Archive for 6月, 2010

Date: 6月 30th, 2010
Cate: トーラス

同軸型はトーラスなのか(その23)

フィードバックとフィードフォワードの違いを一言で表わすならば、割り算と引き算ということになる。

アンプの出力端には、信号の他に、歪と雑音が加わっている。
この歪と雑音と同じレベルの、そして逆相の歪と雑音を加えて打ち消そうというフィードフォワードは、
つまり引き算によって歪、雑音をなくそうという発想から生れている。

フィードバックは、歪、雑音の除去よりも増幅度の安定を図った系であり、
そのことはNFBをかけたアンプの増幅度をもとめる式からもうかがえる。

反転アンプを例にとれば、NFBをかけたオーバーオールのゲインは、
NFBの抵抗値を入力に直列に挿入された抵抗値で割った値である。

NFBの抵抗値が10kΩ、入力抵抗が1kΩだとしたら、10kΩ/1kΩなので増幅度は10、つまり20dBとなる。
増幅度がフィードバックをかける前から減るのと同時に、歪、雑音も低下することになる。
つまり増幅度が割り算によって決定されるように、歪、雑音も割り算によって減少する。

フィードバックとフィードフォワードはどちらも歪、雑音を減らす効用があるが、
理論的に歪、雑音をゼロにできるのはフィードフォワードである。

割り算ではどんなに分母を大きくしていこうと、値をゼロにすることはできない。
ゼロに限りなく近づけることはできたとしても、そのときは増幅度も同じように限りなくゼロに近づいている。
その点、フィードフォワードは引き算ゆえに、まったく同じ値を逆相にして加える(つまりマイナス)ことで、
ゼロを実現することは計算式の上では可能となっている。

サンスイのスーパー・フィードフォワードは、割り算(フィードバック)だけでは除去できない歪、雑音を、
引き算(フィードフォワード)で打ち消すという、割り算と引き算を組み合わせた系である。

割り算(除算)、引き算(減算)のほかに足し算(加算)、かけ算(乗算)があるように、
割り算とかけ算を組み合わせた系が、テクニクスのリニアフィードバック回路である。

Date: 6月 29th, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その14)

先生ならばどのように書かれるだろうか、書くことにつまずいたとき、
ぼくはいつも、そう考えてみることにしている……
     *
瀬川先生が書かれた文章だ。
「先生」とは五味康祐氏のことだ。

Date: 6月 28th, 2010
Cate: 中点

中点(その8)

「神は細部に宿る」という。

オーディオにおける「細部」とはどこなのか、なんなのか。
オーディオにおいては「神は沈黙に宿る」ではなかろうか。

音楽における「細部」とはどこなのか、なんなのか。
音楽においては「神は音と音のしじまに宿る」。そう感じている。
ベートーヴェンの後期の作品においては、おそらく間違っていないだろう。

沈黙、しじまこそ、音における「細部」なのかもしれない。
そして、この「細部」が、もしかすると「中点」なのかもしれない。
フルトヴェングラーのいう「具象化における精神的な中点」とはいわないが、
そこに通じていくもののような気がしてならない。

Date: 6月 27th, 2010
Cate: 中点

中点(その7)

今日、あるスピーカーシステムを聴いてきた。
このスピーカーシステム(ANO)については、Twitter でいくつかつぶやいた。

返信へのつぶやきも書きながら、ふと思ったのは、なにかを感じさせるスピーカーシステムには、
どこかしらに「中点」があるのかもしれない、ということ。

構造的な中点、もしくは造形的な中点……、
まだ漠然と感じている段階だけれども、
「中点」をもつもの、もたないもの、感じさせるもの、感じさせないもの、
という具合に、はっきりとあるといえる気がする。

Date: 6月 26th, 2010
Cate: サイズ

サイズ考(その68)

