Archive for 6月, 2016

Date: 6月 30th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その10)

こうやって書いていくと、
そういえばあれもそういうことだったのか、と憶い出すことが出てくる。

ステレオサウンド 54号の特集。
「いまいちばんいいスピーカーを選ぶ・最新の45機種テスト」の冒頭に、
黒田恭一、菅野沖彦、瀬川冬樹、三氏の座談会が載っている。
試聴のあとの総論と、いくつかのスピーカーを具体的に挙げて話されている。
その中での菅野先生の発言を引用しておく。
     *
菅野 特に私が使ったレコードの、シェリングとヘブラーによるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタは、ヘブラーのピアノがスピーカーによって全然違って聴こえた。だいたいヘブラーという人はダメなピアニスト的な要素が強いのですが(笑い)、下手なお嬢様芸に毛の生えた程度のピアノにしか聴こえないスピーカーと、非常に優美に歌って素晴らしく鳴るスピーカーとがありました。そして日本のスピーカーは、概して下手なピアニストに聴こえましたね。ひどいのは、本当におさらい会じゃないかと思うようなピアノの鳴り方をしたスピーカーがあった。バランスとか、解像力、力に対する対応というようなもの以前というか、以外というか、音楽の響かせ方、歌わせ方に、何か根本的な違いがあるような気がします。
     *
シェリングとヘブラーによるモーツァルトのヴァイリオン・ソナタのレコード。
ここに刻まれている情報(あえてこう書いている)を、あますところなく鳴らせたとしたら……。
その結果、ヘブラーのピアノが、下手なお嬢様芸に毛の生えた程度にしか鳴らなかったら、
そういうものだと受けとめてしまうのか。

菅野先生は、バランスとか、解像力、力に対する対応がきちんとしていたとしても、
それだけでヘブラーのピアノが優美に歌うわけではない、というふうに語られている。

ヘブラーというピアニストは、その程度だよ、といってしまうのは簡単である。
けれど、少なくともヘンリック・シェリングと組んで演奏し、録音を残している。

シェリングは、ヘブラーとは違いダメなヴァオリニスト的な要素が強い演奏家では決してない。
そのシェリングと組んでいるだから、
ヘブラーのピアノは、非常に優美に歌って素晴らしく鳴ってくるべきともいえる。

そのためにスピーカーに要求されるのは、
音楽の響かせ方、歌わせ方であり、
ここのところにヘブラーのピアノの鳴らし方の根本的な違いがあるような気がする、とされている。

このヘブラーと同じような経験が、私にとっては(その6)に書いたことである。
また別の経験もしている。
別項「AAとGGに通底するもの(その6)」を中心に、そのときのことを書いている。
グールドは、ヘブラーとは違うタイプのピアニストであり、
ダメなピアニスト的な要素はまったくないにも関わらず、そういうふうに鳴ってしまったのを聴いている。

ステレオサウンド 54号でのヘブラーと、私が経験したグールドとでは、
いくつかのことが違っていて、必ずしもまったく同じこととはいえないし、
音楽的感銘、音楽の響かせ方、歌わせ方、それに音楽性といったことは曖昧な表現である。

そんな曖昧な表現で何がわかるのか、という人は、
測定データを提示しろ、と言いがちだ。
だが、測定データで何がわかるのか、といいたい。

そして「測定データ……」という人には、レコード再生はかろうじてできたとしても、
レコード演奏はまず無理だといっておく。

Date: 6月 29th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その9)

