Archive for category plain sounding high thinking

Date: 11月 2nd, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その8)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
結局、正直でなければ、裸の音楽は鳴ってこない。

Date: 10月 30th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その9)

ヘッドフォン祭のあとの、仲良しチームでの飲み会。
ここでも、メリディアンのULTRA DACのことが話題になった。

仲良しチームの三人で、ULTRA DACを聴いているの私だけ。
あとの二人は、その日、東京にいなかったので聴く機会を逃している。

ヘッドフォン祭では、デジ研のブースで、ちょうどMQAについての解説とデモをやっていた。
私にとっては特に新しい情報はなかったけれど、
二人は「いい勉強会だった」と喜んぶだけでなく、ULTRA DACへの興味が俄然増したようだった。

そういうことがあったので、飲み会でもULTRA DACのことが、自然と話題に登った。

12月5日のaudio wednesdayで、再びULTRA DACを鳴らす。
二人とも、「楽しみ、楽しみ!」といってくれる。

そうだ、とおもう。
私も、すごく楽しみにしている。

私はもう一度ULTRA DACの音が聴ける、
前回以上に堪能しよう、という意味での楽しみであるけれど、
Aさんは、こんなことをいっていた。
「宮﨑さんの好きな音を知ることのできる機会でもある」と。

そんな楽しみもあるようだ。

Aさんは、けっこうな回数、audio wednesdayに来てくれている。
他の場所でも、いっしょに音を聴く機会はある。
このブログも読んでくれているし、いっしょによく飲んでいる。

それでも、Aさんは、私の好きな音を掴みきれていなかったのか、とおもうだけでなく、
意識して隠しているつもりはないし、ここに書いているつもりなんだけど……とも思う。

そんなことがあったから、よけいにaudio wednesdayで鳴らす音は、
私の音といえるのか、私の好きな音の片鱗を鳴らしているのか──、と少し考えている。

Date: 10月 19th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その8)

喫茶茶会記のスピーカーを、毎月第一水曜日に鳴らすようになって、
今年の12月で丸三年になる。

ずいぶん音は変ってきた。
喫茶茶会記の店主、福地さんは、私が鳴らすアルテックの音を、
以前からモニター的といってくれる。

そうか、そういうふうな受け止め方もあるのか、と思って、
福地さんの感想を聞いていた。
先日も、やはり同じ感想をいわれた。

福地さんの中にあるアルテックの鳴り方の印象からすると、
私が鳴らしている音は、そう聴こえるのかもしれない、と思いつつも、
私自身がおもうモニター的な音には、まだまだ遠い、と思っているし、
またモニター的に鳴らそう、とはまったく考えていない。

だから、なぜ、そんなふうに受け止め方もあるのか、と、ここでも考える。

こんなところかもしれない、と思い出すのは、やはり五味先生の文章だったりする。
     *
「絵かきは、自分の絵の機嫌をとって描いてることがわかるようでないと、腕の達者な職人だけでは、画家とは言えない。ヴァン・ゴッホに欠けているのはそういう処で、彼の絵をすばらしいという人がいるが、彼の絵には、恋人を愛撫する具合に絵筆で可愛がられた跡がない、それが私には不満である」
 とルノアールはゴッホを評したことがあるが、オーディオ愛好家にも同じことは言えるように思う。
 たえずアンプやスピーカーの機嫌をとりながら、ぼくらはレコードを聴く。相手は器械だから、いつも同じ音で鳴ると割り切れる人はおそらく、ハイ・ファイ・マニアではないだろう。時に、スピーカーは、ずいぶん機嫌のわるい鳴り方をする日が現実に、あるものだ。湿気の加減や、電圧のせいであったり、こちらの耳の状態(睡眠不足など)でそう聴こえるのだと他人は言うが、断じて違う。やはり機嫌のわるい日がある。そんな時、われわれは再生装置の機嫌をとって鳴らさねばならない。さもないと結局は自分の経済的貧しさに突き当らねばならない。
(「シューベルト《幻想曲》作品159」より)
     *
ゴッホの絵には《恋人を愛撫する具合に絵筆で可愛がられた跡がない》という指摘は、
音のそのとおりであろう。

