Archive for 8月, 2016

Date: 8月 31st, 2016
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(チェックディスクのこと)

アナログディスク全盛の時代から、オーディオチェックディスクと呼ばれるものが、
レコード会社各社から出ていた。
CDになってからも、各社から出ている。

最近思うのは、逆の意味のオーディオチェックディスクが必要なのではないかだ。
たいていのオーディオチェックディスクに収録されているのは、音の良さを誇る録音である。

私が必要かも……、と考えるのは、
間違っている録音手法を収めたディスクである。

別項「耳はふたつある」の(その4)で書いたマイクロフォン・セッティングによる録音。
ワンポイント録音でも、左右のマイクロフォンを水平ではなく斜めもしくは垂直にしたら、
いったいどういう音になるのか。

マルチマイクロフォンで、一本もしくはいくつかのマイクロフォンを逆相にしたら、
いったいどういう変化が現れるのか。

不安定なマイクロフォンをスタンドを使うと、どうなるのか。

他にもいくつかあるが、
とにかくダメな録音の見本といえるディスクを、どこか制作してくれないだろうか。

ワンポイント録音なのに、
マイクロフォンの水平をまったく気にしない人がいるのは、
ダメな録音手法による音を意識的に聴く機会(確認する機会)がないことも関係していよう。

Date: 8月 31st, 2016
Cate: 黄金の組合せ

黄金の組合せ(その25)

1970年代後半におけるJBLのスタジオモニターの人気は、非常に高かった。
いまのJBLの4300シリーズの人気しか知らない世代にとっては、
あの当時の4300シリーズの人気の高さは、信じられないほどであろう。

私も4300シリーズに憧れていた。
4343を筆頭に、4350にも憧れていたし、
以前書いているように現実的な選択としての4301の存在もあった。

ステレオサウンド別冊HI-FI STEREO GUIDEをめくり、
電卓を片手に想像(妄想)していたのは、
おもに4300シリーズの組合せだった。

予算を自分で決めて、その制約の中で、どういう組合せをつくっていくか。
予算に制約がなければ、
それこそ4343にマークレビンソンのアンプ、EMTのプレーヤーという組合せになってしまうが、
買える買えないに関係なく、制約を設けての組合せづくりは、楽しい。
そしてテーマをもうけての組合せも、だ。

4343で制約を設けたら、組合せのバランスをどこか崩すことになる。
どこにするのか。そういうケースでは、次のステップも考えていく。

そうやって4343の組合せだけでも、けっこうな数を考えていた。
そういう私の組合せでなかったのが、マッキントッシュのアンプとの組合せだった。
私にとって、4343とマッキントッシュのC26、C28時代のアンプとの組合せは、
ほとんど関心が持てなかった。

C27、C29以降のマッキントッシュのアンプになって、ようやく聴いてみたいと思っても、
それで組合せをつくっていたかというと、C27だけは選んで、
パワーアンプは他社製のモデルを選ぶという組合せをつくっていた。

当時のマッキントッシュのアンプは、
私が考えているテーマにひっかかってこなかった。
そんな1970年代後半を過ごしていた私にとって意外だったのは、
4300シリーズとマッキントッシュのアンプは黄金の組合せだった──、
これを見かけたときは、え、そうだっけ? と思ってしまった。

Date: 8月 30th, 2016
Cate: prototype

prototype(NS1000X・その1)

別項「耳はふたつある」で引用するために、
ステレオサウンド 32号をひっぱり出している。
32号の特集はチューナー。あまり売れなかったときいている。

チューナーにあまり関心のない人にとって、
32号はそれほどおもしろい号ではないだろうが、その他ではなかなか興味深いところがある。
それは記事だけでなく、広告においてもだ。

ヤマハの広告。
そこに「自在に、理想の形」というキャッチコピーとともに、
NS-1000Xという型番のスピーカーシステムがある。

誰の目にも明らかなようにNS1000Mである。
けれど型番末尾のMではなくXとなっている違い同様、外観にも違いがある。

サランネットはNS1000Xにも装着できないようになっている。
ウーファーの前面に保護用の金属ネットは、NS1000Xにはない。
エンクロージュアも、色は黒だが仕上げが違うように見える。
YAMAHAのロゴも、ない。

