オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その15)
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
感情を削ぎ落としていくことの末に、その境地はあるのだろうか──、と考えることがある。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
感情を削ぎ落としていくことの末に、その境地はあるのだろうか──、と考えることがある。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
終のスピーカーを迎える私は、そういう音をはたして鳴らせるのだろうか。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
純度を高めていったわがまま──、ということをふと考える。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
五味先生の《いい音楽とは、倫理を貫いて来るものだ、こちらの胸まで》へとつらなる。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
結局、心に近い音を見つけなければ、裸の音楽が鳴り始めることはない。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
マリア・カラスの歌を聴いていて、ふと、これも裸の音楽なのかもしれない、と思う。
GRFメモリー以降の、タンノイのPrestigeシリーズに、
私がスター性を身につけようとしていると感じてしまうのは、
タンノイはPrestigeシリーズにおいて、
《クラシカルなものに淫している》ように思えてしまうからだ。
1993年ステレオサウンド別冊「JBLのすべて」の中で、田中一光氏が語られている。
《伝統のあるオーディオメーカーって止まってしまっているところが多いでしょう。クラシカルなものに淫しているように思う。》
田中一光氏は、どのブランドのことなのかは発言されていない。
発言されたのかもしれない。
編集部がまとめた段階で、その部分は削られたのかもしれない。
どちらなのかはわからないが、
それでも《クラシカルなものに淫している》《伝統あるオーディオメーカー》は、
タンノイのことだと確信している。
JBLの4343の成功、
そして4343がまとっていたスター性と、
タンノイのPrestigeシリーズが身につけようとしているスター性は、
ここのところでずいぶん違っているように感じてしまう。
(その1)は、約五年前に書いている。
“plain sounding, high thinking”は、
ワーズワースの有名な詩句 “plain living, high thinking” をもとに思いついた。
そして、タンノイのコーネッタのことも思い浮べての(その1)だった。
(その1)からの四年半後、タンノイのコーネッタを手に入れた。
自分でタンノイを鳴らしてまだ一年も経っていない。
それでもあれこれおもうことは、いくつもある。
別項で書いているいぶし銀という表現に関してもそうなのだが、
音色的な意味でのいぶし銀とは違う意味で、
“plain sounding, high thinking”こそ、私にとっての「いぶし銀」な音である。
(その12)で引用した黒田先生の文章に、
《鳴物入りで登場したニュースターの演奏をきいて、これはちょっとおかしいぞ、と思ったとき、ぼくは、いつでも、いわゆるスター性などという虚飾をとっくの昔に捨て、静かに音楽を紡ぎだすことにだけ専心しつづけているあなたがたの演奏に耳をすますことにしています》
とある。
ここでの「あなたがた」とは、ボザール・トリオのことだ。
オーディオにあてはめた場合、どうだろう。
以前のタンノイのスピーカーは、ボザール・トリオ的だった、といえる。
1976年に発表されたアーデン、バークレーなどのABCシリーズまでは、
スター性などという虚飾をとっくの昔に捨てていた。
GRFメモリーの登場を、タンノイの復活と評価することには、
素直に同意できない気持が、私のなかには残っている。
確かにタンノイは、GRFメモリー以降、息を吹き返した、といえる。
でも、JBLの4343の成功を横目でみながらのタンノイのようにも感じてしまうところがある。
捨てたはずのスター性を、タンノイは身につけようとしているようにも感じられるからだ。
捨てたはず、と書いてしまったが、
もともとタンノイのスピーカーはスター性とは無縁だった、と思っている。
売れるモノをつくっていかなければ、会社は成り立っていかない。
スター性をもつモノともたないモノとでは、持つモノのほうが売れる傾向にある。
ハーマンインターナショナル傘下時代のタンノイのスピーカー、
ABCシリーズの一連のスピーカーは、アメリカナイズされている、といった人もいる。
けれど、スター性を身につけようとしはじめたGRFメモリー以降に、
アメリカナイズされたところを、なんとなく感じとってしまう。
このへんのところは、受けとる側によって違ってくるところだろう。
