Archive for 1月, 2012

Date: 1月 31st, 2012
Cate: Herbert von Karajan

プロフェッショナルの姿をおもう(その2)

ひとりで歩けないカラヤンをみていると、どうしてもひとりで立っていられるようには思えない。
立てたとしても指揮台後方のパイプにもたれかからないと無理なのではないか……、
そんなことを考えながらカラヤンが指揮台にたどり着くのを見ていた。

カラヤンは立っていた。ひとりで立っていた。何の助けもなく指揮をはじめた。
ついさきほどまでの、あの姿はいったい何だったのだろうか、
もしかして芝居だったのか……、カラヤンのことだからそんなことはない。

椅子に坐って指揮、という選択もあったのかもしれない。
カラヤンの歩き方をみていると、立っているのが不思議でしかない。
なのに指揮ぶりは、指揮しているカラヤンだけを見た人は、
指揮台にたどり着くまでのカラヤンの姿は絶対に想像できない。

ベートーヴェンの交響曲第4番だから、演奏時間はそれほど長くはない。
それでも、このときのカラヤンの体調からしたら、第4交響曲を演奏しおえる時間は、
そうとうにしんどい時間ではなかったのだろうか。

響いてきたベートーヴェンの第4番は、
7年前に同じ東京文化会館で聴いたベートーヴェンの第5番とははっきりと違っていた。
同じベルリン・フィルであっても響きそのものが違うように感じた。
7年のあいだにベルリン・フィルの楽団員の入れ替えの多少はあったのかもしれないけれど、
ベルリン・フィルはベルリン・フィルである。そのことによって大きく変化することはない。

なのにカラヤンの指揮するベルリン・フィルは、
こんな響きだったのか、と──7年前とは坐っている席は違う、今回はS席だったが──、そんな違いではない。
ベルリン・フィルが、というよりも、カラヤンが変っていたように感じていた。

演奏がおわり引き上げるときも、ひとりでは無理でおつきの人が支えて、だった。
休憩時間がすぎ、「展覧会の絵」がはじまる。

Date: 1月 30th, 2012
Cate: Herbert von Karajan

プロフェッショナルの姿をおもう(その1)

最近、なぜかよくカラヤンの姿を思い出す。
1988年、カラヤン最後の来日となった公演でのカラヤンの姿を、今年になって何度も思い返している。

カラヤンの助言も参考にされたサントリーホールが完成したのは1986年。
こけら落としはカラヤンだったが、結局は小澤征爾が代役となった。
そんなことがあったので、
1988年、ベルリン・フィルとの来日は、これがカラヤンを見れる最後の機会かもしれない、と思い、
音楽評論家の諸石幸生さんに無理をいってチケットを一枚譲っていただいた。
東京文化会館での公演だった。

カラヤンの公演に行くのは、このときが2回目だった。
最初は1981年の、やはりベルリン・フィルとの来日のときだった。
まだ学生でふところにまったく余裕がなかったから、なんとかA席かB席のチケットを買って行った。
ベートーヴェンの交響曲第5番とヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリンはアンネ=ゾフィー・ムター)。
このときのカラヤンは颯爽としていた。

1988年は、ベートーヴェンの交響曲第4番とムソルグスキーの「展覧会の絵」。
1986年の来日をキャンセルにしたカラヤンだから、それに最後の来日なるかもしれない、と思っていたから、
1981年のカラヤンとは変っていることは承知しているつもりだったが、
ステージ脇から出てきたカラヤンの姿は、その予想をこえる衰えぶりだった。

ひとりで歩けない。
横のおつきの人がカラヤンを支えながら、いまにも倒れそうな足どりでカラヤンが表われた。
これで指揮ができるのか、とそのとき誰もが思っていたのではなかろうか。

プライドの高いはずのカラヤンのことだから、こんな姿を聴衆の前にさらしたくないはずだろうに……、
と思うとともに、
プライドの高いカラヤンだからこそ、人の助けを借りながらも自分の足で登場してきたのかもしれない。

指揮台に目を移すと、そこには一般的な指揮台しかない。
指揮者が後に落ちないようにコの字に曲げたパイプがつけられている、よく見る指揮台で、
そこには椅子はなかった。

