Archive for category Claudio Abbado

Date: 1月 5th, 2023
Cate: Claudio Abbado

Abbado 90(その3)

クラウディオ・アバドは、こういう演奏(指揮)もできるのか──、
という意味で、驚いたのはポリーニとのバルトークのピアノ協奏曲であり、
ベルクの「ヴォツェック」である。

いまも、ポリーニとのバルトークのピアノ協奏曲を初めて聴いた時の驚きは、
はっきりと思い出せる。そのくらい凄い演奏と感じたものだった。

あの時代に、この二人が、あの年齢だったからこそ可能だった演奏なのだろうが、
それにしても、思い出していま聴いても、やはり凄いと感じる。

アバドは、こういう演奏(指揮)もできる──、
そうわかって聴いても驚いたのが、「ヴォツェック」だった。

アバドの「ヴォツェック」が登場したころは、
世評高いベーム、ブーレーズのほかに、ドホナーニ、ミトロプーロスぐらいしかなかった、と記憶している。

ミトロプーロス盤が1951年、ベーム盤が1965年、ブーレーズ盤が1966年、
ドホナーニ盤が1979年録音だった。
すべてアナログ録音であり、そこにデジタル録音のアバド盤が登場した。

「ヴォツェック」を積極的に聴いてきたわけではなかった。
ベーム盤を聴いたことがあるくらいだった。
「ヴォツェック」の聴き方が、自分のなかにあったとはいえないところに、
アバドの「ヴォツェック」である。

このときの衝撃は、バルトークのピアノ協奏曲も大きかった。
そういえばバルトークのピアノ協奏曲もそうだった。
自分のなかに、バルトークのピアノ協奏曲についての聴き方が、
ほぼないといっていい状態での衝撃だった。

Date: 12月 20th, 2022
Cate: Claudio Abbado

Abbado 90(その2)

気にはなっていたものの、ステレオサウンドの試聴で初めて聴いたのだから、
それまではクラウディオ・アバドの聴き手ではなかったわけで、
マーラーの第一番を聴いても、熱心な聴き手になったわけでもなかった。

それでもアバドの演奏(録音)は、気になる作品が出ればわりと聴いてきた、と思っている。
思っているだけで、アバドの夥しい録音量からすれば、わずかとかいえないのだが、
それでもアバドが残した演奏(録音)のなかで、いくつかは愛聴盤といえるものがあるし、
ことあるごとに聴いているレコード(録音物)もある。

シカゴ交響楽団とのマーラーの一番に続いて、
ステレオサウンドの試聴ディスクとなったアバドのディスクは、
ベルリオーズの幻想交響曲である。

マーラーの一番は、サウンドコニサーの試聴だけだったが、
幻想交響曲は、いくつかの試聴で使われたから、
聴いた回数はマーラーの一番よりもずっと多い。

マーラーの一番はLPだった。
幻想交響曲は最初はLPで途中からCDにかわった、と記憶している。

マーラーの一番は買わなかったけれど、幻想交響曲はLPを購入した。
シーメンスのコアキシャル・ユニットを、
平面バッフル(1.8m×0.9m)に取りつけて聴いていた時期だ。

ステレオサウンドの試聴室で聴いて、
その音が耳に残っているうちに帰宅してからも幻想交響曲を聴いていた。

アバドの残した録音で、回数的(部分的であっても)には、
幻想交響曲をいちばん聴いているといえるが、だからといって、
アバドの幻想交響曲が愛聴盤というわけではない。

愛聴盤は他にある。
ベルクの「ヴォツェック」だったり、シューベルトのミサ曲、
ポリーニとのバルトークのピアノ協奏曲などがそうである。

Date: 12月 19th, 2022
Cate: Claudio Abbado

Abbado 90(その1)

来年(2023年)は、クラウディオ・アバド生誕90年ということで、
ドイツ・グラモフォン&デッカ録音全集が発売になる。

CD237枚、DVD8枚組で、来年2月中旬ごろの発売予定。
通常価格は12万円を超えている。

ドイツ・グラモフォン、デッカからこういうCDボックスが出るということは、
EMI録音も、ワーナーから出てくると思われる。

アバドは、いったいどれだけの録音を残しているのか。
そうとうな数としかいいようがないけれど、私はそのうちのどれだけを聴いているのか。

私がアバドということを意識して聴いた最初のレコード(録音物)は、
シカゴ交響楽団を指揮してのマーラーの交響曲第一番だった。

1982年、ステレオサウンドの別冊サウンドコニサー(Sound Connoisseur)での試聴においてだった。
つまり、それまでは気になる指揮者ではあったものの、
他に聴きたい演奏家が大勢いて、ついついアバドに関してはあとまわしにしていた。