堕落したタンノイといいたいわけではないし、ABCシリーズのタンノイが、
いまのタンノイのスピーカーよりも優れている、といいたいわけでもない。
ただタンノイは変った、といいたいだけである。
それをいい方向へと受けとるか、そうではないと受けとるかは、人それぞれである。
(その12)に、facebookでコメントがあった。
ガソリン臭くて、燃費が悪くて、音がいっぱい出る、
そんな野性味溢れた車が好き──、
そういうことをいった人がいる、という内容だった。
クルマ好きのなかには、そういう人がいるのは確かだろう。
このコメントで私が興味深いと感じたのは、「燃費が悪くて」のところだった。
野性味溢れるクルマは、燃費が悪い、というイメージが、私にはある。
免許を持たない私の印象だから、事実かどうかはなんともいえないが、
スーパーカーと呼ばれるクルマであっても、昔のスーパーカーと現在のスーパーカーでは、
燃費に関しては改善されているはずだ。
この燃費は、いわば変換効率であって、
スピーカーに関しては、昔のスピーカーのほうが変換効率は高かった。
いわば燃費のいいスピーカーといえるわけだ。
このことは、ここでのテーマよりも、
別項「拡張と集中」に深く関係してくることでもある。
精度の高い音。
それを実現するのは悪いことではない。
いいことではある。
でも、それだけでは満足できないのを、
精度の高い音のスピーカーシステムを聴くたびに、感じてしまう。
精度の高い音を聴いていると、論語の巧言令色鮮矣仁が自然と浮んでくる。
まさしく巧言令色鮮矣仁といえる音が、意外にも多い。
こんなことを思っていたら、黒田先生が書かれていたこともおもいだす。
「音楽の礼状」で、こう書かれている。
*
ぼくらは、この頃、「論語」でいうところの、あの巧言令色鮮矣仁の教えを忘れすぎているように思われてなりません。
みんながみんな、巧言の刃を研ぐことに専心して、そういえば仁などという野暮なものもあったっけな、といった感じです。たかができの悪い駄洒落としか思えないようなものを考えだしただけの広告文案家が時代の寵児になり、女優と浮名をながし、まんざらでもなさそうな様子で小鼻をひくつかせているのなどは、笑止千万です。しかし、それが、残念ながら、現代です。口八丁は、いつの頃からか、恥ずべきことではなくなったようです。ぼくの中学の校章は桃の花をあしらったものでした。当時、校長は、ことあるたびごとに、生徒たちを集めては、桃の木は美しい花を咲かせるので、その木の下にはおのずと道ができます、みなさんも、そういう、桃の木のようなひとになって下さい、というようなことをいっていました。生意気ざかりのニキビ面が校長のたれる、およそ新鮮とはいいがたい教訓に耳をすますはずもなく、横の列の女生徒のうなじでもつれている髪の毛など、ぽんやりながめていました。それでも、校長が口をすっぱくしてはなしたのは無駄ではなかったようで、ほんとうにすぐれているものは、自分からあれこれけたたましくいいたてたりしない、という程度の世間をみる場合の知恵となって、ニキビ面の頭脳にしみつきました。
ニキビ面にもあれこれあって、それなりに生活などというものをはじめてしばらくたち、ふと、あたりをみまわしてみると、巧言が仁を圧倒し、あるはずの桃の木は、切り倒されたのか焼きはらわれたのか、影も形もありませんでした。なにからなにまで、真偽のほどはともかく、それなりに氏素性を誇り、しかるべき能書きで武装していました。高級料理屋でだされる料理では、彩りのために皿にそえられた笹の葉にまでそれなりのいわくがあったりして、よせばいいのに、それをまた、恩着せがましく口にするお節介な仲居がいたりします。冗談じゃない、俺は、パンダではないんだから、笹には興味ない!
音楽家だけ、そのような時代の風潮から無関係でいられるはずもありませんから、硬・軟いずれの音楽界でも、まず、レコード会社なりコンサート・エージェントの考えだしたキャッチフレーズが、呼び込みの役割をはたします。音楽の世界にあっても、桃の木はみあたらず、巧言の輩ばかり跋扈するのか、とあやうく絶望しかかったりしますが、そこで絶望するのは粗忽者です。
(中略)
この時代はスターの時代なのだそうです。そういう時代の要請をうけてと考えるべきでしょうか、ジャーナリズムとコマーシャリズムが結託して、似非スターや疑似スターを量産しつづけています。クラシック音楽の世界も例外ではないようです。似非スターも擬似スターは、いずれ無残にもメッキがはげ、忘れられていきますが、それでも、しばらくは時代の波にのって浮遊します。クラシック音楽の世界でもまた、似非スターや擬似スターのための、それなり効果的なキャッチフレーズを考えだし、「商売にする」時代です。かくして、ここでもまた桃の木をみつけるのが難しくなっています。
鳴物入りで登場したニュースターの演奏をきいて、これはちょっとおかしいぞ、と思ったとき、ぼくは、いつでも、いわゆるスター性などという虚飾をとっくの昔に捨て、静かに音楽を紡ぎだすことにだけ専心しつづけているあなたがたの演奏に耳をすますことにしています。そのときのぼくの気持は、なにか困ったことにぶちあたって、遠い日に教えをうけた恩師の門をたたく落第坊主の気持に似ています。
いい音楽には独特の静けさがある、と思います。おそらく、いい音楽には、巧言令色がないためです。ぼくは、あなたがたの独特の静けさをたたえた演奏が、大好きです。