Date: 1月 30th, 2012
Cate: audio wednesday

第13回 audio sharing 例会のお知らせ

2月1日のaudio sharing例会、13回目のテーマは、
異相の木という視点からのオーディオ(予定)です。

今週水曜日夜7時、四谷三丁目の喫茶茶会記でお待ちしております。

Date: 1月 29th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器との出逢い(その7)

そうやってオーディオ機器と出逢ったことは、幸運だったと思う。

「五味オーディオ教室」でタンノイ・オートグラフ、マッキントッシュMC275、EMT・930stと出逢ったときから、
実際にこれからのオーディオ機器に接し、その音を聴くまでには充分すぎる時間があった。
そのあいだ、何度も何度も「五味オーディオ教室」を読み返し、
オートグラフ、MC275、930stの音を、ではなく、
五味先生がこれらのオーディオ機器をとおして鳴らされている音を頭のなかでイメージしていっていた。

最初に読んだときの鮮烈なイメージを元に、
何度もくり返し読んでいくことと、ステレオサウンドを知って読んでいくことで、
最初に描いた(というよりも描かれた)イメージは、そのたびに更新されていく。

そしてステレオサウンドで働くようになって、
オーディオの体験がそれまでよりも飛躍的に量・質ともに大きく変化していったことで、
より細部まで頭のなかで構築されていく。

美化されていく、のとは違う。
より具体的なイメージとなっていった。
しかもそのイメージはそれまでの体験によって、より上へ上へと行く。
いつまでたっても追いつけないイメージが、私のうちに育っていく。

これは、もう夢の音なのかもしれない。
けれど、「五味オーディオ教室」を最初に読んだときからつねに私の中にあった、
この音のイメージがあったからこそ、
もっともっといい音が出せるはず、という気持になっていた。

オーディオなんてこんなものだろう、という気持は、だからまったくなかった。
絶対にあの音が、あそこまでの音が出るんだ、という確信も「五味オーディオ教室」を読んだときから芽生えていた。

だから、幸運だった。

Date: 1月 29th, 2012
Cate: audio wednesday

第13回(公開対談改め)audio sharing 例会のお知らせ

毎月第1水曜日に行っています公開対談ですが、
前回(1月)で12回1年、今度の2月から2年目にはいります。
これまでは公開対談という形式をとってきましたが、これからは対談のときもあれば私ひとりのときもありますし、
それに今年は音を出すことも考えています。
なので、公開対談からaudio sharing 例会、とします。

2月は1日になります。

夜7時から、始めます。
場所はいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行ないますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 1月 28th, 2012
Cate: 言葉

「器」

パッケージソフトは、器である。
アナログディスクならば、SP、LP、シングル盤、いずれも音声信号を溝に変換して記録した、音楽の器である。
デジタルになっても、CD、SACDどちらも、やはり音楽をおさめている器である。
テープも形状は異るものの、やはり音楽の器である。

これらパッケージソフトという器に、
音楽をおさめるための録音スタジオ、音楽ホールは、音楽が演奏される器である。

パッケージソフトを聴くための部屋(リスニングルーム)も、また器である。

そしてスピーカーシステムから出た音を受けとめる(聴いている)聴き手も「器」である、と思う。

器にはそれぞれ形と大きさがある、ということを、つい忘れがちになっていないだろうか。

Date: 1月 27th, 2012
Cate: 異相の木

「異相の木」(その5)

複数のスピーカーシステムを所有して鳴らしていても、
そのスピーカーシステムの数が多かろうが、そこに「異相の木」があることにはならない。

スピーカーシステムはつねに1組しか所有しない、という人も一方にいる。
こういう人に「異相の木」と呼べるスピーカーシステムがないか、というと、必ずしもそうではない。
たしかに鳴らしているのは1組のスピーカーシステムであっても、
オーディオに興味をもち始めてこれまでずっと同じスピーカーシステムを使ってきた、
鳴らしてきたという人はまずいないだろう。
何度かはスピーカーシステムを交換している。
その過程の中で、異相の木があったかもしれないからだ。

