Archive for 5月, 2016

Date: 5月 31st, 2016
Cate: audio wednesday

第65回audio sharing例会のお知らせ(LNP2になぜこだわるのか)

明日(6月1日)のaudio sharing例会のテーマは、
すでに書いているとおり、マークレビンソンのLNP2について、である。

1970年代後半にオーディオの世界に足を踏み入れた私にとって、
あのころのオーディオには、狂気を感じさせるモノがあった。
それは私だけが感じていたのではなく、
私よりも年上のオーディオマニアと話していても、狂気というキーワードがどこかに出てくる。

ステレオサウンド 43号に瀬川先生は、こう書かれていた。
     *
 スピーカーならJBLの4350A、アンプならマークレビンソンのLNP2LやSAE2500、あるいはスレッショールド800A、そしてプレーヤーはEMT950等々、現代の最先端をゆく最高クラスの製品には、どこか狂気をはらんだ物凄さが感じられる。チューナーではむろんセクエラだ。
     *
《どこか狂気をはらんだ物凄さ》。
これこそがこの時代のオーディオの空気を支配していたもの、
これがオーバーな表現(捉え方)ならば、
1970年代のオーディオの空気のどこかにひそんでいたもの、といいかえてもいい。

この狂気に感化されてしまった者と感化されなかった者がいる。
LNP2にこだわる理由は、どうもそこにあるような気がしている。

わがままが許されるのであれば、
明日鳴らすスピーカーは別のモノにしたいし、パワーアンプも同じだ。
でも、そういうわけにはいかない。

けれど、あるディスクのある一曲だけは、
どこか狂気をはらんだ音で鳴らしてみたい、と思っている。

実際にやるかどうかは、明日の流れ次第だ。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 5月 31st, 2016
Cate: 黄金の組合せ

黄金の組合せ(その24)

ステレオサウンド 52号に、QUADの新型コントロールアンプ44が登場する。
405の登場とともに、33に代るコントロールアンプの噂はあったけれど、三年遅れての登場である。

型番の44は、多くの人が予想した通りだった。
大きさは33よりも大きくなっていて、
そのかわり405とのバランスがとれるようになっている。

アンプの内部構成も44と33はずいぶん違う。
モジュール構成を採る44は、使い手の要求に応じて入力モジュールを自由にかえられる。
ある種の融通性が加わっているし、
密閉されたモジュールではないから、モジュールごとの修理となるわけで、
メンテナンスのしやすさも考慮されての構成といえよう。

QUADアンプの愛好家、405の愛好家にとって、待ちに待ったコントロールアンプの登場だった。
44と405の組合せの音は、けっこうな回数聴いている。
いい組合せだと思う。

若いころもそう思っていたし、いまもそう思う。
でも、当時は44と405の組合せをそれほど欲しい、とは思っていなかった。

405は欲しいパワーアンプのひとつだった。
でも組み合わせるコントロールアンプは、44が出る前も出た後も、
私にとってはAGIの511(初期モデルか並行輸入のブラックパネル)が魅力的に思えたからだった。

44と405は純正組合せなわけで、それがいい音がするのは当り前、
コンポーネントの楽しさは、あえて純正とは違う組合せにある──、
若いころはそういう気持が強かったからだ。

AGIの511も、405も44も、小改良を受けている。
511と405はモデルチェンジもしている。
時間が経てば、人も変るわけで、いまでは44と405の組合せを欲しい、と思うようになった。

それでも44と405の組合せが、黄金の組合せかと問われれば、
そうではない、と即答する。

Date: 5月 30th, 2016
Cate: きく

ひとりで聴くという行為(その1)

コンサート会場にいけば、まわりに大勢の人がいる。
人気のある演奏家によるコンサートであれば空席はないが、
知名度のあまりない演奏家の場合だと、空席の方が多いことだってある。

私も一度だけ、そういうコンサートに行ったことがある。
両隣の席、前、後の席にも誰もいなかった。
観客の入りは五割を切っていたのかもしれない。

あまり人のいないコンサートは、どこか奇妙な感じすらする。
満員になるコンサートの場合、そのホールに入った瞬間に、
先に入っている観客のざわめきに包まれる。
がらがらのコンサートではそれがなかった。

