アバドのこと(その1)
昨日の午後から、facebookとtwitterに表示されていたのは、アバドが亡くなったことだった。
バーンスタインが亡くなったことをテレビのニュースで知った時、
それは膝の骨折のリハビリで通っていた病院のテレビだったのだが、ほんとうにショックだった。
バーンスタインで聴きたい(録音してほしい)曲がいくつもあった。
ジュリーニが亡くなったこともショックだった。
すでに引退していたとはいえ、喪失感は大きかった。
アバドが亡くなったことをfacebookやtwitterといったSNSで知ると、
亡くなったという事実に、フォローしている人がどう感じているのかも、一緒に知ることになる。
テレビ、ラジオ、新聞などで人の死を知ることと、ここが微妙なところで違っていると感じる。
アバド、亡くなったんだ……。
大きなショックはなかった。
アバドは多くの録音を残している。
すべてを聴いてきたわけではないし、これから先すべてを聴いていこうとは思っていないけれど、
以前書いたようにベートーヴェンの第三交響曲でのこともあるし、
ステレオサウンドの試聴室で何度も聴いたマーラーの第一交響曲が、頭に浮ぶ。
これだけではない。シカゴ交響楽団とのマーラーは、いま聴いても輝きを失っていない。
シューベルトのミサ曲は、CDを買ったばかりの菅野先生のリスニングルームで聴いている。
ポリーニとのバルトークのピアノ協奏曲の再生にある時期夢中になったこともある。
ベルクの「ヴォツェック」は、それまでベームの、世評の高い演奏を聴いてもピンと来なかったけれど、
アバドの演奏(CD)で聴いて、この曲のおもしろさと美しさを感じることができた。
まだまだあるけれど、すべてを書こうとは思っていない。
これからもアバドのディスクは聴きつづけていくのが、ある。
バーンスタインの時と私にとって違うのは、
アバドに、これを録音してほしい、という個人的な思い入れがなかった、というだけである。
なぜなんだろう、とぼんやり思っていた。
それに黒田先生はなんと書かれるんだろう、ともおもっていた。