そして異相の木は、サブスピーカーではない。
メインのスピーカーシステム、メインのシステムとは別に、
もうすこし気軽にゆったりと音楽を聴きたいときのためのシステム(スピーカーシステム)は、
あくまでもサブスピーカーシステム、サブシステムであって、
サブスピーカーシステムが、異相の木であることは、まずない。

黒田先生は、異相の木として、ヴァンゲリス・パパタナシウの音楽をあげられている。
ヴァンゲリスの音楽を、異相の木としてうけとめる聴き手もいれば、そうでない聴き手もいる。
すべての聴き手にあてはまる「異相の木」は存在しないものだろう。

スピーカーシステムの異相の木も同じく、すべての聴き手によって「これが異相の木です」といえるモノはない。
私にとって異相の木であるスピーカーシステムは別のひとにとっては、
ごく当り前のスピーカーシステムであったりするし、その反対もある。

黒田先生が「異相の木」を書かれたステレオサウンド 56号は1980年9月に出ている。
ヴァンゲリスの最初のソロ・アルバムは1968年に出ていて、
約10年の間、16枚のアルバムがつくられ、黒田先生は聴いてこられている。
そして、こう書かれている。
     *
ただ、この木は、ほかの木とのつりあいがとれない。その意味では、あいかわらず、いまも異相の木である。どこかちがう。この庭になじもうとしない。庭木であることをみずから拒んでいるかのようである。しかし、であるからといって、この木をうえておくことをあきらめようとは思わない。木と庭の主との間の力学が、そこに生じる。一種の緊張関係である。
     *
黒田先生にとって、ヴァンゲリスは1968年からずっと「異相の木」であるわけだ。

Date: 1月 27th, 2012
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏のこと(YouTubeより)

1980年か1981年ごろのものと思われますが、
この時代のことを思うと、これが残っていたことはうまく言葉では表現できないものがあります。
30年ぶりにきく瀬川先生の話──。

YouTubeに、BBCモニターについて語られる瀬川先生の動画が公開されています。

昨年末にYouTubeに公開され、
それを今日、facebookで知りました。

Date: 1月 26th, 2012
Cate: 異相の木

「異相の木」(その4)

ひとつの空間(リスニングルーム)には1組のスピーカーシステム。
複数のスピーカーシステムを鳴らしたいのであれば、スピーカーシステムの数と同じだけの部屋を用意する。
ひとつの空間に複数のスピーカーシステムを置く。

どちらも複数のスピーカーシステムを所有しているわけだが、
それだけでは「異相の木」と呼べるスピーカーシステムがあるわけではない。

1970年代には、ジャズはJBLのスピーカー、クラシックはタンノイのスピーカー、といったことがいわれていたし、
そのころのオーディオ雑誌のリスニングルーム訪問記事をみると、
JBLとタンノイの両方を所有されている人は珍しくなかった。

タンノイとJBLとでは、片方はクラシック向き、もう片方はジャズ向きと当時はいわれていたように、
音の傾向は大きく異っていた。
ならば1970年代当時、タンノイとJBLの両方のスピーカーシステムを使っていれば、
そしてどちらかをメインのスピーカーシステムとしていれば、もう片方は「異相の木」と呼べるのだろうか。

スピーカーの方式にはいくつもある。
コーン型、ホーン型、ドーム型、コンデンサー型、リボン型などがあり、
振動板の材質にしても紙、金属、布、樹脂などいくつもあり、それぞれに物性が違う。

タンノイとJBLでは、どちらもウーファーはコーン型で、中高域はホーン型という共通性があるから、
タンノイ、JBLのところに、たとえばコンデンサー型のスピーカーシステムをもってきたら、
それは異相の木だろうか。

古いスピーカーシステムを愛用してきた人が、最新のスピーカーシステムを加えた。
反対につねに最新のスピーカーシステムばかりを選択してきた人が、古いスピーカーシステムを加えた。
新しいスピーカーシステムと古いスピーカーシステムの両方を所有して鳴らす。
この場合、新しい(古い)スピーカーををメインとすれば、古い(新しい)スピーカーは異相の木なのか。

