「理由」(その17)
五味先生の文章に「浄化」の文字とともに登場する音楽は、
フランクの前奏曲であったり、ラヴェルのダフニスとクローエ、
ときにはヴィヴァルディ、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品111でもある。
ベートーヴェンの第九交響曲のときもあれば、モーツァルトであることもある。
これらの音楽が同じように浄化するわけではないのだろうか。
とり除きたいものによって、そのときに聴く音楽はかわっていくだろうことは、容易に想像できる。
つねに同じように心が汚されているわけではない。
音楽による「浄化」とは、単に心のけがれが洗い流されることだけでなく、
澄み切った内面性を確立させていく、構築していくことなのかもしれない、
と、ここにきてやっと、そう感じられるようになってきた。
とくにベートーヴェンの後期の作品においては、そう感じている。
この「澄み切った内面性」こそが、ひとつの「真理」でもあるような気がしている。