演奏が始まる前の、こういったバイアスのかかりかたが、
こちらの聴き方になんら影響を与えないとは考えていない。
バイアスの影響から人は完全に逃れることはできないはずだから、
仮にまったく同じ演奏が舞台上でなされたとしても、
満員のコンサートとがらがらのコンサートでは、感じ方も違ってくるはず。

ここまでは昔から思っていたことであり、
そう思っている人もけっこういるであろう。

先日、ある記事を読んだ。
タイトルは「映画のシーンによって、人は異なる化学物質を放出している:研究結果」とついていた。

これから研究は進んでいくのだろうが、
映画のシーン(内容)によって人は異る化学物質を放出している、ということは、
ひとりで音楽を聴く(映画を観る)のと、
大勢で音楽を聴く(映画を観る)のとでは、感じ方が違ってくることになる。

異なる化学物質が放出されているということは、
放出された化学物質を吸っているということでもある。

体の中に取り込んだ化学物質の影響が聴く・観るに影響を与えないわけがない。

Noise Control/Noise Designという手法(45回転LPのこと・その4)

最初に聴いたCDの音に、驚いたことは前にも書いている。
発表前夜、ステレオサウンド試聴室で聴いた小沢征爾指揮「ツァラトゥストラはかく語りき」、
この音は、いまもすぐに思い出せるほど強烈な印象を残してくれた。

パイオニアExclusive P3とマランツ(フィリップス)CD63。
ディスクのサイズがコンパクトになったのと同じように、
プレーヤーのサイズもコンパクトになっていて、まさにコンパクトディスクなわけで、
それでも肝心の音が冴えなければ、それで終りである。

でも違っていた。

Exclusive P3が色褪てしまった。
私だけが感じていたのではなく、そのとき試聴室にいた編集者全員がそう感じていた。

Exclusive P3はよく出来たアナログプレーヤーである。
いまでも中古市場で人気があるのも、そうだろうな、と思う。

それでもテーブルの上にポンと置いただけのCD63から出て来た音は、
技術の進歩を感じざるをえなかった。

この時のディスクは一枚だけだった。
短い試聴時間だった。
それだからよけいに印象に残っていた。

その後CDは正式に発表され、各社からCDプレーヤーが一斉に登場した。
レコード会社からのタイトルも増えていった。

CDプレーヤーの総テストもあった。
各社のCDプレーヤーをほぼすべて並べて聴いていると、
あの日の衝撃はそこにはなく、けっこう冷静に聴いていた。

そうなってくると、CDとLPの音の違いについて、
初めてCDを聴いた後に、編輯部の先輩と話したことと、
その内容は変化していく。

いまから30年ほど前のことになるわけだが、
LPの音は気持ちいい、ということになった。
なぜ気持ちいい音のことが多いのか。

「それはこすっているからだ」と言った。
続けて「オーディオに限らず、こするのは気持ちいい行為でしょう」とも言った。

半分冗談でも半分は本気でいっていた。

CDは非接触で、LPは接触。
デジタルなのかアナログなのかという変調方式の違いも音に大きく関係していても、
非接触か接触か、という違いもまた音に大きく関係している、と思ったからだ。

そして接触することによって生じるノイズがある。
サーフェスノイズである。

Date: 5月 30th, 2016
Cate: audio wednesday

第65回audio sharing例会のお知らせ(LNP2になぜこだわるのか)

6月のaudio sharing例会は、1日(水曜日)です。

今回の、二台のLNP2の比較試聴では、
喫茶茶会記常備のアルテックのシステム(416-8C、807-8A+811B)を使う予定だった。
けれど807-8Aの片チャンネルのダイアフラムがダメになったようで、
異音が出るようになった、という連絡が昨日あった。

ある客に落とされたことが原因である。
前回のaudio sharing例会でも、気になる症状が出ていた。
それがはっきりと出るようになったわけだ。

なので今回は、またJBLの2441+2397を持っていく。
このシステムを直列型6dBネットワークで鳴らす。
ただし前々回とは違い、スピーカーの設置位置は長辺の壁側とする。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 5月 29th, 2016
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(コメントを読んで)

たいていはタイトルを先に書いている。
カテゴリーも先に決めている。
そのうえで本文を書いていく。

この項は、タイトルもカテゴリーも決めていなかった。
書き始めに引用した瀬川先生の文章だけを決めていた。
実を言うと、最先端のオーディオとは? をテーマにして書こうかな、と、
引用する前は考えていた。