オーディオにおける「異相の木」はそういうものではないはずだ。

Date: 1月 26th, 2012
Cate: 異相の木

「異相の木」(その3)

ステレオサウンド 56号に掲載されている黒田先生の文章は「庭がある。」からはじまる。
「庭」ということでは、1つの部屋に複数のスピーカーシステムを、
それも2つや3つではなく、10を超える数のスピーカーシステムを置く人がいて、
その人のリスニングルームは、さしずめ「庭」的雰囲気といえなくもない。

こういうオーディオの楽しみ方を、どちらかといえば軽蔑する人がいる。
若いとき、私もそういうところがあった。
いい音を求めようとすれば、他のスピーカーシステムを置くのは間違っている、
そんなふうに思い込んでいたから、これだけのスピーカーシステムを揃えるだけの財力があるのなら、
スピーカーシステム、さらにはこれだけのスピーカーシステムの他にも、
アンプやプレーヤーもそれこそいくつもあるのだから、その数を半分に減らせば、
それぞれのスピーカーシステムにあった部屋を用意できるだろうに……、なぜそうしないのか、と思っていた。

たしかに同じ空間に鳴らさないスピーカーシステムがあれば、
スピーカーシステムは共鳴体、共振体であるのだから、音は確実に変化する。
これはスピーカーシステムに限らない。
リスニングルームにピアノがあれば、スピーカーシステムから出た音がピアノにあたり、
ピアノが振動することで、その共振音、共鳴音をふくめて聴くことになる。

だから、昔、ピアノをうまく鳴らしたければ、部屋にピアノを置くのもひとつの手法だという話をきいた。
ピアノだけではない、チェロが好きならチェロを置いておけば、それもいい楽器であれば、
スピーカーシステムからの音に、同じ空間にある楽器の音がわずかとはいえのることになるのだから、
うまく作用してくれれば、ある種の演出効果も得られよう。

そう考えれば、同じ空間にスピーカーシステムが複数あるのは音を悪くするともいえる反面、
たとえば性格の正反対の音のスピーカーシステムであれば、
それぞれのスピーカーシステムの音が似通ってくる、ということも考えられる。

好きなスピーカーシステムをひとつの空間に置いておくことも、そうやって考えれば、
好きな音、それも少しずつ異っている良さをもつ好きな音がブレンドされた状態でもあるのだから、
オーディオの楽しみ方として、ひとつのやり方だと、いつしか思うようになっていた。

それに好きなモノがつねに視界にある、ということだけでも楽しい。

このオーディオのやり方・楽しみ方だけでは、やはり異相の木がある、とはいえない。

Date: 1月 25th, 2012
Cate: 異相の木

「異相の木」(その2)

ききての、感覚も、精神も、当人が思っているほどには解放されていないし、自由でもない。できるだけなにものにもとらわれずきこうとしているききてでさえ、ききてとしての完全な自由を自分のものにしているわけではない。
     *
ステレオサウンド 56号に、黒田先生が、こう書かれていた文章のタイトルは「異相の木」。
ヴァンゲリスの音楽について書かれている。

つまり黒田先生が「異相の木」として書かれているのは音楽についてである。
「異相の木」はレコードだけにとどまらず、オーディオ機器にもあてはまる。

ここまでのことは、この項の(その1)のくり返しである。
(その1)を書いたのが2008年9月のことだから、3年以上経っているのでくり返した。

オーディオ機器はレコードのコレクションのようにはなかなかいかない。
CD、 LPをふくめてレコードのコレクションは数千枚という人は、いまや珍しくない。
そういう時代になっている。
数万枚という人はさすがに珍しい、凄い、と言われるだろうが、
オーディオ機器のコレクションとなると、
金額的にもスペース的にもレコードのコレクションとは違う困難さがある。

それに同じ空間にスピーカーシステムは1組のみ、鳴らしていないスピーカーシステムが置いてあれば、
その影響によって音が悪くなる、とずっと以前から言われていることで、
部屋には1組のスピーカーシステムのみ、という人もいれば、
欲しい! と思ったスピーカーシステムは買えるのであれば買う。
そしてひとつの空間にすべて並べて置いておく人もいる。