五味先生の「五味オーディオ教室」から始まっている私のオーディオにおいて、
瀬川先生の再生アプローチは、
五味先生の再生アプローチと同じである、と感じていた。

「五味オーディオ教室」にこう書いてある。
すでに三回引用しているが、やはりもう一度書いておく。
     *
 EMTのプレーヤーで再生する音を聴いて、あらためてこのことに私は気づいた。以前にもEMTのカートリッジを、オルトフォンやサテンや、ノイマンのトランスに接続して聴いた。同じカートリッジが、そのたびに異なる音の響かせ方をした。国産品の悪口を言いたくはないが、トランス一つでも国産の“音づくり”は未だしだった。
 ところが、EMTのプレーヤーに内蔵されたイクォライザーによる音を聴いてアッと思ったわけだ。わかりやすく言うなら、昔の蓄音機の音がしたのである。最新のステレオ盤が。
 いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
 私の家のスピーカー・エンクロージァやアンプのせいもあろうかとは思うが、とにかく同じアンプ、同じスピーカーで鳴らしても人数は増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉しなみに再生するのを意味するのだろうが、レンジはのびていないのだ。近ごろオーディオ批評家の言う意味ではハイ・ファイ的でないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードをかけたおもしろさはシュアーに劣る。
 そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。あまりそれがあざやかなのでチクオンキ的と私は言ったのだが、つまりは、「音楽として美しく」鳴らすのこそは、オーディオの唯一無二のあり方ではなかったか? そう反省して、あらためてEMTに私は感心した。
 極言すれば、レンジなどくそくらえ!
     *
周波数レンジもセパレーションもシュアーに及ばないEMTなのに、
コーラスのレコードをかけると、三十人の合唱が五十人に聴こえる、ということは、
どちらの再生が録音に対して、より正確かといえば、おそらくシュアーだったかもしれない。
EMTで三十人が五十人に聴こえる、ということは、
つまりはEMTによる味つけ、色づけといった演出の結果であろう。

でも、それが「音楽として」「美しく」鳴らしてくれるのであれば、
どちらをとるのか。

私の答は、はっきりしている。
改めて、オーディオは極道、音楽は修道。
このことが、ここに書かれていたと実感している。

Date: 6月 29th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その8)

瀬川先生が「いま、いい音のアンプがほしい」に書かれていたことに通じていくことは、
ステレオサウンド 45号にも書かれている。

45号は前号から続いてのスピーカーシステムの総テストで、
KEFのModel 105の試聴記に、
《かなり真面目な作り方なので、組合せの方で例えばEMTとかマークレビンソン等のように艶や味つけをしてやらないと、おもしろみに欠ける傾向がある。》
と書かれている。

ここにも《ゾクゾク、ワクワクするような魅力》を求められていることがあらわれている。
KEFのModel 105は、私も好きなスピーカーのひとつである。
瀬川先生の試聴記にもあるように、
《そこに手を伸ばせば触れることができるのではないかと錯覚させるほど確かに定位する》。

熊本のオーディオ店に来られたとき、
瀬川先生が調整されたModel 105を、そのワンポイントで聴くことができた。
かけてくださったのはバルバラのレコードだった。

バルバラが、まさにスピーカーの中央にいると錯覚できるほどの鳴り方だった。
瀬川先生が45号の試聴記に書かれていることが、よくわかる。

そこにEMTやマークレビンソンを組み合わせて、
《艶や味つけをして》ということは、
それだけEMT、マークレビンソンはそういう性格を強く持ち合わせているということでもあり、
これが瀬川先生の再生アプローチであり、組合せの考えであると、私は受けとっていた。

同時に試聴記は、単なる試聴記に留まっていては、
それはオーディオ評論家の仕事ではない、ということも感じていた。

Date: 6月 29th, 2016
Cate: 公開対談/例会

第66回audio sharing例会のお知らせ(今年前半をふりかえって)

7月のaudio sharing例会は、6日(水曜日)です。

昨日のブログにも書いているように、
電話で約二時間、オーディオについて語り合っていた。

今年のaudio sharing例会は、音出しをメインに行っている。
音出しは楽しい。
けれどオーディオの楽しさは、語り合うことにもあるんだ、ということを、
電話で話しながら、改めて感じていた。

一方的にオーディオのことを話すのではなく、語り合うことの楽しさ。
今回は音出しのことも含めて、語り合える場にできれば、と思っている。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 6月 28th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(評論とブームをめぐって・その1)

昨晩、二時間ほど電話で話していた。
ほとんどがオーディオのことである。

あることについてたずねられたから、
以前書いたことと同じことを話した。
彼は同意してくれた。

わかってくれるだろうと思って話したことだし、すぐにわかってくれた。
彼は私より少し上の世代で、
相当にオーディオにのめり込んできているから、
オーディオが、いわば輝いていた時代を知っている。

だからこそ、彼ならば、すぐにわかってくれるだろうという予感があった。

昨晩話したことは「オーディオ評論をどう読むか(その2)」で書いていることだ。

輝いている、という表現をする。
けれど、その表現の裏には、その人・モノ・ことが光を発して輝いていいるのか、
誰か・何かの光を反射して輝いているのかがある。

つまり太陽と月との関係と同じである。
太陽ばかりの世界がいいとはいわないが、
月が自らを太陽と勘違いしてもらっては困る、とは思っている。
だから、別項で書いたようなことが起る、といえる。