これだけの違いなのに、
NS1000MとNS1000Xの印象は、ずいぶんと違う感じとなっている。

NS1000MとNS1000X、
仮にまったく同じ音がしたとしても(実際にはそんなことはありえないのだが)、
NS1000Xのままでは、ベストセラーになっただろうか、と思ってしまう。

NS1000Mのウーファーのネットが、音に影響を与えているのは確認済み。
それでもモノとしての魅力があるのは、NS1000Mの方である。

1000Xから1000Mへの変身は、どういう経緯で行われたのだろうか。

Date: 8月 30th, 2016
Cate: 測定

耳はふたつある(その4)

先日、あるオーディオマニアの方と、けっこう長い時間話していた。
その時、この話をした。

不思議というか、おかしな録音だった、と話したところ、
興味深い答が返ってきた。
マイクロフォンが水平ではなかったんじゃないか、ということだった。

1970年代は生録がブームだった。
生録マニアの中には、オープンリールデッキを持ち運ぶ人もいた。

私は録音の経験はあるけれど、いわゆる生録の経験はない。
そのオーディオマニアの方は、生録の現場にも行かれていた。
そこで目にしたのは、マイクロフォンを水平にしていない人が意外にいた、ということだった。

ステレオのマイクロフォンの場合、
それが一本でステレオ仕様であれ、
マイクロフォンを二本用いる場合であれ、
左右のマイクロフォンは水平になるようにセッティングするのが基本中の基本であるから、
まさかそんな使い方をする人がいるとは想像もしなかった。

けれど現実にはそういう使い方をする人が少なからずいた。
そうやって録音したものを聴いた経験もないから、どういう音になるのか想像し難いが、
確かにあの時聴いたおかしなワンポイント録音には、その可能性もあったのかもしれない。

左チャンネルのマイクロフォンを上に、右チャンネルのマイクロフォンを下に、
というセッティングで録音したら、どういう音(音場)になるのだろうか。
ほぼモノーラルに近い録音になのだろうか。

斜めだったらどういう録音になるのか。
測定だったら、どういう結果になるのだろうか。

マイクロフォンが一本であれば、こういう心配はない。

Date: 8月 30th, 2016
Cate: 測定

耳はふたつある(その3)

メーカーがスピーカーシステムを測定する。
その際、マイクロフォンは一本である。
だからといって、聴き手が自分のリスニングルームで測定をする際に、
マイクロフォンが一本のままでいい──、とどうしてなったのだろうか。

メーカーが測定するのは、あくまでもスピーカーの特性であり、
しかも無響室という、現実のリスニングルームとはかけ離れた環境での測定である。

そこでマイクロフォンが一本だからといって、
残響があり、その残響を含めての音響特性を測定するのに、
なぜマイクロフォンが一本のままだったのだろうか。

リスニングルームでのマイクロフォンが一本の測定が無意味とはいわないが、
なぜ一本のまま来てしまったのだろうか。

耳はふたつある。
ふたつある耳で聴いている。
測定と聴くということは必ずしも同じではないから、
マイクロフォンは一本でいい、ということなのだろうか。

岩崎先生の「カタログに強くなろう」は、40年以上前に書かれている。

ただマイクロフォンを二本にすることによる危惧もないわけではない。
数年前に、あるオーディオマニアが録音したという自主製作のCDを聴いた。
ワンポイントマイクロフォンによるピアノの録音だった。

これが実に不思議な音というか、奇妙な録音だった。
どうすれば、こういう録音ができるのか、と逆に感心したくなるほどだった。

マイクロフォンを設置してそのまま録音しているのだろうから、
いい悪いは別として、もっとまともに録れているはずである。

Date: 8月 30th, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(生演奏とのすり替え実験・その6)