前者の場合、部屋をいくつも所有してそれぞれの部屋に異る傾向のスピーカーシステムを鳴らしていれば、
オーディオ機器における異相の木ということが語れるかもしれない。
とはいえ、そういう人はごく一部の人だけだろう。
部屋がたとえば4つあったとして、それぞれにスピーカーシステムを置いて鳴らす。
ただそれだけでは異相の木があるとはいえない。

オーディオ機器(これはスピーカーシステムと限定してもいい)の異相の木は、それだけでは呼べない。
好きなスピーカーシステムを置いているだけでは不充分である。
異相の木とは、冒頭に引用した黒田先生の文章が語っているように、
ききての感覚、精神を解放することにつながっていくモノであるのだから。

ただ部屋がいくつもありスピーカーシステムがいくつもあって、というだけでは、異相の木がある、とはいえない。

Date: 1月 25th, 2012
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(その12)

とにかくグッと前のめりになって意識を集中していけば、
不思議なことに、ステレオサウンドの試聴室で感じていた山中先生の音のエッセンスと呼べるものが、
より濃密に、より高い次元で鳴っている、と感じられてくる。

このとき鳴っている音、私が聴いている音は、いったいなんなのか。

山中先生の音といえるし、そうでないともいえる。

音を聴かせてもらうことは、その音の持主といっしょに音を聴くということである。
けれど、その音の持主は、その音を実現するためにはひとりで音を聴き、調整し、その音を判断し……、
という行為のくり返しをたゆむことなく行っている。
ときにはオーディオの仲間に聴いてもらったり、家族に聴いてもらったりすることはあっても、
基本的には調整し音を判断するのは、ひとりである。

その音を聴かせてもらうときは、最低でもふたり。ときにはもっと多くなる。
そうなると、その時の音は、その音の持主がひとりで聴いている音とは、まったく同じというわけではない。
リスニングルームの広さや何人で聴くかによって程度の違いはあるものの、ひとりで聴く音とは違ってくる。
バランスを崩してしまうことさえある。
こんなふうに考えていくと、誰かの音を聴かせもらったとしても、
その音の持主がひとりで聴いている音を聴いているわけではない。

では、そこで音の持主にリスニングルームから出てもらって、ひとりで聴かせてもらうことが、
果して、その人の音を聴いた、といえるのであろうか。

私が山中先生のリスニングルームで体験したのと同じように、ひとりで聴いたとしても、
厳密には、物理的には同じにはならない。
人の体格によって音の吸収率はわずかとはいえ違ってくる。
体格差があれば、そのへんのところが微妙に変化しているはずだから、
ふたりで聴くよりはまだいいとはいうものの、それでも細かいことをいえば、
決してその音の持主がひとりで聴いているときの音と同じ条件とならないわけだ。

堂々巡りしてしまう。

Date: 1月 24th, 2012
Cate: 映画

映画「ピアノマニア」(続々・観てきました)

日本ではやっと上映がはじまった「ピアノマニア」だが、
本国ドイツのサイトを観ると、すでにDVDとBLU-RAYが発売されているし、
さらにiTunesStoreにもラインナップされている(ただしいまのところ日本からは購入できない)。
日本語字幕を必要としない方ならば、それにパソコンで観るのであればドイツのAmazonから購入でき観れる。

日本ではいつになるのかわからないけれど、
発売されたら購入してもういちど観て確かめたいところがいくつかある。
それは、音の変化に関して、である。
いくつかは観ていて気がついたが、いくつかはわかりにくいところもあった。
そこうもういちど、ひとりでじっくりと観て聴きたい。

調律師のクニュップファーが、エマールがモーツァルトのピアノ協奏曲の弾き振りのためあるものを発明する。
その発明品の音の効果の表現は、届くか届かないか、であり、これに関してははっきりと違いを聴きとれる。
こういうところを聴いているんだな、ということもわかってくる。
他にもいくつかそういうところがある。その意味では勉強的要素もある映画だ。

それに非常に興味深い、クニュップファーの発言もあった。
低音から高音まで音のバランスが均一であることに神経質なピアニストが弾いた後のピアノは、
より音のバランスが均一に揃っている、という。