何も人ばかりではない。
オーディオ雑誌もそうだ。
ステレオサウンドはある時期、輝いていた、といえる。
その輝きは、なぜあったのか。

そのことを考えている人は、編集部にいるのだろうか、とさえ思う。

ブームといわれる現象もそうだと思う。
ブームとは、ある種の輝きと捉えれば、
その輝きが何によってもたらされているのかを見極めれば、
繰り返しやって来るブームであっても、違いがはっきりとしてくる。

Date: 6月 27th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その7)

レコード(録音物)の再生における音楽的感銘とは、
いったいどこに存在しているのか。

このことを考えるとき決って思い出すのが、
瀬川先生の、この文章である。
     *
 ただ、SG520の持っている独特の色気のようなものがなかった。その意味では、音の作り方はマランツに近い──というより、JBLとマランツの中間ぐらいのところで、それをぐんと新しくしたらレヴィンソンの音になる、そんな印象だった。
 そのことは、あとになってレヴィンソンに会って、話を聞いて、納得した。彼はマランツに心酔し、マランツを越えるアンプを作りたかったと語った。その彼は若く、当時はとても純粋だった(近ごろ少し経営者ふうになってきてしまったが)。レヴィンソンが、初めて来日した折に彼に会ったM氏という精神科の医師が、このままで行くと彼は発狂しかねない人間だ、と私に語ったことが印象に残っている。たしかにその当時のレヴィンソンは、音に狂い、アンプ作りに狂い、そうした狂気に近い鋭敏な感覚のみが嗅ぎ分け、聴き分け、そして仕上げたという感じが、LNP2からも聴きとれた。そういう感じがまた私には魅力として聴こえたのにちがいない。
 そうであっても、若い鋭敏な聴感の作り出す音には、人生の深みや豊かさがもう一歩欠けている。その後のレヴィンソンのアンプの足跡を聴けばわかることだが、彼は結局発狂せずに、むしろ歳を重ねてやや練達の経営者の才能をあらわしはじめたようで、その意味でレヴィンソンのアンプの音には、狂気すれすれのきわどい音が影をひそめ、代って、ML7Lに代表されるような、欠落感のない、いわば物理特性完璧型の音に近づきはじめた。かつてのマランツの音を今日的に再現しはじめたのがレヴィンソンの意図の一端であってみれば、それは当然の帰結なのかもしれないが、しかし一方、私のように、どこか一歩踏み外しかけた微妙なバランスポイントに魅力を感じとるタイプの人間にとってみれば、全き完成に近づくことは、聴き手として安心できる反面、ゾクゾク、ワクワクするような魅力の薄れることが、何となくものたりない。いや、ゾクゾク、ワクワクは、録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワクは蘇る筈だ──という理屈はたしかにある。そうである筈だ、と自分に言い聞かせてみてもなお、しかし私はアンプに限らず、オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたいのだ。
 結局のところそれは、前述したように、音の質感やバランスを徹底的に追い込んでおいた上で、どこかほんの一ヵ所、絶妙に踏み外して作ることのできたときにのみ、聴くことのできる魅力、であるのかもしれず、そうだとしたら、いまのレヴィンソンはむろんのこと、現在の国産アンプメーカーの多くの、徹底的に物理特性を追い込んでゆく作り方を主流とする今後のアンプの音に、それが果して望めるものかどうか──。
 だがあえて言いたい。今のままのアンプの作り方を延長してゆけば、やがて各社のアンプの音は、もっと似てしまう。そうなったときに、あえて、このアンプでなくては、と人に選ばせるためには、アンプの音はいかにあるべきか。そう考えてみると、そこに、音で苦労し人生で苦労したヴェテランの鋭い感覚でのみ作り出すことのできる、ある絶妙の味わいこそ、必要なのではないかと思われる。
     *
1981年夏、ステレオサウンド別冊の巻頭からの引用だ。

《ゾクゾク、ワクワク》を音楽的感銘と捉えれば、
(音楽的感銘は)録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、
それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワク(音楽的感銘)は蘇る筈だ、
ということになる。確かにこれは理屈だ。正しい理屈のように思える。