audio wednesdayで鳴らしているときに、こちらの意識としては、
恋人を愛撫するような気持は、ほぼない。

アンプやスピーカーの機嫌をとらない、ということではないが、
恋人を愛撫するような鳴らし方は、まずしない。

そこが、聴く人によっては、モニター的と感じられるのかも……、
そんなことをおもっている。

Date: 9月 14th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その7)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
裸の音楽は、裸の王様のための音楽(衣装)ではない(書くまでもないことだが)。

Date: 6月 30th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その6)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
思いつめた表情のときもあっただろうが、遠いまなざしの表情へなっていったろうか。

Date: 6月 24th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その5)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
瀬川先生は《この音楽は何と思いつめた表情で鳴るのだろう》と続けられている。

Date: 6月 22nd, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その4)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
オーディオの行きつく渕を覗き込む人は、そこに飛び込むことになろう。

Date: 6月 20th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その3)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
オーディオの行きつく渕を覗き込んだ人だから、こう書けるのだろう。

Date: 6月 17th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その2)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
オーディオの行きつく渕を覗き込んでしまったからこそ、なのか。

Date: 6月 13th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その1)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
瀬川先生が五味先生の「天の聲」の書評で、そう書かれていた。

Date: 3月 19th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その7)

3月のaudio wednesdayで、075用のネットワークの準備をしていた時に、
常連のTさんにいわれたのは、ここで鳴っている音は宮﨑さんの音と思っている、ということだった。

ことさら自分の音を、喫茶茶会記で鳴らしているつもりは、実はまったくない。
だから、否定してしまったわけだが、
それでも私が鳴らしている音にはかわりないわけで、
私の音といえば、そういうことになる。

私の音ではない、とつい否定してしまったのは、
セッティングし、時には鳴らしながらチューニングしていっていても、
常に、来ている人からのリクエストがあれば、
そちらへとチューニングの方向を変えていけるだけの領域を残しているからなのかもしれない。

むしろ毎回心掛けているのは、
いかに目の前にあるスピーカーを気持良く鳴らせるか、である。

表現を変えれば、そのスピーカーらしく鳴らすか、である。
どんなスピーカーも、そのスピーカー固有の特性(音)を持つ。

それを無視するかのように、強引に自分の音で鳴らす、というアプローチをとる人がいる。
それを自慢する人もいるが、ほんとうに自慢できることだろうか。
そういう鳴らし方(つまりワンパターンな鳴らし方)しかできないからではないのか。

そんな鳴らし方は絶対にしないように心掛けている。
そのために必要なことは、目の前にあるスピーカーから鳴ってくる音を、
きちんと聴くことである。

そうすることで、目の前にあるスピーカーとコミュニケーションが始まる。

Date: 9月 25th, 2017
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その6)

(その4)で、スピーカーが出してくる音とのコミュニケーション、とか、
(その5)で、スピーカーの本能、とか、
読む人によっては、わけのわからないことを書き始めたと思われようが、
コミュニケーションのとれるモノととれないモノは、はっきりとあると思っている。

オーディオのなかでは、特にスピーカー。
コミュニケーションのとれるスピーカーと、
コミュニケーションを拒絶しているかのようなスピーカーがある。

コミュニケーションがとれるとれないは、
スピーカーの性能、価格といったこととはあまり関係がない。

世評の高いスピーカーであっても、
私にはコミュニケーションがとれない、と感じるモノが、いまのところある。
その数は、少しずつ増えていっているようにも感じる。

そういうスピーカーは精度の高い音を出す。
そのことはたいしたことである。
ここまで出る(出せる)ようになったのか、と感心しながら聴きながらも、
欲しい、と感じさせないのは、
価格のことではなく、コミュニケーションの不在があるように感じるからだ。

少しでもいい音で聴きたい、いい音を鳴らしたい、とおもうからこそ、
あれこれこまかなセッティングやチューニングをやっていく。
そうすることで、音は少しずつ良くなっていく。
音は裏切らないからだ。

