Archive for 2月, 2019

Date: 2月 28th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その54)

オーディオの想像力の欠如した耳は、ただただオーディオを消費・消耗させていくだけ。

Date: 2月 28th, 2019
Cate:

「大人の音」

「大人の音」というのは、Moto NAVIという雑誌の、
2019年4月号、特集記事のタイトルである。

Moto NAVIのことは今回初めて知った。
たまたま入った書店で目に入ってきたのが「大人の音」という文字だった。

Moto NAVIという雑誌名を見て、「大人の音」が何を意味しているのかはすぐにわかった。
バイクにまつわる音の特集である。

手にとってパラパラとページをめくって、
バイクの世界は「大人の音」が特集として組めるほどに、まだまだ健在なのに対し、
オーディオの世界はスピーカーから出てくる音ではなく、
オーディオにまつわる音としての「大人の音」は、なくなりつつある。

コントロールアンプのスイッチ、ボリュウムなどが電子スイッチ化され、
パワーアンプの電源スイッチもそうなりつつあるだけに、
オーディオ機器の操作にまつわる音は減っているだけでなく、楽しめる要素ではなくなりつつある。

寂しくなってきた、と感じる人、
特に何も感じない人、
どちらもいることだろう。

Date: 2月 28th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その53)

オーディオの想像力の欠如した耳は、客観的でないだけでなく主観的でもない。

Date: 2月 28th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その52)

オーディオの想像力の欠如した耳ほど、白黒つけたがる。

Date: 2月 28th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その51)

オーディオの想像力の欠如した耳は、「遊び心」を持っていないし、持てない。

Date: 2月 27th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その50)

オーディオの想像力の欠如した耳には、音への愛、音楽への愛はない。

Date: 2月 27th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その49)

オーディオの想像力の欠如した耳は、音楽の美を感じとれない(聴きとれない)耳のことだ。

Date: 2月 27th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その48)

オーディオの想像力の欠如した耳は、音の美を感じとれない(聴きとれない)耳のことだ。

Date: 2月 27th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その47)

オーディオの想像力の欠如した耳は、音ありき、ということすら忘れてしまうようだ。

Date: 2月 27th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その46)

オーディオの想像力の欠如した耳は、情報量、情報量とバカのひとつ憶えのようにくり返すだけ。

Date: 2月 27th, 2019
Cate: audio wednesday

第98回audio wednesdayのお知らせ(新月のaudio wednesday)

3月のaudio wednesdayは6日。
3月の新月は7日、1時5分である。

たいていaudio wednesdayは23時30分ぐらいまで音を鳴らしているから、
3月6日のaudio wednesdayは、かぎりなく新月に近い状態での音となる。

2016年8月のaudio wednesdayも、新月に近かったので、マーラーの交響曲だけを鳴らした。
今回は、2月のaudio wednesdayの続きとして、2018年にやり残したことがテーマだから、
マーラーだけ、とはならないが、最後の曲はマーラーの交響曲にすると決めている。

2月のaudio wednesdayで最後にかけたのは、
ジネット・ヌヴーのブラームスのヴァイオリン協奏曲(ライヴ録音)だった。

2月のaudio wednesdayに来てくれた人の心に、ヌヴーの演奏がどう響いたのか。
一人一人に確認したりはしなかったが、
少なくとも無反応ではなかった。

最後にかける曲が、そんなふうに鳴ってくれると、鳴らしているこちらとしては満足感がある。

2016年8月に、最後にかけたマーラーはジュリーニの九番だった。
何番にするのか、指揮者は誰なのか。
今回は、まだ決めていない。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 2月 26th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、オーディオ評論のこと

MQAについて、ほぼ全否定といえる内容のブログを書いている人、
その人の自己紹介欄には、オーディオ&ビジュアルライター/評論家、とある。

さらにこれまでの執筆履歴もある。
その人を,私はまったく知らなかったけれど、こうなるともうオーディオ評論家であり、
アマチュアではない、といえる。

といってもオーディオ評論家(職能家)ではない。
かといってオーディオ評論家(商売屋)かというと、
いまのところなんともいえない。

たった二本の記事を読んだだけの私の予感では、
その人はオーディオ評論家(職能家)にはならない(なれない)。

オーディオ評論家(商売屋)へとなっていくのか。

二本の記事を読んで感じたのは、薄っぺらだな、ということだった。
書いている内容の薄っぺらさ、ということではなく、
読んでいる人を勇気づけることのできない、という意味での薄っぺら、である。

別に、その人だけのことではない。
いまオーディオ評論家と名乗っている人たちの書く文章、もうすべてといっていい。
どれを読んでも、勇気づけられることは、まったくない。

しつこいくらい書いているが、私は「五味オーディオ教室」から始まっている。
そして1976年末からステレオサウンドを読みはじめた。

そういう私にとって、五味先生の文章、私が先生と呼ぶ人たちの文章は、
読むことで勇気づけられることがあった。

オーディオとパーソナルコンピューターが接近し出して、
PCオーディオとかネットワークオーディオとか、そんなふうに呼ばれる時代が来た。

コンピューターに詳しい人たちが、オーディオの世界に入ってくるであろう、と予想できた。
そうなってきている。

けれど、その人たちが新しい才能をひっさげて来ている、とは、いまのところ感じない。
薄っぺらさだけが、いまのところ感じている。

勇気づけられる──、
ということ読み手は求めなくなっているのか。

Date: 2月 25th, 2019
Cate: 映画

Alita: Battle Angel(その1)