ステレオサウンド 32号「みんなほんとうのステレオを聴いているだろうか?」で、
岡原勝氏が次のことを述べられている。
     *
岡原 理想的なステレオエフェクトを得るには、フィールドを再生しなければならない。それにはリスニングポジションで左右のスピーカーからの音が混ざって初めて、レコーディングで意図されたフィールドが再生されるのです。そこで左右の音が混じらなかったら、左は左、右は右というようになってしまい、フィールドの再現は望めません。
 大きなホールでのレコードコンサートを聴きに行くと、よくそういうことがおこっています。ちょっと体を動かすと左の音しか聴こえない、逆に動くと右の音しか……ということで全然ステレオになっていない。一般家庭では部屋が狭いですから、内部での反射があり、スピーカー自体の指向性が少々狭くても、左右の音が混ざってフィールドが出来ますが、ホールは一般家庭の部屋にくらべ大きさが違いますから、指向性の狭いスピーカーをつかうと、左右の音はほとんど混ざりません。つまりステレオにならない。
瀬川 二つのスピーカーから出た音をステレオで聴くというのは、不特定多数が相手では無理ですね。厳密な意味でのステレオエフェクトは、それほど多人数では聴けないでしょうね。
岡原 以前ビクターが、ホールで生演奏と再生音のスリ替え実験をやった時には、そのことを大変気にしてまして、スピーを数多く用い、中には後ろ向きに置いた反射音専用のスピーカーもあるというような実験をしたわけです。要するに、生演奏と同じフィールドを再現出来ればスリ替えてもごまかせるわけですから、指向性をダルにして、左右の音がうまく混ざるようにすれば、相当な広範囲でも生演奏と同じような音場が出現します。
     *
一般的なリスニングルームよりもずっと広い空間であるホールでの、生演奏とのすり替え実験では、
中央の席の人もいれば、壁に近い端っこの席の人もいるわけで、
それでもすり替え実験を成功させているのは、こういうスピーカー配置があったからこそ、ともいえる。

生演奏とのすり替え実験に成功した再生音が、
家庭のリスニングルームで聴く音として理想的であるのかどうかは検討する必要があるけれど、
あるパラメータを極端にすることで、それまであまり問題とならなかったことが顕在となるし、
再生音とは……、について考えるきっかけ、手がかりを与えてくれる。

Date: 8月 29th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その4)

瀬川先生がいわれていたことを、
David 50、CX100について書いているとどうしても思い出してしまう。

音楽を聴くとき、常に左右のスピーカーから等距離のところ、
つまりセンターで聴いているわけではない、と。
身構えずに音楽を楽しみたいとき、音と対峙するような聴き方をしたくないときは、
オフセンターで聴くこともけっこうある、と。

オーディオで音楽を聴くときは、いつかなるときでも、スピーカー(音)と対峙して聴く──、
そういう人もいるかもしれないが、
音楽に身をまかせるような聴き方もあっていいし、
そういう聴き方をすることはある。

だからといって、何かをしながら音楽を聴くようなことをしているのではない。

ステレオサウンドベ雜「コンポーネントステレオの世界 ’79」でも、書かれている。
     *
 言いかえればそれは、ことさらに身構えずに音楽が楽しめそうだ、という感じである。ミニアンプ(を含む超小型システム)は、誰の目にも、おそらくそう映る。実際に鳴ってくる音は、そうした予感よりもはるかに立派ではあるけれど、しかしすでに大型の音質本位のアンプを聴いているマニアには、視覚的なイメージを別として音だけ聴いてもやはり、これは構えて聴く音ではないことがわかる。そして、どんな凝り性のオーディオ(またはレコード)の愛好家でも、身構えないで何となく身をまかせる音楽や、そういう鳴り方あるいはそういうたたずまいをみせる装置を、心の片隅では求めている。ミニアンプは、オーディオやレコードに入れあげた人間の、そういう部分に訴えかけてくる魅力を持っている。
     *
身構えずに好きな音楽を聴きたい、そう思って聴きはじめる。
聴きはじめのときは、耳の位置は臍より後にある。
けれど聴いているうちに、臍より前にあることだってある。

そういう時、かけているディスクを、
メインのスピーカーを置いている部屋(もしくはシステム)に持っていくのか。

少なくともヴィソニックのDavid 50、B&OのCX100ならば、
耳が臍よりも前にきたとしても、そのまま聴き続けられるだけの良さを持っている。
ここが、単なるサブスピーカー、ミニスピーカーの領域に留まらない

いつのまにか音楽に聴き入ってしまっている自分に気づくこともある。

Date: 8月 29th, 2016
Cate: 測定

耳はふたつある(その2)

マイクロフォンを聴取位置に立てる。
けれど聴取位置とは正確にはどこなのか。
右耳の位置なのか、左耳の位置なのか。
右耳と左耳の中央なのか。

マイクロフォンを使った測定の経験のある人ならば、
マイクロフォンの位置がわずか違っただけでも、測定結果が同じにはならないことを知っている。
それは右耳の位置、左耳の位置の違いでもはっきりと出る。