コミュニケーションがとれると感じるスピーカーでも、
とれないと感じてしまうスピーカーでも、そのことに関しては同じだ。

セッティングやチューニングに応えてくれているからこそ、音は良くなっていくわけだ。
ならば、応えてくれるということこそコミュニケーションではないのか、と考えもするが、
そういうことではない、と即座に否定する。

Date: 9月 21st, 2017
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その5)

ここでのテーマについて書いていくと、
スピーカーの本能、そんなことを考えてしまう。

本能とは、辞書には、
生れつき持っている性質や能力。特に、性質や能力のうち、非理性的で感覚的なものをいう
動物のそれぞれの種に固有の生得的行動
そんなことが書いてある。ならば、スピーカーそれぞれに、
固有の本能と呼べる性質や能力はある、と考えることもできる。

スピーカーユニットの方式、
ユニットに使われている材質、
マグネットの種類、ダイアフラムの形状、素材、
ユニットの構造など、
もともとがプリミティヴなモノであるスピーカーだけに、
そういったことの、音に直接・間接的な影響は、生得的ともいえよう。

スピーカーの方式などによって先入観をもって音を聴くのはさけるべきであっても、
スピーカーそれぞれの生得的な性質・能力に関しては、切っても切れない関係にある。

ならばスピーカーにも本能といえるものがある。
そう考えてもよさそうである。

あるとして、その本能のままに鳴らしたときの音が、”plain sounding”なのだろうか。

Date: 9月 17th, 2017
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その4)

2016年の1月のaudio wednesdayから音を鳴らすようになった。
昨年は九回の音出し。
今年はいまのところ毎月行っている(11月は音出しはなし)から、九回。

十八回の音出し、すべてを聴いているのは私ひとり。
2015年秋に、いまのエンクロージュアが喫茶茶会記に入り、約二年。
ユニットの配置が変り、その他さまざまなところが変った(というか変えてきた)。

そうとうに音は変ってきている。
毎月一回の音出し。
その度にセッティングして、会が終ればセッティングを崩すことになる。

毎回のセッティングにかける時間は一時間ほど。
毎回少しずつセッティングを変えている。
常連の方でも、気づかないほどに少しずつ変えている。

audio wednesdayでの音出しは、私自身の好みを聴いてもらおうとは考えていない。
目の前にあるスピーカーが鳴りたいように鳴らす方向での音出しを考えているだけである。

そのために必要なのは、スピーカーが出してくる音とのコミュニケーションだと思う。
そうやって出していく音が、”plain sounding”となっていくような気がしている。

Date: 11月 2nd, 2016
Cate: plain sounding high thinking

一人称の音(その6)

三人称の音といえば、私が頭に浮べるのはトーキー用スピーカーである。
ウェスターン・エレクトリック、シーメンスといった旧いスピーカーである。
その次に(というか少し範囲をひろげて)アルテック、ヴァイタヴォックスが浮んでくる。

いずれもが劇場用として開発されたスピーカーばかりである。
つまり聴き手はひとりではない、必ず複数、それも多人数を相手にするスピーカーである。

これらははっきりと三人称の音といえる。
アンプに関しては一人称の音に惹かれがちの私なのだが、
スピーカーに関しては、必ずしもそうではなく、むしろ三人称の音に惹かれるがちである。

スピーカーに限らず、
スピーカーと同じトランスデューサーであるカートリッジに関しても、そうだ。
一人称の音と感じられるモノよりも、三人称の音と感じられるモノを選ぶ傾向があることを、
これまでのことをふりかえって気づいている。

私の中では、オルトフォンのSPU、EMTのTSD15といったカートリッジは、
一人称の音のするカートリッジではなく、三人称の音のカートリッジなのである。
どちらも無個性の音がするわけではない。

TSD15はかなり個性的ともいえる。
それでもどちらも三人称の音であり、
個性が強いから一人称、個性がないから三人称と感じているわけではない。