そう思っている人も多いのではないだろうか。
そうだとしたら、音楽的感銘をできる限りそこなわないように再生するのが、
正しい鳴らし方ということになる。

けれど瀬川先生がそうであるように、
《オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたい》
という人もいる。
それがどういうことであるのかは自覚している。
瀬川先生も書かれている。
《結局のところそれは、前述したように、音の質感やバランスを徹底的に追い込んでおいた上で、どこかほんの一ヵ所、絶妙に踏み外して作ることのできたときにのみ、聴くことのできる魅力、であるのかもしれず》と。

それを音楽的感銘といっていいものかどうか。
それはオーディオ的感銘ではないか、という人もいるはず。

けれどオーディオを介在させることで、
音楽的感銘をより高めようというする再生アプローチが、
瀬川先生の《レコードを演奏》するであったのだと、私は思っているし、
私自身がめざしているのも、そこである。

Date: 6月 27th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その6)

レコード演奏とは、レコード(録音物)を再生することである。
LPにしろCDにしろ、その他のメディアにしても、
演奏する、といっても、ただ再生しているだけではないか、という反論は以前からある。

レコード演奏、レコード演奏家という表現は菅野先生が提案されているが、
実はそれ以前にも「レコードを演奏する」という表現は瀬川先生によって使われていた。

瀬川先生にとっては、レコードをかける、という行為は、演奏する、ということだったわけだ。

瀬川先生、菅野先生のようにはっきりと言葉にしなくとも、
そういう意識でレコードをかけている人はいるはずだ。

こんな経験をしたことがある。
ある人のリスニングルームで、グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲を聴いた。
グールドのディスクをかける、ということは音が鳴ってくる前からわかっていた。
それでも、鳴ってきた音は、まるでおそまつなテクニックのピアニストのようだった。

ゆったりしたテンポの変奏の場合がそうだった。
音がとぎれとぎれに聴こえてくる。
速いテンポで弾けないから、遅いテンポで弾いている。
そんな感じのする演奏になってしまっていた。

そこには深遠さは、すっかり霧散していた。
どうしてこういう演奏に堕してしまうのか、と思わず言ってしまいたくなるほどだった。

その人のシステムは、かなりのモノを組み合わせていた。
調整も熱心にやられていたように思われた。
オーディオへの思い入れも強いようだった。

それでも……、だった。
そこにグレン・グールドによるゴールドベルグ変奏曲の音楽的感銘はなかった。

オーディオは時として、こういうふうに音楽的感銘を著しくそこなうことがある。

Date: 6月 26th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その5)

「五味オーディオ教室」でオーディオにのめり込んでいった私にとって、
五味先生がリスニングルームに来て下さる日を夢見ていた。

その日が何年後かもっと先のことになるのか、
まったく見当つかなかったけれど、その日を夢見てオーディオに精進していこう──、
そう思い始めていたころ、1980年に五味先生が亡くなられた。

五味先生に会えなかった……、
そのショックも大きかった。
五味先生にききたいことは山ほどあった。
いまもある。

けれどもうきくことはできない。何もきけなかった。
だから自分で考えていくしかない。
このブログを書いているのも、だからである。

これでよかったのかもしれない。
と思うとともに、この行為は極めようとしているのか、
修めようとしているのか、どちらなのか。
両方なのだろうか。

Date: 6月 26th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その4)

わたしは、自分が録音したものを、完了したあとでは、それこそめったに聴きませんね。わたしの耳はまずい点を拾いあげようとして、やっきになるだけでしょうから。わたしが、自分で過去においてやったものを、全面的に肯定したとするならば、それまでの間に、わたしは何にも学んだものがないということになります。音楽の生活には、〝良い〟という単語は存在しないのです。
(ステレオサウンド 57号「続・レコードのある部屋」より)

ここでの「わたし」とはカルロ・マリア・ジュリーニである。
これを読んで、カルロ・マリア・ジュリーニも極道だと思った。
いうまでもなく、いい意味での極道であり、
この「極道」のあとには、どの字をもってくるか。

極道者ではなく、極道家としたい。
カルロ・マリア・ジュリーニは、静かなる極道家であり、
演奏する側の音楽家は、そうでない演奏者もいるように感じることもあるが、
その意味では音楽を極めようとするはずだ。

では音楽の聴き手側もまた、聴き方を極めようとしているのかもしれない。
そうであれば、音楽の演奏家だけでなく、聴き手側も極道者といえるのか、となると、
やはり音楽の聴き手側は修道である、と思う。