しかも音は右耳と左耳の両方に入ってくる。
たとえ右側のスピーカーだけで音を出していても、
右側のスピーカーの音は右耳にしか入ってこない、ということは現実にはあり得ない。
右側のスピーカーの音は左耳にも、ほんのわずかな時間差で入ってくる。
左側のスピーカーの音は左耳だけでなく、右耳にも入ってくる。

ということは右側のスピーカーの測定を行う場合、
人が音を聴くのに近づけるには、マイクロフォンを二本使う、ということになる。

マイクロフォンを二本使っての測定は、ずいぶん以前に岩崎先生が述べられている。
週刊FMに連載されていた「カタログに強くなろう」に、こうある。
     *
 前置きが長くなったが、スピーカーの特性を前にすると、アンプと違って山や谷が細かく続き、さらに全体にまたがって大きな起伏がいくつもある。
 これは横の目盛が周波数で、縦の高さがそれに応じた音響出力だ。細かい山や谷は、周波数がわずかずれると出力が大きくなったり、小さくなったりするということを意味する。
 これは簡単な構造のようにみえるスピーカーの振動板が、実は細かい部分部分がそれぞれ別々の動き方をしているため、マイクとスピーカーの距離によってその各部の出力が、相加わったり打ち消し合ったりして、出力が増えて山になり、減って谷ができるわけ。
 ところで、そうした細かい山や谷は、実は耳で聴いたところほとんど気にならない。それは測定上の条件からできる山や谷であるからだ。もしスピーカー前方のマイクの位置を少しずらせば、山や谷のできる周波数もまた少しずれてくる。
 だから人間の耳のように約一六cm離れた二つのマイクで測定してこれを合成すると、山や谷はほとんどなくなって、特別の理由でできた山や谷と、全体の大きな起伏とがはっきりした形となり、それが音の傾向を物語るデータとなる。
     *
マイクロフォンを人間の耳のように離して立てる。
ならばダミーヘッドを使うという手もある。

Date: 8月 28th, 2016
Cate: audio wednesday, 柔と剛

第68回audio sharing例会のお知らせ(柔の追求・その6)

ハイレゾ、ハイレゾと囂しい。
ハイレゾという略語がいいとは思っていないから、よけいにそう思う。

と同時に、高域再生限界を拡げるために、
トゥイーターの振動板には軽くて剛性が高くて内部音速が速い素材が採用される。
ピストニックモーション領域の拡大のためである。

この手法は、いわば剛の追求である。
けれどスピーカーの世界(振動の世界)には、柔の追求もあると、
世紀が代ったころから考えるようになってきた。

柔の追求という視点で、これまでのスピーカー技術をもう一度みていくと、
古くから、剛の追求(ピストニックモーションの追求)とは違う動作方式、
つまり柔の追求からの方式があったことに気づいた。

ATM(ハイルドライバー)、ウォルッシュドライバーも古くからある。マンガーユニットもある。
まだまだ数は少ないし、剛の追求がメインストリームであることに変りはないだろうが、
柔の追求はスピーカーの動作方式だけではないと考えている。

デジタルにおいても、PCMはいわば剛の追求なのではないだろうか。
サンプリング周波数、ビット数をCDの44.1kHz、16ビットから増していくハイレゾは、
ピストニックモーション追求(剛の追求)と同じ性質といえよう。

ハイレゾにはDSDがある。
この方式は、デジタルにおける柔の追求といえるように考えている。

PCMとピストニックモーション。どちらも剛の追求である。
DSDと非ピストニックモーション。どちらも柔の追求である。

聴き手には、選択の自由がある。
PCMと非ピストニックモーション(剛と柔)、
DSDとピストニックモーション(柔と剛)も、現実には聴くことができる。

剛と剛、柔と柔、剛と柔、柔と剛とがあるわけだ。

ハイレゾ、ハイレゾと騒ぐのはいいけれど、
剛の視点、柔の視点、どちらからも捉えていくことを忘れてはならない、と思う。

9月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)。
今回はひさびさにゲストに来ていただく。

無線と実験にATMの記事を発表された渡辺成治氏が来てくださる。
ATMユニットを持参して来てくださる。

Date: 8月 28th, 2016
Cate: 型番

型番について(続々・三つの数字の法則)