表面実装パーツを全面的に使用すれば、
アンプやCDプレーヤーなどのオーディオ機器のサイズはかなり小さくすることも、それほど難しくはない。

電源もスイッチング方式を採用すれば、10年、20年前では考えられなかったサイズまでコンパクトに仕上げ、
性能も維持できるようになってきた。

音のよいオーディオ機器はたいていサイズが大きいものだ、という認識は少しずつ変ってきている時期に、
いまはなりつつあるといえるだろう。
私が小学生のころは、「大きいことはいいことだ」というコマーシャルソングがよく流れていた。
だからというわけではないが、1970年代のオーディオ機器で、私が憧れていたモノは、LS3/5Aを除くと、
ほとんどすべて、そのサイズは大きいものばかりだった。

ただデカければそれでいいというわけではもちろんないが、それでもある程度の大きさ、
それも必然の大きさであれば、それはそれで憧れの対象となる。

EMTの927Dstの大きさは、30cmのLPをかけるのにはやや大げさなサイズではあるものの、
あの音を聴き、実際に927Dstのしっかりした構造にふれれば、そのサイズも憧れのなかにふくまれてくる。

Date: 6月 25th, 2010
Cate: 中点

中点(その6)

芸術家の課題──まず第一に展開、すなわち具象化。
第二に表現における統括。それは前進でも後進でもなく、具象化における精神的な中点である。
     *
フルトヴェングラーが1948年に語ったことばで、「音楽ノート」に載っている。
抜き書きしたものではなく、これだけで、前後の文章はない。とくに難しい単語が使われているわけではない。
けれど、フルトヴェングラーの真意を汲みとろうとすると、ひっかかってしまう。
そして、堂々巡りしてしまう。

Date: 6月 24th, 2010
Cate: ジャーナリズム, 瀬川冬樹
2 msgs

オーディオにおけるジャーナリズム(特別編・その9)

1981年に菅野先生との対談で語られていることがある。

「ぼくはいま辻説法をしたいような、なんかすごいそういう気持でいっぱいなんです。」

なにを、なのか。
なぜ、なのか。

「実際の音を聴かないで、活字のほうで観念的にものごとを理解するというような現状があるでしょう。これは問題だと思うんですよ。ぼくはほんとうに近ごろ自分でもいらいらしているのは、地方のユーザーの集まりなどに招かれていって、話をしたり、音を鳴らしたりしてきたんだけれども、オーディオってね、やっぱりその場で音を出していかないとわかり合えないものじゃないかという気がするんですよ。オーディオの再生音というのは、おんなじ機械を組み合わせたって、鳴らす人間のちょっとしたコントロールでいかに音が変わるかなんていうのは、もはや活字で説明は不可能なわけ、その場でやってみせると、端的にわかるわけですよ。」

いらいらされていたのは、文章で音を表現することの「もどかしさ」だけからなのだろうか。

辻説法は、瀬川先生の決意だったように思えてならない。

Date: 6月 23rd, 2010
Cate: オーディオ評論, 五味康祐

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その13)

五味先生はオーディオにおいて何者であったか、といえば、オーディオ研究家ではない。
いい音をつねに求められてはいたから求道者ではあっても、
オーディオ機器を学問として研究対象として捉えられていたわけではない。

評論家でもない、研究家でもない。
私は、オーディオ思想家だと思っている。

五味先生の、そのオーディオの「思想」が、瀬川先生が生み出したオーディオ「評論」へと受け継がれている。

Date: 6月 22nd, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その12)

五味先生の「五味オーディオ教室」から私のオーディオは始まったわけだが、
いちども五味先生をオーディオ評論家と思ったことはない。

最初に「五味オーディオ教室」を読んだときも(もっともこのときはオーディオ評論家という存在を知らなかった)、
その数カ月後ステレオサウンドを手にしてからも、
ステレオサウンド 47号から再開された「続・オーディオ巡礼」を読んだときも、
ただのいちども、五味先生をオーディオ評論家として捉えたことはない。