そんな時に聴いたアバドの演奏は、なんと生真面目な演奏なのだろうか、と、
その徹底ぶりにそうとうに刺戟を受けた。

Date: 3月 16th, 2020
Cate: Claudio Abbado, ベートーヴェン

ベートーヴェン(交響曲第三番・その3)

先週、二日ほどアバドとシカゴ交響楽団によるベルリオーズの幻想交響曲を、
それこそくり返し聴いていた。

モバイルバッテリーでいろいろ試すためのディスクとして、
このディスクを選んだからである。

アバドの幻想は、ステレオサウンドで、当時試聴ディスクだったから、
試聴室ではCDでよく聴いていたし、
自宅ではLPで、飽きずに聴いていたものだ。

幻想交響曲に、特に思い入れはないから、
くり返し聴くのがわかっていたからの選曲である。

とはいっても、アバドの幻想交響曲を聴くのは、そのころ以来である。
三十年は優に経っている。

それだけの長いあいだ聴いていなくても、
第一楽章が鳴ってくると、おもしろいもので、そうだった、と思い出す。

試聴でよく聴いていたのは、いうまでもなく第四楽章であり、
第五楽章もけっこう聴いていた。

第一楽章から最後まで通して聴いたのは、数えるくらいしかない。
アバドの幻想を愛聴盤としている人からすれば、ひどい聴き方と誹られよう。

そんな聴き方ではあったが、
モバイルバッテリーのあれこれを試したあとは、通しで聴いた。

聴き終って、
アバドとウィーンフィルハーモニーとによるベートーヴェンの三番を無性に聴きたくなった。

Date: 11月 27th, 2014
Cate: Claudio Abbado

アバドのこと(ジャケット買い)

その8)で書いたアバドとアルゲリッチの写真。
この素敵な写真をジャケットにした、ふたりのピアノ協奏曲集がリリースされる。

アバドとアルゲリッチによるピアノ協奏曲のレコードのすべては持っていないけれど、
今回発売されるCD(5枚組)ではいくつかがダブることになる。
それでも、あの写真を使っているだけで、いわゆるジャケット買いをしそうになる。

iPhoneのロック画面はこの写真にしているので、毎日数回は見ている。
それでもこうやってCDになれば、それだけで欲しくなっている。

Date: 2月 4th, 2014
Cate: Claudio Abbado

アバドのこと(その8)

アバドが、フルトヴェングラー/スカラ座の「ニーベルングの指環」のことを話したのか、
その前後に関してはまったく忘れてしまっている。

私にとって、このときのアバドのインタヴュー記事で、
このことがとても意外であり、だからこそいまも憶えている。

アバドもいつかはワーグナーを録音するだろうな、
どういうワーグナーになるんだろうか、
そんなことをぼんやりと想像していたところに、
フルトヴェングラーの「ニーベルングの指環」に熱狂している、という、
いわばアバドの告白のように感じられた、この発言は、だから意外だったのだ。

フルトヴェングラーの「ニーベルングの指環」に熱狂しているからといって、
アバドが「指環」を録音することになっても、同じような演奏をするとは思えない。

アバドが亡くなったのを知った時に、
アバドとアルゲリッチがピアノをはさんで坐っている写真を見つけた。
Googleで画像検索すれば、すぐに見つかる。

1970年代に撮られたであろう、この写真のふたりは若い。
そして、この写真は青を基調としている。
そのことが、この時代の、若いふたりの雰囲気にぴったりとあっている。

アバドは、そういう演奏をしてきた人である。
それにフルトヴェングラーの「指環」について語っていた記事を読んだのは、1980年代だったはず。

そういうアバドと、フルトヴェングラーのスカラ座との「指環」がうまく結びつかなかった。

Date: 1月 28th, 2014
Cate: Claudio Abbado

アバドのこと(その7)

