ベートーヴェン(交響曲第三番・その1)
ベートーヴェンの交響曲第三番は、ベートーヴェン自身のそれ以前の交響曲、第一番と第二番だけでなく、
他の作曲家によるそれ以前の交響曲とも、なにか別ものの交響曲としての違いがあるのは、
頭では理解できていても、実を言うと、なかなか第三番に感激・感動というところまではいけなかった時期があった。
世評の高いフルトヴェングラー/ウィーンフィルハーモニーによるレコードは、もちろん買って聴いた。
他にもカラヤン/ベルリンフィルハーモニー、トスカニーニ/NBC交響楽団、
ワルター/コロンビア交響楽団なども買って聴いた。
五味先生は「オーディオ巡礼」の所収の「ベートーヴェン《第九交響曲》」の冒頭に書かれている。
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ベートーヴェンでなければ夜も日も明けぬ時期が私にはあった。交響曲第三番〝英雄〟にもっとも感激した中学四年生時分で、〝英雄〟は、ベートーヴェン自身でも言っているが、〝第九〟が出るまでは、彼の最高のシンフォニーだったので、〝田園〟や〝第七〟、更には〝運命〟より作品としては素晴しいと中学生でおもっていたとは、わりあい、まっとうな鑑賞の仕方をしていたなと今はおもう。それでも、好きだったその〝英雄〟の第二楽章アダージォを、戦後、フルトヴェングラーのLHMV盤で聴くまでこの〝葬送行進曲〟が湛えている悲劇性に私は気づかなかった。フルトヴェングラーで聴いてはじめて、〝英雄〟を私は知ったようにおもうのだ。
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そのフルトヴェングラーの演奏でも、〝英雄〟の素晴らしさをうまく感じとれない、ということは、
ベートーヴェンの聴き手として、なにか決定的に足りないところが私にあるんだろうか、
このまま、この先ずっと交響曲第三番に感動することはないまま生きていくのだろうか、
と不安にちかいものを感じていたことが、20代前半にあった。
それでも交響曲第三番の新譜が出れば、買っていた。
1985年録音のアバド/ウィーンフィルハーモニーのCDも、そうやって購入した一枚だった。
クリムトのベートーヴェン・フリーズがジャケットに使われたディスクだ。
アバド/シカゴ交響楽団のマーラーは聴いていたけれど、正直、アバドのベートーヴェンにはさほど期待はなかった。
CDプレーヤーのトレイにディスクを置いて鳴らしはじめたときも、
ながら聴きに近いような聴き方をしていたように記憶している。
なのに鳴り始めたとほぼ同時に、
いきなり胸ぐらをつかまれて、ぐっとスピーカーに耳を近づけられたような感じがした。
目の前がいきなり拓(展)けた感じもした。
このとき、ベートーヴェンの交響曲第三番に目覚めた感じだった。