のレヴァイン》は聴いていなかった。

なので、黒田先生がそこまで強い口調でいわれるのをきいて、
少しとまどいもあった。

でも「ワルキューレ」は、そうだった、と思った。
やっつけ仕事である。

だからといって雑な演奏なわけではない。
才能のある人のやっつけ仕事であるわけだから、始末が悪い。

やっつけ仕事になってしまった理由は、モーツァルトのいうとおりだろう。
     *
天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合わせても天才はできない。
愛、愛、愛……それこそが天才の魂である。
     *
レヴァインから愛が消えてしまったと捉えているのは私ぐらいかもしれないにしてもだ。

Date: 1月 5th, 2021
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その4)

2008年9月3日に、このブログを始めた。
一本目のタイトルは「言いたいこと」だ。

いまもだが、当時のほうがいまよりもひどかったように感じているが、
五味先生、瀬川先生について、上っ面だけで、否定的なことを書く(言う)人がいる。

昔から、そんな人たちはいたのだろう。
それでも十数年前は、ひどくなっていたと感じた。

それに対する怒りがあった。
ブログを始めた理由の一つは、この怒りからである。

いまもおそらく、そんな人たちはいるだろう。
結局、そんなひとたちに欠けているのは、愛なのだろう。
愛のはずだ。

音楽への愛、音への愛、オーディオへの愛、
そういった愛が欠けていることに、本人は気づいていないのかもしれない。

以前、モーツァルトのことばを引用した。
     *
天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合わせても天才はできない。
愛、愛、愛……それこそが天才の魂である。
     *
いまどき、愛が大事、といおうものなら、
時代掛っている、とか、安っぽい、とかそんなふうに受けとられるかもしれない。

そんなことをいいたいヤツはいっていればいい。
そんなヤツはほっとけばいい。

モーツァルトの音楽を聴く聴き手に求められるのも、愛のはず。
モーツァルトの音楽についての知識ではなく、愛、愛、愛であろう。他に何がいるのか。

モーツァルトの音楽だけに限らない。
思うのは、音楽を愛するということは、そこに美を見出すこと、そして生み出すこと、ということだ。

Date: 9月 2nd, 2014
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その3)

50をこえて、これから先どこまで執拗になれるのか、と考えるようになってきた。
齢を重ねることで淡泊になる、枯れてくるかと思っていたら、
どうも執拗になっていくようだ。

だから、そういう音を望むようになってきている。

20代前半、ステレオサウンドで働いていたころ、
菅野先生がよくいわれていた──、
「ネクラ(根暗)重厚ではなく、ネアカ(根明)重厚でなければ」と。

菅野先生は1932年生れだから、そのころの菅野先生の年齢にほとんど同じぐらいになっている。

どこまで執拗になれるのか、と思うようになり、
菅野先生の、この「ネアカ重厚」を思い出している。

ネクラ執拗ではなく、ネアカ執拗でありたい。

Date: 10月 19th, 2012
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その2)

バーンスタインの晩年の演奏にある執拗さは、
バーンスタインの愛なんだろう、と思える。
それも、あの年齢になってこその愛なんだ、とも思う。

手に入れること、自分のものとすることが愛ではなくて、
自分の全てを捧げる、そういう愛だからこそ、
それまでの人生によって培われてきた自身の全てをささげるのだから、執拗にもなるだろう。

同じひとりの人間でも、颯爽としていた身体をもっていた若い頃と、
醜く弛んだ肉体になってしまった老人とでは、愛のかたちも変ってきて当然である。

バーンスタインのトリスタンとイゾルデ、
マーラーの新録音、モーツァルトのレクィエムをはじめて聴いたとき,
私はまだ20代だった。

だから、いま書いている、こんなことはまったく思いもしなかった。
それでも、強い衝撃を受けた。
バーンスタインの演奏に強く魅了された。

それから約四半世紀が経った。
まだ、トリスタンとイゾルデ、マーラー、
モーツァルトのレクィエムを振ったときのバーンスタインの年齢には達していないが、
ずいぶん近づいてきている。

いまもバーンスタインの演奏を聴く。
そして、より深く知りたいと思うから、
若い頃には関心の持てなかったコロムビア時代のバーンスタインも、すべてではないが聴いている。

コロムビア時代のバースタインのマーラーと、
ドイツ・グラモフォン時代のバースタインのマーラー、
やはり私は後者をとる。

コロムビア時代のマーラーも、いま聴くと、若い頃には感じ難かった良さを感じている。
それでも私は、ドイツ・グラモフォン時代のマーラーをとる。
老人の、執拗な愛によるマーラーを。