「アリータ: バトル・エンジェル」を、IMAX 3Dで観た。
この映画は、マンガ「銃夢(がんむ)」が原作。

1990年代、「銃夢」が読みたくて掲載誌のビジネスジャンプを買っていた。
連載が終って数年後、ハリウッドで実写化されるというウワサがあった。

しばらくして、ジェームズ・キャメロンが手がける、というウワサも出てきた。
本当なのかな……、と疑っていたら、2000年だったか、発表になった。

けれどほとんど音沙汰なしだった。
立ち消えになったのか……、となかば諦めていた。

それが数年前に、ほんとうにやっていることがわかった。
そして昨年、予告編が見られるようになった。

まだ日本語字幕のついていない予告編を、iPadで見た。
期待外れかも……、と思うところもあった。

iPadだから、そんなに画面が大きいわけではない。
音はイヤフォンで聴いた。

それでも面白い映画は、そうやって見た予告編でも、観に行きたい、と思わせる。
「アリータ: バトル・エンジェル」は、そこまでの気持にはなれなかった。

なのに22日公開の映画を、三日後に観た。

二年前に「GHOST IN THE SHELL」が公開になった。
「GHOST IN THE SHELL」に関しても、インターネットでの予告編でがっかりしながらも、
IMAX 3Dで観た。

観て驚いた。
そのことがあったから、
今回も「GHOST IN THE SHELL」と同じように感じるのかも──、という期待をもっていた。

「アリータ: バトル・エンジェル」も観て驚いた。
その驚きは、「GHOST IN THE SHELL」よりも大きかった。

Date: 2月 25th, 2019
Cate: 映画

映画、ドラマでのオーディオの扱われ方(その5)

ミッドタウン日比谷の二階に、THE NORTH FACEの店舗がある。
今日、この店舗の前を通ったら、レジのところに意外なモノがあった。

こんなところに、こんなモノが! と多くの人が思うはずだ。
マッキントッシュのC22が、そこにあった。
飾られていたわけではなく、電源は入っていた。

店内には音楽が流れていたから、
C22はそのためのコントロールアンプである。

パワーアンプは見えなかったけれど、
スピーカーはタンノイのIIILZだった(グリルが多少違っていたけれど、そのはずだ)。

THE NORTH FACEのブランドイメージと、
これらのオーディオ機器とが、私のなかでは結びつかないだけに、
映画やドラマのなかに、意外なオーディオ機器が登場してくるのに近い感じを受けた。

Date: 2月 24th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、オーディオのこと(その1)

MQAについてとにかく否定的な人がいるのは、
ULTRA DACを聴く以前から知っていた。

その人たちは口を揃えて、MQAには非可逆圧縮が使われている、という。
どうも非可逆圧縮が使われているようである(このことを含めてMQAの詳細を知りたい)。

非可逆圧縮はロッシー(ロスレスではない)だから、
DSDやハイレゾリューションのPCMにある情報量が欠如する──、
そんな音源は認められない、らしい。

そういう人は、まず音を聴かないのか、と問いたくなる。

そして、「音は耳に聴こえるから音……」という記事(ステレオサウンド 31号掲載)を思い出す。

岡原勝氏と瀬川先生による実験を交えながらの問題提起である。
この対話を、MQA否定派の人たちに読んでほしい、と思うし、
そうでない人たちにも読んでもらいたい。
     *
瀬川 最近特に感じるのですが、受け取る側も作る側も科学というものの認識が根本から間違っているのではないでしょうか。
 これはことオーディオに限らないと思いますが、一般的に言って日本人はあらゆるものごとに白黒をつけないと納得しないわけですよ。ふつう一般には、科学というものは数字で正しく割り切れるもので、たとえば歪みは極小、f特はあくまでフラットでなくては……というように短絡的に理解してしまっている。そのようには割り切れないものだという言い方には大変な不信感を抱くようなのですね。
 寺田寅彦や中谷宇吉郎らの、日本の本物の科学者というのは、科学を真に突き詰めた結果、科学さえも最後は人間の情念と結びつくというところまで到達していると思うのですが。
岡原 それで思い出したのですが、JISでスピーカーの規格を選定する時、大変困ってしまいまして、八木(秀次)先生にご意見を伺いにいったのです。
 すると『音響製品の規格を決めようとしているのでしょう。それならば聴いて良いものが良い製品だという規格を作ればいいのではないですか。』と仰るのですよ。
瀬川 さすがに本当の科学者ですね。しかし、八木先生のような現代日本最高の科学者にして初めて言える言葉ですね。
 ところが、今の科学というのは先に何か条件が決まっていて──しかもそれさえ誰が決めたのだか分らないようなものですが──まだ欠けたところが沢山あるが数字だけは整っているような条件にきちんと合わせてものをつくりさえすれば、それがいいはずで、それが良くないというのは聴いている人の方が悪いと言いかねない。それが今の大多数にとっての科学のような気がするのですが。
岡原 それは現在の科学は仮定の上に成り立っている学問だからなのですよ。
 ある境界条件を与え、その中だけならばそれでいいのかもしれないが、その条件の与え方そのせのが間違っているのですよ。
 それより先にもっと大切なことがあるのに、それを無視して境界条件を決めてしまい、その中で完全なものができたと言っても仕様がない。
     *
八木秀次氏の
『音響製品の規格を決めようとしているのでしょう。それならば聴いて良いものが良い製品だという規格を作ればいいのではないですか。』、
これこそがオーディオの科学の根本のはずだ。