これから先もずっと、そうだと断言できる。

なのに、世の中のオーディオマニアのなかには、五味先生をオーディオ評論家として捉えている人が、いる。
それもひどいのになると、ツンボのオーディオ評論家、とネットに書き込んでいる輩がいる。

なぜ、この人たちは、五味先生をオーディオ評論家として見ているのか。
五味先生がオーディオ評論家ではないこと、この自明のことがどうして理解できないのか。

Date: 6月 21st, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その11)

ステレオサウンド 62号の瀬川先生の追悼記事は、五味先生の文章の引用から始まっている。
     *
瀬川氏へも、その文章などで、私は大へん好意を寄せていた。ジムランを私は採らないだけに、瀬川君ならどんなふうに鳴らすのかと余計興味をもったのである。その部屋に招じられて、だが、オヤと思った。一言でいうと、ジムランを聴く人のたたずまいではかった。どちらかといえばむしろ私と共通な音楽の聴き方をしている人の住居である。部屋そのものは六畳で、狭い。私もむかし同じようにせまい部屋で、生活をきりつめ音楽を聴いたことがあった。(中略)むかしの貧困時代に、どんなに泌みて私は音楽を聴いたろう。思いすごしかもわからないが、そういう私の若い日を瀬川氏の部屋に見出したような気がした。(中略)
 ボベスコのヴァイオリンでヘンデルのソナタを私は聴いた。モーツァルトの三番と五番のヴァイオリン協奏曲を聴いた。そしておよそジムラン的でない鳴らせ方を瀬川氏がするのに驚いた。ジムラン的でないとは、奇妙な言い方だが、要するにモノーラル時代の音色を、更にさかのぼってSPで聴きなじんだ音(というより音楽)を、最新のスピーカーとアンプで彼は抽き出そうと努めている。抱きしめてあげたいほどその努力は見ていて切ない。
     *
ステレオサウンド 16号に掲載された、五味先生のオーディオ巡礼の文章である。

「音を描く詩人の死──故・瀬川冬樹氏を偲ぶ」の記事を書きまとめられた人(倉持公一氏)は、
この引用の文章のあとにつづけている。

「五味先生は、ご自分と、とても似た血の流れていることを聴きとられていたのである。」

このことこそが、瀬川先生が「オーディオ評論」を始められたことにつながっていっている、と私は思っている。
つまり、五味先生の存在がなかったならば、瀬川先生の「オーディオ評論」は、
ずいぶん違ったものになっていったであろう……、そんな気もするわけだ。

Date: 6月 20th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その19)

一方で、「真実」は嘘と失敗から生れてくるもの、とも思えてくる。

Date: 6月 20th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その18)

「五味オーディオ教室」からはじまった私のオーディオは、いまでもつづいている。

好きな音楽をいい音で聴きたいと想ってきたから、ここまでやっているのではないところがある。
なにか、あるひとつの「真理」にたどり着けそうな予感がするから、というのが、
オーディオをここまでやっている「理由」なのかもしれない。

Date: 6月 19th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その17)

五味先生の文章に「浄化」の文字とともに登場する音楽は、
フランクの前奏曲であったり、ラヴェルのダフニスとクローエ、
ときにはヴィヴァルディ、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品111でもある。
ベートーヴェンの第九交響曲のときもあれば、モーツァルトであることもある。

これらの音楽が同じように浄化するわけではないのだろうか。
とり除きたいものによって、そのときに聴く音楽はかわっていくだろうことは、容易に想像できる。

つねに同じように心が汚されているわけではない。

音楽による「浄化」とは、単に心のけがれが洗い流されることだけでなく、
澄み切った内面性を確立させていく、構築していくことなのかもしれない、
と、ここにきてやっと、そう感じられるようになってきた。

とくにベートーヴェンの後期の作品においては、そう感じている。

この「澄み切った内面性」こそが、ひとつの「真理」でもあるような気がしている。

Date: 6月 18th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その16)

