Date: 10月 29th, 2008
Cate: 五味康祐
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音楽をオーディオで聴くということ(その1)

小うるさいことを書いている。
と、ときおり自分でそう思うことがある。
そんな些細なこととオーディオの音は何の関係もないだろう、
いい部屋にいいオーディオ機器、それを使いこなせばいいのであって、
モーツァルトのレクィエム、と略せず書いたからといって、音が良くなるはずなどなかろう。

そう少しでも思っている人は五味先生の「オーディオ巡礼」に所収されている
「芥川賞の時計」を読んで、何を感じるのだろうか。
     *
沢庵とつくだ煮だけの貧しい食膳に妻とふたり、小説は書けず、交通費節約のため出社には池袋から新宿矢来町までいつも歩いた……そんな二年間で、やっとこれだけのレコードを私は持つことが出来た。
 白状すると、マージャンでレコード代を浮かそうと迷ったことがある。牌さえいじらせれば、私にはレコード代を稼ぐくらいは困難ではなかったし、ある三国人がしきりに私に挑戦した。毛布を質に入れる状態で、マージャンの元手があるわけはないが、三国人は当時の金で十万円を先ず、黙って私に渡す。その上でゲームを挑む。ギャンブルならこんな馬鹿な話はない。つまり彼は私とマージャンが打ちたかったのだろう。いちど、とうとうお金ほしさに徹夜マージャンをした。数万円が私の儲けになった。これでカートリッジとレコードが買える、そう思ったとき、こんな金でレコードを買うくらいなら、今までぼくは何を耐えてきたのか……男泣きしたいほど自分が哀れで、居堪れなくなった。音楽は私の場合何らかの倫理感と結びつく芸術である。私は自分のいやらしいところを随分知っている。それを音楽で浄化される。苦悩の日々、失意の日々、だからこそ私はスピーカーの前に坐り、うなだれ、涙をこぼしてバッハやベートーヴェンを聴いた。──三国人の邸からの帰途、こんな金はドブへ捨てろと思った。その日一日、映画を観、夜になると新宿を飲み歩いて泥酔して、ボロ布のような元の無一文になって私は家に帰った。編集者の要求する原稿を書こうという気になったのは、この晩である。
     *
都営住宅の家賃が2700円で、芥川賞の賞金が30000円のころの数万円の儲けは、
当時の五味先生にとっては、そうとうな大金だったはず。

まだ18歳だった、この文章を読んだとき涙がこぼれた。
いま書き写していても、熱いものがこみ上げてくる。

オーディオを通して、音楽を聴くということは、そういうものである。
昔も今も、これからも。ずっとそうであってほしい……。

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