なのに引用して、続く言葉を書いていくうちに、こみあげてくるものがあって、
あえて抑えることなくそのまま書いてしまった。

そのあとでタイトルをつけた。

そうやって書いたものだから、顰蹙を買うだろうな、とは思っていた。
なのに(その1)にコメントがあった。
おふたりの方からコメントをいただいた。

私のブログにはほとんどコメントがつかない。
昨夜書いたことにもコメントはつかないものと思っていただけに、
コメントがあったことだけでもうれしかったし、コメントの内容もそうだった。

いまのオーディオのあり方に、なにかを感じている人は少なからずいる、と私は信じている。
やっぱりいてくれた。

もちろん私が書いたことに否定的な人がいてもいるはず。
それでも、私が書いたものを読んでくれて、何かを感じ、
オーディオということについて考えるきっかけになってくれれば、それでいい。

Date: 5月 29th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(何度書かれたのか)

瀬川先生は、オーディオ評論をはじめるにあたって、 
小林秀雄氏の「モオツァルト」を書き写されたことは、これまで何度か書いている。
私も一度やってみたことがある。

原稿用紙を買ってきて、一字一字書き写した。
これはしんどいな、と思った。

いまから30年ちかく前のことだ。
ステレオサウンドを辞めて無職。
何かの目的のために書き写したわけではなかったが、とにかくやってみた。

この時は考えなかったことがある。
瀬川先生は何度書き写されたのか。
一度ではないような気がしている。

映画評論家の淀川長治氏は「同じ映画を十回観れば映画監督になれる」といわれている、ときいた。
優れた映画監督になれるかどうかの保証はないはずだが、
十本の映画を一回ずつ観るよりも、優れた映画一本を十回観た方が、
映画監督を志す人ならば得られるものがある(多い)ということなのだろう。

瀬川先生は「モオツァルト」を何度書かれたのだろうか。

Date: 5月 28th, 2016
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その2)

10年近く前のことを思い出した。
ある知人がスピーカーを買い換えた。
超高額なスピーカーではなかったけれど、それでもかなり高額なモノだった。
誰もがそう易々と買えるものではないほどに高価なスピーカーだった。

そのスピーカーの見た目はともかく、音は聴けば納得できる。
知人が喜ぶのもわかる。
そのことを自身のウェブサイト内の日記に書いてしまうのも当然だと思う。

そのスピーカーへの憧れと自分のモノとしたときの喜びが、
日記からは伝わってきていた。

数日後、ある友人が教えてくれた。
その知人の書いたことが、別の人のウェブサイトの掲示板で叩かれている、ということだった。

なぜ? と思って、その掲示板を見た。
その掲示板の常連と思われる人たちが皆寄ってたかって、
不愉快だ、とか、こういう自慢話は買えない人を傷つける、とても無神経な行為……、
そんなことがずらずらと並んでいた。

誰一人、知人を擁護する人はいなかった。

自分がとても欲しいと思っているモノを、誰かが買ってウェブサイトで報告しているのを、
自慢話として受けとってしまう。
受けとり方は人さまざまだから、そう受けとめたのを私がとやかくいうことではない。
だが、自分の掲示板で、知人に対して文句を書き連ねるのは、どういう神経の人たちなのだろうか。

しかも後から判明したことだが、
その掲示板の常連のほとんどは、同じ人物の書き込みだった。

私と友人は、その掲示板を一笑した。
こんな妬み・僻みだけの世界をまともに相手にするのはバカらしいからだ。

知人も私たちと同じだろうと思って、「こんな掲示板で、書かれていますよ」と伝えた。

私は知人も「いや〜、書かれてしまいましたよ(笑)」というものだと思っていた。
けれど、知人は問題の掲示板に謝罪を書きこんだ。

欲しいスピーカーを手に入れてうかれて書いてしまった。
読む人の気持を考えていなかった。反省している、と。

掲示板の常連の人たちは、謝罪を受け容れました、そういったことを皆書いていた。

なぜ、知人は謝ったのか。

Date: 5月 28th, 2016
Cate: 複雑な幼稚性
2 msgs

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その1)

