Date: 3月 17th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 五味康祐
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ベートーヴェン(「いま」聴くことについて・その1)

「ベートーヴェンの音楽は、ことにシンフォニーは、なまなかな状態にある人間に喜びや慰藉を与えるものではない」
と五味先生の「日本のベートーヴェン」のなかにある。

ベートーヴェンの後期の作品もそのとおりだと思う。

五味先生は戦場に行かれている。
高射砲の音によって耳を悪くされた。
そして焼け野原の日本に戻ってこられた。
レコードもオーディオ機器も焼失していた。

そういう体験は、私にはない。

だからどんなに五味先生の文章をくり返し読もうと、
そこに書こうとされたことを、どの程度理解、というよりも実感できているのかは、
なんとも心もとないところがある。

五味先生が聴かれていたようにはベートーヴェンを聴けない──、
これはどうすることもできない事実であるけれども、
そこになんとしても近づきたい、
近づけなくとも、同じ方向を視ていたい、と気持は決して消えてなくなるものではない。

ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタ(30、31、32番)を聴いた。
2日前のことだ。イヴ・ナットの演奏で聴いた。

これらのピアノ・ソナタを、なまなかな状態で聴いてきたことはなかった、と自分で思っていた。
けれど、「いま」聴いていて、いままでまったく感じとれなかったことにふれることができた。

送り出す側のための音楽でもあり、送り出される側の音楽だと思えた。

五味先生の「日本のベートーヴェン」をお読みになった方、
ベートーヴェンの音楽をなまなか状態では決して聴かない人には、これ以上の、私の拙い説明は不要のはずだ。

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