五味先生のリスニングルームには、「浄」の書があった。
五味先生の文章には、「浄化」が幾度か登場する。

「芥川賞の時計」(「オーディオ巡礼」所収)では、こう書かれている。
     *
音楽は私の場合何らかの倫理感と結びつく芸術である。私は自分のいやらしいところを随分知っている。それを音楽で浄化される。苦悩の日々、失意の日々、だからこそ私はスピーカーの前に坐り、うなだれ、涙をこぼしてバッハやベートーヴェンを聴いた。
     *
「ビデオ・テープの《カルメン》」(「オーディオ巡礼」所収)では、こうだ。
     *
聴いてほしい。フランクの前奏曲と、次に〝ダフニスとクローエ〟第二組曲冒頭を聴いてほしい。どんな説明よりもこの二曲にまたがった私なりな青春と、中年男の愛欲とその醜さを如何に音楽は浄化してくれたかを、跡をなぞるごとくに知ってもらえようと思う。少なくとも水準以上の音質を出す再生装置でなら、分るはずだ。自らは血を流さずとも、血を流した男の愛の履歴が眼前に彷彿する、それが音楽を聴くという行為の意義ではないのか。
     *
「英国《グッドマン》のスピーカー」(「オーディオ巡礼」所収)。
レコードを聴きながら小説を書くという風説が私にはあるそうだが、うそだ。いかなる場合も片手間に聴き流すようなそういう音楽の聴き方を私はしていない。筆のとまったあと、いやらしい登場人物を描いてこちらの想念のよごれた時などに、聴くのである。浄化の役割を、すると、これらの音楽は果してくれたし今読み返しても比較的気持のいい小説は、どういうわけかヴィヴァルディや作品一一一を聴いた時に書いている。
     *
「ベートーヴェン《第九交響曲》」(「オーディオ巡礼」所収)。
例年、大晦日にS氏邸で〝第九〟を聴きはじめて二十二年になる。その年その年のさまざまな悔いやら憾みやら苦しみを浄化され、洗われて新年をむかえてきたが、いつも、完ぺきな演奏でそれを聴きたい願望も二十年かさなったわけになる。あと幾年わたしは生きられるのか。ベートーヴェンも〝第九〟ではついに私にそのまったき恩恵をさずけてくれずに、私は死んでゆくのか。それともみな名演なのか?

「ステレオ感」(「天の聲」所収)。
音楽はわれわれをなぐさめ、時に精神を向上させ、他の何ものもなし得ない浄化作用を果してくれる。ベートーヴェン的に言うなら、いい音楽はそのままで啓示であり、神の声である。そういう神への志向に偸盗の喜悦がまぎれ込んでくる。いい道理がない。ぼくらはどこかで罰を蒙らねばならない。

「ワグナー」(「西方の音」所収)。
私の場合は、いわゆるナショナリズムが、孵った雛の殻のようにまだお尻に付いている。戦中派の一人としてやむを得ぬ仕儀だ。時にそういう己れを反省し、うんざりし、考え直す。ワグナーを聴くのはこの自省の時機に毒薬となるかもしれない。しかし一時はいさぎよく毒をあおらねばなるまいと私は思う。それでアタッてしまいそうだとモーツァルトを聴く。この浄化はてき面に効くから羽目をはずさずにいられるのだろう。ワグナーの楽劇には、女性の献身的愛による救済がきまってあらわれるが、男子たる私にとって、この美酒はいつ酌んでも倦むことがない。
     *
他にも「浄化」が登場する文章はあるけれど、これらの文章を読み、
音楽による「浄化」とはなにかについて考え続けてきた。
心のけがれをとりのぞいてくれることだけだろうか。

辞書には、「正しいあり方に戻す」ともある。

Date: 6月 17th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その15)

事実から真実、そして「真理」。