書こう書こうと思いつつも、なぜかいまだ書いていないことがいくつかある。
どの項で書こうか決めかねているうちに忘れてしまって書きそびれるわけで、
そんなことのひとつに、
瀬川先生がヴァイタヴォックスCN191 Corner Hornについて書かれた文章がある。

ちょうど別項「ステレオサウンドについて」で、49号についてふれているところ。
瀬川先生の文章は49号に掲載されている。
     *
 つい最近、おもしろい話を耳にした。ロンドン市内のある場所で、イギリスのオーディオ関係者が数人集まっている席上、ひとりの日本人がヴァイタヴォックスの名を口にしたところが、皆が首をかしげて、おい、そんなメーカーがあったか? と考え込んだ、というのである。しばらくして誰かが、そうだ、PA用のスピーカーを作っていた古い会社じゃなかったか? と言い出して、そうだそうだということになった──。どうも誇張されているような気がしてならないが、しかし興味深い話だ。
 ヴァイタヴォックスの名は、そういう噂が流れるほど、こんにちのイギリスのオーディオマーケットでは馴染みが薄くなっているらしい。あるいはこんにちの日本で、YL音響の名を出しても、若いオーディオファンが首をかしげるのとそれは似た事情なのかもしれない。
 ともかく、ヴァイタヴォックスのCN191〝コーナー・クリプシュホーン・システム〟の主な出荷先は、ほとんど日本に限られているらしい。それも、ここ数年来は、注文しても一年近く待たされる状態が続いているとのこと。生産量が極めて少ないにしても、日本でのこの隠れたしかし絶大な人気にくらべて、イギリス国内での、もしかしたら作り話かもしれないにしてもそういう噂を生むほどの状況と、これはスピーカーに限ったことではなく、こんにち数多く日本に入ってくる輸入パーツの中でも、非常に独特の例であるといえそうだ。
     *
これを読んで、どう思うか。
人によっては、CN191なんて古くさいスピーカーをありがたがるのは、
日本のオーディオマニアの一部、懐古趣味の人たちだけ、と、最初から決めてかかるだろう。

私は、この文章を読んだ時、少し誇らしい気持になった。
イギリスのオーディオ関係者が忘れかけているメーカーを、
そのスピーカーシステムを、日本のオーディオマニアと評論家は正しく評価している、と。

1978年、CN191の《主な出荷先は、ほとんど日本に限られているらしい》。
もうこれだけで日本でしか評価されないスピーカー(に限らないオーディオ機器)は、
時代遅れの産物(いまどきの表現でいえばガラパゴスオーディオ)と、
短絡思考の人は決めつける。

ヴァイタヴォックスだけではない、
そういう人たちは、タンノイやJBLといったブランドも、同じに捉えている。
もっといえばホーン型を、同じに捉えている。

アメリカの一部のオーディオ誌で高く評価されたオーディオ機器のみが、
真に優れたオーディオ機器であり、または最先端のオーディオ機器であるかのように思い込んでいる。

昔よりもいまのほうが、そういう人が増えてきたように感じる。
昔からある一定数いたのかもしれないが、目につかなかった。
当時はインターネットがなかったからだ。

いまは違う。
狭い価値観にとらわれてしまっている人が目につくようになってきた。

狭い価値観にとらわれていることは全面悪とは思わないが、
そういう人が狭い価値観の範囲から外れたところにあるモノを、
あしざまに批判する、それも匿名で汚い言葉で批判しているのを見ると、
この人たちをなんといったらいいのだろうか、と考える。

「複雑な幼稚性」はそうして思いついた。

インターネットは、そういう人がいることを気づかせてくれた。
それだけではない、とも思っている。
そういう人を生んでいるのも、またインターネットだ、とも。

インターネットの普及で、情報は驚くほど増えている。
玉石混淆であり、情報と情報擬きがあり、
とにかくなんらかの情報と呼ばれるものは簡単に大量に入手できる。

その結果、知力低下が著しくなったのではないか。
もちろんすべての人がそうなったというわけではない。
一部の人は、インターネットによって知力低下といえる状態になっている。
もっといえば知力喪失といえる人もいる。

こんなことを書くと、自称「物分りのいい人」は眉をしかめることだろう。
自称「物分りのいい人」、そういう「物分りのいい人」を目指している人が、
私は大嫌いである。

知力低下(知力喪失)の「物分りのいい人」が少しずつではあるが、
はっきりと増えてきている。

Date: 5月 27th, 2016
Cate: 五味康祐

音楽をオーディオで聴くということ(その3)