1989年に、オーチャードホールが開館した。
こけら落しは「バイロイト音楽祭日本公演」だった。

この「バイロイト音楽祭」でブーイングがあった、ときいている。
なぜブーイングをしたのか、その理由を何かで読んだ。

「フルトヴェングラーの演奏と違うから」ブーイングをした、ということだった。
この人は、フルトヴェングラーの「ニーベルングの指環」をかなりの回数聴いていて、
それは記憶してしまうほどで、フルトヴェングラーの「指環」こそが「指環」であるから、
それと違うのは認められない──、
そうとうに極端な聴き方であり、意見(主張)でもあった。

記事には、確かフルトヴェングラーの「指環」を聴いた回数も書いてあった、と記憶している。
その回数を見て、この人はどれだけの時間を音楽を聴くことに費やしているのかと、
そして、その費やした時間のうち、フルトヴェングラーの「指環」以外を聴く時間はどのくらいなのか、
そんなことを考えてしまうほどの回数だったことは、はっきりと憶えている。

世の中にはいろんな人がいる──、
これで片付けられるといえばそうなのかもしれないけれど、
この記事を読みながら、この人は、フルトヴェングラーの「指環」は、
RAIローマ交響楽団の方ではなく、
きっとミラノ・スカラ座の方を何度も何度もくり返し聴いたのだろうな、と思っていた。

フルトヴェングラー/ミラノ・スカラ座による「ニーベルングの指環」は、そういうレコードである。
アバドが熱狂したのも、このミラノ・スカラ座との「ニーベルングの指環」である。

Date: 1月 28th, 2014
Cate: Claudio Abbado

アバドのこと(その6)

フルトヴェングラーとミラノ・スカラ座による「ニーベルングの指環」は、
イタリア・チェトラから、ステレオ録音で発売される、ということで、話題になった。

発売(輸入)されてみると、モノーラル録音だった。
なぜチェトラはステレオ録音だと発表したのだろうか。
もしかすると、ほんとうはステレオ録音だったのかもしれない。
けれど、なんらかの事情によりモノーラルでの発売になったのかもしれない……。

このフルトヴェングラーの「指環」は私も買った。
立派なボックスにおさめられていた。かなり無理して買ったものだった。

ステレオ録音ということがアナウンスされていたくらいだから、
モノーラルとはいえ、かなりいい録音なのではないか、とも期待していた。

演奏はすごい、けれど、音は……だった。

フルトヴェングラーの「ニーベルングの指環」全曲盤は、
RAIローマ交響楽団を指揮しての、コンサート型式のライヴ録音がある。

レコードとしてみれば、RAIローマ交響楽団のほうが、いわゆるレコードとしてのキズが少ない、といえる。
ミラノ・スカラ座のほうは、レコードとしてのキズが多い、といえる。
けれど、どちらをとるかといえば、私はミラノ・スカラ座のほうである。

ミラノ・スカラ座との「ニーベルングの指環」は、ほんとうにすごい。

Date: 1月 23rd, 2014
Cate: Claudio Abbado

アバドのこと(その5)

何で読んだのかは忘れてしまっているが、
たしか黒田先生が、アバドの「幻想」には、
「幻想」が作曲された時代におけるベルリオーズの前衛性がはっきりと浮び上っている──、
そんなことを書かれていたことを、いま思い出している。

アバドの「幻想」のそういう面は、ミュンシュの「幻想」と比較することで、よりはっきりとしてくる。
そうなるとふたつのディスクのジャケットの違い、
アバドの「幻想」にベルリオーズが大きく描かれていることにも、
あのジャケットのデザインが優れているかどうかは別として、納得できることになる。

その意味では、アバドは、作品(曲)に対して、いくぶん距離をとる指揮者といえるところはある。

こんなことを考えていたら、そういえばアバドのディスコグラフィにワーグナーがあまりないことに気づく。

アバドは積極的にレコーディングを行なった指揮者であろうに、
またオペラも数多く振っているにも関わらず、ワーグナーはローエングリンの全曲盤の他に、
ベルリンフィルハーモニーの芸術監督の退任直前に録音したディスクがあるくらいか。

アバドにとって、ワーグナーはどうだったんだろう、と思う。

これも何で読んだのかは忘れてしまっているし、
ずいぶん以前に読んだもので、
フルトヴェングラーがミラノ・スカラ座を振った「ニーベルングの指環」を、
アバドが絶賛していたことを思い出しているところだ。