だが、ここで聴き手側であっても、
オーディオマニアという、より積極的に音楽を聴こうとしている者はどうなのか。

レコード演奏家ということばがある。
オーディオマニアみながレコード演奏家とはいわない。

オーディオマニアであってもレコード演奏という考えかたに否定的な人もいる。
けれどレコード演奏という考えかたに肯定的であり、
レコード演奏家たらんとしているオーディオマニア、
音を良くしていくという行為は、そのためのものという意識をもっている聴き手は、
そこで極めようとしている、と断言できる。

そうなると「オーディオは極道、音楽は修道」ということになり、
facebookにもらった川崎先生のコメントのままに行き着く。

ここまで来て、演奏家もまた極道であり修道であることに気づく。
修道が感じられない演奏があるように思うのだ。
そして五味先生がポリーニのベートーヴェンに激怒された理由は、
ここにあるような気もしている。

Date: 6月 26th, 2016
Cate: オーディオのプロフェッショナル

モノづくりとオーディオのプロフェッショナル(その9)

メーカーとしての機能について書くためにあれこれ考えていたところに、
イギリスのEUからの離脱のニュース。

今後どういうふうになっていくのか私にはわからないことが多過ぎる。
そのことについて付焼刃の知識で書いていこうとは思っていない。
でもイギリスのオーディオメーカーに与える影響については、ちょっとだけ書ける。

オーディオメーカーとはいえ、すべてを内製しているわけではない。
たとえばスピーカーユニットは自社工場で生産していても、
エンクロージュアは木工技術が優れている他社にまかせているところもある。

その他社がイギリスにあるならばまだいいだろうが(間接的影響はあるはずだ)、
EU圏内の他国にあったとしたら、少なからぬ影響(直接的影響)が出てくるはずだ。

EUに加盟していれば、他国にあっても同じEU圏内であったため、
いわゆる国内生産と大きく違う面はなかったはずだ。
物理的な距離が遠いくらいだろうか。

けれどEUを離脱すれば、イギリスにとっては他国は他国である。
そのままの生産体制を維持すれば、価格に跳ね返ってくるだろうし、
生産体制をかえて、イギリス国内に代るメーカーを見つけたとしても、
まったく同じクォリティのモノがつくれるのかということ、
国が違えば人件費などのコストも違ってくるだろうから、
必ずしも同程度のコストで製造できるとは限らないはずだ。

ローコストのモノではなく、
ハイエンドオーディオと呼ばれるクラスのモノをつくっているメーカーの中には、
生産体制の見直しが迫られることになるところが確実にある。

生産体制を変えたとする。
すると、これはEU離脱前に製造されたモノだから、離脱後製造のモノよりも優れているとか、
反対に離脱後製造だから、こちらのほうが優れているとか、
そんなことが流布されていくのかもしれない。

イギリスのEU離脱が、メーカーとしての機能、
それだけでなくメーカーとしての性能にもどう影響を与えていくのか。
何かをもたらすのだろうか。
うっかりすれば見逃すような変化が、これからは起ってくるような気がする。

Date: 6月 25th, 2016
Cate:

オーディオと青の関係(その10)

アバドとアルゲリッチがピアノをはさんで坐っている写真。
検索すれば、すぐに見つかる写真。
2014年11月にドイツ・グラモフォンから発売になった、
このふたりによるピアノ協奏曲集のジャケットにも使われているから、
目にされた方も少なくないはず。

青を基調とした、この写真に写っているアバドとアルゲリッチは若い。
1970年代に撮影されたものであろう。

私は、この写真をiPhoneのロック画面にしているから、
一日のうちけっこうな回数見ているけれど、いまのところ他の写真に変えようとは思っていない。
もう一年半ぐらい、この写真のまま使っている。

アルゲリッチは1941年、アバドは1933年生れであるから、
1971年ごろだとしたらアルゲリッチは30、アバドは38ということになる。
もう少し後のことだとしてもアルゲリッチは30代だし、アバドも40前半ごろといえる。

老いを意識しはじめている年齢ではないはずだ。

日本では青は、未熟、若い色として使われることがある。
青臭い、青二才、青女房、青侍、それに青春がある。

写真のふたりはまだまだ若い、といえる。
いまのアルゲリッチの姿、亡くなる前のアバドの姿を知っているだけに、
まだまだ若いではなく、素直に若い、と感じる。
だから青が似合う。よけいにそう思えるけど、このふたりに未熟さは感じない。