美に同化する、ということ。

音楽をオーディオで聴くということとは、そういうことである。
「五味オーディオ教室」と出逢って40年の結論である。

美を享受する聴き方もある。
どちらが高次な聴き方とか、そんなことをいう気はさらさらない。

「五味オーディオ教室」から始まった私のオーディオ(音楽の聴き方)は、
ここを目指している。
やっとそう思えるようになってきた。

Date: 5月 27th, 2016
Cate: audio wednesday

第65回audio sharing例会のお知らせ(LNP2になぜこだわるのか)

6月のaudio sharing例会は、1日(水曜日)です。

今回はマークレビンソンの代名詞といえるLNP2を聴く。
LNP2のアンプ部はモジュール化されていて、
ごく初期のLNP2にはバウエン製モジュールが搭載されていたことは、
この時代オーディオをやっていた人ならば、常識といえる。
割と早い頃に、マークレビンソン製モジュールにかわる。

モジュールの製造元の変更とともにモジュールの回路構成も大きく変っている。
となると型番は同じLNP2であっても、バウエン製とマークレビンソン製とでは音は違う。

ではどちらが音がいいのか。
LNP2のさほど関心のない人にとっては、どうでもいいことかもしれない。
でもいまでもLNP2の音に惚れ込んでいる人の中には、
シリアルナンバーを気にする人が少なくない。

マークレビンソン製モジュールになったからでも、
細かな変更を受けているのがLNP2であるだけに、
LNP2の中から、さらに自分に合うLNP2を選ぶ──、そういう人がいる限り、
バウエン製かマークレビンソン製か、これから先も決着がつかないであろう。

今回はバウエン製モジュールのLNP2とマークレビンソン製モジュールのLNP2を、
常連のKさんが持ってきてくださる。

バウエン製モジュールのLNP2はシリアルナンバー1100番台で、
一般的に言われていることが正しければ、いわゆる後載せバウエンとなる。
だがこのLNP2のポテンショメーターはウォーターズ製だ。

マークレビンソン製モジュールのLNP2はシリアルナンバー2400番台で、
ポテンショメーターはスペクトロール製。

外部電源はどちらもPLS153となっている。

この二台のLNP2の比較が主になるが、
LNP2を他のコントロールアンプと比較してみたいという方がもしおられれば、
コントロールアンプの持ち込みをしてもらってもかまわない。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 5月 26th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その40)

ステレオサウンド 49号の表紙はマッキントッシュのパワーアンプMC2300である。
光沢のあるタイルの床に置かれたMC2300の姿は、
当時、このパワーアンプに対して繊細なイメージをまったくもっていなかった私でも、
いいな、と思ってながめていた。

どことなく暑苦しいイメージを感じていたMC2300なのに、
49号の表紙では、どこか涼しげである。

49号の特集は「Hi-Fiコンポーネント《第1回STATE OF THE ART賞》選定」。
STATE OF THE ART賞は、ステレオサウンドにとって初めての企画である。

私が最初に手にしたステレオサウンド 41号の特集に近いといえばそういえるけれど、
それでもステレオサウンドにとって初めての企画といえよう。

49号のちょうど二年前に出た41号の特集は「コンポーネントステレオ──世界の一流品」だった。
特集の冒頭にある「ステート・オブ・ジ・アート選定にあたって」で、
瀬川先生が書かれている。
     *
 ステート・オブ・ジ・アートという英語は、その道の専門家でも日本語にうまく訳せないということだから、私のように語学に弱い人間には、その意味するニュアンスが本当に正しく掴めているかどうか……。
 ただ、わりあいにはっきりしていることは、それぞれの分野での頂点に立つ最高クラスの製品であるということ。その意味では、すでに本誌41号(77年冬号)で特集した《世界の一流品》という意味あいに、かなり共通の部分がありそうだ。少なくとも、43号や47号での《ベストバイ》とは内容を異にする筈だ。
     *
41号と49号は誌面構成も近い。
それでも41号と49号は、違う。

まず41号はあくまで「世界の一流品」であり、それは賞ではなかった。
49号の特集がステレオサウンドにとって初めての企画なのは、
STATE OF THE ARTだからではなく、それが賞であるからだ。