Date: 1月 22nd, 2014
Cate: Claudio Abbado

アバドのこと(その4)

広島の「平和の鐘」の音色について、岡先生は、
「明るく澄んでいて、いかにもアバド好みでもある」と書かれている。

この一節があらわしているようにアバドの「幻想」には、
日本でも評価の高いミュンシュ/パリ管弦楽団の演奏に感じられる激情さ、熱気といったものは、
感じられない。
それだけにアバドの「幻想」は精緻であるともいえよう。

そのことはジャケットのイラストにもあらわれている。
ミュンシュ/パリ管弦楽団のイラストは、どう説明したらいいのか迷ってしまう。
「ミュンシュ 幻想」で検索すれば、ジャケットはすぐに見られるので、そちらをご覧いただきたい。

アバド/シカゴ交響楽団に使われているイラストは、ベルリオーズの胸像であり、
はっきりいえばあまりいいジャケット・デザインとは思えない。

「幻想」の名演ディスクということになれば、ミュンシュ盤を支持する人が多いかもしれない。
たしかにミュンシュ盤には凄味があり、
その凄味はアバド盤には稀薄でもあるが、録音の進歩もあいまって新鮮さがあるともいえる。

もしミュンシュ盤が、アバド盤と同程度の録音クォリティだったとしても、
試聴用ディスクとしてはアバド盤が選ばれると思う。

試聴用ディスクは同じ箇所を何度も何度もくり返し聴く。
10回、20回ではない。アバドの「幻想」に関しては、ほんとうに多かった。

これがミュンシュ盤だったら、そうとうにヘヴィーな試聴になったであろうからだ。

Date: 1月 22nd, 2014
Cate: Claudio Abbado

アバドのこと(その3)

アバド/シカゴ交響楽団とによるマーラーの第一交響曲は、ステレオサウンドの試聴室でよく聴いた。
といっても、それはあくまでもステレオサウンド別冊Sound Connoisseurでの試聴において、であった。

他の試聴の時にアバドのマーラーの第一交響曲を使ったことはなかった。

ステレオサウンドの試聴室でもっとも多く聴いたアバドのディスクといえば、
ベルリオーズの幻想交響曲である。
1984年にドイツ・グラモフォンから出ている。

ステレオサウンド 71号の巻頭対談(菅野沖彦・山中敬三)でも、
「アバドの『幻想』をきっかけにコンサートフィデリティについて考える」と題して、
このアバドの「幻想」がとりあげられている。

同じ号の岡先生のクラシック・ベスト・レコードも、最初に取り上げられているのは、
このアバドの「幻想」である。

岡先生の原稿に詳しいが、
このアバドの「幻想」はシカゴ交響楽団の本拠地のオーケストラホールで録音されている。

シカゴ交響楽団といえば、この当時デッカでのショルティによる録音が多かったけれど、
こちらはオーケストラホールがデッドすぎるということで、
メデナテンプルやイリノイ大学のクレナートセンターを使っている。

ドイツ・グラモフォンの録音スタッフは、オーケストラホールの客席全面に板を敷きつめ、
音の反響をよくするとともに、PZM(Pressure Zone Microphone)を、
メインマイクの他にバルコニーの先端におくことで、全体のバランス、パースペクティヴを、
できるだけ自然な感じにするとともに、細部の明瞭度も保つための工夫がなされている。

そして、終楽章での鐘に、広島の「平和の鐘」が使われていることも話題になっていた。

とにかくアバドの「幻想」は、よく聴いた。いったい何度聴いたのだろうか。

Date: 1月 21st, 2014
Cate: Claudio Abbado

アバドのこと(その2)

KAJIMOTOのサイトに「マエストロ・クラウディオ・アバドの訃報に寄せて」に、
これまでのアバドの来日公演の記録がある。

1987年にウィーンフィルハーモニーと来たアバドは、
翌88年にヨーロッパ室内管弦楽団と来ている。

このときの話を黒田先生から聞いている。
ウィーンフィルハーモニーとの公演はチケットもすぐに売切れで、当日の会場も満員だった、とのこと。
ヨーロッパ室内管弦楽団との公演においては、空席のほうが多かった、そうだ。

