どちらなのか(その4)
わたしは、自分が録音したものを、完了したあとでは、それこそめったに聴きませんね。わたしの耳はまずい点を拾いあげようとして、やっきになるだけでしょうから。わたしが、自分で過去においてやったものを、全面的に肯定したとするならば、それまでの間に、わたしは何にも学んだものがないということになります。音楽の生活には、〝良い〟という単語は存在しないのです。
(ステレオサウンド 57号「続・レコードのある部屋」より)
ここでの「わたし」とはカルロ・マリア・ジュリーニである。
これを読んで、カルロ・マリア・ジュリーニも極道だと思った。
いうまでもなく、いい意味での極道であり、
この「極道」のあとには、どの字をもってくるか。
極道者ではなく、極道家としたい。
カルロ・マリア・ジュリーニは、静かなる極道家であり、
演奏する側の音楽家は、そうでない演奏者もいるように感じることもあるが、
その意味では音楽を極めようとするはずだ。
では音楽の聴き手側もまた、聴き方を極めようとしているのかもしれない。
そうであれば、音楽の演奏家だけでなく、聴き手側も極道者といえるのか、となると、
やはり音楽の聴き手側は修道である、と思う。
だが、ここで聴き手側であっても、
オーディオマニアという、より積極的に音楽を聴こうとしている者はどうなのか。
レコード演奏家ということばがある。
オーディオマニアみながレコード演奏家とはいわない。
オーディオマニアであってもレコード演奏という考えかたに否定的な人もいる。
けれどレコード演奏という考えかたに肯定的であり、
レコード演奏家たらんとしているオーディオマニア、
音を良くしていくという行為は、そのためのものという意識をもっている聴き手は、
そこで極めようとしている、と断言できる。
そうなると「オーディオは極道、音楽は修道」ということになり、
facebookにもらった川崎先生のコメントのままに行き着く。
ここまで来て、演奏家もまた極道であり修道であることに気づく。
修道が感じられない演奏があるように思うのだ。
そして五味先生がポリーニのベートーヴェンに激怒された理由は、
ここにあるような気もしている。