*
ボザール・トリオについて書かれたものだ。
音楽について語られているわけだが、そのままスピーカーについてもあてはまるし
オーディオ業界についてもそうである。
別項「218はWONDER DACをめざす」で書いてきていること、
218に手を加えてきていることは、ここでのテーマとは絡んでくる。
218に手を加えているのは、私好みの音にしたい、ということではない。
「218はWONDER DACをめざす(その16)」で引用した菅野先生の文章、
《ハイテクとローテクのバランスが21世紀のオーディオを創る》、
ここでのローテクと私が218に加えているローテクとは完全に一致しているわけではないが、
それでもローテクであり、218に加えたローテクとは、
ハイテク本来の性能を活かしていくための手法である。
音をよくしよう──、
ということではなく、
音を悪くしている因子をできるかぎり抑えていこう、というものである。
その結果として、ハイテクがもつ高い性能が、音に活かされてくるようになる。
私ひとりが思っているだけなのだろうが、
手を加えた218は、私にとって“plain sounding, high thinking”そのものである。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
卒意の音が鳴らせての裸の音楽なのだろう、と思う。
オーディオで音色といった場合、
楽器の音色のこともあれば、オーディオ機器固有の音色を指す場合とがある。
そしてオーディオにおける音色の魅力となると、
オーディオ機器固有の音色を指す場合が多い。
このオーディオ機器固有の音色は、実に、というか、時として魅力的である。
しかもオーディオというシステムが、一つのオーディオ機器だけで成り立つわけではなく、
最低でもプレーヤー、アンプ、スピーカーシステムが必要となり、
それぞれに固有の音色を持っている。
そこに実際の使用ではケーブルが加わる。
いうまでもなくケーブルにも固有の音色がある。
固有の音色を持つモノをいくつも組み合わせてのシステムとしてトータルの音色、
つまりそれぞれの色が混じりあっての音色を、われわれはスピーカーから聴いている。
私がBBCモニターの音に惹かれるのも、この固有の音色ゆえといえるところが大きい。
そればかりではないけれど、
オーディオ機器固有の音色の魅力から逃れられる人は、オーディオマニアではないのだろう。
音楽が好きで、好きな音楽が少しでもいい音で聴きたいと思っていても、
オーディオ機器固有の音色に惹かれる人とそうでない人とがいる。
後者は、その意味ではオーディオマニアではないのかもしれない。
その意味で、私ははっきりとオーディオマニアである。
BBCモニターもそうだし、
ここに関係してくることとして、
セレッションのHF1300というトゥイーターが搭載されているスピーカーの音色も好きである。
そういう固有の音色がうまく混じり合って、
しかも好きな音楽の音色をうまく際立ててくれる瞬間が、オーディオにはある。
その瞬間、オーディオマニアは背中に電気が走ったりするわけだ。
けれど、audio wednesdayでの音出しでは、意図的にそういう音色は避けるようにしている。
そういうことを含めての(その7)でもある。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
結局、正直でなければ、裸の音楽は鳴ってこない。
ヘッドフォン祭のあとの、仲良しチームでの飲み会。
ここでも、メリディアンのULTRA DACのことが話題になった。
仲良しチームの三人で、ULTRA DACを聴いているのは私だけ。
あとの二人は、その日、東京にいなかったので聴く機会を逃している。
ヘッドフォン祭では、デジ研のブースで、ちょうどMQAについての解説とデモをやっていた。
私にとっては特に新しい情報はなかったけれど、
二人は「いい勉強会だった」と喜ぶだけでなく、ULTRA DACへの興味が俄然増したようだった。
そういうことがあったので、飲み会でもULTRA DACのことが、自然と話題に登った。
12月5日のaudio wednesdayで、再びULTRA DACを鳴らす。
二人とも、「楽しみ、楽しみ!」といってくれる。
そうだ、とおもう。
私も、すごく楽しみにしている。
私はもう一度ULTRA DACの音が聴ける、
前回以上に堪能しよう、という意味での楽しみであるけれど、
Aさんは、こんなことをいっていた。
「宮﨑さんの好きな音を知ることのできる機会でもある」と。
そんな楽しみもあるようだ。
Aさんは、けっこうな回数、audio wednesdayに来てくれている。
他の場所でも、いっしょに音を聴く機会はある。
このブログも読んでくれているし、いっしょによく飲んでいる。
それでも、Aさんは、私の好きな音を掴みきれていなかったのか、とおもうだけでなく、
意識して隠しているつもりはないし、ここに書いているつもりなんだけど……とも思う。
そんなことがあったから、よけいにaudio wednesdayで鳴らす音は、
私の音といえるのか、私の好きな音の片鱗を鳴らしているのか──、と少し考えている。