Date: 1月 24th, 2012
Cate: 映画

映画「ピアノマニア」(続・観てきました)

上映中に、何度も笑いが起きる。
私も何度か笑っていた。
ただその笑いは、他の観客と同じ笑いでもあったし、苦笑いでもあった。

65席しかないシネマート2の座席は、半分くらいは埋っていた。
このうちの多くは、オーディオマニアではない、と思う。
オーディオマニアなら、苦笑いしかできないところがいくつか出てくる。
それに、オーディオマニアなら苦笑いしたくなるけど、オーディオマニアでない人にはそうではないところもある。

観ていると、設定を少し変えるだけで、「オーディオマニア」という映画になりそうなくらい、
「ピアノマニア」に登場している人たちの、ピアノの音に対する、その追い求め方は、
オーディオマニアとなんら変ることはない。

ピアニストと調律師のやりとり、そこに出てくる音の表現。
オーディオマニア同士のやりとりそのまま、とも感じられる。
クニュップファーがピアノに試すあれこれをみていると、
スピーカーシステムに対するあれこれと完全にダブってくる。
ピアノがスピーカーシステムになれば、同じことをわれわれオーディオマニアはやっている。

オーディオマニアは、「ピアノマニア」を観れば嬉しくなるだろう。
でも、オーディオマニアでない人たちは、どうなんだろうかと思う。

「ピアノマニア」を観れば、ピアニスト、調律師、録音スタッフ。
音楽に関わっている人たちは音に対して、つねに真剣である。

そうやって演奏された・録音されたものを、相応しい態度で聴いているといえるのだろうか。
音に対して真剣でない聴き方をしていることに気がついているのだろうか。
オーディオマニアは音ばかり気にして、音楽を聴いていない、という人がいる。
そんな人も「ピアノマニア」を観ているのかもしれない。そして、何を感じ何を思っているのだろうか。

Date: 1月 24th, 2012
Cate: 映画

映画「ピアノマニア」(観てきました)

東京でも上映しているのは新宿のシネマートのみ。
シネマートはいわゆるシネコンで、スクリーン数は2つ。
シネマート1は席数335、シネマート2は席数65。
ピアノマニア」は、シネマート1と2の両方で上映している。
ただし上映時間によって、シネマート1(10:00と12:05の回)、シネマート2(14:55、19:20の回)となる。
ただしこの上映スケジュールは1月27日までのもで、28日以降については変更の可能性あり。

できれば335席のシネマート1で観たかったのだが、いつまで上映しているのかもはっきりしていないし、
平日の午前中は難しいので、19:20の回を、今日観てきた。

席数65ということから、スクリーンはかなり小さいものと予想していたけど、
実際に劇場に入ると、「小さいなぁ」と思う。うしろの席からも「スクリーン、小さいね」という声がきこえてきた。
あたりまえだが、シネマート1で観るのとシネマート2で観るのと、入場料金は同額。
正直、映画が始まるまでは、やっぱりシネマート1で観たかったなぁ、などと思っていたけれど、
はじまってみると、スクリーンの小ささはさほど、というよりもまったく気にならない。

むしろ映画の内容からすると、あまり大きなスクリーンよりも、
ほどほどのサイズのスクリーンのほうが向いているかも、と思えてきた。

「ピアノマニア」はドキュメンタリーである。
主人公というか主役は、スタインウェイの調律師、シュテファン・クニュップファー。
そして、もうひとりピアニストのピエール=ロラン・エマール。
ほかにアルフレート・ブレンデル、ラン・ランなども登場してくる。

描かれているのはエマールの「フーガの技法」の録音に関することが中心となっている。
エマールの「フーガの技法」のディスクは4年前に出ている。
この「フーガの技法」は、こういう過程を経て録音されたのか、と、
すでにこのディスクを聴いている人ならばより興味深く感じられるはず。
まだ聴いていない人なら、聴いている人も、「ピアノマニア」を観終ったあとは、
エマール、クニュップファーが追い求めていた音をどれだけ再現できているのか、と聴きたくなる、と思う。