だから、この写真の「青」は、何かと何かの狭間にある色のように感じることがある。

Date: 6月 25th, 2016
Cate: Carlo Maria Giulini

実現しなかったモノ・コト(その1)

黒田先生は、ヴェルディ「椿姫」における理想のヴィオレッタは、
全盛期のマリア・カラスであったと思われる、と何かか書かれていた。
そうだ、と多くの人が同意されると思う。私もそうだと思う。

でも、マリア・カラスがヴィオレッタを歌ったディスクは、いくつかの注文をつけたくなる。
それは録音も含めて問題があるように感じるからである。

いまもカルロス・クライバーの「椿姫」の評価は高い。
1976年から77年にかけての録音であるから、もう40年前のことになってしまう。
けれど、ヴィオレッタに起用されたコトルバスに心底満足している聴き手は、どのくらいいるのだろうか。

ケチをつける、というほどではないにしても、
マリア・カラスを最高のヴィオレッタと思っている聴き手は、
口にすることはないけれど、何か思うところがあるはずだ。

このカルロス・クライバーの「椿姫」は、
もしかするとカルロ・マリア・ジュリーニの指揮になっていたかもしれない。

以前のステレオサウンドには三浦淳史誌の連載があった。
57号掲載の「続・レコードのある部屋」の大見出しはこうだった。

ジュリーニをオペラに呼び戻した《リゴレット》の録音
ライラック/カルショーの遺言

書き出しのところを引用しておく。
     *
 カルロ・マリア・ジュリーニは、十年間、オペラ録音のためのスタジオに入ったことがなかった。歌劇場も同様である。ジュターにがさいごにふったオペラ全曲盤は、EMIのために録音した《ドン・カルロ》だった。彼が盗用したプラシード・ドミンゴとルッジェーロ・ライモンディは、彼らのキャリアをはじめたばかりだった。その後、ジュリーニはオペラをふる気にならなかった。あわやふりそうな気配は二回ほど見せたが、実現しなかった。
 七年前、EMIはジュリーニのために《トロヴァトーレ》を企画したが、ジュリーニは会社がそろえてきた。キャストのうち、一人の歌手をどうしてもアクセプトできなかった。EMIは歌手の入れ替えをしなかったのか、それとも、できなかったのか、ジュリーニの意向を迎えなかったので、ジュリーニは会釈して出ていった。二回目の機会は一九七六年に起こった。DGはカルロス・クライバーの指揮で《ラ・トラヴィアータ》(俗称「椿姫」)を録音する体制をととのえた。クライバーは急病のため指揮をとれないことになった。DGのプロデューサー、ギュンター・プレーストは、ミラノにジュリーニを訪ね、引き受けてくれるよう懇望した。ジュリーニは二十四時間考えたのち、ことわった。理由は、自分が望んでいるやり方で、このオペラを準備するには、時間がなさすぎるというのである。クライバーが回復して、録音は予定通り行なわれた。
 ジュリーニの拒絶反応が反射的なものでないことを知ったプレーストは、ジュリーニにふさわしいオペラと、ジュリーニのアクセプトするキャストを揃えれば゛オペラ録音にカム・バックする可能性はあると、ふんだ。
 次のプレースト談は『ザ・タイムズ』紙の特派員に語った言葉である。
「私は、カルロの夫人のマルチェッラが『主人はもう少しで《トラヴィアータ》の提案に同意するところだったですよ』と話してくれた事実によって、ひじょうに励まされたのです。私共にとってありがたいもう一つのファクターは、ジュリーニの新しい手兵であるロス・アンジェルス・フィルハーモニック(LAP)とオペラをやるという話し合いが出たことでした。ジュリーニはすでにLAPの総支配人アーネスト・フライシュマンと《ファルスタッフ》をふることを話し合っていたのです。
     *
まだまだ続くし、まだまだ引用しておきたいが、このへんにしておく。

ジュリーニが《ラ・トラヴィアータ》の録音をことわった理由のこまかなことはわからない。
ジュリーニはスカラ座を指揮して、マリア・カラスのヴィオレッタによるライヴ録音を残している。

もしジュリーニが録音していたら、クライバーの「椿姫」はなかった可能性が強い。
それでもジュリーニの録音が実現していたら……、と思ってしまう。

Date: 6月 25th, 2016
Cate: 名器

ヴィンテージとなっていくモノ(その4)