この話をされているとき、黒田先生の表情には怒りがあったように感じていた。

私はどちらの公演にも行っていないけれど、
黒田先生によればヨーロッパ室内管弦楽団との公演も素晴らしかったらしい。

素晴らしい、と同じ言葉で表現しても、
ウィーンフィルハーモニーとの素晴らしいとヨーロッパ室内管弦楽団との素晴らしい、とには、
共通する素晴らしさもあればそうでない素晴らしさもある。
比較するようなことではない。

その素晴らしいヨーロッパ室内管弦楽団の公演に空席が目立っていたことに、
コンサートのチケットを購入する人たちが、何を目安にしているのか。
そのことに怒りを持たれていたようだった。

いまではどうなんだろう、アバドの知名度はクラシックに関心のない人でも知っているのだろうか。
カラヤンの名前は、いわば誰でも知っている。
聴いたことがなくても、カラヤンの名前だけは知っている人はいても、
アバドとなると、当時はどうだったのか。

ウィーンフィルハーモニーの名前も、
クラシックに関心のない人にとっては、カラヤンの名前と同じなのだろう。

1980年代、そういう人たちにとってカラヤンとアバドの知名度、
ウィーンフィルハーモニーとヨーロッパ室内管弦楽団の知名度の差だけで、
チケットの売行きに差が大きく出ただけのことで、
そこでの演奏が劣っているわけではなかった。

だが現実にはヨーロッパ室内管弦楽団とアバドの公演では空席が多かった。

このことを思い出していた。
そして黒田先生なら、アバドのことをどう書かれるんだろう……、とおもっていた。

Date: 1月 21st, 2014
Cate: Claudio Abbado

アバドのこと(その1)

昨日の午後から、facebookとtwitterに表示されていたのは、アバドが亡くなったことだった。

バーンスタインが亡くなったことをテレビのニュースで知った時、
それは膝の骨折のリハビリで通っていた病院のテレビだったのだが、ほんとうにショックだった。
バーンスタインで聴きたい(録音してほしい)曲がいくつもあった。

ジュリーニが亡くなったこともショックだった。
すでに引退していたとはいえ、喪失感は大きかった。

アバドが亡くなったことをfacebookやtwitterといったSNSで知ると、
亡くなったという事実に、フォローしている人がどう感じているのかも、一緒に知ることになる。

テレビ、ラジオ、新聞などで人の死を知ることと、ここが微妙なところで違っていると感じる。

アバド、亡くなったんだ……。
大きなショックはなかった。

アバドは多くの録音を残している。
すべてを聴いてきたわけではないし、これから先すべてを聴いていこうとは思っていないけれど、
以前書いたようにベートーヴェンの第三交響曲でのこともあるし、
ステレオサウンドの試聴室で何度も聴いたマーラーの第一交響曲が、頭に浮ぶ。

これだけではない。シカゴ交響楽団とのマーラーは、いま聴いても輝きを失っていない。
シューベルトのミサ曲は、CDを買ったばかりの菅野先生のリスニングルームで聴いている。

ポリーニとのバルトークのピアノ協奏曲の再生にある時期夢中になったこともある。
ベルクの「ヴォツェック」は、それまでベームの、世評の高い演奏を聴いてもピンと来なかったけれど、
アバドの演奏(CD)で聴いて、この曲のおもしろさと美しさを感じることができた。

まだまだあるけれど、すべてを書こうとは思っていない。
これからもアバドのディスクは聴きつづけていくのが、ある。

バーンスタインの時と私にとって違うのは、
アバドに、これを録音してほしい、という個人的な思い入れがなかった、というだけである。
なぜなんだろう、とぼんやり思っていた。

それに黒田先生はなんと書かれるんだろう、ともおもっていた。

Date: 1月 3rd, 2012
Cate: Claudio Abbado, ベートーヴェン

ベートーヴェン(交響曲第三番・その2)

ほんとうに、この曲は傑作だ、と思えた瞬間だった。
アバド/ウィーンフィルハーモニーの演奏によって、心からそう感じることができた。

それからはそれまで買って聴いていたディスクをひっぱり出して、ふたたび聴きはじめていた。
フルトヴェングラー/ウィーンフィルハーモニーの演奏に圧倒された。
五味先生が「フルトヴェングラーで聴いてはじめて、〝英雄〟を知ったようにおもうのだ」
と書かれたことが実感できたのは、私にとってはアバド/ウィーンフィルハーモニーの演奏があったからである。

