続・モーツァルトの言葉(その6)
(その2)で、
バーンスタインの晩年の演奏にある執拗さは、
バーンスタインの愛なんだろう、と思える。
それも、あの年齢になってこその愛なんだ、とも思う、
と書いている。
老人の、執拗な愛によるマーラーを聴きたい──、
そう思う一方で、執着と愛は違うわけで、
執着と愛をごっちゃにしてしまうほど、こちらももう若くないわけだが、
では、執拗と執着は、どう違うのか、と考える。
執拗を辞書で引くと、
しつこいさま、とある。
それから、意地を張り、自分の意見を押し通そうとするさま、ともある。
しつこいを引くと、
一つのことに執着して離れようとしない,とある。
ここに執着が出てくるからといって、執拗と執着が同じとは思っていない。
辞書には、しつこいの意味として、もう一つある。
(味・香り・色などが)濃厚である。不快なほど強い、とある。
私がバーンスタインのマーラーを、
《老人の、執拗な愛によるマーラー》と感じたのは、まさにこれである。
執着とは、辞書には、
ある物事に強く心がひかれること、心がとらわれて、思いきれないこと、とある。
バーンスタインの晩年のマーラーを聴けば、わかる。
執着と愛は違う、ということが。
老人(バーンスタイン)の、執拗な愛によるマーラーは、
人によっては不快と感じるのであろう。