何をもってして、ヴィンテージというのか。
これを考えていると、なかなか答が出なかった。
これといった定義が見つけられなかった。

ヴィンテージ(vintage)の意味は辞書を引けば載っている。
けれど、英単語としての意味ではなく、
オーディオにおけるヴィンテージとはどういうことなのか、
もしくはヴィンテージオーディオとは、どういうものなのか。

だから一度ステレオサウンドの特集で、
一流品(41号)やState of the Art(49号、50号、53号……)などを開いては、
そこに登場するオーディオ機器をパッと見ては、
これはヴィンテージと呼べる、これは呼べない、これは保留。
そんなふうに続けざまに見ていった。

定義づけがはっきりとしないままで、
むしろそんなことを考えずに、とにかく見て感じたままで、そんな振分けをした。

やっていて気づいたことは、
私がヴィンテージとして選んだモノは、オーディオの古典といえるものばかりであった。

名器と呼べるモノと重なってはいるけれど、
私の中では名器と古典は少し違ってくるところがある。
その意味では、名器をヴィンテージと捉えているわけではないことを確認したともいえる。

アンプでいえば、マランツのModel 7はヴィンテージである(私にとっては、である)。
Model 2、Model 9もヴィンテージといえる。
マッキントッシュのC22、MC275もそうだ。

ではJBLのSA600、SG520、SE400Sはどうかというと、保留だった。
私の中では、これらのアンプは名器として位置づけられている。
けれどヴィンテージかというと、ヴィンテージだ、とすぐさまそう思えたわけではないし、
だからといってヴィンテージではない、とすぐに感じたわけでもなかった。

この三機種の中では、SA600はヴィンテージに近い気もするし、
別の視点から捉えようとすればSG520の方が近いのではないか……、という気もしてくる。

パワーアンプのSE400Sこそ、回路的に見れば古典といえるわけだし、
ならばヴィンテージかというと、必ずしもそうは感じない。

Date: 6月 24th, 2016
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(その7)

ステレオサウンド 57号の表紙はハーマンカードンのCitation XXだった。
マッティ・オタラのインタヴュー記事の最後に、
(編注=ハーマン・カードンXXの詳細については次号に掲載予定です)とあった。

58号の表紙はスレッショルドのパワーアンプSTASIS 1だった。
新製品紹介のページに、Citation XXは登場していなかった。
ということは次号(59号)か、と思った。

59号の表紙はJBLの4345だった。
この号でもCitation XXの姿はなかった。

Citation XXが新製品紹介のページに登場したのは60号だった。
長島先生が書かれている。
カラーで4ページ割かれている。
写真をみるかぎり、57号の表紙との違いはない。
にもかかわらず、ここまで発売がずれこんだのは最終的なチューニングのためであろう。

Citation XXの製造は日本の新白砂電気が行っている。
回路設計はマッティ・オタラで、Citation XXの開発がスタートして以来、
日本とフィンランドを幾度となく往復して二年有余の歳月が費やされた、との説明文がある。

井上先生が何度かステレオサウンドに書かれているように、
Citation XXはネジの締付けトルクを管理した初めてのアンプでもある。

60号の記事には、Citation XXのブロックダイアグラムが載っている。
入力信号はまずINFRASONIC、ULTRASONIC、ふたつのフィルター回路に入る。
フロントパネルのボタンでON/OFFできるようになっているだけでなく、
フィルターを必要とする状況では、それぞれのインジケーターが赤色に点灯するようになっている。

INFRASONICは1Hz以下の周波数を6dBでカットしている。
ULTRASONICは100kHz以上を、2次のベッセル型でカットしている。
記事を読んだ当時は気づかなかったけれど、
ここでベッセル型を採用しているところが、マッティ・オタラらしい、といまは思う。

INFRASONIC、ULTRASONICのあとは500kHz以上をカットするフィルターが設けられている。
こちらはON/OFF機能はない。

ステレオサウンド 57号のインタヴュー記事は、テクニカルノートという連載記事のひとつである。
57号では、この他に、松下電器産業の藤井喬氏によるテクニクスのリニアフィードバック回路の記事、
日本ビクターの藤原伸夫氏によるピュアNFBについての記事もある。