SAECのトーンアームの三桁の数字の合計が11となることを、前回書いた。
なぜ11なのかは、11(いい)の当て字ということだが、それだけではないようにも思っている。

SAECの前身は(たしか)ジムテックである。
ジムテックがどういうメーカーだったのかは以前書いていることなので、くり返さない。
このジムテックであったことが、11という数字と関係しているように思う。

アルテックのウーファーといえば、515と416が有名である。
5+1+5=11
4+1+6=11
ここにも合計11がある。

ジムテック時代のスピーカーがどんなものであったのかを知っているならば、
アルテックのことを持ち出したのが、唐突でないことがわかってもらえるはずだ。

SAECが型番を三桁の数字にして、その合計が11になるようにしたのは、
アルテックの515と416と無関係とは思えない。

Date: 8月 27th, 2016
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その6)

モーツァルトのレクィエムとは逆に、
フルトヴェングラーによるマーラーは、第二次大戦後になる。

ナチス時代のドイツでユダヤ人作曲家のマーラーの作品の演奏は不可能だったし、
いかなフルトヴェングラーでも、それを覆すことも不可能だったのだろう。

フルトヴェングラーのマーラーは「さすらう若人の歌」が残されている。
フィッシャー=ディスカウとの演奏・録音である。

ここでのフィッシャー=ディスカウの歌唱は、
人生で一度きりのものといえる──、というのは、これまでに何人もの方が書いている。
その通りの歌唱である。

フィッシャー=ディスカウは何度も、その後「さすらう若人の歌」を録音している。
すべてを聴いてはいないが、フルトヴェングラーとの演奏を超えている、とは言い難い。
歌い手として成熟・円熟していくことが、すべての曲においてよい方向へと作用するわけではないことを、
フィッシャー=ディスカウが27歳のときの歌唱は証明しているように感じられる。

マーラーがユダヤ人でなかったとしたら、
ナチス時代にマーラーの演奏が可能だったとして、
さらにそのときに27歳のフィッシャー=ディスカウがいたとして、
いまわれわれが聴くことができる「さすらう若人の歌」が聴けただろうか……、
となるとそうとはいえないような気がする。

ナチス時代の終焉という戦後になされた「さすらう若人の歌」、
第二次大戦後、一度も演奏されることのなかったモーツァルトのレクィエム。
おそらくレクィエムを聴くことはできないであろう。
ならば想像するしかない。

Date: 8月 27th, 2016
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(結婚にあてはめれば……・その1)

以前、菅野先生にいわれたことを思いだす。
「結婚してもいい、とおもっている相手とは結婚するな。
 結婚したい、とおもっている相手としなさい」
そういうことをいわれた。

結婚してもいいと結婚したいは、根本のところではっきりと違う。
確かにその通りだ、と思って聞いていた。
オーディオ機器を選ぶことも、
スピーカー選びは、いっそう同じことがあてはまる、とも思っていた。

それからほぼ30年。
したいとしてもいいの違いのことを思い出しながらも、
実のところ、最良の伴侶は、したいとおもう人(スピーカー)ではなく、
してもいいとおもう人(スピーカー)の中にいてくれているかもしれない──、
そう考えるようにもなってきた。

したいという気持には思いこみも多分に含まれてもいよう。
結婚したいとおもっている人(スピーカー)と成就できれば、幸せであろう。

結婚生活は続く。
一ヵ月や二ヵ月といった短い時間ではなく、
もっともっもと永い時間を共にすごすうちに、
考えもしない、思いもしないことになることだってあろう。そうならないこともある。
どうなるのかなんてわからない、とも思うようになってきて、
意外にも、してもいいとおもっている相手との方がうまくいくことだって、
充分あり得るだろうとも。

正直、はっりきとしたことはわからない。
どちらがいいとか思っているわけでもない。

どちらであれ自分の元に来てくれる相手と生活を続けていく──、
ということぐらいしかいえない。

Date: 8月 27th, 2016
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その5)