Date: 5月 26th, 2016
Cate: 五味康祐

音楽をオーディオで聴くということ(その2)

その1)で書いたことを読み返して、思ったことがある。

事実と真実の違いである。
同じといえばそういえなくもないし、違うといえば違う。
はっきりとその違いについて説明できないにも関わらず、使い分けている。

でも改めて、事実と真実の違いについて考える。
少なくともオーディオ(音)においては、どうなのか、と範囲を狭めて考える。

(その1)で五味先生の文章を引用した。
もう一度引用しておく。
     *
沢庵とつくだ煮だけの貧しい食膳に妻とふたり、小説は書けず、交通費節約のため出社には池袋から新宿矢来町までいつも歩いた……そんな二年間で、やっとこれだけのレコードを私は持つことが出来た。
 白状すると、マージャンでレコード代を浮かそうと迷ったことがある。牌さえいじらせれば、私にはレコード代を稼ぐくらいは困難ではなかったし、ある三国人がしきりに私に挑戦した。毛布を質に入れる状態で、マージャンの元手があるわけはないが、三国人は当時の金で十万円を先ず、黙って私に渡す。その上でゲームを挑む。ギャンブルならこんな馬鹿な話はない。つまり彼は私とマージャンが打ちたかったのだろう。いちど、とうとうお金ほしさに徹夜マージャンをした。数万円が私の儲けになった。これでカートリッジとレコードが買える、そう思ったとき、こんな金でレコードを買うくらいなら、今までぼくは何を耐えてきたのか……男泣きしたいほど自分が哀れで、居堪れなくなった。音楽は私の場合何らかの倫理感と結びつく芸術である。私は自分のいやらしいところを随分知っている。それを音楽で浄化される。苦悩の日々、失意の日々、だからこそ私はスピーカーの前に坐り、うなだれ、涙をこぼしてバッハやベートーヴェンを聴いた。──三国人の邸からの帰途、こんな金はドブへ捨てろと思った。その日一日、映画を観、夜になると新宿を飲み歩いて泥酔して、ボロ布のような元の無一文になって私は家に帰った。編集者の要求する原稿を書こうという気になったのは、この晩である。
     *
結局、事実には倫理は関係・関与しない。
真実はそうではない。
人の感情も倫理も関係・関与してくる。

五味先生の文章を読んで、いまやっとそう思えた。

Date: 5月 25th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(エリカ・ケートのこと)

エリカ・ケートの名を知ったのは、瀬川先生の書かれたものであった。
     *
エリカ・ケートというソプラノを私はとても好きで、中でもキング/セブン・シーズから出て、いまは廃盤になったドイツ・リート集を大切にしている。決してスケールの大きさや身ぶりや容姿の美しさで評判になる人ではなく、しかし近ごろ話題のエリー・アメリンクよりも洗練されている。清潔で、畑中良輔氏の評を借りれば、チラリと見せる色っぽさが何とも言えない魅惑である。どういうわけかドイツのオイロディスク原盤でもカタログから落ちてしまってこれ一枚しか手もとになく、もうすりきれてジャリジャリして、それでもときおりくりかえして聴く。彼女のレコードは、その後オイロディスク盤で何枚か入手したが、それでもこの一枚が抜群のできだと思う。
     *
聴いてみたくなった。
できればオイロディスク原盤のドイツ・リート集を聴きたい、と思った。
この瀬川先生の文章にふれた人の多くは、私と同じだったのでは……、と思う。

けれど廃盤で入手できなかった。
一時期中古盤もずいぶん探したけれど、縁がなかった。

瀬川先生は、またこうも書かれている。
     *
 しかしその試聴で、もうひとつの魅力ある製品を発見したというのが、これも前述したマッキントッシュのC22とMC275の組合せで、アルテックの604Eを鳴らした音であった。ことに、テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた、エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声は、いまでも耳の底に焼きついているほどで、この一曲のためにこのアンプを欲しい、とさえ、思ったものだ。
     *
モーツァルトの歌曲 K.523 Abendempfindung

Abend ist’s, die Sonne ist verschwunden,
Und der Mond strahlt Silberglanz;
So entfliehn des Lebens schönste Stunden,
Fliehn vorüber wie im Tanz.