Date: 10月 11th, 2012
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その1)

中島みゆきの「愛だけを残せ」を聴いていておもう。

いまも私は、五味先生、岩崎先生、瀬川先生、黒田先生の文章を読み返す。
オーディオ、音楽について書いている文章は、世の中にあふれかえっている。
書店にいけば、世の中にはどれだけの雑誌が出ているのか、
書籍にしても頻繁に書店に足を運ばなければ存在すら知らずに書店から消えてしまう本も、
きっと少なくないぐらい……。

インターネットにおいては、もっともっとあふれている。

にも関わらず、相変らずくり返し読むのは、なぜか? と自問していた。
いくつかの理由は頭に浮びはするものの、自問していく。

中島みゆきの「愛だけを残せ」を聴いて、やっとわかった。

五味先生、岩崎先生、瀬川先生、黒田先生が残してくれたものは、
オーディオへの愛、音楽への愛だ、ということに。
そのことに、「愛だけを残せ」を聴いて、いま気がついた。

「天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合わせても天才はできない。
 愛、愛、愛……それこそが天才の魂である」
モーツァルトの、この言葉を思い出しながら、やっと気がついた。

Date: 5月 21st, 2012
Cate: モーツァルト

モーツァルトの言葉を思い返しながら……(その2)

Twitterには140文字という制約がある。
だから「モツレク」と表記するんだ、という人もいよう。
でも、私はTwitterでも「モーツァルトのレクィエム」と書く。

「モツレク」と書くのも口にするのも、はっきり嫌いだからである。

以前Twitterで、「モツレク」について書いた。
数日前も書いた。
今回、それに対して「なにがいけないんですか」という返信をもらった。

だから「美しくないからです。オーディオは美を求めるものだと、私は信じているからです。」と返事した。
それに対して「モーツァルトにそんなことを言ったら笑われるんじゃないかなあ。」と。

笑われるであろうか。

「モツレク」という表記には、美がない、と言い切ろう。
そして、「モツレク」を平気で使う人は、「モーツァルトのレクィエム」への愛がないんだ、ともいおう。

またきっと、「モーツァルトに笑われるんじゃないかなあ」と、「モツレク」の人は言うに違いない。

モーツァルトは
「天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合せても天才はできない。
愛、愛、愛……それこそが天才の塊である」といった男である。

そういうモーツァルトの音楽を聴く聴き手に求められるのも、愛のはず。
モーツァルトの音楽についての知識ではなく、愛、愛、愛であろう。他に何がいるのか。

思うのは、音楽を愛するということは、そこに美を見出すこと、そして生み出すこと、ということだ。

Date: 5月 21st, 2012
Cate: モーツァルト

モーツァルトの言葉を思い返しながら……(その1)

ブログに限らずウェブサイトでも、インターネットでは文字数の制限はない、といっていい。
だからできるだけ固有名詞は略することなく書くようにしている。

例えばスピーカーといってしまわずに、スピーカーシステム、スピーカーユニットと分けるようにしているし、
スピーカーと書くときは、あえてそうしている。

インターネットはそうできるわけだが、雑誌だと文字数の制限が厳しいこともある。
写真の説明文などはきっちりと文字数が決っていて、
その制約の中でどれだけの情報を伝えることができるかは書き手の能力によるわけだが、
だからといって安易に固有名詞を、しかも勝手に略することはしない。

だから他の箇所を削って、なんとか文字数を合せていく。
ときには文字の間隔を詰めて、という手段もとることもある。
いまはパソコンの画面上で文字詰めも行えるが、
私がステレオサウンドにいたころは写植の切貼りもやった。
そんなことまでしても、とにかく固有名詞の省略はまずしなかった。
それが当り前のことだったからだ。

不思議なことに、ここ数年、なぜかインターネットで、安易で勝手な、固有名詞の省略を目にすることが増えてきた。
代表的なものが、モーツァルトのレクィエムを「モツレク」と、
ベートーヴェンの交響曲第七番を「ベト7」とかである。

モツレク──、
これを最初目にしたときは、唖然とした。
なぜんこんなふうに省略しなければならないのか。
「モーツァルトのレクィエム」だと12文字、「モツレク」だと4文字。8文字分稼げる。

100文字、200文字の制限であれば8文字分の余裕は、正直助かる。
でも、「モツレク」とは絶対にしない。

Date: 9月 6th, 2008
Cate: モーツァルト

モーツァルトの言葉

「天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合わせても天才はできない。
愛、愛、愛……それこそが天才の魂である。」 

モーツァルトの言葉。 
いい音を生み出すのも、愛、愛、愛であろう。他に何があろう。