アバド/ウィーンフィルハーモニーのディスクがもし登場していなかったら、
登場していたとしても、アバドのベートーヴェンなんて、という思い込みから手にとることさえしなかったら、
ベートーヴェンの交響曲第三番の素晴らしさに気づかずに20代を終えていたかもしれないと思うと、
なんといったらいいのか、或る意味、ぞっとする。

アバド/ウィーンフィルハーモニーの交響曲第三番は、これだけでは終っていない。
このディスクを聴いてしばらくしたったときの朝。
ステレオサウンドに通うために、このころは西荻窪に住んでいたので荻窪駅で下車して丸ノ内線に乗り換えていた。
電車が荻窪駅に停車する寸前、ドアの前に立っていた私の頭の中に、
ベートーヴェンの交響曲第三番の第一楽章が鳴り響いた。

こんな経験ははじめてだった。
いきなり、わっ、という感動におそわれた。もうすこしで涙がこぼれそうになるくらいに。
なぜか、その演奏がアバド/ウィーンフィルハーモニーのものだ、とわかった。

だからというわけでもないが、私はアバド/ウィーンフィルハーモニーの第三番には恩に近いものを感じている。

Date: 1月 3rd, 2012
Cate: Claudio Abbado, ベートーヴェン

ベートーヴェン(交響曲第三番・その1)

ベートーヴェンの交響曲第三番は、ベートーヴェン自身のそれ以前の交響曲、第一番と第二番だけでなく、
他の作曲家によるそれ以前の交響曲とも、なにか別ものの交響曲としての違いがあるのは、
頭では理解できていても、実を言うと、なかなか第三番に感激・感動というところまではいけなかった時期があった。

世評の高いフルトヴェングラー/ウィーンフィルハーモニーによるレコードは、もちろん買って聴いた。
他にもカラヤン/ベルリンフィルハーモニー、トスカニーニ/NBC交響楽団、
ワルター/コロンビア交響楽団なども買って聴いた。

五味先生は「オーディオ巡礼」の所収の「ベートーヴェン《第九交響曲》」の冒頭に書かれている。
     *
ベートーヴェンでなければ夜も日も明けぬ時期が私にはあった。交響曲第三番〝英雄〟にもっとも感激した中学四年生時分で、〝英雄〟は、ベートーヴェン自身でも言っているが、〝第九〟が出るまでは、彼の最高のシンフォニーだったので、〝田園〟や〝第七〟、更には〝運命〟より作品としては素晴しいと中学生でおもっていたとは、わりあい、まっとうな鑑賞の仕方をしていたなと今はおもう。それでも、好きだったその〝英雄〟の第二楽章アダージォを、戦後、フルトヴェングラーのLHMV盤で聴くまでこの〝葬送行進曲〟が湛えている悲劇性に私は気づかなかった。フルトヴェングラーで聴いてはじめて、〝英雄〟を私は知ったようにおもうのだ。
     *
そのフルトヴェングラーの演奏でも、〝英雄〟の素晴らしさをうまく感じとれない、ということは、
ベートーヴェンの聴き手として、なにか決定的に足りないところが私にあるんだろうか、
このまま、この先ずっと交響曲第三番に感動することはないまま生きていくのだろうか、
と不安にちかいものを感じていたことが、20代前半にあった。

それでも交響曲第三番の新譜が出れば、買っていた。
1985年録音のアバド/ウィーンフィルハーモニーのCDも、そうやって購入した一枚だった。
クリムトのベートーヴェン・フリーズがジャケットに使われたディスクだ。
アバド/シカゴ交響楽団のマーラーは聴いていたけれど、正直、アバドのベートーヴェンにはさほど期待はなかった。

CDプレーヤーのトレイにディスクを置いて鳴らしはじめたときも、
ながら聴きに近いような聴き方をしていたように記憶している。
なのに鳴り始めたとほぼ同時に、
いきなり胸ぐらをつかまれて、ぐっとスピーカーに耳を近づけられたような感じがした。
目の前がいきなり拓(展)けた感じもした。
このとき、ベートーヴェンの交響曲第三番に目覚めた感じだった。