ベートーヴェンをきく、ということ(その1)
五味先生の「日本のベートーヴェン」の冒頭を書き写しておく。
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音楽とは、あくまで耳に聴くもので、頭の中で考えるものではない——ことにベートーヴェンにおいてそうだとフルトヴェングラーは言っている。ぼくたちの青年時代、いわゆる〝名曲喫茶〟には、いつも腕を組み、あるいは頭髪を掻きむしり、晦渋な表情でまるで思想上の大問題に直面でもしたように、瞑目して、ひたすらレコードに聴き耽る学生がいた。きまってそんなとき鳴っているのはベートーヴェンだった。今のようにリクエストなどという気の利いたことは思いも寄らなかったから、彼はいつまでも、一杯のコーヒーで自分の好きな曲のはじまるのを待つのだ。念願かなって例えばニ長調のヴァイオリン協奏曲が鳴り出せば、もう、冒頭のあのpのティンパニーをきいただけで、作品六一の全曲は彼の内面に溢れる。ベートーヴェンのすべてがきこえる。彼はもう自分の記憶の旋律をたどれば足りたし、とりあけ愛好する楽節に来れば顔をクシャクシャにして感激すればよかった。そんな青年が、戦前の日本のレコード喫茶には、どこにでも見られた。たしかに彼は耳ではなくて頭脳でベートーヴェンをきいている。大方は苦学生だったと思う。
——当時、自宅に蓄音機を所有し、竹針をけずって好きなとき好きな曲を鑑賞できたのは限られた学生だったろう。大部分のレコード愛好家が、いちどはこうした〝名曲喫茶〟に自分の姿を見出した。ここには紛れもなく戦前の、日本の学生生活——その青春の一つの典型があったとおもう。彼はコーヒーのためではなく、明らかにベートーヴェンのために乏しい財布から金を工面したのだ。あっけらかんと音楽をたのしめていたわけではない。郷里の親もとの経済状態を懐い、下宿代の滞ったのをなんとか延ばす口実を考えねばならなかったし、質屋の利息のこともある、買いたい本もある。今様に言えばアルバイトのあてはなく、しかも、小遣いもほしかった。そんな時に、突如としてベートーヴェンは鳴る。しらべは彼の苦悩にしみとおる。どうして、それはラモーやハイドンやドビュッシーではなくて、必ずといっていいほどベートーヴェンだったのか?
私は、こうした音楽を愛した学生——苦学青年の心を、ベートーヴェンがゆさぶったのは、当時日本の中産階級の、一般的な生活水準に一つの理由があったとおもう。若者の時代に、ベートーヴェンの第五交響曲『運命』を通るか、モーツァルトのト短調シンフォニーを知るかはその人の育った環境に拠るところ大と、今でも思っている。貧乏人ほど、より『運命』に共感しやすい素地があるのではないかと。もしそうなら、子弟の教育を何よりも重視した当時の日本人の父母が(多くは地方の小地主か俸給生活者・中小商工業者だった)わが子のためにみずからは倹約して月々の仕送りをしてくれた、そういう環境下でぼくたちはほとんどが学生生活をもった。とてもヨーロッパの貴族や、富豪の息子たちのように、姉妹の弾くピアノをかたわらにし、自家用車を駆って湖畔の別荘や城に休暇をすごす青春などは、望むべくもなかったし、そんな友人もいなかった。満足にレコードすら買えなかった。他の何にもまして、だからベートーヴェンに惹かれる素地はあったといえる。貧しいのだから、耳だけで楽しんではいられなかったのである。——これが日本人のもっとも普通なベートーヴェンの聴き方だろうと私は思っていた。
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東京に出て来てから、名曲喫茶には行ったことがある。
私の田舎には、名曲喫茶はなかった。
1921年生れの五味先生の学生時代と、
1963年生れの私の学生時代とでは、かなり違ってきているのだから、
《いつも腕を組み、あるいは頭髪を掻きむしり、晦渋な表情でまるで思想上の大問題に直面でもしたように、瞑目して、ひたすらレコードに聴き耽る学生》に、
名曲喫茶で出会ったことはない。
それでも昭和の終りごろではあったが、東京の古くからの名曲喫茶には、
瞑目している人はいた。
ベートーヴェンの音楽をきいて、感動する。
苦学生であろうが、富豪の息子たちであろうが、
ベートーヴェンの音楽は素晴らしい、人類の宝だ、などど、
同じことをいうであろう。
けれど──、とおもうことがある。