藤原氏が、次のように述べられている。
     *
藤原 TIM歪というのは、アンプ内の立ち上りのスピードと入力の立ち上りのスピードとの間にある関係があり、アンプ内部での立ち上りよりも速い信号に対しては歪みが出るけれども、それ以下の信号だとゼロになってしまう特徴があるのです。私どものTIM歪判断の基準として、たとえば入力に100kHzの高域をカットするフィルターを入れた状態で、立ち上り無限大の理想的な矩形波を入れる。立ち上り無限大の矩形波は、100kHzのフィルターを通すと、立ち上りがある程度なまるわけですが、実際の音楽信号でこのような無限大の立ち上りをもつ進行は存在しません。実際に音楽のレベルなどをいろいろ検討しても、100kHzのフィルターというのは、音楽信号の立ち上りに対するマージンをとったとしても十分すぎるマージンがあるので、TIM歪みに対しては100kHzのフィルターを入力に入れれば対処できるのではないかという考えが多いようです。ですから、現存するどんなアンプでも無限大の立ち上りの信号を入れれば、すべてTIM歪的なものが出てきてしまいますので、入力フィルターをいくらにとるかということが一つの基準のようになっているのです。
 私どもでは、入力に100kHzのフィルターを入れていますので、音楽信号に対してはTIM非済みゼロであると宣言しています。
     *
ここでも100kHzのフィルターが登場している。

Date: 6月 24th, 2016
Cate: 「本」

「聴覚の心理学」

先日「聴覚の心理学」という本を手に入れた。
共立出版株式会社の現代心理学体系の一冊であり、昭和32年(1957年)に出版されている。

私が手に入れたのは昭和39年の初版第三刷。
ずいぶん前の本であり、しかも注文伝票(しおり状のもの)がついたままなのだから、
どこかの書店に売れずに残ったものだったのかもしれない。

著者は黒木総一郎氏。
奥付の著者紹介には、こう書いてある。
     *
大正3年神戸市に生る。
昭和12年東京大学文学部心理学科卒業後、同大学文学部副手、助手、嘱託を歴任、その間東京市立聾学校、陸軍航空通信学校嘱託などを兼任。
戦後外務省嘱託、相模女子大講師などを経て、昭和25年日本放送協会に入り、現在同協会技術研究所音響効果研究室主任。なお昭和25年夏から一年余米国に留学、アイオワ大学およびハーヴァード大学大学院学生として、またMIT電子工学研究所客員として音響心理学を専攻した。
     *
ほとんど忘れかけていた本である。
この本のことを知ったのは、ラジオ技術の別冊に武末数馬氏が書かれていたからだ。
そのころ手に入れようといくつか古書店を探しても見つからなかった。
それでいつしか忘れかけていた。

それをたまたま思い出して(といっても書籍名だけである)、検索してみた。
うろ覚えに近かったけれど、インターネットは便利になったと、こういうときに感じる。
筆者名もすぐに出てくる。そしてインターネットで注文した。

読み終えたわけではないから、目次だけを書き写しておく。

第1章 聴覚刺戟の性質
 第1節 音波
 第2節 音の波形
 第3節 音響スペクトル
 第4節 周波数の測定
 第5節 音の強さ
 第6節 デシベル
第2章 聴覚の生理学
 第1節 耳と聴覚
 第2節 外耳
 第3節 中耳
 第4節 内耳
 第5節 聴神経
 第6節 聴覚中枢
 第7節 聴覚異常
第3章 音の心理物理学
 第1節 音ときこえ
 第2節 可聴範囲
 第3節 マスキング
 第4節 弁別限
 第5節 音の周波数と高さ
 第6節 音の強さと高さ
 第7節 両耳効果と音の定位
 第8節 音の変化の知覚
 第9節 音色の知覚
第4章 音のない世界 ──ろうと難聴──
 第1節 聴力とは
 第2節 各種聴力検査法の比較
 第3節 純音聴力検査
 第4節 骨導聴力の検査
 第5節 語音聴力の検査
 第6節 各種聴力検査と補聴器
 第7節 年齢と聴力
 第8節 騒音と聴力
第5章 音だけの世界
 第1節 聴覚と通信
 第2節 言葉の伝送
 第3節 音楽の伝送
 第4節 Hi-Fiの問題

 附録1 オージオメーター(規格)
 附録2 指示騒音計(規格)
 附録3 簡易騒音計(規格)
 附録4 デシベル換算表

これを見て興味を持つ人もいれば、まったく持たない人もいよう。