フルトヴェングラーのモーツァルトのレクィエムは、
死ぬまでに聴きたい、と思う。
けれど、いまのところLPでもCDでも出ていない(はずだ)。

五味先生が書かれていた。
     *
 フルトヴェングラーが、ウィーンで『レクィエム』を指揮した古い写真がある。『レクィエム』とは、こうして聴くものか、そう沁々思って見入らずにおられぬいい写真だ。フルトヴェングラーがいいからこの写真も一そうよく見えるにきまっているが、しかしワルターでもトスカニーニでもこの写真の雰囲気は出ないように思う。私はこんなレコードがほしい。(「死と音楽」より)
     *
これを読んでいるから、どうしても聴きたい、と思う。
録音が残っていないのか。

調べるとフルトヴェングラーがレクィエムを指揮したのは、1941年が最後である。
第二次大戦後は一度もレクィエムを指揮していない。

その理由はわからない。

Date: 8月 26th, 2016
Cate: 原器

オーディオ「原器」考(SPUと国産MC型)

オルトフォンのSPUは、鉄芯入りMC型カートリッジの原器といっていい存在である。
日本のMC型カートリッジにも、
SPU型といえるMC型カートリッジがいくつも存在していた。

コーラルの777シリーズ、デンオンのDL103シリーズ、アントレーのEC1、EC10、グレースのf10シリーズ、
ハイレクトの2017、ナカミチのMC1000、スペックスのSD909などがそうだ。
海外モデルではEMTのTSD15がある。

上記の国産MC型カートリッジは、構造によってふたつに分けられる。
コーラル、アントレー、グレースのグループと、
デンオン、ハイレクト、ナカミチ、スペックスのグループとにである。

手元にステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 2がある方は、
これらのカートリッジの内部構造図を比較していただきたい。
すぐに気づかれるであろう。

MC型カートリッジの構造はコイルの後にダンパーがあり、
さらにその後にはポールピースがあり、
ポールピースと向き合うようにマグネットが配置されている。

SPUではマグネットとポールピースは平行の位置関係にある。
カンチレバーはポールピースからまっすぐに出ている。

SPUのカートリッジ本体をGシェル(もしくはAシェル)から取り出してみると、
マグネットが斜めになっている。
そのため通常のヘッドシェルにSPUの本体を取り付けるためにはスペーサーが必要になる。
以前はオーディオクラフト、フィデリティ・リサーチからSPU用のスペーサーが発売されていた。

つまりトラッキングアングルの分だけSPUの本体は角度をつけて専用シェルに取り付けられている。
国産MC型のコーラル、アントレー、グレースのグループは、
SPUと同じで、ポールピースとマグネットが平行関係にある。

これだとカートリッジの内部でなんからのスペーサーを必要とする。
ならばポールピースとマグネットを平行の位置関係にせずに、
ポールピースをトラッキングアングルの分だけ傾けてしまえば合理的ともいえる。
デンオン、ハイレクト、ナカミチ、スペックスのグループが、これにあたる。

どちらが構造として優れているのだろうか。
SPU型ではない他のMC型カートリッジをみると、
ポールピースとマグネットが平行の位置関係であるモノが多い。

ちなみに構造をみれば、
ナカミチのカートリッジを製造していたのはスペックスだとわかる。

Date: 8月 25th, 2016
Cate: 型番

JBLの型番(D130)

JBLの最初の製品は、15インチ口径のD101である。
101は、最初の製品だから、ということなのだろう。納得がいく。

次に登場したのはD175である。
型番の数字が意味するのは、ダイアフラムの口径(1.75インチ)である。
納得できる。

なんとも不思議というか、なっとく出来ないのがD130である。
D101がアルテックの515に似ていた。
このこと以外にもアルテックの機嫌を損ねるようなことがあった。

D130は、そういう背景のもとに誕生したユニットであり、
このユニットこそがJBLの名声を一挙に高めていく。
けれど、なぜD130なのだろうか。
D102ではないのだろうか。

番号が飛びすぎている感がある。
なぜ130なのか、と以前から思っていた。

今日ふと気がついたのだが、JBLのB。
これを分解すると1と3になる。
もしかすると、そんなところから130という数字が生れたのかもしれない。

まぁ、こじつけである。
でも1946年、創立時の名称はJBLではなく、
Lansing Sound Incorporatedである。

アルテックからのクレームにより、
James B. Lansing Sound Inc.となる。

ここで加わったBが、13へと変化していった……。
それにしても、なぜ130なのだろうか。