「理由」(その16)
五味先生のリスニングルームには、「浄」の書があった。
五味先生の文章には、「浄化」が幾度か登場する。
「芥川賞の時計」(「オーディオ巡礼」所収)では、こう書かれている。
*
音楽は私の場合何らかの倫理感と結びつく芸術である。私は自分のいやらしいところを随分知っている。それを音楽で浄化される。苦悩の日々、失意の日々、だからこそ私はスピーカーの前に坐り、うなだれ、涙をこぼしてバッハやベートーヴェンを聴いた。
*
「ビデオ・テープの《カルメン》」(「オーディオ巡礼」所収)では、こうだ。
*
聴いてほしい。フランクの前奏曲と、次に〝ダフニスとクローエ〟第二組曲冒頭を聴いてほしい。どんな説明よりもこの二曲にまたがった私なりな青春と、中年男の愛欲とその醜さを如何に音楽は浄化してくれたかを、跡をなぞるごとくに知ってもらえようと思う。少なくとも水準以上の音質を出す再生装置でなら、分るはずだ。自らは血を流さずとも、血を流した男の愛の履歴が眼前に彷彿する、それが音楽を聴くという行為の意義ではないのか。
*
「英国《グッドマン》のスピーカー」(「オーディオ巡礼」所収)。
レコードを聴きながら小説を書くという風説が私にはあるそうだが、うそだ。いかなる場合も片手間に聴き流すようなそういう音楽の聴き方を私はしていない。筆のとまったあと、いやらしい登場人物を描いてこちらの想念のよごれた時などに、聴くのである。浄化の役割を、すると、これらの音楽は果してくれたし今読み返しても比較的気持のいい小説は、どういうわけかヴィヴァルディや作品一一一を聴いた時に書いている。
*
「ベートーヴェン《第九交響曲》」(「オーディオ巡礼」所収)。
例年、大晦日にS氏邸で〝第九〟を聴きはじめて二十二年になる。その年その年のさまざまな悔いやら憾みやら苦しみを浄化され、洗われて新年をむかえてきたが、いつも、完ぺきな演奏でそれを聴きたい願望も二十年かさなったわけになる。あと幾年わたしは生きられるのか。ベートーヴェンも〝第九〟ではついに私にそのまったき恩恵をさずけてくれずに、私は死んでゆくのか。それともみな名演なのか?
「ステレオ感」(「天の聲」所収)。
音楽はわれわれをなぐさめ、時に精神を向上させ、他の何ものもなし得ない浄化作用を果してくれる。ベートーヴェン的に言うなら、いい音楽はそのままで啓示であり、神の声である。そういう神への志向に偸盗の喜悦がまぎれ込んでくる。いい道理がない。ぼくらはどこかで罰を蒙らねばならない。
「ワグナー」(「西方の音」所収)。
私の場合は、いわゆるナショナリズムが、孵った雛の殻のようにまだお尻に付いている。戦中派の一人としてやむを得ぬ仕儀だ。時にそういう己れを反省し、うんざりし、考え直す。ワグナーを聴くのはこの自省の時機に毒薬となるかもしれない。しかし一時はいさぎよく毒をあおらねばなるまいと私は思う。それでアタッてしまいそうだとモーツァルトを聴く。この浄化はてき面に効くから羽目をはずさずにいられるのだろう。ワグナーの楽劇には、女性の献身的愛による救済がきまってあらわれるが、男子たる私にとって、この美酒はいつ酌んでも倦むことがない。
*
他にも「浄化」が登場する文章はあるけれど、これらの文章を読み、
音楽による「浄化」とはなにかについて考え続けてきた。
心のけがれをとりのぞいてくれることだけだろうか。
辞書には、「正しいあり方に戻す」ともある。