Bald entflieht des Lebens bunte Szene,
Und der Vorhang rollt herab;
Aus ist unser Spiel, des Freundes Träne
Fließet schon auf unser Grab.

Bald vielleicht -mir weht, wie Westwind leise,
Eine stille Ahnung zu-
Schließ ich dieses Lebens Pilgerreise,
Fliege in das Land der Ruh.

Werdet ihr dann an meinem Grabe weinen,
Trauernd meine Asche sehn,
Dann, o Freunde, will ich euch erscheinen
Und will himmelauf euch wehn.

Schenk auch du ein Tränchen mir
Und pflücke mir ein Veilchen auf mein Grab,
Und mit deinem seelenvollen Bli cke
Sieh dann sanft auf mich herab.

Weih mir eine Träne, und ach! schäme
dich nur nicht, sie mir zu weihn;
Oh, sie wird in meinem Diademe
Dann die schönste Perle sein!

夕暮だ、太陽は沈み、
円が銀の輝きを放っている、
こうして人生の最もすばらしい時が消えてゆく、
輪舞の列のように通り過ぎてゆくのだ。

やがて人生の華やかな情景は消えてゆき、
幕が次第に下りてくる。
僕たちの芝居は終り、友の涙が
もう僕たちの墓の上に流れ落ちる。

おそらくもうすぐに──そよかな西風のように、
ひそかな予感が吹き寄せてくる──
僕はこの人生の巡礼の旅を終え、
安息の国へと飛んでゆくのだ。

そして君たちが僕の墓で涙を流し、
灰になった僕を見て悲しむ時には、
おお友たちよ、僕は君たちの前に現われ、
天国の風を君たちに送ろう。

君も僕にひと粒の涙を贈り物にし、
すみれを摘んで僕の墓の上に置いておくれ、
そして心のこもった目で
やさしく僕を見下しておくれ。

涙を僕に捧げておくれ、そしてああ! それを
恥ずかしがらずにやっておくれ。
おお、その涙は僕を飾るものの中で
一番美しい真珠になるだろう!
(対訳:石井不二雄氏)

エリカ・ケートの歌曲集はCDになった。
1990年ごろだったろうか。もちろんすぐに買った。

瀬川先生の文章を読んだ日から30数年、
CDを聴いてから20数年経つ。

エリカ・ケートのことは、何度か書いている。
今日また書いているのは、タワーレコードがオイロディスク音源のSACDを出すからだ。

6月24日に第一弾の三枚が出る。
エリカ・ケートは含まれていない。

《エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、
滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声》を、SACDで聴いてみたい。

Date: 5月 24th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その39)

ステレオサウンド 48号の第二特集は低音再生だった。
当時、ふたたびブームの兆しのあった3D方式の実験的試聴を行っている。

この第二特集の冒頭には、
井上先生による「音楽再生における低音の重要性を探る」があり、
低音再生の歴史、方式を俯瞰的にまとめたものだ。

三通りの試聴がある。
ブックシェルフ型スピーカーをベースにしたもの。
フロアー型スピーカーをベースにしたもの。
小型スピーカーをベースにしたものだ。

試聴風景の写真を見ると、相当数のスピーカーが集められているのがわかる。
これにサブウーファーが加わるのだから、かなり大変な試聴だったはずだ。

48号の新製品紹介の記事でも、サブウーファーが六機種取り上げられている。

記事だけではない。
このころ小型スピーカーの良質なモノが、各社から出てくるようになっていた。
そういう小型スピーカー専用として、コンパクトなサブウーファーも出てきはじめていた。

これはダイレクトドライブプレーヤーの普及により、
アナログディスク再生のS/N比の向上が一般化したためかもしれない。

ゴロの出るようなプレーヤーで聴いていたら、
低音の拡充はデメリットのほうが大きいのだから。

だから48号の中に、アナログプレーヤーと低音再生が、
第一、第二特集としてあるのは、編集部が意図したことなのか、たまたまなのか、
はっきりしないけれど、いい組合せであることは確かだ。

そうは思うのだが……、ここでもアナログプレーヤーの第一特集に共通する何かを感じていて、
読もうとすればするほど、何もつかめない感じさえしていた。

41号から読み始めたのだから、48号で丸二年読んでいた、
別冊も買っていた。
まだ二年であっても、それなりに読んできた。

にも関わらず48号は、くり返すが、私の中で決着がついていない。