瀬川冬樹を想う
月を見ていた。
8日もすれば満月になる月が、新宿駅のビルの上に浮んでいたのを、信号待ちをしていたとき、
ぼんやり眺めていた。まわりに星は見えず、月だけがあった。
そして想った。
昨年2月2日、瀬川先生の墓参のとき、位牌をみせていただいた。
戒名に「紫音」とはいっていた。
最初は「弧月」とはいっていた、ときいた。
だからというわけでもないが、ふと、あの月は、瀬川冬樹だと想った。
東京の夜は明るい。夜の闇は、表面的にはなくなってしまったかのようだ。
「闇」「暗」という文字には、「音」が含まれている。
だからというわけではないが、オーディオで音楽を聴くという行為、音と向き合う行為には、
どこか、暗闇に何かを求め、何かをさがし旅立つ感覚に通じるものがあるように思う。
どこかしら夜の闇にひとりで踏み出すようなところがあるといえないだろうか。
闇の中に、気配を感じとる行為にも似ているかもしれない。
完全な闇では、一歩を踏み出せない。
月明かりがあれば、踏み出せる。足をとめず歩いていける。
月が、往く道を、ほのかとはいえ照らしてくれれば、歩いていける。
夜の闇を歩いていく者には、昼間の太陽ではなく、月こそ頼りである。
夜の闇を歩かない者には、月は関係ない。
だから、あの月を、瀬川冬樹だと想った。
そして、ときに月は美しい。